第16話 山狩りレース
西根巡査の勤務する交番に県警の藤島刑事が来て、佐藤巌の聴取を取っていた。
「手紙の件で、俊晴に相談されました。問い詰めたら犯行を自供しました。自首を勧めたのですが、その時、巡回中の西根巡査が近付いて来たのを見て慌てた彼は、制する私を殴って逃走しました」
「どこを殴られましたか?」
「あの…後頭部です。後頭部を殴られました」
「あなたは彼を制していたんですよね」
「はい」
「後頭部を殴られる時は、彼の後ろ向きになっていたということですか?」
「確か…殴られた時は西根巡査を見てたと思います」
「制しながら西根巡査を見たんですか?」
「そのへんのところはよく覚えていません」
「病院へは行きましたか?」
「いや、たいした事はなかったので…」
「診断証明書がないと被害届は出せませんから、病院に行かれたらどうですか?」
「同級生なので被害届は…それより、彼は自暴自棄になっています。何をしでかすか分かりません。阿仁の山火事だって彼の仕業かもしれません」
「何故そう思うんですか?」
「同級生ですので、彼のやりそうな事は分かります」
「しかし鈴木俊晴さんはあなたに “昨夜の最終便で帰京した ” と仰っていたんですよね」
「電話ではそう言っていましたが、嘘かもしれません」
「どうして嘘を吐いたと思うんですか?」
「あいつは私を殺しに来たんです!」
「殺したい理由は何だと思いますか? 思い当る事とかありますか?」
「ありません! …したどもオレは
「ところで…昨日の山火事が起こった頃、佐藤さんはどこにおられましたか?」
「オレがどごに? オレを疑うんだしか?」
「いいえ、単なる確認のためです」
「オレは…あ、私は鬼ノ子村役場にいましたが?」
「どんなご用で?」
「公務ですので詳しくは申し上げられませんが…何なら役場のものに確認してもらったほうが…」
「手紙というのは…今、どこにありますか?」
「さあ…彼が持っているんじゃないですか?」
「…そうですか」
藤島刑事は沢口刑事と合流して、シカリの宿に向かっていた。沢口は、当時直属の部下だった藤島の反対を押し切って、シカリの宿の主・良三を逮捕した経緯がある。執行猶予が付くと思われたが予測に反し、実刑となってしまった。何らかの圧力が掛けられたという噂が村中に飛び交った。当然の成り行きで、沢口刑事はカマス側の人間と捉えられた。良三は一年半の刑務所暮らしを余儀なくされ、そのストレスがもとで収監中に体を壊し、刑期を終える頃にはシカリとしての復帰が不可能になってしまった。沢口と良三は、因縁の間柄なのだ。
普段あまり見かけないパトカーが、このところ立て続けに民宿の前に停まっている。その傍で主の良三と警察の人間が、またもや、ただならぬやり取りになっているのを不審に思って、近所の住民たちが集まって来ていた。婆様たちの強めの小言が始まった。
「おい、あの刑事…沢口の野郎でねが?」
「んだな…なして、良三さんにばり目くじら立でるんだべがな」
「まじな…土建屋がらして可笑しいものな。旅館の前の県道の舗装工事やる時も、昔からあった沢がらの堰ば潰してしまって、旅館の池さ、水ば入らねぐしてしまったものな」
「市に掛け合ったら、県に行げって言われで、県に行ったら、市に行げって “たらい回し ”されでる間に、工事が終わってしまったものな。したらどごも相手にさねぐなってしまって…池の鯉も次から次と死んでしまって…」
いつの間にか金治が居た。
「県知事の女房は、ろぐでもねえ女だでば…」
「金治さん、それを口に出したら駄目だ!」
「うるひえっ! この根性なし! まだ懲りねが、この負け犬根性のクソババア!」
「クソババアはねえべよ、金治さん」
「したら、ウンコババアが? いい加減に言いたいごとを言える人間になったらどうなんだ! その年になったら失うものはなんもねえべ。そのまま役立たずのウンコババアで死んでもええのが!」
「…それもそんだな」
次第に大勢の住民が遠巻きになり、良三と沢口のやり取りを伺がっていた。
「鬼ノ子山に逃走したとすれば、水も食料もなしで何日ぐらい持つでしょうか?」
良三は沢口刑事に笑って答えた。
「この時期は、どこの家より新鮮な山の幸と、きれいな水が豊富なのが鬼ノ子山だ。山を知ってる土地の者なら、飢える事はまずねしな」
「山狩りに協力してもらいたいのですが…」
「何のためだしべ?」
「殺人の容疑者を確保するためです」
「何遍も喋ってるように、この土地では、何があればこの土地でけじめっこ付けさせでもらう事になってるもんでな」
「容疑者の庇い立ては罪になりますよ」
「あじましぐねえ(穏やかじゃない)話っこだな。協力しねだげで罪になるえったら、今すぐ牢屋さ入れでもらうしかねしな。あんだは牢屋さ入れるのが得意だしべ」
藤島が険悪ムードになった会話の間に入った。
「良三さん、そういう意味で言ってるわげでねし。山を熟知してるあんだに捜査に協力してもらえねがど…」
良三は藤島の言葉を遮って奥に叫んだ。
「おい、これがら牢屋さ入るんて支度してけれ!」
妻の圭子は既に、風呂敷包みを持って立っていた。
「はい、行ってらっしゃい! 沢口さん、また主人を宜しくお願いします」
藤島刑事は困った顔をしたが、沢口は引かなかった。
「松橋さん、容疑者を庇っても、何の特にもならないでしょ」
「容疑者、容疑者って、そりゃあんだがだの考えで、私は俊晴が容疑者だどは思ってねし」
「これは警察の決定事項なんです。我々に協力するのは国民としての当然の義務でしょ」
「義務? 沢口さん…この村の者は、あんだ方みだいに、色眼鏡の損得で生ぎでる者は殆どいねんだ。罪を犯したがどうがもはっきり分がらねうぢがら、村の大事な若え衆の事を “容疑者 ”呼ばわりするあなた様に協力する義務は、残念ながら持ぢ合わひでねしな」
「本人の安全のためでもあるんです」
「本人の安全のために、当の本人を危険なほうさどんどん追いやるえたしか?」
「お気持ちは分からないでもありませんが、何とかご協力願えませんかね」
