ひろとの出会い編 第十一話 最終報告書

(1)

 左馬さんが、探していたピースを見つけたと言ったみたいに。俺も、ずっと探していた欠片を見つけたんだろう。その引力は、好きとか愛してるという次元よりもずっと強力だったと思う。


 ただ……。俺は、左馬さんと同居することに条件を付けた。探偵業を止めないための同居だから、探偵としての俺のアクションを一切制限しないでくれ、と。俺は、左馬さんの仕事に干渉したりけちをつけるつもりはさらさらない。同じように、俺の稼業がどんなにいびつであっても、それをあれこれ言って欲しくない。

 二人で暮らすなら、重ねる部分と同じくらい独立させておく部分がないと、俺たちは保たないだろう。明文化したわけじゃないが、そこは俺たちの暗黙の合意事項になったと思う。


◇ ◇ ◇


 左馬さんのマンションに引っ越す前に、長年住み続けたぼろアパートの部屋をぴかぴかに磨き上げ、空になった部屋に何度も頭を下げた。


 俺は、親から愛情をもらえたと感じたことはない。一度もない。だから愛情ってのがどんなものか、よく分からない。そんな壊れかけの俺が、八木のように本当に壊れてしまわなかったのは……。これまでずっと、生活するということに真剣に向き合ってきたからだと思う。

 うまい飯を食う。きれいな部屋に住む。こざっぱりした服を着る。稼ぎを無駄なく使う。それは、両親のいい加減な生き方が大嫌いな俺が自らに課した最低限のノルマで、これからも俺をきちんと律し続けるだろう。そういう俺の生き方をこれまでずっと支えてくれたのは、間違いなくこの部屋であり、俺を信用してこの部屋を貸してくれた大家のじいさんだ。


 ブンさん、正平さん、大家のじいさん。俺よりもはるかに長い間人生の荒波を乗り越えてきたベテランの人たち。そういう人たちからの手荒い激励を受けて。俺はこの部屋で、今まで人としての道を誤らずに生きてこれた。そのことに、心から感謝したい。


「これまで、ありがとうございましたっ!」


◇ ◇ ◇


 引越し当日、二人で市役所に婚姻届を出しに行った。


 おいおい、知り合ってからまだいくらも経っていないのにそこまでぶっ飛んで、本当に大丈夫なのか? もし俺たちの行動を第三者が見たら、そう心配したかも知れないね。

 いや、それは逆さ。紙切れが縛る夫婦の形なんてのは、しょせんそれだけのものなんだよ。俺は商売柄、形だけの夫婦ってのをいやっていうほど見てきたんだ。婚姻届を出したから夫婦としてスタート出来るってだけで、それが二人の絆を強くするなんてことはありえないんだよ。俺も左馬さんも、紙切れの拘束力なんてものはこれっぽっちも信じてなかったし、それが俺たちを夫婦にしてくれるなんて幻想はまるっきり抱いてなかった。


 じゃあ、なぜ同棲や事実婚にしなかったか。そりゃそうさ。社会的にステータスのある部長様が、家に内縁の夫を飼ってみろ。いかにオフィシャルとプライベートは別だと言っても、商売に差し障るよ。マンションでも、他の住人にあらぬ噂を立てられて、白い目で見られるのは困る。それじゃあ、俺も左馬さんも身動きが取れなくなるんだ。俺たちの地位や生活を守る。婚姻届には、それだけの意味しかなかったんだよ。

 マンションの管理事務所に同居人変更書類を出す時には二人で行ったし、両隣の住人にも改めて挨拶をした。すでに信用とステータスを獲得してる左馬さんだけでなく、俺も真っ当に生活しているという姿勢を見せないと、左馬さんが誤解されてしまうからな。

 まあ、二人での生活は仕事や事件とは違う。段取りしてさくさくこなすだけじゃ、面白くもなんともない。ミスト事件では散々悩まされた行き当たりばったりを、二人

での生活なら楽しむことが出来るんだ。婚姻届ってのは、そういうライブの一番味気ないところだったかもしれない。


 そうそう。姓をどっちのにしようかって時に、大笑いになったんだよな。

 俺も左馬さんも、自分の姓にこだわりはなかったんだ。中村という苗字は平凡なんで、左馬さんの仕事の都合上は『左馬』の方がいい。俺は事業所の登録名が『中村探偵事務所』なんで、それを変えるのはめんどくさい。でもオフィシャルは、どっちの姓もある意味芸名に近いんだよね。戸籍登録上の姓を使わなければならないケースってのは、そんなに多くないんだ。そんならじゃんけんにしようかって、二人でげらげら笑ったんだけどさ。


 そう単純には行かなかった。思わぬところから横槍が入ってね。結局俺の姓、中村にすることにした。ほとんど没交渉のはずの左馬さんの親から、訳の分からん男との結婚なんぞ絶対に許さんと牽制球が飛んできたわけ。いやいや、それでもまだ牽制球が飛んでくるだけマシだよ。俺の両親は、俺がメールで結婚を報告しても返事すら寄越さなかったからな。

 左馬さんとしては、跡継ぎうんぬんという騒動に巻き込まれるなんてまっぴら。さっさと除籍したいから、俺の姓で行こうということになった。実家ともめるリスクを回避するという点では、それは極めて真っ当な理由だ。それに。姓が変わって奥さんになったことが分かりやすくなれば、営業で外を回る左馬さんのトラブルリスクを下げられる。俺も安心出来るからね。


