第15話 迫る危険
深夜、黒川邸で懐中電灯のあかりが不審な動きをしていた。はる子は忍び寄る影の気配に目を覚ました。
「あなた…あなた…」
俊介は既に目覚めていた。
「静かに…」
「誰かいるわ」
「…ああ」
斧を握った軍手の影が寝室に近付く。襖が静かに滑る。黒川夫妻は緊張に寄り添った。斧が振り下ろされ、闇に羽毛が舞った。手応えのない怒りで乱暴に掛布団を蹴飛ばした影は、軍手を脱ぎ、敷布団の温もりを確かめ、気配のする台所を見定めた。
隣接する廃屋のガソリンスタンドで寝込んでいた成田は、鈍い音に目を覚ました。黒川邸に危険が迫る可能性があることは、前以て笠原から聞かされ、何かあった時にはすぐに知らせるように言われていた。成田は塒を出て笠原の居る公園に助けを求めに向かおうとしたが、ガラスの割れる音でただ事ではない事を悟った。意を決した成田はひとり黒川邸に忍び込んだ。
勢い放物線を描く斧によって茶箪笥が破壊された。黒川夫妻は恐怖に引き攣りながら台所から続く農機具小屋に逃げた。農機具小屋にはまだ解いていない引っ越しの荷が積まれている。戸を閉め、急いでその荷を戸口に積み上げた。破裂しそうな心臓に、必死に息を送りながら、智弘の仇を討つまでは絶対に死ねないと思っていた。自分たちを襲ってきたのはその仇かもしれない。ついに仇が来たかと思うと、恐怖より復讐心が勝った。殺されても殺してやる…今まで抱いたこともない強い殺意が、黒川夫妻の腸に噴出した。
成田は恐怖に震えながら黒川邸の闇を這っていた。この感覚はかつて駅で何者かに襲われて以来のことだと思いながら、その時に助けてもらった恩返しをしなければと、自分を奮い立たせた途端、暗闇の中で電話につまづいてしまった。とんだヒーローだ。心が萎えそうになりながら、兎に角手探りで外した受話器を元に戻した。そのあとの静寂は息が止まるほど苦しかった。目の前に気配を感じた。すぐそこに居る…全身にゆっくりと鳥肌が拡がった。自分はここで死ぬかもしれない…伏せた体制の首にスルスルっと何かが巻かれたような…猫だ…猫が体をこすってきた。ホッとする間もなく奥で戸を破壊する打撃音がした。
ドーンと戸口の荷物が崩れ、影が現れた。
「あなた、窓!」
はる子は小屋の奥にある小さな窓を指した。俊介は開けようとするがビクともしない。影は目の前に立っていた。
「悪いが死んでもらう」
はる子はとっさに、窓の横に立て掛けてあるスコップを握り、強引に影に向かって突き刺した。ウッと呻いて影は膝間付いた。
「私に貸しなさい!」
俊介が受け取って大上段から影に振り下ろした。寸でのタイミングで交わした影がゆっくり立ち上がった。
「もう充分生きたろ」
「だ、誰なんですか、あなた!」
「誰でもいい」
「どうせ殺されるなら誰に殺されるかぐらい知りたいわよ! 名前を名乗りなさい!」
「うるさい! 黙って死ね!」
「な、なんのために私たちを!」
「あんたらにここに住まれては困る人がいるんでね」
「困る人? あなたはその人に頼まれたんですね。誰に頼まれたんです?」
「ここで死ぬんだ。誰でもいいだろ」
「殺されたって、その誰かを突き止めて呪い殺してやる」
「今死ぬんだ、もう終わりだ!」
影の斧が振り上げられたその時、猫が飛んできた。成田が咄嗟に犯人に向かって猫を投げたのだ。影がひるんで猫にてこずる隙を突き、黒川夫妻はスコップで窓を壊して外へ脱出した。
成田は “猫弾 ”を投げた後、急いで電話機に戻ってそっと110番を要請した。
「も、もしもし…」
「こちら110番です! 事件ですか? 事故ですか?」
「じ、事件、事件…」
「よく聞き取れませんのでもう少し大きな声でお願いできますか?」
「それは…まずいから…」
「もしもし? 大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないから電話…そんなことより、大きな声はまずいから…」