「この宿は、これまでも代々、事ある毎に役人様のためど思えば、村のひとだぢの反対があっても、宿を使ってもらって来たしども、今度ばりは納得の行ぐ話っこではねえので、これ以上話しても平行線だしから、宿泊以外の用でしたらどうがお引取り願えねしか? 私を捕まえるなら一緒に行ぎますよ」
「松橋さん…」
「協力してもらえるまで何度でも来ますよ」
「何度来てもらっても同じだしな。精々、クマに襲われねように気を付けでたもれ」
「それは私への “脅し ”にも取れますが…」
「沢口さん、今日はこれで失礼しましょうよ」
「・・・・・」
「松橋さん、今日は帰りますんで…もし、気が変わったら、なんとか…」
藤島は渋る沢口を促して帰っていった。
その日の夜、シカリの家にマタギ連と青年団が集まった。黒川夫妻も同席していた。笠原と成田は、良三の指示で二手に分かれて見張りに立っていた。
数本の一升瓶や茶碗が胡坐の前に置かれているが、手付かずのままで、皆、神妙な顔で良三の話に耳を傾けていた。日々、酒びたりの金治すら素面で鋭い眼光を放っている。囲炉裏では “なんこ鍋 ”がグツグツと音を立てていた。
なんこ鍋の “なんこ ”とは、この土地で古くから呼ぶ馬肉の事である。なんこ鍋の由来は諸説あるようだが、鬼ノ子村に伝わる説としては、阿仁六鉱山のひとつである三枚鉱山の伝説が最も有力なようだ。
長い間、作業の粉塵に曝されていた鉱夫の間に “ヨロケ ”と呼ばれる珪肺症が流行っていた。病気で働けなくなった大黒柱の鉱夫を抱えた家族が、打つ手もなく時が経っていったある日、夫の馬が沢に転落して死んでしまった。この地方では飼い犬も含めて、病死以外で亡くなった動物は、供養のために食べる風習があった。夫に馬の肉を食べさせたところ、日に日に元気を取り戻したという。馬肉に含まれるビタミンB2が回復の源になったのではと思われるが、この鉱夫の話が他の鉱山へと語り継がれ、馬肉独特の噛み応えや食欲をそそる薫りも好まれ、次第になんこ鍋が鉱夫達から民間にも重宝されるようになっていったようだ。
俊晴の父・富雄が全員の前でいきなり土下座をした。
「申し訳ねえ! こんちくたら(こんな)事になってしまって…申し訳ねえ!」
「富雄、ちょっと待ででば。こういう時は普段より冷静になねばならねって」
「そのとおりだ…したども、何だて一年以上も経った今頃になって、こんたら騒ぎになったえたべな?」
「阿仁の小沢の山火事も関係あるえったべが?」
「俊晴はまだ、なして今年に限って早く帰って来たんだ、富雄?」
「まだ家さ帰ってねんだ」
「帰ってねってが? …そえだば益々おがしいな」
「帰って来た足で巌ば殴って山さ逃げだって喋ってるども、なしてだべがな」
「俊晴は人ば殴るような子供ではねえ!」
「んだな。巌が嘘こいでれば後で分かる事だ」
「巌…俊晴に何がしたえってねが?」
「何がって何?」
「佐藤の家は代々根性悪だんてな…きっと何があったんだよ」
「東京がら来た若い衆が殺されだ事件だども、俊晴ど、どういう関係なんだがな」
「昨日、西根巡査が来て、おらえの息子が疑われでるたえに、連絡があったらすぐに知らせるようにって言われでたども、あいづはそんた事するような子供でね!」
「鈴木の父ッチャ、オレ達は誰もおめの息子が犯人だなんて思ってねたえに!」
「したども、巌にあんちくたら事して逃げれば、益々疑われでしまうべ」
「してねえがも知れねべ。巌はちっちぇえ頃がら “じほこぎわらし(嘘吐きな子供)”だったもの。ジェンコばら撒いで議員先生さまになったって、性根は変わるもんでねえべ」
「西根巡査は、巌が俊晴に殴られだの見だえったべが?」
「巌の話だがらな」
「あのわらし、やっぱりジホ(嘘)こえでるえってねが?」
「佐藤の息子だものな」
年代物の振り子時計の音が隣の座敷で響いている。それまで黙って聞いていた熊蔵が口を開いた。
「犯人はおまえの息子ではねえ…オレは見だんだ」
熊蔵の言葉に一同が息を飲んだ。はる子が思わず叫んだ。
「犯人は誰なんですか! 智弘は誰に殺されたんですか!」
「はる子!」
俊介は上気するはる子をたしなめるのが精一杯だった。
「奥さん…こごがら先の話は、あんだに取っては “しこたま(とても)”辛い話になるべども、落ち着いてしっかり聞いでたもれな」
熊蔵の一言で、場の空気が仕切り直しされた。良三は一同を代弁して、敢えて熊蔵に説明を促した。
「何を見だえった、熊蔵さん?」
「犯人が…東京の人ば…殺すどごだよ」
「なんで今まで黙ってだ?」
「マタギだば打ち損じないために、その時が来るのをじっと待つのが習性だべ。獲物が大きければ大きい程、慎重に待でねば駄目だ」
「獲物も大きいんだな」
「…んだ」
「その時が来たんだな」
「んだ!」
マタギは “巻き狩り ”という方法で狩りをする。15人前後で一隊を組み、それぞれの役割分担がなされる。複数の “勢子 ”が、沢に沿って尾根の方向から熊を追い詰め、その行く手で長時間待つ “ブッパ ”といわれる鉄砲撃ちがトドメを刺す役割だ。その一隊の総指揮を執るのが “シカリ ”と呼ばれるリーダーだ。彼らは、狩りのための入山前には必ず聖なる儀式を執り行う。山神様は醜女と伝えられ、その嫉妬を買うと不幸を招くとされるため、女人禁制となっている。一隊は入山前に山神様に詣でてオコゼを供物として捧げ、狩りの安全を祈願してから入山する事が、代々伝えられてきた神事となっている。
「犯人がわかった以上、警察が関わって面倒になる前に、この町の掟に従って何とかさねばなんねども…もう遅ぐねべが?」
「警察は明日の夜明げがら鬼ノ子山の山狩りらしいな」
「やっぱりな」
「誰がら聞いだ?」
「西根巡査が飲み屋の園ちゃんに漏らしてけだんだど」
「警察は両方がら山さ入るべが」
「片っ方の幸屋渡りルートがらだど」
「鬼ノ子村ルートは?」
「誰も警察の案内を引き受げねがったんで、西根巡査が仕方ねぐ幸屋渡ルートだったら何とかって引き受げだみでだな」
「根子の親戚にも頼みに来たってよ」
「断ったえたが?」
「人様の山には入るわげにはえがねってな」
