修行時代編 第二話 矢
(1)
俺の部屋の前。鍵を開ける前に、でかい溜息を漏らしながら暮れなずむ空を見上げる。
「ふうううっ」
どうにもすっきりしない。ここ数日、気味が悪いくらい何もなくて穏やかなんだ。仕事は定時に上がりだったし、残業も持ち帰りの仕事も何もない。もし俺がごく普通の会社員ならば、それは大歓迎だろう。だが沖竹エージェンシーの調査員をやってる俺にとっては、それはとんでもなく異常な事態なんだ。何とも形容しがたい不安が、俺をじわりじわりと苛んでいた。
あの名古屋出張の後はどうでもいい小ネタがいくつか続いただけで、俺やブンさんをうんうん悩ませるような面倒なヤマが一つも降って来なかった。そもそもそれが、うんとこさおかしい。
「うーん……」
所長が社を立てて以来、徹底的にこだわってきたのは解決力だ。受注した仕事は、何があろうとどんな手段を使おうと、必ず百パーセント完遂する。それが所長のモットーだ。そして所長のもう一つのモットーが、『他社には解決出来ない難物をこなす』だ。それは、警察や司法関係のOBではなく、そっち系のコネやノウハウを持たない若造の所長が調査業で食っていくためには、どうしても欠かせないモットーだった。
ブンさんは現場を知らんと所長をこき下ろしていたけど、安楽椅子探偵を気取る所長が単なるお飾りなんかじゃないことは、社の実績が如実に示している。社の創立以来恐ろしいほどのペースで調査実績を築き上げ、沖竹エージェンシーを調査業大手にまで育て上げたのは、所長の推理や判断、指揮が恐ろしく的確だということを示している。人間的には冷たくて嫌なやつだと思うが、その並外れた実力は認めざるを得ない。
最短の時間で、最小のコストで、最大の成果を上げる。それが所長の揺るがない基本理念である以上、理念に反する行動や言動が所長から出るってことはあり得ない。そのあり得ないことが、現実に、今、起こっている。つまり、あの件以降ずっと機嫌が悪い所長の不機嫌の原因が……あの件絡みではなく、別のところにあるような気がしたんだ。
確かに巧妙に仕組まれたえげつない依頼だったが、元々疑い深い所長が同じ轍を二度三度踏むことは絶対にないだろう。ブンさんにどやされるまでもなく、依頼に裏がないか、調査が犯罪に使われる恐れがないかをしっかり確認することは、調査業者にとって最初の、そして必須のステップ。俺らのようなぺーぺーに真っ先にかつ徹底的に叩き込まれる、調査員としての基本中の基本だ。調査の目的に違法性がないことを確認出来ないような怪しい依頼は、そもそも引き受けられない。そこがずさんだと、俺たちはまんまと犯罪の片棒を担がされることになって、信用を全て失う。
今回は、依頼者のバックが大物だったから企みが巧妙にカムフラージュされていて、所長がドジを踏んだ。だが元々冷徹で乾き切っている所長は、これまで以上にシビアに依頼の妥当性をチェックするはずだ。しかも所長は、不誠実な依頼に対してきっちり意趣返ししてる。やられっぱなしにはしていない。所長的には、それで全てちゃらだろう。もうあの件はあの件で片付けて、いつもなら俺たちをとことんこき使っているはずなんだ。
それが……まるっきり動いていない。所長は、何かが引っかかってエンストしてしまってる。それも所長自身の問題ってことじゃなく、外に原因がある。だからものすごく腹を立ててるんだ。俺は、その立腹の原因が分からないことがどうしても気持ち悪かった。いや俺だけじゃなく、社員はみんなそう感じてると思う。
まあ、いい。それよりメシにしよう。
「むーん……」
俺は隙間が目立つようになってきた冷蔵庫の腹の中を隅々まで見回して、大きな溜息を付いた。
「はああっ。買い出しのタイミングが難しいよなー」
所長がスタックしてるって言っても、その期間はごく短いだろう。短期解決を売りにしている以上、所長が業務に支障をきたすほどずっとトラブルを引きずるとは思えない。所長がこれまで通りに案件をたくさん抱え込んで、俺たちにざばざば振り分けるようになれば、部屋に帰ってからのんびり飯炊きする暇なんざなくなってしまう。そうすっと、せっかく安く仕入れた食材が無駄になっちまうんだよなー。
「うーん……」
それでも、ある程度の備蓄は必要だろう。
「チラシをチェックするかー」
◇ ◇ ◇
俺のアパートから歩いて五分ほどのところに、激安で有名なスーパーがある。そこは、部屋から近くて便利だっていうだけじゃない。正直言って生鮮食料品はどれも食えるか食えないかのぎりぎりレベルだが、間違いなく安い。安かろう悪かろうと開き直ってるんだから、買う方もそう割り切って買えばいい。俺はいつものように鮮魚のコーナーでアラを漁っていて、売り場のおっさんに声を掛けられた。
「よう、みさちゃん、お見限りぃ!」
「おやっさーん、みさちゃんは止めてくれよう。女じゃねえんだからさ」
「堅いこと言うなよう。俺とみさちゃんの仲じゃねえか」
こんなくたびれ果てたおっさんと仲良くなんざなりたかないが、いつもまけてくれる、おまけを付けてくれるスポンサーの悪口を、本人に直接ぶちまけるわけにもいかない。
「なあ、みさちゃん。今、忙しいのかい?」
「今だけじゃなくて、年中忙しいっすよ。貧乏暇なしっす」
「その割には。生魚なんか買って料理してるんだろ? とっても今時のわけえやつとは思えねえよ」
まあね。家事能力ゼロっていうより、最初からそういうのを全くやる気がなかったお袋。そのお袋を咎めもせず、ついでに俺らにも何も親らしいことをしない、誰に対しても無関心で身勝手な親父。俺が今生きてるってことは、命に関わるほどのネグレクトではなかったんだろう。だが俺が物心ついてから先、親に親らしいことをしてもらった記憶は一つもない。しかも、そういう性格破綻者の両親のエキスを凝縮したようなぐうたらそのものの姉貴まで抱えて、俺だけがそのとばっちりを全部被ることになっちまった。
いいか? 男女の役割分担なんざ、くそっくらえだ! 誰かがやらなきゃ、家が腐る。生活が成り立たなくなる。ただそれだけのことで、俺の家事能力はガキの頃からがっつり鍛え上げられてしまった。クソ腹立つのは、俺がちょこまか動いて家事をこなすのを、両親が嘲笑うことだった。なんでそんなことをする必要があるのかってね。おまえら、汚部屋のゴミの海で溺れ死にやがれっ!