 いずれにせよ。俺たちの同居は、らぶらぶ愛してるーからどどっとなだれこんでの結婚という、世間一般のパターンとはとことんかけ離れていた。だが……俺らの普段の姿からそれを見抜けたやつは誰もいなかったと思う。まさに、見える色の向こうには違った色があるってことだな。ははははは。


◇ ◇ ◇


「ねえねえ、みさちゃん」

「なんだ?」


 正直、彼女から『みさちゃん』呼ばわりされるのは気分のいいものではない。でも、フレディにも江畑さんにもみさちゃんと呼ばれている以上、そう呼ぶなとは言いにくいんだよな。ちぇ。


「荷物、これだけ?」


 左馬さん……いや、ひろが。リビングに運び込まれた俺の少な過ぎる荷物を見て、絶句してる。


「こんだけだよ。家具とか電化製品は学生の頃から使ってるものばかりだから、さすがに持ってこれない。粗ゴミで処分した。商売道具は事務所にあるし、あとは衣類と身の回りのものだけさ」

「それにしたって……」

「ああ、座卓だけは持ってきたけどな。それが俺の嫁入り道具ってこったな」

「普通さあ、逆だよね」

「わはははっ! まあ、いいじゃん」

「そだね。座卓、リビングに置いていい?」

「かまわんが、嫌じゃないのか?」

「テーブルで差し向かいは、なんかよそよそしくてやだな」

「そらそうだ。じゃあ、飯はそこで食うか」

「わあい!」


 ひろが、無邪気にがばっと抱きついてくる。


「おいおい。荷物が片付いてからにしてくれよ」

「んもう! ちょっとは新婚ムード出してよう」

「わははははっ!」


 付き合い始めてすぐに分かったこと。それは、ひろがものすごく寂しがり屋だということだった。


 親の干渉を断固拒否し、仕事にも恐ろしいほどの情熱とエネルギーを注ぎ込んで、日々はつらつと過ごしているひろ。外側から見れば、世の中に何一つ自分を傷付けるものは存在しない……そんな風に見える。だが、それはあくまで外見だ。常に泳ぎ回っていないと沈んで死んでしまう魚。ひろは、そういう性質を持っていたんだ。活動を停止した途端、自分の中に巣食っている孤独に耐えられなくなる。一人きりの自分をどうしても見たくなくて、意識をいつも外に向け続けること。それは、決して自然な姿ではない。これまで、仕事を終えて帰宅したあいつが長く孤独な夜をどう耐え忍んできたのか。それが想像出来ないくらい、ひろは心を無条件に預けられる『人』に飢えていたんだ。

 それは俺も同じだ。長い長い孤独の時。俺はただそれに慣れただけに過ぎない。のしかかる孤独の重さが俺の許容範囲を越えれば。きっと八木のように世を恨み、自他を傷付けていただろう。


 仕事から帰ってきたひろは、いつでも『裸』だった。俺の前では、何一つ装うということをしなかった。俺に裏切られるなんてことはかけらも考えず、俺の目の前に全てをさらけ出した。ひろのような常に自分を出し惜しみしない女を、重く感じてしまう男は多いと思う。だからこそ容姿も性格も優れているのに、ずっとパートナーに恵まれなかったんじゃないかな。

 でも俺は、ひろのアプローチが重い、うっとうしいと感じたことは一度もなかった。そりゃそうさ。実の親ですら、俺を外に置いていた。俺をちゃんと受け入れてくれたやつなんか、誰もいなかったんだ。これまで探偵として数々の案件に取り組んできたが、食うや食わずなのに俺が探偵業に突っ込んできたのは、俺という人間を誰かに丸ごと受け止めて欲しかったからだ。俺を……認めて欲しかったからだ。


 ひろは、何もかも含めて俺を受け入れてくれた。俺はそれだけでいい。他には何も望まない。それだけで……いいんだ。


◇ ◇ ◇


 同居生活を始めてすぐ。俺はひろから全ての資産を預かって、家計を管理することにした。ひろは無駄遣いはしない。いや……しないんじゃなくて、カネを使うということに興味がない。仕事で必要だと判断したら、いきなり数十万単位でぽんと使ったりするんだが、普段はほとんどカネの出入りを考えない。意図を持って使わない限り、収支は入超になるんだ。ひろの貯金通帳の桁数が眩しくて、目が潰れそうだったよ。


 だがリトルバーズと同じで、ひろは自分自身のリスク管理がものすごく甘っちょろい。金銭に対しておおらかなのはいいんだが、まるっきり出納を知らないというのはあまりにずさん。カネがあるからなんとかなると言って、保険には何一つ加入してない。何かアクシデントがあって職から離れた途端に収入がぱったり絶えるってことを、全く考えてないんだ。自己管理も然りで、食事はこれまでものすごく不規則かつほとんど外食。体調管理もおざなりだ。仕事きっちりなのに、自分自身のことには大穴が開いてる。


 俺は大概貧乏だったが、掛け捨ての保険には入ってたし、体が資本の商売だから体調管理には十分気を遣っていた。ひろは、そこがな……。まあ、ぼちぼちやろう。面倒見る相手が、俺一人から二人になっただけのこと。気を使う中身が大きく変わるわけじゃないからな。


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