「根子のマタギ衆は、昔っから律儀だがら、掟を守るためなら警察も糞も関係ねべ」
「結局、西根巡査ひとりが…」
「鬼ノ子村ルートはきづいものな、そりゃ西根巡査も楽なほうば選ぶべ」
「挟み撃ちされねで助かったな。こっちは鬼ノ子村ルートだな」
「警察より先に俊晴ば見つけねばならねな」
「見つけだらどうするべ?」
「逃がす…俊晴には熊蔵さんを付ける」
「したども、いづまでも逃げでもえらえねべしゃ」
「犯人を捕まえるまでだども、そんたに時間は掛げらえねな」
「警察に捕まえさせないのが?」
「警察? カマスの息のかかった警察が、カマスの息のかかった連中を捕まえるど思うか? 全部こっちで片付げる」
「鬼ノ子村の頂上で警察の連中に出くわしたらどうする段取りだ」
「警察の連中に付き合って、もたもた登るわげでね。やつらが頂上に着く頃は、我々はもういねえ。後の仕上げは金治さんに任せである」
「金治じっちゃ?」
「大丈夫だべが?」
「おい…」
金治の睨みは錆付いていなかった。その鬼気迫る一言は、伝説の男を髣髴とさせて一同を黙らせた。
金治は「三途の渡し守」と呼ばれたマタギの名人である。熊に襲われて何度も死線をさ迷った。仕留めた熊と一緒に三途の川を渡っても、金治だけは必ず戻って来たのだ。金治の顔の左半分は陥没している。山の主と云われた大熊にやられた古傷である。他にも古傷は多く、満身創痍の身が疼き、酒の力を借りるしかない日々を送っていたのだ。
「なんも心配いらね。金治さんは山神様の大のお気に入りだ」
そう言って良三は囲炉裏のオキにアクをかけた。
笠原が部屋に駆け込んで来た。
「来ました! 県警の刑事が!」
「やっぱり引っ返して来たが…良三さんの読みどおりだな。したらみんな、ええな!」
良三の号令で、今まで一口も手を付けていなかった “なんこ鍋 ”を急いでみんなの丼に装い、一同は一升瓶を回して体に掛け始めた。
「ほれ! 浴びるほど呑め!」
「でぎれば口から呑みてどもな」
「明日は山入りだ。臭いだげで我慢しろ」
衣類から板の間や座布団に沁みた酒で、部屋中が酒臭くなった。
「松橋さん! 県警の藤島です!」
玄関で藤島刑事の声がした。
「よし、藤島さんに上がってもらえ」
圭子の案内で藤島刑事と沢口刑事、そして西根巡査が入って来た。さっきまで整然としていた部屋の雰囲気も、只の酔っ払いでごった返した有り様になっていた。誰も藤島らの訪問に気付かぬ態で、思い思いに愚にも付かない理屈を戦わせていた。
「いやー盛り上がってますね」
西根が一同の注目を促した。
「これはこれは西根さん! まあまあ一杯やってけれ! 今夜は良三さんの送別会でな」
「どちらかへ行かれるんですか?」
「どちらもこちらも、牢屋だしべ。あんだだぢ、迎えに来てけだんだしべ。明日がど思ってだっきゃ、こんたに早ぐ迎えに来てけるどは、どうもどうも…西根さん、あんだも呑め! 良三さんが牢屋さ入ったら、暫ぐジャッコ(魚)釣りに行げねぐなるべ」
「さあさ、こっちさ、こっちさ!」
酒好きな西根巡査が思わず空気に吸われそうになったが、沢口らの手前、押し留まった。
「刑事さんだが! ええどごに来てけだ! まじは最初にオレの酒っこ受けでけれ」
「おい、助役! 順番が違わねが! PTA会長のオレが先だべ」
「PTAなんも関係ねべ! 僭越ながら、村を代表して助役の私が…」
「僭越だべ!」
「皆さん、今夜はどんなお集まりで?」
「んだがら、良三さんの送別会だよ。それど合わせて、黒川さんの歓迎会だ。こんたら寂しい町に引っ越して来てもらって有難くてな」
「刑事さんも引っ越して来てければええべ!」
「んだ、んだ!」
一同から大喝采の拍手が起こる。そのまま、刑事らそっちのけで各々の “討論会 ”が再開してしまった。沢口は話ができないと悟った。あきらめてその場を去るしかなかった。
「したら、おめだぢ! オレ、牢屋さ行ってくるがら!」
一同の “おーっ! ”という訳の分からない雄叫びを西根巡査が制した。
「なんもなんも、そういう事ではねんで。ただ、ちょっと寄らしてもらっただげだがら!」
一同はまた “おーっ! ”と叫んだかと思うと、てんでんに酔っぱらいの大騒ぎを再開した。
圭子が三人を玄関まで送った。
「うぢの人を連れに来たんでねば、どういうご用だったしか?」
「ええ…なんとか明日の山狩りのご協力をと思って、もう一度お願いに上がったのですが…」
「それは申し訳ねがたしな。あんなでは山狩りどごろの騒ぎでねしものな」
「お楽しみのところ、お邪魔してすみませんでした」
「お茶っこも入れねで…」
「いえいえ、こちらこそ突然に。では失礼します」
圭子は一同に丁重に挨拶して、車が発車するのを見送ったが、さらに宿の門まで出て行き、車が国道105号を北に遠ざかって消えるのを見届けた。笠原と成田が、県警の車のあとを追って自転車を漕ぐのが見えた。
「帰りました」
「見張るつもりだべが」
「笠原さんど成田さんが自転車で確認に出ました」
良三が厳しい口調で再び口を開いた。
「もうあまり時間もねえ。三時までに水垢離をとってシカリの家さ集まれ。その足で山さ入る。弘、今夜は弁天様さお参りするなよ!」
一同が大笑いした。
「山神様の祠に集まってがらは無駄口たたぐな」
そしていつもの狩りの前のように、掟とそれぞれの役割が伝えられ解散となった。
夜明け前の闇の中、鬼ノ子村ルートの入山口にある大山神社に参拝する良三以下。黒川夫妻も後ろのほうで見守っていた。干物のオコゼなどが神前に奉納され、この日だけシカリに復帰した良三が、マタギに伝わる呪文を唱えた。霧が漂うキンとした空気の中で、聖なる神事が完了した。
「山さ
統制の取れた一行の影が、風のように静かに山に同化していった。黒川夫妻は今まだはっきりとは見えて来ない真犯人が、鬼ノ子村の人たちの手で少しづつ追い詰められていると信じ、祈るような気持ちで一行を見送った。
日の出間近、マタギ一行に遅れて、県警・地元警察一隊が物々しい重装備で集まってきた。その一隊に加わって桜庭土建の社長・桜庭泰治郎とその部下達がいた。その中に荒木もいた。さらに佐藤巌がいる。笠原と一緒に遠巻きに見ていた成田が、荒木を指した。
