(2)
そして、俺の資本。
俺が貧乏探偵時代に貯めたゼニなんざひろの財産に比べれば吹けば飛ぶようなもんだが、それでも俺にとっては最後の牙城だ。貯金は万一の事態に備えるための安全弁なんだが、光岡さんの件の持ち出しで底をつくかもしれなかったんだ。でも、結果として持ち出しは最小限で済んだ。それは本当にラッキーだった。
ミスト事件の時に俺がJDAと締結した契約は、チームMの中間報告を行なったところで幕引きにして料金を支払った。俺は七桁オーバーの出費を覚悟していたんだが、JDAから大幅ディスカウントの申し出があって、最終的には数万の自己負担で済んだんだ。ビジネスには厳しいフレディが、相手が俺だからと言ってトモダチ割引するはずはないと思ってたんだが……。案の定、ディスカウントにはちゃんと理由があった。
俺に脆弱なリスク管理を指摘されたリトルバーズの上条社長は、JDAとコンサル契約を結んだわけ。JDAは法人向けにリスクマネージメントのプログラムを走らせていて、それが収益の一つの柱になっている。すでに運用実績があるんだ。上条社長は、自力でやるよりもプロの指導を仰いだ方が効率的だと考えたんだろう。俺もそう思う。リトルバーズ側のリスクマネージメントシステムのチェック、防犯セミナーの開催、セキュリティ管理へのアドバイスをプロの目でお願い……ってことね。JDAが獲得した新規契約は俺が斡旋した形になったので、斡旋謝礼の分を割り引く……そういう説明だった。
もっとも、その説明は表向きだろう。リトルバーズから支払われた金は、ミスト事件絡みでリトルバーズの社名が出ることを絶対に回避したい上条社長が、無理やり俺の懐にねじ込んだ口止め料に等しいと……思ってる。社長は俺に直接そう言えないので、フレディを介して俺に金銭で恩を着せたってことなんだろう。
それに対して、なんだかなあと思う気持ちがないと言ったら嘘になる。でも、フレディも上条さんも大勢の社員さんの生活を守らなければならない立場だ。自社防衛のためになりふり構っていられないことはすごく理解出来る。俺は自分のちっぽけなプライドにこだわるよりも、光岡さんをしょうもない連中から切り離せた成果を重視すべきなんだろう。もちろん、俺のなけなしの蓄えを減じなくて済んだことにも大いに感謝したい。
俺とひろとでは、収入差は歴然さ。それでも、俺はひろの稼ぎにぶら下がるつもりはない。乏しい稼ぎでも、その稼ぎの中で自分の事務所の経営を考えること。それは……ひろと一緒に暮らすようになっても変えるつもりはない。そして、俺が将来ステップアップをまじめに考える時が来れば、俺の貯金はその重要なベースになるんだ。貯金を危機的レベルまで減らさないで済んだこと。俺は、やはり上条社長とフレディに深く感謝しないとならないんだろう。
どうしても。すっきりは……せんが。
◇ ◇ ◇
同居してしばらくすれば、互いに見えなかった部分が見えてきて、少しは戸惑いとか幻滅ってのが出て来るかなあと思ったんだが。そんなことを感じている暇はなかった。
業績好調のリトルバーズは社員が増えて現社屋が手狭になり、新社屋への引っ越しと組織の組み換えを同時並行でやるという大技を繰り出したのだ。これまでチーフという名称だったひろの役職は正式に部長になり、三十人以上の営業スタッフを一気に束ねることになった。プレッシャーがかかればかかるほど燃えるひろが、それでへたばるはずはない。俺以上の夜討ち朝駆けが常態化することになった。まあ、あいつのボディは九割が仕事で出来てるから、しゃあないわな。
当然のことながら、俺の仕事は探偵業より家事業の方がメインになった。それでも、一日中家の中のことをする必要はないからね。手際よくぱぱっと家事をこなせば、残りは全て俺の時間だ。思考にも行動にもたっぷり時間を割ける。稼ぎのためのバイトを入れなくて済む分、手間暇のかかる案件を引き受けやすくなる。
ひろとの同居を始めてから、俺がもらえたものは山ほどあったが、失ったものなど何一つなかった。本当にありがたいことだよ。
◇ ◇ ◇
ミスト事件終結から半年。俺とひろの同居生活が、まるで生まれた時からずっとそうしていたみたいにしっくり馴染んだ頃。フレディから呼び出しがあり、江畑さんを交えて三人で軽く飲もうということになった。フレディがひいきにしているマルコーニという会員制のバーがあり、そこの個室に集まることにした。
「よう」
「フレディ、江畑さん、ごぶさたー」
「元気だったかい?」
「おかげさまで」
