(3)
所長の不機嫌が治らないまま、四日目が過ぎた。仕事は相変わらず小ネタだけ。普段とことんこき使われている分だけ、どうしても暇を持て余す。でも、俺は異変を感じ取っていた。今度は所長だけじゃなく、ブンさんまで不機嫌になっていたんだ。
「ブンさんも……か」
ブンさんの気難しさをよく知っている社員は、とばっちりを食わないようにと遠巻きにしてる。誰も近寄ろうとしない。だが、俺はあえて近付いた。
「ブンさん」
「なんだ!」
うわ、マジで機嫌が悪いなあ。
「ちょっと相談があるんすけど、談話室、いいすか?」
むすっとした顔のまま、ブンさんが手にしていた新聞をデスクに叩き付け、憤然と席を立った。
どん! ブンさんが談話室の椅子に体を投げ出して、じろっと俺を睨んだ。
「なんだ?」
「俺の行きつけのスーパーに」
「はあ?」
いきなり仕事に関係ない話が飛び出したことで、ブンさんの頭に血が上ったんだろう。顔が真っ赤になった。
「奇妙なじいさんがよく来るらしいんです」
ふざけんじゃねえと大爆発されるのは覚悟してたんだけど、口をへの字に曲げたブンさんは、ぐんと体を起こすと椅子に座り直した。
「続けろ」
「はい。そのじいさんは鮮魚のコーナーにしか来ません。そして、防犯ビデオも店員の見張りもあるのに、パックの魚に針を刺して行くんですよ」
「む!」
さっきまでの、不機嫌そうな表情が一瞬で消えた。
「店は、それぇ知ってんのか?」
「もちろんです。被害を把握してて、警察にも相談してるそうです。でも……」
「被害が止まねえってことだな」
「はい。直接本人に止めろと注意したこともあったらしいです。でも、俺がやったっていう証拠を見せろって言われたらしくて」
「ふむ……」
腕を組んで、しばらくじっと考え込んでいたブンさんが、ひょいと顔を俺に向けた。
「それは店の依頼か?」
「違います。俺が行きつけにしてる鮮魚コーナーの店員さんと雑談してて。たまたま俺がその針入りのパックを見つけちまったんで」
「行きがかり上、か」
「そうっす」
「被害は鮮魚だけか?」
「鮮魚だけです。店員が常在してるのは、そこだけなんすよ」
「なるほど。挑発だな」
「でも、貧乏人の俺が行くようなスーパーっすよ? 小汚い、激安スーパーです。嫌がらせの意味も挑発の意味も、何もないっすよ」
「ああ、そうだ。確かに奇妙だな」
腕組みを解いて、指で机をタップしていたブンさんは、その指をひょいと俺に向けた。
「店の被害額は?」
「微々たるもんです」
「ふむ。でも、しょっちゅう来るってことだな?」
「間違いなくそうです」
「写真とか、そいつの身元が分かりそうなもんはねえのか?」
その店で、『この人の入店お断り』と入り口に張ろうとしていたじいさんの手配写真。それをブンさんに見せた。それを一目見て、ブンさんの顔色が変わった。
「野郎……」
「ブンさん、知ってるんすか?」
俺の問い掛けを無視したブンさんは、椅子を蹴るようにして席を立つと、俺の襟首を捕まえて廊下に引きずり出した。
「操。所長に、俺は中野の件でおまえと一緒に調査に出ると言ってこい!」
いつもはなんだかんだ言っても、所長に直接スケジュールを伝えるブンさんが、俺を使った。それにものすごく違和感を覚えながらも、俺はブンさんに言われた通りに所長に伝えた。いつもなら、ぐだぐだスケジュールに文句を付けるはずの所長が、黙りこくったまま頷きだけで許可を出した。変だ。どうにも、社内が……変だ。
◇ ◇ ◇
そして。ブンさんが向かったのは、調査対象の人物のところではなく、俺がよく行く激安スーパー。その出入り口や店内の構造を前もってじっくり調べたブンさんは、鮮魚コーナーからは死角になる陳列棚の陰に隠れた。
「操。おまえは入り口近くで張れ。例のじいさんが来たら、俺に合図しろ」
「うす!」
ブンさんがどういうアクションを起こすのか見当が付かないまま、俺は言われた通りに入り口付近で待ち構えた。
俺たちが入店して十分もしないうちに、八十絡みの白髪の男が、ジャンパーのポケットに両手を突っ込んだまま店に入ってきた。そして、真っ直ぐ鮮魚のコーナーに向かった。
「こいつだ……」
店の方でも指名手配中の要注意人物が来たってことで、中年の男性店員が今度こそ現場を押さえてやると憤慨しながら、じいさんの後を付いていく。俺も、ブンさんに目線でじいさんの来店を知らせ、店員とは別のルートで鮮魚のコーナーに張った。
じいさんはちらりと背後を振り返り、店員が自分を見張っていることを認識したようだ。だが、じいさんの顔には皮肉っぽい薄笑いが張り付いていた。明らかに挑発している。じいさんは、手慣れた様子で防犯ビデオに背を向けて立つと、並んでいた鮮魚のパックに手を伸ばし、それを持ち上げた。その時だった。
「よう、善造。久しぶりだな」
ブンさんがじいさんの手首をぎっちり握りしめ、動きを止めていた。