「あの男!」
笠原が成田の指先を追うと、桜庭の隣りに荒木が立っていた。
「指を刺すな! …あの男がどうかしたか」
「黒川さんを襲った大男と一緒にいるところを見たことがあります。どこだったかな…」
「なるほどな…こうなると土建屋は真っ黒けだな。新庄もどこかに紛れてるはずだ」
静寂を破ってハンドスピーカーがキーンと鳴った。隊長が指示を出し始めると、近隣の民家の飼い犬が一斉に吠え出した。夕べも園子の店で飲み過ぎたらしく、二日酔いの西根巡査の案内で、幸屋渡りルートの山狩りが始まった。
日の出。俊晴は鬼ノ子山中で眠り込んで夢を見ていた…山菜採りで通い慣れた阿仁鉱山跡の前を通りかかった。久し振りの帰郷の時は山が懐かしくなって、実家から他の鉱山より近い、比較的に道が拓けているこの小沢鉱山近くに山菜採りに来るのが恒例となっていた。
山菜採りに来た俊晴は、めったに人の来ない小沢鉱山跡で話し声がするのを妙に思い、背が高くなった雑草を掻き分けながら近付いていった。鉱山跡の入口付近で、見掛けない連中が何やら立ち話をしていた。内容は聞き取れないまでも、ただならぬ様子に身の危険を感じて、とっさにその場に身を隠した。しばらく屈んで様子を伺っていたが、断片的に耳に入って来る “核廃棄物 ”という言葉が気になり、少しづつ身を乗り出しながら歩を進めていた。
俊晴はこの時、そうとは知らずに、桜庭土建・社長の桜庭泰治郎、県知事・西根伝蔵、県議会議員・佐藤喜久治らが話している核廃棄処理の利権をめぐる談合の現場を目撃していたのだ。
「…あれは巌の
この地域では、かつて隣村の杉神村・村長が独断で核廃棄物の最終処分場の誘致に名乗り出て、住民の激しい反対運動が巻き起こった過去がある。村長がなぜこのような思い切った判断をしなければならなかったのか…それは、暗礁に乗り上げて手の施しようもなくなった村の莫大な財政赤字にある。
政府は予てから全国の自治体に交付金を餌に処分場候補地の募集をかけていた。応じた自治体には年間約10億円という交付金が支給され続けるという条件だった。その甘い汁に誘われて、各地の財政破綻に追い込まれた自治体での動きはあったものの、住民の反対などで、どの自治体も未だ正式応募にまでは至っていなかった。そのため、杉神村・村長は財政再建の最終手段として誘致に名乗りを挙げたところ、村民の反対は勿論の事、最後は県知事の拒否権行使で幕を下ろされてしまったのだ。
もし現・県知事が拒否権を発動しなかったらどうなるであろう。一刻も早く処分場を必要としている政府は、直ちに処分場立地にむけて調査を指示し、報告書を作成させるはずだ。その報告書で “適地 ”となれば、他の鉱山跡も全て核の廃棄場候補に挙げられるに違いない。過疎化した住民の反対運動など、政府にとっては高が知れているだろう。原子力安全委員会は、この報告を了承し、地下処分に関する「安全」を宣言し、原環機構が処分事業を引き継ぎ、阿仁鉱山跡地の六ヶ所を埋め尽くすまで悪魔の贈り物が届き続ける事になるはずだ。
政府は核廃棄物の最終処分場候補地を自治体に公募するにあたり、核燃の『 我が国における高レベル放射性廃棄物地層処分の技術的信頼性 』という報告書を作成させている。核燃とは旧・動燃を指す。旧・動燃は高レベル放射能の廃棄研究とその処分を行う事業体であったが、当時、”処分 ”は原環機構が受け持ち、“研究 ”を核燃が受け持っていた。
原子力委員会と安全委員会に保証させた核燃の「研究結果に於ける安全性」とは、どんな説得力ある内容だったのだろう。核燃が政府に提出した報告書によると、人工バリヤは地下水などで1000年後には腐食し、放射能を隔離できないかも知れないが、天然バリヤがその後の生活環境への漏れだしを少なくし、被曝は許容水準以下にできるという。天然バリヤと人工バリヤの組合わせが日本に於ける「適地は有り得る」という結論に至っているが、在り得る適地がどこなのか、その報告書にはないという。
1000年後の事など誰にも分からない。増してや荒唐無稽な “保障 ”など何の意味もない。 “有り得る ”という表記は原発の誘致を受け入れた自治体同様、最終処分場誘致に関しても地元責任は当然であるという、万が一の場合の責任回避の臭いをたっぷり放っている。「適地宣言」が無意味である事は、政府をはじめ誰もが分かっている。一旦放射能被害が発生すれば、対策はほぼ不可能である事も明らかだ。
財政難に追い込まれた自治体が子孫の安全を犠牲にしてまで得たものの正体が、いずれ恐ろしい結果となって表面化する現実が待っている。先人の過ちは、その子孫が何代にも渡って打つ術もなく、ひたすら消え去るのを待ち続けるしかないのである。阿仁鉱山跡から漏れた放射能によって、住民が被曝する道程は簡単に想像が付く。鉱山跡の周囲の浅い滞水層に溶けだした放射能水が、地面や川を汚染していく。農地や観光地で知らずに被爆していた事が暫くしてから公になり、完全に手遅れになってから、以後永年使用禁止などと尤もらしい政府発表がなされる事になるだろう。1000年を待つまでもなく、核廃棄物の移送中にも起こり得る事故のリスクも背負い続けなければならない。やがて先人の危険な選択の犠牲となった子孫たちが、国を相手に不毛の訴訟を起こし、そこで初めて先祖の愚考を憎む事になるかもしれない。それでは何もかもが遅過ぎるのだ。
桜庭らとは少し距離を置いて立っていた二人の暴力団風の男の片方が、人の気配に気付いた。
「誰かいる!」
俊晴は思いの外、彼らの近くまで歩を進めてしまっていた。見つかったと息を飲んだ。だがその男は、俊晴の位置から斜め下方の立ち入り禁止の廃坑内に入って行った。どうやら見つかったのは自分ではなかった。俊晴以外にも様子を伺っていた者が廃坑内に潜んでいたらしい。
暫くしてひとりの青年が引きずり出されて来た。俊晴はあっとなった。引きずり出されて来たのは、千恵子と大学同期のあの智弘だった。
「なぜあいつがここにいる!」