ひろとの同居生活が落ち着くまでかなりばたばたしていたこともあって、フレディとも江畑さんとも久しぶりの顔合わせだったが、二人ともすっきり飲めるという表情ではなかった。席について飲み物を注文したところで、フレディが話の口火を切った。
「なあ、みさちゃん。仕事、辞めたのか?」
「ああ、探偵業かい? 続けてるよ。相変わらず上がりはさっぱりだけど」
「ふうん。前と同じようなアパートを見つけられたのか?」
「いいやあ。それは無理さ」
「じゃあ、どうすることにしたんだ?」
「結婚した。そいつんとこに住んでるんだ」
ごばあん! ごっつい二人が、恥も外聞もなく、これ以上ないという格好で派手にぶっこけた。
「け、結婚だとう?」
「何の冗談だい、みさちゃん!」
「冗談なんか言いませんよ。籍を入れてもう半年になります」
目をぎょろっと見開いたフレディが、真顔で突っ込んでくる。
「相手は……誰だ? 人間か?」
おいおいおいおいおい。
「フレディも江畑さんも知ってる人ですよ」
「なんだと?」
「俺らがかっ!」
しーん……。
元々俺には同年代の友人がいない。男であれ女であれ、だ。常々公言してたから、フレディも江畑さんもそれをよく知っている。その俺と結婚する……いや出来るようなやつが、二人にはどうしても思いつかなかったんだろう。
「ううーん……」
「想像が付かん」
「ははは。左馬さんです」
二人とも、しばらく目が点になっていた。だが……ぶっとい腕をぐいっと組んだフレディが、何度も大きく頷いた。
「納得だ。そうか。それなら分かる」
「だろ?」
「ふうん。みさちゃんとは合わん気がするが」
江畑さんが首を傾げる。
「こう、なんつーか、もう少し内助の功的な……」
「いや、江畑さん。そっちは、俺の方の性格なんですよね」
「ほ?」
「俺は、自分からぐんぐん前に出て行く性格じゃないんです。そういうことが出来るくらいなら、探偵なんていう辛気臭い商売はやってませんよ。俺の出来ることはほんの少しだし、誰かにして欲しいこともほん少しでいい。俺に究極の貧乏暮しが出来るのは、だからなんですよ」
しばらく考え込んでいた江畑さんも、納得してくれたんだろう。
「なるほどなあ」
「左馬さんは、全身エネルギーの塊です。でも、それをちっともうまく使えてない」
「どういう意味だ?」
「エネルギーを使ったことで満足してしまう。自分に成果を残すってことを考えないんです。リードから放たれた犬が、だあっと全力で駆け出していっちゃうのと同じ」
「うん。さすが、みさちゃんだな。彼女のベースをよく読んでる」
にやっと笑ったフレディが核心を突く。
「欲がないんだろ?」
「そう。仕事で自分を完全燃焼させちゃうの。それじゃあ減るだけさ。いつか燃え尽きちゃう。見てて、はらはらするんだよね」
「なるほどな……」
江畑さんの視線が、容赦なく俺を射抜く。
「でも、それはみさちゃんも同じだろ?」
「わはは。さすが江畑さん、お見通しっすね」
「自己犠牲って言やあ聞こえがいいけどよ。それはやけっぱちにも見える」
その通りだ。苦笑するしかない。
「そうなの。俺と左馬さんは、怖いくらいベースが似てる。それなら、互いの足らない部分をうまく補い合えばいいかなーと」
「足らない部分ねえ」
ぴんとこないんだろう。江畑さんが首を傾げる。
「どこだ?」
俺を凝視していたフレディが、すぱっと正解を出した。
「なあ、みさちゃん。寂しいんだろ?」
「そう」
俺はフレディと同じように、グラスの中のでかい氷をぐるりと回した。一つだけの、でかい氷。存在感はあるが、無性に寂しい。そこがな……。
「俺は探偵業が好きだし、探偵は人を好きになれないと絶対にこなせない」
「ああ。分かる」
フレディが同意してくれた。
「でも、俺が好きになった相手から好きになってもらえることはほとんどないんです。それが探偵っていう商売の限界なんだよね」
さっきまでにやにやしていたフレディが、急に黙り込んだ。
「確かにな」
「探偵としてどんなにいっぱい仕事をこなしていても、その成果が俺の心を潤すことはなかった。俺は、いつまで経ってもぱさぱさに渇いたままだったんです」
「因果な……もんだな」
江畑さんが、ふうっとでかい溜息をつく。
「だから……どうにも寂しくてね。チームMの中間報告で俺がぼやいたのは、紛れもなく俺の本音だったんですよ」
「ああ」
「そんなミイラみたいな俺を、左馬さんは初めてまるごと認めてくれた。俺はそれで十分なんです」
「はっはっは! まさか、みさちゃんののろけ話を聞くことになるとは思わなかったぜ」
屈託無く笑ったフレディが、俺の背中を何度もばんばん叩いた。
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