成田の声を嗅ぎ付けたのか、影はターゲットを成田に移して近づいて来る気配がした。成田は焦った。
「もしもし、どうしました? 大丈夫ですか?」
「だから、大丈夫じゃないから電話してんだよ…」
「もしもし?」
「急いで来て!」
「もしもし! もしもし!」
影が入って来て電話機は破壊されて砕け散った。成田の姿は消えていた。
黒川夫妻は廃屋スタンドとの間の狭い路地に飛び出した。
「どうする、あなた」
「兎に角、ここから離れないと」
家の前の道路に逃げようとした俊介の足が止まった。
「隠れて!」
「どうしたの?」
二人は軒下に這いつくばった。俊介の視線の先に外車らしき車が不自然に停車していた。
「おかしいと思わないか?」
「なにが?」
「家が離れて点在している町なのに、道路に車を停めるか…」
運転席で小さな炎が光った。
「中に人が居る」
「あなた…」
「裏に引っ返そう」
暗闇の廃屋スタンドの路地を、手探りで戻る黒川夫妻の頭上で、窓ガラスが炸裂した。はる子はとっさに手で口を押さえて気配を消した。俊介ははる子の腕をしっかりとサポートして、静かに屋敷の裏側に向かった。窓から叫ぶ声がした。
「助けてくれ! オレには関係ないだろ!」
襲われているのがもう一人いる…誰なんだろう…俊介は迷った。
「そこに隠れてろ」
「でもあなた!」
「なぜ他に人がいるのか分からんが、このまま放っとけないだろ」
俊介は逃げて来た裏木戸から、再び農機具小屋に入って行った。
追い詰められた成田が、影の前にひざまづいて、必死に命乞いをしている姿が俊介の目に入った。
「お願いだ! オレはまだ死にたくない!」
「誰だ、てめえ」
影のポケットから懐中電灯が出され、成田の顔が照らし出された。
「てめえ、最近流れて来た宿無しだな。余計な邪魔しやがって」
「ち、違います! 腹が減って食い物がないかと…」
「もう喰わなくてもいいようにしてやる」
影は斧を振り上げた。飛んできたダンボール箱が影に当った。
「こっちへ!」
成田は寸でのところで俊介の叫ぶほうに逃げた。助けられた成田だったが、影に行く手を阻まれて二人とも逃げ場を失ってしまった。影の懐中電灯が俊介を照らした。
「殺されに戻って来たか…さて、先にどっちに楽になってもらおうか」
二人の頭上に斧を振り上げて仁王立ちになった影がそのまま止まった。俊介はゆっくりと成田を庇って立った。影は膝からガックリと崩れ落ちて息絶えた。背中から心臓にヤスが刺さっていた。めずらしく酒の入っていない金治が、刺さったヤスの上から湿った籾殻をどっさりかけ、眼光鋭くそのヤスを抜いた。籾殻は吹き出す血を吸って見る見る真っ赤に染まっていった。
「急いでけれ」
「表に黒い車が…」
「大丈夫だ。引き取ってもらったがら…」
夜回りの弘ら青年団が入って来て作業を始めた。影の死体は手際よくシートに包んで運び出され、乱雑に散らばった引越し荷物もきちんと整理されていった。黒川夫妻は目前で行われている信じられない光景を凝視しているしかなかったが、再び金治に促されて現場を離れた。外に出ると、黒い車が西根オートのレッカーに牽引されて停まっていた。その横には、シートに包まれた別の遺体が横たわっていた。そこに黒川夫妻らを襲った男のシートも転がされた。
「こいつら何だ?」
「去年の暮れがら桜庭土建に飼われてるカマスの連中だべ」
「やっぱしな。田圃に火ついだ吸殻ば飛ばして危ね連中だでば」
「これでええべな。したら、今夜中に片付けでけれ」
「黒川さんは?」
「金治じっちゃがシカリの家さ…」
「んだが、したら出るべ!」
「毎度!」
黒い車を牽引した西根オートのレッカー車が発車した。シートの二体は弘のワゴン車に積み込まれた。
シカリの宿の囲炉裏に火が入っている。千恵子は黒川夫妻の手当てをしていた。
「これ、熊の油だから傷がすぐ治るんですよ」
「したらオレは弘たちの手伝いに行ぐがら」
「そうしてけれ」