桜庭の指示で、智弘は有無を言う間もなく暴力団風の二人に山中に連れ去られた。その時、一瞬ではあったが俊晴は智弘と目が合った――気がした。オレはなぜ助けようともしない――自問自答のまま俊晴は固まってしまった。
俊晴は目が覚めて跳ね起きた。
「・・・・・!」
追っ手の気配に気付いた。一旦は松森神社から鬼ノ子山中に逃げた俊晴だったが、頂上の御堂で一眠りしてから打当(十二段トンネル辺り)経由で人気のない十二段峠に抜けようと、鬼ノ子村ルートの下山を予定していた。
良三ら一行は、最初、鬼ノ子村コースを登っていたが、俊晴の痕跡がないため、途中から幸屋渡ルートへの二手に別れることにした。俊晴の父・富雄と金治が鬼ノ子村コースから急峻な山中を横切って幸屋渡ルートに移った。しばらくすると遥か下方に県警の一隊が俊晴の逃亡の痕跡を捉えて進んでいるのが分かった。
「ど素人どもが…犬っこ連れでねふて助かったな」
富雄らは急いだ。後ろの金治は、折った枝葉を腰に結わえ付けて引き摺り、足跡の痕跡を消しながら登っていった。県警よりかなり早くに幸屋渡ルートに入ると、僅かにスリップした足跡を発見した。山用の靴跡ではない…
「きっと俊晴だ!」
俊晴は鬼ノ子村ルートを下り始めていたが、すぐに包囲網が迫っていると気付いた。急いで一旦戻って幸屋渡ルートに変えてみたが、そっちも人の近付く気配がし、完全に包囲されたと思って観念し、覚悟を決めて御堂に戻った。
「もう駄目か…」
御堂の中に入り、気怠く座り込み、包囲の人気が近付いて来るのを待った。昨夜、暗がりの中で夜を明かした御堂の中をしみじみと眺めた。小学生の頃と変わっていない。しかし、神棚に祭られた金棒と鉄の下駄は、錆が錆を生んで実に質素なものに変貌しているし、子どもの頃のイメージからすると堂内もかなり窮屈で、全体がミニチュアになったように思える。自分が大きくなったのだから仕方がないが、あの頃は休みの日や土曜の放課後に、急斜面を平気で登って遊んだものだ。千恵子とも何度か競争で登ったことがある。堂内でままごとをしたこともあった。神棚の三宝を飯台に、皿や御酒壺を食器にして夫婦ごっこをした。千恵子に「夫婦だからキスするべ」と寄って来られたので、枯れた榊で思いっきり引っ叩いて泣かせたこともあった。なぜこんなことになってしまったんだろう…と、その時、俊晴は根子集落に下りる獣道があった事を思い出した。熊が出るからと親に禁止されていたルートだ。一回だけ下りたことがある。山ブドウの宝庫だった。ごっそり獲って家に帰った事ですぐにバレてしまい、父親にえらい怒られた事を思い出した。裏ルートから逃げようと御堂から出ようとした時、誰かの足音がした。俊晴は観念した。御堂の扉が静かに開いた。現れたのは俊晴の父だった。
「父さん、なして…!」
「俊晴…」
富雄が安堵の声を掛けた。父のその顔に、俊晴は一気に孤独から解放されて胸が詰まった。間もなく良三ら一行も現れた。
「父さん…オレでねえ…」
「みんな分がってるがら、何も喋らなくてもええ」
「あどは我々に任ひろ」
「連中は幸屋渡ルート一本でこっちに向かってる。あど20分ぐれでここに着ぐべどもな」
「ド素人が…あれだばウサギ一匹獲れねべ」
「熊蔵さん、予定どおり遠回りだども、この裏山を下りで、様の下経由で二の又さ抜げでけれ」
「分がった…さ、俊晴、急いで行ぐど!」
熊蔵は俊晴を連れて御堂の裏ルートを下り始めた。
「富雄、おめえは警察に見られねえように、途中まで熊蔵さんと一緒に下りで、急いで家に戻れ。警察が来てるべども、おめえは二日酔いで寝でるごどになってるべんてな。あどの者は根子に渡って次の準備だ。弘、おめえはシンガリを務めろ」
「はい!」
「散れ!」
一行は幸屋渡ルートを外し、それぞれのルートに消えていった。弘は自分らの痕跡が残っていないかを確認し、シカリに挨拶して一行の後を追った。それを見送ったシカリは警察隊が近付く気配を察知すると、黒川夫妻の待つ大山神社への良三独自の最短ルートに消えた。
幸屋渡ルートを登って来た警察隊が頂上に辿り着き、御堂を包囲した。御堂の戸が開けられた。男が寝ている。
「鈴木俊晴、おまえを逮捕する」
男はぴくりともしない。沢口刑事が男を覗き込んだその時…
「それだばでぎねな」
寝入っていると思った男の一言に、沢口は仰け反って驚いた。金治だ。
「えー気持ぢで寝でらどご起ごさねでけれ」
「鈴木俊晴をどこに匿っている!」
「俊晴? 俊晴だば東京さ帰ったえってねが?」
西根巡査が間に入って来た。
「金治さん、正直にしゃべってけねべが」
「大変申し訳ねえごどをしました。神棚の酒っこを全部呑んでしまいました」
「酒っこはええがら、俊晴はどした?」
「御堂の中ば隅から隅まで探ひばええべ。一間しかねんて探しやすいべ」
巌が金治を怒鳴った。
「犯人隠匿になるぞ! 俊晴ば、どごさ隠した、じっちゃ!」
「俊晴が犯人だってな? 巌、この “じほこぎわらし ”が…」
「どういう意味だ!」
「その意味は、おめえど、そごのお役人さん方が詳しく知ってるえってねが? 東京がら来た人を殺したのは、あんだがだっていう専らの噂だべ」
「何を言ってる!」
藤島刑事が敏感に反応した。
「どういう事ですか…詳しく説明してもらえませんか」
「詳しくも何も、その酔っ払いのデタラメを信じるわけじゃないでしょうね、刑事さん」
威圧的な桜庭の言葉に藤島刑事は強く反応した。
「桜庭さん…それは双方のお話を伺ってから決めさせてもらいます」
金治が桜庭を指差した。
「人殺しを命令したのはその男…」
「でたらめ言うな!」
「おい、桜庭…誰に踊らされでるえた? どごの雌猫に尻尾振ってる?」
「どごまでも “はんかくひぇ ”ジジィだごどな。俊晴ばどごさ逃がした!」
桜庭が怒鳴るのに構わず、今度は荒木を指差した。
「人殺しをしたのは、そっちの男だ…あれ、もうひとりは居ねぐなったみでだな」
「もうひとり?」
藤島刑事を遮って巌が口を挟んだ。
「この “酒つぐり(アル中) ”が! 誰がおめの言う事を真に受げる!」
巌の言葉に金治が豹変して立ち上がった。