目を見開いて、じっとブンさんを見つめる男。しばらく睨み合っていた二人だったが、先に男が陥落した。
「さっさとアゲりゃあいいだろう?」
「あほか。俺はもうデカじゃねえよ」
「え!?」
じいさんが、ぱっくり口を開けてブンさんを凝視した。
「今は民間の調査会社の社員さ。操!」
ブンさんに呼ばれて、慌ててその隣に移動した。憤慨していた店員さんは、思わぬ展開に狼狽している。
「こいつとコンビで、浮気調査やら素行調査やらをやってるってことよ。そしてな。俺はこの店の依頼なんざ受けてねえぜ。この店にはたまたま立ち寄っただけさ。おまえも運がねえな」
じいさんは、ブンさんにがっつり手首を握られたままがっくりと項垂れた。
「なあ、善造。スリの神様と言われたおまえが、こんなところで何くだらねえことやってんだ?」
ス、スリの神様あ!? このしわくちゃのじいさんが? 俺も店員さんも、絶句だ。
「おまえも悪党の端くれなら、半端なくだらねえことは止めろっ!」
ブンさんがでかい声で一喝した。そして、ブンさんの説教はまだ続いた。
「いいか。おまえがなんぼ俺はまだ出来ると思っててもな、おまえの腕はもう落ちてんだよ。トシだ。そらあ仕方ねえだろ。おまえの現役の頃なら、俺に手首を掴まれる前にもう仕事が終わってる。用心でバレないようには出来ても、肝心の指先がもう動いてねえんだよ」
ブンさんの容赦ない指摘に、じいさんは完全に意気消沈してしまった。ブンさんが握っていたじいさんの手首の先から、まずパックの魚が落ち、それから針が……ぱらっと落ちた。勝ち誇ったようにじいさんを罵倒しようとした店員さんを、ブンさんがぎぎっと睨みつけた。視線の鋭さに威圧されるように、店員さんは口ごもった。
「……突き出すんだろ?」
じいさんの口から、小さな諦めのセリフが溢れる。
「どこにだ? さっき言っただろが。俺はデカじゃねえよ」
放り出すようにして手首を放したブンさんが、じいさんを一喝する。
「二度とこんなくだらねえ真似すんじゃねえっ!」
じいさんは、俯いたままよろよろと店を……出て行った。
◇ ◇ ◇
今までそのじいさんに散々手を焼いていたスーパーの店長さんは、無罪放免は納得行かないとブンさんに詰め寄ったけど、ブンさんはそれを柔らかくいなした。
「おたくさんの言いたいことは分かる。でもな、あのじいさんがあと五十年も百年も生きるわけじゃねえ。もうしねえって言うなら、それで済ましてやってくんねえか?」
「本当に、もうここには来ないんでしょうか?」
不信感たっぷりの表情で、若い店長がブンさんをねめつけた。
「来ねえな」
「そんなの、どうして分かるんですか?」
「目的が、生活のためでも、嫌がらせのためでもねえからな」
大きな溜息をつきながら、ブンさんが鮮魚のコーナーを見遣った。
「店長さん」
「はい?」
「同じことをガキがやりゃあ、それはスリルが欲しいからだ」
「なるほど」
「でも、プロがやるってなあ、スリル目的じゃねえ。プライドのためなんだよ」
「プライド……ですか」
「そう。かつての神様も、今は落ちぶれて見る影もねえ。本人がまだ出来ると思ってても、世間からはすっかり忘れられてる。それが、善造には我慢出来ねえんだよ」
「はあ」
「でもスリで捕まりゃあ、前科持ちには猶予は付かねえ。あのトシで何年も豚箱暮らしすんのはきついぜ」
ブンさんは、さっきのじいさんの心理をまるで見てきたかのように説明し続ける。
「モノを取るんじゃなく、毀損する。それも被害が軽微。万が一の時には金銭で補償出来る。それだけかちかちに読み切って、行為に及んでたんだよ」
「それなら、またやるんじゃ……」
「いや、それは出来ねえよ。俺に手口を全部読まれたからな」
「あ!」
「あいつとの付き合いは一回や二回じゃねえ。若造の俺は、デカの時代に善造に何度も煮え湯を飲まされてる。でも、俺はまだ動けるが、善造はトシさ。手口ぃ読まれたら、もうここじゃ出来ねえよ」
「そうなんですか?」
ずっとあのじいさんに悩まされてきた店長は、どうしてもブンさんの理屈が信じられないんだろう。
「そうだよ。俺があいつにとやかく言わなくても、あいつのプライドは粉々さ。だから、ここにはもう二度と来ねえ。味噌ぉ付いた人や店を避ける。それはスリや泥つくに共通のゲン担ぎだ」
「なるほどねえ」
店長さんは、いやすごいことを聞かせてもらったっていう風に、大きく頷いた。ブンさんは、やれやれって顔でもう一つ溜息をつくと。ぐるっと店内を見回して、嫌味を言った。
「それにしても、万引きも逃げ出すような店だな」
「それが当店のポリシーですから」
胸を張って自慢する店長さん。それは……自慢にならないっすよ。とほほ。
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