(3)

 じっと見据えていた麻矢さんから目を離して、ぐるりとみんなを見回した。


「それでもね、進学でお互いの立場が変われば、ある程度の諦めは付くんですよ。だって、これまでの生活とは大きく変わるんですから」


 ふうっ。俺と麻矢さん。同時に一息つく。


「麻矢さんは、トミーから逃れるために理系の大学に進みましたが、それは自分の適性を考えてじゃない。あくまでも逃避先。そこで、厳しい現実にぶち当たりました。そうでしょう?」

「はい……きつかった……です」


 お。初めて自己表現の言葉が出たな。


「そりゃそうでしょう。私が大学に行ってた時、バイト先に工学部のやつがいましたけど、年中課題課題でひいひい言ってましたから」


 顔を伏せた麻矢さんが、肩を上下させて大きな大きな溜息をついた。


「ふううう……っ」

「授業は難しくて全然分からない。課題は山盛り。周りは男ばっかで、しかも誰も自分を見てくれない」

「はい」

「もし麻矢さんが自宅生ではなくて、下宿していたら……」


 きゅっと首を絞める真似をしてみせる。


「首ぃ吊ってたかもしれませんよ」


 やっと顔を上げた麻矢さんが、苦笑を浮かべて頷いた。


「ほんとに……それくらいきつかったです」

「ですよね? そして、それはトミーもそうだったんですよ」

「え?」


 麻矢さんは、その頃のトミーを知らない。進学した後、一度は麻矢さんの狙い通りに関係が薄くなってたんだ。


「トミーは高校を出た後、合格した私大に進まずに、アルバイトをしながらプロの漫画家を目指したんです。その時点で、親と衝突して家を出ているんですよ」

「どうして……ですか?」

「そらあ、名門女子高に入れた親としたら、娘が合格した私大を蹴ってエロ漫画家を目指すことなんか、絶対に許容出来ないでしょう」


 俺は、『呆れた』のポーズを見せる。


「でも私から言わせてもらえば、そんなの親のエゴですよ。自分が目指したいものがある。それが職業であっても、表現であっても、個人の尊厳。麻矢さんがトミーに指図されたくないと思ったように、トミーも親の見栄やエゴで振り回されたくないと思った。同じです」

「はい。分かります」


 このあたりから、麻矢さんの受け答えにふらつきがなくなってきた。あくまでも事実を確認するための、感情を排したやり取りであること。それが理解出来るくらいには頭が冷えて、俺の意図したことが見えてきたんだろう。もともと麻矢さんは頭がいい。理知的なんだ。冷静になれば、ちゃんと話に付いてこれるはずなんだよ。


「一般の少女漫画家としてプロデビューを目指すなら、それは至難の技でしょう。予備軍や卵、ひよっ子を入れれば、うんざりするくらいいっぱいプロ志望者がいますから。東大に合格する以上にプロになるのは難しい」

「はい」

「でも、描く分野を絞ればその倍率は下がります。単に自分の趣味や思想を優先するということでなく、メシを食っていくための最短距離を考えるならば、エロ漫画家はとても現実的な選択なんですよ。そしてね。ここで、トミーにとっての第二の悲劇が発生します。もちろん、第一の悲劇は麻矢さんに逃げられたことです」

「あの……その第二の……って?」

「トミーは、あっさりデビュー出来ちゃったんですよ」

「!!」

「名門女子高の出身者で、真性のS。実体験があり、画力もしっかりしていて、個性もある。そらあ、雑誌社は喜びますよ。エロ系には大手の雑誌社なんかありません。中小ばかりでぐさぐさですから、話題を取れそうな漫画家さんならすぐ前面に打ち出します」


 麻矢さんが、俺の顔を凝視する。


「その時期。麻矢さんが大学の講義と課題で窒息しそうになっていた頃は、トミーも執筆が忙しくて麻矢さんにちょっかいを出す余裕がなかった。その頃は、たまーに会おうよっていうメールが来るくらいだったんじゃないですか?」

「はい。そうです」

「でもトミーには絶対に会いたくない麻矢さんは、多忙を理由にそれを断ってましたよね?」

「はい。本当に忙しかったので……」

「分かります。トミーも、仕事を放ってまで麻矢さんに触手を伸ばすことは出来なかった。そして、もしそのままトミーが『本当のプロ』になれたなら、それきり縁が切れていたでしょう」

「えっ? じゃあ第二の悲劇……って?」


 麻矢さんが小さく首を傾げた。


「トミーには修行期間がない。熟成期間がない。若いがゆえの勢いだけでプロとして独り立ちしてしまったんですが、いかにエロ漫画って言っても、そんなに甘くないですよ」

「あ……」

「その手のが好きな人は、ものすごくたくさんの作品に目を通していますから、絵だけきれいでも満足できない。そこに世界観を求めるんです。そしてトミーのストーリーテラーとしての能力はそんなに高くなかった。だからこそ高校の時は、その部分を麻矢さんに任せていたんですから」