「巌…誰さ、もの喋ってる…ええ気になるな、この罰あだり! 年寄りだど思って甘ぐ見るな!」
巌は今まで見たこともない金治の形相に怯んだ。
「馬鹿さ付き合いきれね。別の方を探すべ」
「いや、今日の捜索はここまでにします。目星を付けた場所に居ない以上、対策を立て直さなければなりません。皆さんには一応、署でお話を伺いたいこともあります。捜索も範囲を改めた上て行いたいと思います。下山します!」
「ちょっと刑事さん!」
金治が沢口刑事を呼び止めた。
「下山のドサクサで逃げるやぢらが居るがもな。今捕まえねば、あどで面倒臭え事になるべな。ま、逃がす気だら関係ねべども。用がねば寝がしてもらってもえべが」
「いや、あなたにも降りて頂きます」
「それまだ、なして?」
「先程の続きを伺いたいので」
「続き? 続き聞きてば酒っこだでば」
「いいでしょう」
「話の分かる刑事だな、したらさっさど行ぐべし」
下山が始まった。もたつく警察隊を尻目に金治の足元は俊敏だった。
「のんびりしてれば熊出でくるがもな。急いだほうがええど」
警察隊は足元が乱れた。三分の一程下りた辺りで、後方で下山していた荒木が、斜面を逸れて転げ落ちるように逃亡を始めたのが見えた。金治が叫んだ。
「ほら、人殺しが一匹逃げだど!」
警察隊一行が藤島の指示で怒涛のように斜面を崩れながら荒木の後を追った。
熊蔵らの一隊が山を出ようとすると、鬼ノ子神社の横にパトカーが一台停まり、数人の警官が立っていた。
「熊蔵さん!」
「えんて、このまま待ってれ」
熊蔵は俊晴と神社の裏に潜んだ。
鬼ノ子村は毎月5の付く日が市日である。内陸線沿線には量販店がない。定期的に能代や大館、鷹ノ巣から業者がやって来て市が開かれ、住民はそこで食料や衣類・雑貨を調達していた。神社の境内に幌付きの大型のトラックがバックで入って来た。
「お巡りさん、荷物降ろす間、車出してでけねしか?」
警察は仕方なく前の道路にパトカーを移動した。トラックは “市 ”の荷物を神社の境内に降ろして出て行った。荷物の依頼者らしき人たちが数人来て、自分の荷を確認して市屋台のほうに引き取って行った後、パトカーは再びトラックと入れ替わって境内に陣取った。
トラックは町はずれの鬼ノ子村小学校の新校舎と隣接する老人ホームの前で停まった。荷台から熊蔵と俊晴が降りて来た。
「西根さん、どうもな」
「なんもなんも、したら気を付けでな」
そう言って、援軍の西根オートのトラックは急いで去って行った。熊蔵と俊晴は老人ホームの裏の田圃の畦道を通り、様の下に下りて行った。川沿いを経由し、山伝いを越えて僅か半日程度で安の滝に至っていた。慣れた人間でも一日は掛かるが、マタギの足は一般人の常識では考えられない力を秘めている。幼い頃からそうした大人の中で育った俊晴も、初めのうちこそ息を上げていたが、熊蔵の背中を追ううちに感覚が戻って、なんとか付いていけるまでになっていた。
陽が傾き始めた頃、低く唸る水の音が聞こえて来た。斜面を登り続けていた熊蔵の足がやっと止まった。じっと聞き入っている熊蔵の耳には、まだ滝の周りに残っている数人の観光客の気配が届いていた。日没間近は熊などが餌を求めて出没して来るため危険になる。夕方4時を過ぎれば、観光客の足は絶える。熊蔵達は観光客がひけるまでの間、このまま山中に潜む事にした。常時携帯している虫除けの線香を焚き、杉の枯葉で座る場所を作った。獣から背後を守るため、二人はそれぞれに樹木を背にして座った。間もなく俊晴は軽い寝息を立て始めた。
熊蔵達が向かったこの滝は、一般の観光の場合、内陸線の十二段トンネルを抜けた最初の駅・打当温泉駅が最寄である。駅から車で山道を30分程入ったところに駐車場がある。そこから徒歩で沢伝いに40分程登ったところに目指す滝がある。しかし、熊蔵達は警察の張り込みの外側の、到底一般人の知る由も無い鬼ノ子川沿いのルートを辿った。標高800メートルに位置するこの中ノ又渓谷「安の滝」は、落差約90メートルの二段滝である。上段が落差約60メートル、下段が落差約30メートルである。安の滝を挟んで左右にも滝がある。向かって左側には、全国にも多くある名称だが “白糸の滝 ”と呼んでいる。平らな岩肌を湿らす程度の細い水量である。右側にも滝があるが、普段は只の岩肌でしかない。集中豪雨などの後に稀にその流れを見る事が出来る名もない滝である。安の滝の上段には深い滝壺があり、かつては下段の左側から一般の観光客でも、ロープ伝いの急勾配ではあるが徒歩で登ることができた。誰が詠んだのか『大仏が横におわす安の滝』という句がある。上段の滝の流れる岩が、まるで大仏が横向きになって合掌しているような形に見えるのだ。滝の左側の岩肌には、人工的に削り彫られた小さな祠があり、中に不動尊が祀られている。また滝の右側にも不動尊が祀られているというが、一般の観光客には危険なため容易に目に触れる事は出来ない。
「起ぎれ、俊晴。人が居ねぐなった」
俊晴はスッと起きて熊蔵の後に従って斜面を下りた。上段の滝の岩場に出ると、俊晴は真っ先に滝の水を飲んだ。
「腹減ったべ、これさ水汲んで来てけれ」
熊蔵はすぐに携帯して来た鍋を俊晴に渡し、火を起こした。俊晴が鍋に滝の水を汲んでいる間に、リュックから使い古した数本の杉の串を出した。その串に冷えた握り飯を手際よく巻いて棒状にし、火の起こる鍋の周りに刺した。
「焦げねように見でろ」
そういって熊蔵は滝の上に通じる岩肌を登って急峻な雑木林に入って行った。パチパチと身を裂いて燃える芝を見つめながら、俊晴はすぐにまたうとうとしながら忌まわしい一年前の記憶に引き摺り込まれていった。
誰か若い男が、低木に足を絡まれながら息を上げて逃げていた。追い付いた暴力団風の男が、その男の背中を鷲掴みにして地面に叩き付けた。肺を思い切り打ったのか、若い男は苦しそうにもがいた。暴力団風の男は持っていたサバイバルナイフを出し、男の襟首を掴み上げた。
「誰だ、おまえ」