金治は立ち上がり、部屋の隅に恐縮して小さくなって座っている成田に、黒川夫妻の護衛を頼んで出て行った。黒川夫妻の手当てを済ませた千恵子は、金治の見送りに立った。シカリの良三が、囲炉裏の上座の熊の敷物に座り、黒川夫妻に神妙に話し始めた。
「黒川さん」
「はい」
「この土地にはこの土地の掟があります」
「・・・・・」
「この土地は、いい人だげが暮らす土地だ。悪い人は消える土地なんだ」
「・・・・・?」
「あんだはもうこの土地の人だ。おれだちはこの土地の善良な人だちを、命を掛げでも守る。息子さんを殺した犯人だって、おれだちが必ず仕留めでやるがら、気をしっかり持ってけれな」
「ありがとうございます。しかし、息子の仇は我々夫婦で取りたいのです。皆さんにこれ以上ご迷惑をお掛けするわけには参りません」
「なんも遠慮はいらね。いや、かえって勝手な事をされでは困る」
「勝手なこと?」
「んだ」
「あなたがたは、もうこごの土地の住人だ。さっきも言ったように、この土地にはこの土地の掟がある。法律だって及ばないこの土地の掟だ。あんだのかってな行動で、他の住民に危険が及ぶがもしれね。住民の事はこの村の住民全員で段取りよく片付けていく。悪徳権力に与する者に対しては、法律だって及ばない掟だ。その手段は他言無用。それがこの土地の掟だ」
「分かりました」
「あんだだちが引っ越すことになった時から、智弘君の事件の犯人探しはこの村でやらひでもらう事に決まった」
「そうでしたか」
「したら早速聞ぐども…襲われだ相手の顔どが覚えでるべがな」
「暗くて…」
「んだべな」
「ただ…」
「何が気が付いだ事でもあるしか?」
「斧を振り上げる前に、私らにここに住まれては困る人がいると…」
「それ、私も聞きました! 猫を投げました!」
成田が咳き込みながら話に加わった。
「猫?」
「あの時の猫はあなたでしたか!」
「あんた、猫に化げだのが! 大したもんだでば…」
「いや、そうじゃなくて、犯人に向かって猫を投げたんです」
「ああ、投げだのね」
「命の恩人です」
「いや、そのあとで私もご主人に段ボール箱を投げてもらって助けられましたから」
「傷っこは大丈夫だしか?」
「はい、これくらい何ともありません」
「んだしか…したら夜明げに出れますか?」
「どちらへ?」
「襲われるぐらいだがら、もう猶予はねんだ。出来れば急いだほうがええど思ってな。息子さんが殺されだ現場に…」
「行きます! 大丈夫です!」
「んだしか! したら兎に角少しでも寝でおぐべ」
炉に点火する “ボッ ”という音が、闇に響いた。鬼ノ子川に薄っすらと橙色のオーラに包まれた火葬船のシルエットが浮かんだ。デッキからはいつものように平川お気に入りの夜想曲が、川の音を撫でている。蝋燭の炎に揺れる操作室の火葬技師・平川茂と同級生の富雄、そして熊蔵の顔が揃っていた。
「遅ぐに済まねがったな」
「家に居でもやる事ねえがら」
そう言いながら熊蔵はキセルに刻みタバコの “ききょう ”を詰めて火を点けた。
「オレが茂に焼いでもらうのも、もうすぐだな」
「熊蔵さんには死相がねえがらまだまだだ」
「分がるえたが?」
「分がる…死顔でも、仏さんが死にたがったのが、生きたがったのがも分がるえたでば」
「ひば、この仏さんは生ぎたがったべな」
「いや、死にたがったな」
「んだが…なしてまだ?」
「とっくの昔に死にたがった仏さんだ…跡形もなく消えたがったんだべ」
「どごで分がるもんだ?」
「30年も仏さん焼いでれば嫌でも分がる」
「いとこの看護師も、伯父さんが死ぬ前に教えでけだもんだ。お陰さまで死に目に会えだもんだ。亡くなる患者は分かるらしいな」
「仏さんの望みどおりに焼いてやるのが供養だ」
「仏さんの望み?」
「いい人生送った仏さんは、頭と、二番目の頚椎と、大腿骨だば、綺麗に残してやるんてな」
「第二ケツ?」
「要するに喉仏の事だ。喉仏と言うばって実際は首の骨っこだ。仏様が座禅してる姿に見える首の骨っこの事だ」