「そうか……」


 この時点で、すでに俺と麻矢さんとの直接対話に近くなっていた。でも、その時間がどうしても必要だったんだ。他の出席者も、俺の意図はちゃんと汲んでくれていた。

 なだめてもすかしても説得しても、何をどうやっても出てこない麻矢さんの本音、感情を、どうやって天岩戸から引っ張り出すか。チャンスはそう多くないから、出せる時には確実に出してもらわないとならない。そして、まさに今がその時だってことにね。


「高校の時は麻矢さんに分担してもらっていたプロット作りやネームを自分でやると、どうしてもワンパターンになる。エロ場面の描写だってそうです。経験があるって言っても、麻矢さん相手の時のしか下敷きにないんですから」


 顔を真っ赤にした麻矢さんが、慌てて俯いた。


「でも、読者はそれをすぐに見抜いてしまう。飽きてしまうんです」

「あ……」

「雑誌社というのは冷酷です。作家さんは、基本使い捨てなんです。プロ登用へのハードルを高く設定して作家を厳しく選別している大手であっても、人気アンケートの上位に来ない作家さんはもう使いません。ましてや、アイキャッチのみで売り上げを出さないとならない中小は、もっと露骨ですよ。人気の切れ目が縁の切れ目で、連載と契約を一年半で打ち切ったんです」


 がたっ! 真っ青な顔で、麻矢さんが立ち上がった。


「そ、そんなっ!」

「いいえ、それがプロの世界なんですよ。それは雑誌社が悪いんじゃない。プロとしてのクオリティに達していない作家さんの責任なんです」


 分かりやすい例を出そうか。


「ねえ、麻矢さん。あなたがプロ野球チームの監督なら、投げりゃ打たれる、振れば三振ばかりの選手を雇いますか?」

「……いいえ」

「でしょう? それは冷酷に見えますが、商売としては当然のことなんです。売れてなんぼ。慈善事業じゃないからね」

「はい」

「そしてね。麻矢さんが自分をいつも過小評価しようとするように、トミーにはいつも自分を膨らませて見せる癖があったんじゃないですか?」

「そうかも……しれません」

「度の過ぎた自信家っていうのも良し悪しなんですよ。普通の会社勤めなら、あいつちょっと態度でかいよねーくらいの陰口で済むんですが、自分の技量で食ってく世界では自惚れが致命傷になることがあるんです」


 社会経験の浅い若造にはよくあることなんだけどさ。それじゃ済まなかったんだよな。


「大口を叩いて親と決別した。麻矢さんには逃げられた。プロ漫画家としてのプライドをへし折られた。トミーは、孤立無援になってしまいました。何の取り柄もない、ぼっちのフリーターに戻ってしまった自分が、惨めで惨めでしょうがない」

「う……」

「そしてね、親に頭を下げて実家に戻るのは、自分を消すことで死と同じ。もう一度下積みからやり直すのは、成功経験を味わってしまったトミーにとって屈辱そのもの。じゃあ、あとはどこを動かせます?」


 ざあっと青ざめた麻矢さんが、口をわなわなと動かした。


「そこから、トミーのあなたへの病的な執着が始まったんです。何一つ自分の意のままにならない現実の中で、唯一あなただけは思い通りに出来る。そう考えてしまった」


 隣で、ジョンソンさんが両手を髪の中に突っ込んで、俯いてしまった。


「おそろしい……ですね」

「そうなんですよ。思い詰めたトミーは、いくらあなたが扉を固く閉ざしても、それを無理やりこじ開けようとする」

「はい!」

「メールアドレスを変え、電話を着禁にし、付き合っている男がいる風にカップルを偽装しても、どうやっても離れてくれない。ありとあらゆる手段を使って、麻矢さんとコンタクトを取ろうとする」

「そうです。段々……怖くなって」

「そう感じるのも当然です」

「あの」


 永井さんが、さっと手を上げた。


「なんでしょう?」

「麻矢ちゃんは、なぜそれをすぐにご両親や私に訴えなかったの?」

「言えるわけないじゃないですかっ!」


 でかい声でどやす。


「私がここで暴露するまで、高校時代のトミーとの百合関係は誰も知らなかった。そして、そんなことは絶対に知られたくなかった。それが楽しい思い出ならまだいいですよ? 自分の進路まで歪めた恐ろしい出来事。そして、『今』の現実なんです。それは、全く過去のことになっていないんですよ!」

「あ……」

「だからこそ、麻矢さんは自分の受けてる被害の訴えを、ものすごーく遠回りな形でしか表現出来なかったんです」


 ぴっ! 麻矢さんを指差す。


「それは、麻矢さん自身で解決しなければならないこと。誰かがなんとかしてくれるという性質のものじゃないんです。でも、我慢し続けるにも解決に動くにもエネルギーが全然足りない麻矢さんは、こういう形での危険信号を出すくらいしか出来なかった。そういうことです」

「ぐっ……ぐすっ」


 顔を歪めて、麻矢さんが泣いた。やっと、自分の中に無理やり押さえ込んでじっと堪えていた辛さを吐き出せたんだろう。それが言葉ではなく、まだ涙だというところに大きな問題があるんだけどね。


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