(6)
所に戻って。堅苦しい礼服をいつものジャンクな平服に着替えた俺は、所長室のドアを叩いた。
「所長?」
「ああ、中村くんか。どうぞ」
「失礼します」
所長室に入ってすぐ。俺は手にしていた書状を所長に渡した。
「うん?」
『退職願』
所長の顔色が変わって、椅子を蹴るように立ち上がった。
「ど、どういうことだっ!」
「そこに書いてある通りです」
真っ青になった所長が、どすんと椅子に崩れ落ちた。
「もうずいぶん前から。そう、ブンさんのあの件がある前から、こうしようと思ってたんですけどね……」
「なぜ……だ?」
「ここのシステムが、俺に合わないからです」
「合わ……ない?」
「誤解しないでくださいね。俺は好き嫌いで言ってるんじゃない。ブンさんに三年間どやされ続けてきたことを俺なりに反芻して、自分で出した結論なんです」
「何が……不満だ?」
「不満なんかないです」
「じゃあ、どうしてっ!」
「さっき言ったじゃないですか。ここ……いや、ここだけじゃない。調査会社っていうシステムが、俺には合わないからなんです」
所長は、まだ頭が混乱していたんだろう。何か言いかけては止めるのを何度か繰り返した。
「辞めて……どうするんだ?」
「一人で探偵業をやります」
「ええっ?」
俺の返事は、とんでもなく予想外だったんだろう。目をひん剥いた所長が、俺の顔を穴が空くほど凝視した。
「俺はここにいると、駒になります。それが会社っていうやり方ですから」
「ああ」
「駒は決められた動きしか出来ません。それをお互いに補うためにいろんな役割の社員がいる。そうですよね?」
「そうだな」
「それは楽が出来る反面、制約になるんですよ。俺にとっては致命的な」
所長が、俺の意図にはっきり気付いたらしい。
「そうか。あの安田さんの依頼の時……」
「そう。俺はね、あの時全部ぶん投げて辞めるつもりだったんです。もういいやってね。だから最後くらいは好きにさせてくれって。でも、最後くらい、じゃない。ずっとそうやりたいんです」
「ううむ……」
「個人でやろうが社でやろうが、法規は守らなければならないですけど、社則は別です。それはあくまでも社内の自主ルール。必ずしも縛られる必要はない。でも、だからってみんなが俺の好きにやらせろって言い出すと、示しが付かない。社のコントロールが出来なくなる」
「それで……か」
「はい。一人なら、全ての責任を一人で負わなきゃならない代わりに、制約もリスクも自分でコントロール出来る。調査を自由にカスタマイズ出来るんです」
「それは分かったが、一人で出来るのか?」
「さあ。やってみないと分かりません」
俺は所長に右手を差し出した。
「ブンさんの後釜が来て、調査員のトレーニングシステムが組み上がって、新しいシステムが動き出すまで。そこまではお付き合いします。明日すぐに辞めるっていう話じゃありません。ですが、近々俺がいなくなるっていう前提で、システムを組んでください」
大きな溜息を漏らした所長は、ゆっくり立ち上がると、俺が差し出した手をがっちり握り返した。
「仕方ないな」
「所長」
「うん?」
「沖竹エージェンシーが、巡航運転になるまで何でも引き受けてきたように」
「ああ」
「俺も自分の探偵稼業が軌道に乗るまでは、糞にでも食らい付きます。ここで手に負えなかった案件は、俺に相談してください」
にっ。所長が、意味ありげに笑った。
「分かった。心得ておく」
「お願いします」
◇ ◇ ◇
(……そして、十数年後……)
ここのところ、ずっと猛暑続きだ。まだ安定期に入っていないひろを暑い中うろうろさせたくないので、俺が郵便受けの中身を取りに行った。ダイアルキーを開けてがさがさと中身を引っ張り出すと、新聞やチラシに混じって、いつものやつが入っていた。ああ、今年もその時期になったのか。俺は味もそっけもないそいつの裏表を見回しながら、部屋に戻った。
「ぶふう。一階のロビーの空調、壊れてんじゃないのか? 暑くてかなわん」
「だよねえ。せめて下に行くくらいは体動かしたいんだけど、この暑さじゃさあ」
「無理すんなよ。まだつわりが落ち着いてないんだから」
「うう、二人目だと楽とか、そういう免責はないのかー」
「文句はコウノトリか神様に言ってくれ」
「ぶー」
不満そうなひろを後目に、ダイニングテーブルの上で郵便受けに入っていたものを整理して片付け、最後にそいつを手に取った。
「ちょっと、みさちゃん。何見てんの?」
「ああ、沖竹のところから暑中見舞いのハガキが来た」
「ええーっ?」
隼人を抱いたひろが、なんて不気味なって顔でハガキを見下ろした。
「みさちゃん、沖竹のことをぼろっくそに言ってたよね?」
「今でも言ってるよ。ぼろっくそに」
ひろが、どてっとずっこけようとしたから慌てて止める。そのアクションは、隼人を抱いてない時にやってくれ。
「なんで今さら……」
「いや、沖竹のところからは毎年賀状と暑中見舞いのハガキが来る」
「ええー? そうだったっけー?」
「そうだよ。恒例行事さ」
「じゃあ、文面見てないってこと?」
「既成印刷のペラじゃなあ。わざわざ見る価値なんかないだろ」
「あははははっ!」
「それでも律儀にハガキだけは寄越す。まあ、生存確認みたいなもんだよ」
「ふうん」
「所長も、相変わらず頑固だよなあ」
「そうなの?」
「そうさ。俺が勤めていた頃から、何一つポリシーを変えてない。一徹だ」
「嫌なやつ一徹?」
「まあね。でも、それが所長だからね」
「ふうん」
「誰に何を言われようが、沖竹のポリシーとして抜群の解決力をうたい、調査員を使い捨てにし、依頼者に高額の報酬を要求する」
「うん」
「そのやり方がうんと理不尽ならとっくに潰れてるさ。でも、調査会社の大手として今でもしっかり仕事をしてる」
「あっ!」
ひろが本当に隼人を落としそうになった。おいおいおいっ!
「だろ?」
「そっかあ」
「俺が自分を変えながらここまで生き延びてきたように、所長はあえて変えないことで生き延びてきた。そのどっちがいいってわけじゃない。それぞれの特徴なんだよね」
「なるほどー。でも、それってみさちゃんとは水と油じゃないの?」
「そ。顔も見たくない」
「そうだよねえ」
「と言いながら、今年も顔合わさんとならんだろうなあ」
「え? どこで?」
「親父の墓参りで、だよ」
「てか、みさちゃんのお父さんて、まだ生きてるじゃん!」
「いや、俺と所長にはもう一人親父がいるんだよ」
「へ?」
「ブンさんていう、ね」
葉書から目を離し、顔を上げて、リビングの窓の外に広がる青空と夏雲をぐるりと見渡す。ブンさんのあのしかめ面は、この空には似合わないなあ。もしここにあの顔が浮かんだら、隼人が怯えて泣くだろう。わははっ。
俺は、空の向こうのブンさんに話し掛けた。ああ、ブンさん。俺はまだくすんでないかなあ? 黒くなってないかなあ? 少しはマシになったかなあ? 所長は相変わらずだよ。だけど、あれでも所長なりに頑張ってるんだ。あんまりがみがみ言わないでくれ。
……説教は、俺がまとめて聞くからさ。
【第四話 転機 了】
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