「ああ、喉仏だばほんとに仏さんの格好してるもんだんてな」
「んだ。綺麗に残すのが難しいんだ」
「そういうもんだべな」
「この仏さんはどういうふうに焼く?」
「消えたがっている仏さんだば…喉仏も跡形もなぐ焼き切ってやるんだ」
火葬炉の覗き窓に目をやると火炎が激しく唸っていた。茂は慣れた手つきで火を調節した。
濃い朝焼けに、雑草と雑木を従えて立ちはだかる小沢鉱山跡。朽ちたコンクリートの壁が朝陽に染まる頃、廃坑の前に千恵子の車が停まった。
「千恵子、トランク開げでけれ」
そう言いながら助手席の良三が降りた。後部座席の黒川夫妻も良三に続いて降りた。黒川夫妻は智弘の殺人現場となった小沢鉱山跡の正面に初めて立った。朽ちて剝き出しになったコンクリート建造物、その奥の斜面は鬱蒼とした雑木林が続いていた。それを見上げたはる子の心は乱れた。
「こんな所で…」
俊介は崩れそうになるはる子を抱きしめた。
「はる子! 今、しっかりしないと!」
良三が声を掛けた。
「奥さん…こごが正念場だしから」
「はい、大丈夫です!」
廃坑の藪から、既に来ていた弘が現れた。
「おはようさん!」
「おはようございます」
弘がトランクから細い角材の束を下ろした。
「それは何ですか?」
「これはこの土地の郷土料理の “きりたんぽ ”を焼く杉の木っこだしな」
「きりたんぽ?」
杉の角材を15ミリ程の太さに揃えて、片端が地面に刺さるように削られていた。黒川夫妻は秋田の郷土料理の “きりたんぽ ”というものは知っていたが、その杉櫛がここでどのように使われるのかまでは知るはずもなかった。
「使い道はいろいろあるもんでな」
「そうなんですか…」
「今度、うちの囲炉裏で焼いたのを食べて頂きますから」
千恵子が間に入った。
「日暮れ前に阿仁合駅さ迎えに来てけれ」
「また、こごさ来るよ」
「それだば駄目だ。人目さ付いだら駄目だんて、駅の裏辺りの目立たない所で待ってでけれ」
「わがった」
「千恵子!」
「何?」
「危ねども…ライト消して静がに行げ。対向車が来たら停まって体隠せ」
千恵子は頷き、黒川夫妻に挨拶して車を出した。
「私達はどうすれば…」
「見張ってでもらいてんだ」
「見張る?」
「我々がここに来て調べでる事を、誰にも知られではならねんだ。桜庭んとごの連中が動き出してる以上、証拠を消すためにこの山を焼ぎかねねえがらな。その前にやっておぐ事があるんて」
「今日にも来るかもしれないんですね」
「んだ、その前になにが犯人に繋がる証拠になるものを見つけでおがねばな」
「しかし、あれからもう一年も経っていますから…」
「我々マタギの眼から見れば、山に関する限り警察の調べ方なんて節穴同然だ。犯人の動がね証拠は一年ぐれえ経ったって必ず残ってるはずだ。山は都会の女ど違って、年に4回しか化粧しねがら一年ぐれえで変わるものではね。なんも心配えらねんだ。見つけだ物の中に、あんだの息子さんに繋がるものがあるがどうが、あどで確認してもらう…おい、弘!」
「ああ、写真は持って来てるよ」
「今流行りのデジバガは駄目だど。あんたもので撮った写真だば、なんも証拠にならねえそうだがら」
「ちゃんとフィルムのカメラ持って来たがら」
「よし、したら始めるが、弘!」
「んだな!」
「黒川さん、見張る場所さ案内するんて、後ろに付いで来てけれ」
「はい!」
一同は歩き出した。
「この藪は元々廃坑の脇に抜ける道になってだども、ほどんと人来ねもんだがら、今は獣道だ」
弘は廃墟の左側から、道なき道のような鬱蒼とした藪に入って行った。黒川夫妻も慣れない足取りで雑草の勢いに体を取られながら、必死で弘の後に従った。藪に入って15分も経ったろうか…弘は大きな木の前で止まった。
「黒川さん、この蔓を引いてみて下さい」
俊介が恐る恐る蔓を引くと、木の上でカチカチカチッという音がした。
「何の音ですか?」
「 “ささら ”です」
「ささら?」
「ささら踊りの…」
「ああ…」
