(4)

「ふうっ……」


 小汚い安アパートの一室。安物のパイプベッドの上に転がっていた俺は、何十回かめの溜息を漏らして、上半身を起こした。ぐだぐだに疲れていたのに、どうしても寝付けない。眠ることを諦めた俺は、外がまだ暗いうちからごそごそとベッドから降りた。


 昨日の所長とのやり取り。そして、飲み屋でのブンさんとのやり取り。その中には、男に関する事実は一つも入っていない。俺にとって、全ては薮の中だ。そして、俺が所長に命じられて請けた仕事は昨日すでに終わっている。報告書も、復命書も提出済み。


「なんだかなあ……」


 昨日男を尾行してこの目で見届けたことだけが、俺にとっての揺るぎない真実だった。だが、その真実が何の役にも立っていない。浮気の証明。犯罪の立証。国益の保護。人生の確保。事実は、その何にも使えないじゃないか。少なくとも、調査をした俺には何一つ残らない。達成感も使命感もなく、ただひたすら事実を暴き出すこと。それに何の意味がある?


◇ ◇ ◇


 翌朝。いつもの時間に出勤すると、社は何事もなく平常運転だった。ただ所長の機嫌が猛烈に悪く、怖くて誰も所長室にアクセス出来ない状態。そういう時には、俺やブンさんに所長からのあれやれこれやれが飛んでこない。これ幸いと、昨日のことで心にわだかまっていた疑問をぶつけて見ることにする。談話室で新聞の三面記事を読んでいたブンさんを見つけて、その隣に陣取った。


「ねえ、ブンさん」

「ん?」

「もっとなんかこう、他のオチってのはなかったんすかね?」


 丁寧に畳んだ新聞をぽんとテーブルに乗せたブンさんが、俺の顔を覗き込んだ。


「さあ。そいつは、あっち行っちまった奴に聞くしかねえ。俺らには永遠に分かんねえよ。ただな」

「はい」

「そいつたらし込んだみたいなしょうもねえ連中は、自力でなんとか出来るやつには声を掛けねえんだよ」

「あっ」

「今の自分に不安や不満を持ってんのに、そいつを自力じゃどうにも出来ねえ。そういう半端な奴を嗅ぎ当てて、執拗に付け狙うのさ。ハイエナと同じだ」

「げえ……」

「残念だが。俺のような商売を長くやってると、絶対安全安心なんて場所は地球上のどこにもねえってことが分かっちまうのさ。厄災には自分で備えるしかねえ」

「そうすか」

「俺には、それしか言いようがねえな」


 ぎしっ。椅子を鳴らして体を引いたブンさんは、テーブルの上に指で文字を書いた。


「なあ、操」

「うす」

「白ってぇ字は、お日様の日の上に点が付いてる」

「そうすね」

「その分だけ翳ってる。どんなに白く見えても、真っ白じゃねえんだよ」

「へえー……」

「そして黒ってのは里の下に足が生えてる。隠しても隠しても結局足が出て、お里が知れるってことさ」


 なるほどなあ。


「デカってなあ、疑うのが商売だ。世の中の連中、一人残らず真っ黒け。だから疑って疑って、とことん疑って。それでも何も出てこなけりゃあ、しょうがなくシロなんだ」

「うす」

「だがな。今俺が言った白黒の話は、デカ専用なんだよ」


 あ……。


「調査員は、それじゃあだめだ。黒く見えれば、その裏の白を。白く見えれば、その裏の黒を。きっちり見通さねえとならんのさ」

「そうなんすか?」

「そうだ」


 今一納得出来てない俺をじろっと見て、ブンさんが説明を足した。


「警察は白黒はっきりさすのが商売だよ。グレーってのは許されねえ」

「ですよね」

「ああ。だが調査員てのは、見える色のもっと向こうを見通さねえとメシが食えねえんだよ」


 見える色の向こう、か。


「おまえがあの男のオチを案じたのは、おまえがもしデカなら余計なことさ。家庭や社や国を裏切るろくでなしに、同情の余地なんざこれっぽっちもねえからな。だが、男の裏をしっかり探るのは、調査員としては真っ当な考え方なんだよ」

「そうなんすか」

「ああ、そうさ。そしてな、所長にはそういう意識がねえんだよ。まるっきりな」


 あ!


「だから、俺は今回動かなかったのさ。ちゃんとてめえで裏を取れ、意味を考えろってな」


 そうか。ブンさんは所長から動員がかかる前に、もう依頼者や男の裏を取っていた。依頼がものすごくきな臭いことに、最初から気付いてたんだ。でも、それを所長に何も言ってない。ちゃんと現場に出ないと裏は取れないぞ! ブンさんは、腰の重い所長をど突くために荒療治に出たんだろうか? いや……多分そうじゃないな。

 今回の案件は、所長にとって完全な失敗だ。そして失敗したのは、推理の組み立てに必要な材料が足りなかったからじゃない。ほとんど所長室に篭ったままの所長には、依頼者や被調査者の心の動きを見通し、言動や行動に込められた意思や感情を読み取るチャンスが極端に少ない。人と対峙して、見える部分の後ろに何が隠されているかを探り出そうとする努力をしないんだ。ずばり、それが失敗の原因だろう。


 有能だけど血の温もりを感じない、冷徹そのものの所長。俺は、そういうところが大嫌いだ。それは俺にとっては『大嫌い』で済むが、社にとっては致命的な弱点になる。所長が、しでかした今回のヘマを単なる依頼チェックの甘さとして片付けてしまうと、また同じタイプのどじを踏む恐れがあるからだ。ちゃんと裏を、心理を読め! 心に踏み込め! 今回のブンさんの実力行使は、所長に届くんだろうか? うーん……。


 ゆさっ。突然ブンさんが立ち上がって、俺に指を突き付けた。


「操。白黒の向こうは一色じゃねえからな。それだけはよーく覚えとけっ!」



【第一話 白と黒 了】

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