俺は、そうはなりたくない。家事をなんで俺一人でやらなきゃならんのか、俺には全く分からんが、分かる分からん以前にすることした方が快適に暮らせる。俺が家事をこなす理由はそれだけさ。うまい飯を食いたきゃ、自分で飯を作る。きれいな部屋に住みたきゃ、自分で掃除する。ぱりっとしたもん着たきゃ、自分で洗濯する。することをすれば、薄給でひーひー言ってる俺でもなんとか人並みに生活してるっていう実感が湧く。劣等感に押し潰されずに済むってわけだ。
未だに分からないのは、親へのパラサイト決定だと思っていた姉貴が、いっちょまえに就職して一人暮らししてるってことだ。もっとも姉貴は、カネを与える以外一切子供の面倒を見ない親が、成人した俺らにはそのカネさえ出さなくなることを予見してたんだろう。背に腹は代えられないってことだ。だが独立したと言っても、ぐーたら姉貴の生活実態がゴキブリ以下だってことは容易に想像出来る。間違っても近寄りたくないね。
「ねえ、おやっさん。今日はなんかいいとこないんすか?」
「アラかい?」
「ええ」
「今日はダメだなあ……」
仕入れがぐさぐさなこの店じゃ、陳列している売り物の魚がすでにアラみたいなもんだからなあ。うーん、どうしようかなあ。この店の肉は、品質の割に値付けも値引きもシブい。コスパ的にうまみが何もないんだ。でも、タンパク質が腐りかけの豆腐じゃなあ。
「むー」
俺が保冷ケースの前で呻吟していると、おやっさんが何か思い出したように洗い場に入って行った。
「そうだ。売れそうにねえ雑魚箱の中にこんなのが入ってたんだけど、持ってくかい?」
おやっさんがべろーんと持ち上げたのは、体の半分が顔じゃないのかってくらい顔の長い細い魚だった。
「な、なんすか。それぇ?」
「赤ヤガラだってよ。俺ぁ食ったことねえんだが」
おいおい、そんなもの売るなよ。
「こいつは後で捨てるしかねえから、タダでやるよ」
おおっ! タダなら何でも食うぜ!
「その代わり、こっちの塩鮭一パック買ってくれや。両方で三百円だ」
慌てて保冷ケースを見回したが、これがまた。猫またぎどころか、俺を毒殺するつもりかって怒った猫がジャロに訴えそうなくらい不味そうな塩鮭ばかりだった。しゃあない。鮭の方は出汁取って終いにしよう。
「助かるっす」
「はっはっは、今さばいてやっから待ってな」
おやっさんが、包丁を振るって手際よく変てこな魚をさばいている間、俺は塩鮭をどれにしようかと保冷ケースを見回していて、ふと異変に気付いた。
「みさちゃん、出来たぜ」
「ああ、おやっさん、これ……」
「うん?」
俺が指差した塩鮭の切り身パック。よーく注意しないと分からないんだが、スチロール容器に小さな穴が空いていて、その先にきらりと光る金属片が見えた。
「針、じゃないすか?」
それを見たおやっさんが、ものすごく渋い表情になった。
「またかよー」
「え?」
「困ってんだよな」
「げー、嫌がらせっすか?」
「そういうことなんだろな」
「犯人は?」
「分かってんだよ。じいさんさ」
えっ!? 犯人が分かってる? それは……おかしいじゃん。
「警察には?」
「相談はしてるんだが、証拠がな」
「でも、誰がやってっかは、分かってるんすよね」
「分かってるよ。でも万引きと違って、こういうのはやった瞬間をとっちめねえとどうにもならんのさ」
「なるほど」
うーん……。
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