智恵子の恋人だ。俊晴は思わず声を上げそうになった。智恵子の恋人がなぜここにいるのか…それより今、自分は何をしなければならないのか…このままではまずい事だけは分かるが、俊晴の頭は鉛のように回転しなくなっていた。
「ここで何してた」
「か、観光で…」
「観光?」
「廃鉱を見に…」
「廃鉱のマニアか」
「はい」
暴力団風の男らが目を合わせ、次の瞬間、智弘の頚動脈を一瞬にして切った。智弘の首から千恵子とお揃いのロケットペンダントが飛んで草叢に消えた。
「あのペンダント !」
暴力団風の男はそのまま智弘の襟首を持って引き摺って行った。引き摺られる智弘の目が、怨めしそうに自分を見ているような気がして地面に頭を伏せた。頸動脈が一瞬に切断される映像が何度もフラッシュバックして、激しい嘔吐に見舞われた。
柴がはじける音で俊晴は我に返った。火が細くなっている。少し太めの流木をくべながら、あの時、なぜ出て行って智弘を助けようとしなかったのだろうと自分を責めた。もし智弘が千恵子の恋人でなかったら出て行ったのではないだろうか…つまらない嫉妬が人一人の命を犠牲にしてしまった。その後悔の念で俊晴はこの一年間苦しんで来た。自分はなんて臆病で卑怯な人間なのか…千恵子の苦しみを招いた己をずっと恥じてきた。もうこの土地に帰って来る資格などない。脱力感で涙が出そうになった。熊蔵が山菜を抱えて斜面を下りて来た。
「 “あいっこ ”ぐらいしかねがったども、なんもねえよりはましだ」
湯が煮立ち始めていた。熊蔵は解いた荷から竹に包んだ鶏肉の味噌漬けを出して鍋に放り込んだ。
「腹減ったべ、俊晴…すぐ出来っからな」
熊蔵は、あいっこを一縛りにして、白糸の滝の岩床を伝う清水の通り道にさらした。串で焼けた飯をちぎって鍋に加え、清流にさらしたあいっこもその中に加えた。俄か作りのきりたんぽ鍋が次第に煮え立って来ると、肉を包んでいた笹で、浮んだ灰汁を払った。熊蔵は、傍に生えているフキの葉で作った器に、湯気の立った熱々のきりたんぼを装ってお不動様に供え、何やら呪文を唱えると再び恭しく押し頂き俊晴に渡した。
「喰え、俊晴。東京で腐った性根を、これ喰って洗い流せ」
俊晴は正座してその器を受け取り、一礼してから黙々と食べ始めた。山中は陽が落ちてからは辺りが闇に包まれるのが早い。闇にゴーッと唸る滝の音で自然に対する畏怖の念に襲われっぱなしだったが、それに慣れる頃、半年ぶりの古木の燻る香りに身を包まれていると、やっと俊晴に安堵が訪れた。火の温もり、揺らめく炎、時折弾ける芝の音が、自然の畏怖を和らげてくれる。自分も千恵子の悲しみに対して、そうあらなければならなかったはずなのに、あのざまは何だったのか…自分が智弘の身代わりになれば良かったのかもしれない…
「殺された東京の人は…名前、何て言ったがな」
「黒川智弘さん…だしか?」
「オレも見だんだ…偶然だどもな」
「え?」
「見だんだよ、その人が殺されるのを…」
「・・・・・!」
「おめのせいではねべ、俊晴」
俊晴は一気に涙が溢れた。もう号泣を押えられなかった。
「自分ばり責めでも、その人が浮かばれる訳でもねえべ…オレにだって何もでぎねがった。おめの気持ぢは…分がるよ」
小沢鉱山跡の山側から下りて来た熊蔵が、動物の気配に身を隠した。廃坑内から出て来た青年が低木に足を絡まれながら息を上げて逃げている姿を、山側の草むら越しに確認できた。その青年に追い付いた暴力団風の男が、背中を鷲掴みにして地面に叩き付けた。持っていたサバイバルナイフを出し、男の襟首を引き上げた。
「誰だ、おまえ」
熊蔵が腰のナガサに手を掛けたその時、反対側で声を上げそうになっている俊晴を見付けた。熊蔵は一瞬迷って男に襟首を掴まれた青年に視線を戻した。
「ここで何してた」
「か、観光で…」
「観光?」
「廃鉱を見に…」
「廃鉱のマニアか」
「はい」
次の瞬間、暴力団風の男は智弘の頚動脈を一瞬にして切った。そのまま智弘の襟首を持って引きずって行った。
「おめだげでね…オレにもどうするごどもでぎねがったんだよ」
焚き火に照らされた俊晴の顔が歪んで震えていた。突然、俊晴は嘔吐した。
「あの時もおめえはそうやって吐いでだな。オレだぢにはどうする事も出来ねがった。出でったら、おめまでやられでる。なんも助けるどごの騒ぎでね」
「出でげばえがった…やられでも出でげばえがった。千恵子の悲しむ顔は見だぐねがった」
「おめらは幼馴染だものな」
「・・・・・」
「東京がら来た人には気の毒な事になってしまったども、真犯人は分がってるがら、こうなったら、この村のやり方できっちり罪の償いばさひねばならね」
熊蔵は立ち上がり、空になった鍋に滝の水を汲んで俊晴の吐いた辺りを流した。
「こごは神様の場所だがら、汚したら綺麗にさねばな。これでおめの穢れも全部外に出だべ」
「あいづ、殺される時、何を考えでえだえったべ…あんな哀しい目っこして…」
辺りはすっかり闇に包まれた。炎の揺れが過去と現在を不安定に交錯させる。
引きずられる智弘の脳裏に千恵子の笑顔が浮かんだ。黒川智弘は工学資源学部を専攻する廃坑マニアであった。同じ大学の生物生産学部に通う松橋千恵子とは、二年前に知り合った。智弘は大学院に進むことになっていたが、千恵子は卒業するため、今年は二人が大学キャンパスで共に過せる最後の春休みとなった。一度、千恵子の故郷を訪ねたいと思っていた智弘は、思い切って列車に乗った。千恵子に会った後で6箇所の阿仁鉱山跡も踏破しようと予定を組み、最初の目標を小沢鉱山に定めていた。廃坑跡のファンは少ないが、減少することもなく静かなブームとなって定着している。小沢鉱山が阿仁鉱山のうちの最初に開かれた鉱山ともなれば、智弘の足が他の鉱山を置いても先に向くのは当然の事で、究極に運が悪かったとしかいいようがない。智弘は引き摺られながら、顔が擦れる雑草で傷付いていった。しかし心は何故か幸せに溢れていた。
「宝…宝だ! ぼくはここでやりたいことができた。ぼくにとってこの雑草は、千恵子さんとの幸せに繋がる宝なんだ!」
智弘の脳裏には、千恵子の笑顔が広がった。そしてその笑顔は次第に白く消えていった。引きずられる智弘の顔は、もうこの世のものではなかった。
暴力団風の男らが遺体を引き摺って姿が見えなくなった静けさを突いて、草むらで嘔吐する俊晴が見えた。
「ちきしょう! ちきしょう!」
俊晴は声を殺して嗚咽しながら、何度となく拳を地面に叩き付けた。ひとりの命を見殺しにしてしまった後悔が重く圧し掛かって動けなくなってしまった。このまま自分の体が地中深く沈んで土になってしまいたいと思った。
「千恵子はな、あの後、自殺を謀った」
「・・・・・!」
「千恵子はこごで死ぬどごだったんだ」
「こごで!」
「滝さ飛び込もうどしたえってねべが。シカリのじっちゃが泣ぎながら沢さ登る千恵子に追い付いで助かったんだ。千恵子は充分苦しんだんだ」
熊蔵の言葉に、俊晴の感情がコントロール不能となって堰を切った。
「泣きてえ時は泣けばえ…」
熊蔵は俊晴の悲しみが治まるまで、芝で焚き火の炎を繋ぎながら待った。
「おめが千恵子の事ば嫁っこにしたがったのは分がってらえた。東京がら来た人の事で苦しがったべ事もな」
「・・・・・」
「したどもな、俊晴…ほんとに好きだ女だったら、結婚なんか出来ねくたって、遠くがらでも守ってやればええってねべがな」
「・・・・・」
「結婚しても、下手すれば女房を世界で一番不幸なおなごにしかねねよ」
「・・・・・」
「オレはあの後…」
熊蔵は「ちきしょう! ちきしょう!」と声を殺して嗚咽しながら何度となく地面に拳を叩き付ける俊晴に声を掛けようとしたがやめた。智弘の死体を引き摺って行く暴力団風の男らの後を付けた。藪の中の窪んだ場所を見付けた連中は、智弘の死体を投げ込み、周囲の枯れ枝や草を持って死体を完全に覆った。その後も熊蔵は連中を付けて行くと、暴力団風の男らは小沢鉱山跡の入口で待つ桜庭達と再び合流した。
「遅がったな、どうした!」
暴力団風の男のひとりが桜庭に耳打ちした。桜庭は動揺して県知事の西根伝蔵に何やら告げると、西根は大慌てで車に乗り、去って行った。残った佐藤親子も続いて去ろうとすると桜庭が呼び止めた。
「万が一の時は、あんだらも共犯だどいう事を忘れねでけれな。誰も何も見猿、聞か猿、言わ猿だ」
県知事の車は小沢鉱山跡を離れ、県道から国道105号に抜けて猛スピードで鷹巣方向に向かった。俊晴が国道に辿り着いて阿仁合駅に向かおうとした時、桜庭の車と佐藤の車が、県知事と反対の鬼ノ子村方向に向かって通り過ぎて行った。運転席の佐藤巌が俊晴の後ろ姿に気付いて「・・・?」となった。バックミラー越しに遠くなる俊晴を伺うと、一瞬、こちらを見て立ち止まった。巌は “ハッ ”となって慌ててバックミラーから顔を逸らした。
安の滝がほんの少し明るくなった。月だ。あと数日で満月のような月が滝の上に輝いていた。その同じ月下の山中を、必死になって逃げ潜む荒木がいた。彼は暗くなるのを待って、潜んでいた熊の冬眠用の穴から抜け出し、細い山道に出ていた。荒木の背後に男が立った。気配を感じて振り向いて荒木はアッとなった。
「ドジ踏みやがったな」
「殺しを見られたらしい!」
「らしいな」
「どうする?」
「サツは捜索の範囲を拡げるだろう。こうなったら、その前に村からずらかるしかねえ。てめえが間の悪いズラかり方をするからこんなことになる!」
「・・・・・」
二人は山を下りて行った。その山道の先にはマタギ神社がある。マタギ神社の前では黒川夫妻が一行を案じてまだ帰らずに待って居た。
「皆さん、ここを通るかしら。別の道からもうお帰りになったんじゃないかしら」
「いや、誰かは必ずここを通って山神様にお参りして帰るはずですよ。皆さんが智弘のために頑張って下さっているのに、私達だけ帰るわけにはいきません。もう少し待ちましょう」
「そうよね、そ…」
突然、はる子が震え出した。
「どうした? 寒いのか?」
「あなた…怖い!」
はる子の様子に俊介はあの時と同じだと思った。
小沢鉱山跡…藪の中に潜んでいる黒川夫妻の目に新庄の姿が映っていた。
「誰かしら…」
新庄が廃鉱跡を見回していた。少しして手招きすると、桜庭建設の車が黒川夫妻の視野に入って停まった。
「どうしよう、あなた…」
「しっ!」
荒木が降りて来て、新庄と何やら話している。
「松橋さん、気付いてくれたかしら」
「黙って!」
男らの姿を見ていたはる子が、突然ガタガタと震え出した。
「もう一回蔓を引っ張ってみる?」
「落ち着きなさい…もう少し様子を…」
俊介は尋常じゃないはる子の震えに戸惑った。
「どうした、はる子?」
「分からない、震えが止まらない…」
「来る!」
二人の男が黒川夫妻の潜む藪のほうに真っ直ぐ近付いて来た。
鬼ノ子村ルートの山道を下りて来たのは新庄と荒木だった。
「あなた…」
俊介も人の気配に気付いた。
「皆さんが帰って来られたようだ!」
「待って! 隠れて、あなた!」
はる子は迎えに出ようとする俊介をマタギ神社の御堂に強引に引っ張った。
「この神社の中は女人禁制だよ、はる子!」
「あとで神様に許してもらうわ、早く!」
二人は御堂に隠れ、足音が通り過ぎるのを待った。新庄らが御堂を通り過ぎて山を下りて行った。黒川夫妻は格子に首を伸ばして二人の後ろ姿を窺った。
「…あの男…」
荒木が何気なく御堂を振り向こうとしたので、黒川夫妻はとっさに身を伏せた。荒木は御堂をみつめたまま立ち止まった。
「どうした?」
「何だ、あのボロ屋は?」
「ただの神社だろ」
「誰かいる」
「猫でもいるんだろ」
「いや、人だ…あの格子から誰かが我々を覗いていた」
「何だと!」
新庄らの会話に黒川夫妻は身を硬直させた。容赦なく男らの足音が近付いて来る。はる子の震えが更に激しくなり、呼吸も乱れた。
「来るわ」
「・・・・・」
「殺される…智弘もこうやって…」
「落ち着くんだ、はる子…智弘が守ってくれる…」
「智弘…助けて…」
はる子はいつも持ち歩いている智弘の写真を、上着の内ポケットから出して両手で抱きしめた。
〈第17話「事情聴取」につづく〉
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