「ここから表の通りが見えます。この木の陰にしゃがめば、こっちからは見えるども、表からは全く見えません。誰か来たら、この蔓を軽く引いてくれれば、通りの連中には聞こえなくても、山中のシカリの耳さだば、どごに居でも充分に届きますから」
そう言って、通りに戻って行った。弘が廃坑前に戻ると、シカリの良三はまるで獣の気配でも窺うかのように無言で目を瞑っていた。弘はそれをじっと待った。
「あっちだな」
「はい」
弘は、シカリの後に続いた。廃坑のコンクリートの壁を身軽に登り、二人は雑木の中に入って行った。
広大な斜面に跨る雑木林に埋もれた夏の廃坑跡は、日中でも薄暗い。雑草に阻まれる足元を、慣れた足取りでかわしながら進むうち、良三の足が止まった。
「こごからだな」
その言葉に、弘は腰に下げてある細い麻縄の一本を角棒に結わえて、良三の足元を目安に地面に刺して写真を撮った。良三が止まる度に同じ事を繰り返しながら、二人は斜面の奥へと登って行った。かなりの幅でジグザグに進んでいるにも拘らず、麻縄の向きはほぼ直線上に刺されて行った。
「三人で入って、歩いだ跡がこごから二人になってるども、関係ない方角にもう二つ歩いた跡がある」
「どういう事だしか?」
「回るべ、そごに立ってろ」
良三は弘の立つ位置から螺旋状に回り始めた。
一台の車が廃鉱跡の少し手前で静かに止まった。
「もう少し前に止まったほうが…」
荒木は運転する新庄を不審に思い確かめた。荒木は桜庭土建に雇われた男だが、新庄の舎弟分にあたる。荒木が車から降りようとするのを新庄は止めた。
「どうかしたんすか?」
「…人の気配がしねえか?」
「こんなとこ誰も来やしねえすよ。人目に付かねえうちにさっさと片付けましょうよ」
新庄は荒木の言葉を無視したかのように、暫く廃鉱跡を睨みすえていたが…
「運転席に移って待ってろ」 と、車を降りた。
山中の良三は、枯れ草に絡み付いた鎖を手繰ってロケットペンダントを見つけた。
「これ…」
弘に告げようとしたが、一瞬、千恵子の首に付けていたロケットペンダントが蘇った。良三はゆっくりと腰を下ろした。絡んだ鎖を丁寧に解き、ロケットを開けてみた。千恵子の写真が入っている。
「こえだば(これは)!」
良三の脳裏に激しい衝撃が走った。その写真の千恵子の表情が、死の恐怖に引き攣った青年の形相になり、良三に何かを訴え掛けている。その顔は恐怖から悲しみに変化していく。良三はあの時の千恵子を思い出した。
…千恵子が走る。
安の滝に向かう急な獣道を沢伝いに千恵子が走る。泣きながら走る千恵子の後姿をやっと捉えた良三の目に、彼女の首に揺れるロケットペンダントが光った。良三は必死で叫んだ。
「千恵子! 千恵子! オド(父さん)より先にだば絶対に逝がひねど! 千恵子!」
…そういう事だったんだな…んだが…待ってでけれな…あんだの仇は必ず討ってやるんてな…良三の胸に強い怒りと哀しみが込み上げて来た。
「…千恵子!」
不覚にも、その悲しみが鼻先から噴出して、慌てて奥歯を噛んで堪えた。
「どうしたしか?」
「んにゃ、何でもね」
良三はさりげなく、ロケットペンダントを古手拭で縫った袋に入れて、懐に納めた。用意した麻縄を近くの小枝に縛り、それを中心にさらに螺旋状に調べ始めた。その繰り返しが続いた。良三の踏み出した足がまた止まった。そっと足を上げて、深く湿った枯葉を少しづつ除けていくと、かなり朽ちた日本のものではないパスポートが2冊見つかった。薄汚く残った県知事とその妻のそっくりな写真の一部…良三は崩れないように袋に入れた。
「成る程、そういう事か…」
その時、弘の仕掛けた “ささら ”が鳴った。
「弘、聞こえたが…」
「んだしな」
藪の中に潜んでいる黒川夫妻の目に新庄の姿が映っていた。
「誰かしら…」
新庄が廃鉱跡を見回している。少しして手招きすると、桜庭建設の車が黒川夫妻の視野に入って停まった。
「どうしよう、あなた…」
「しっ!」
荒木が車から降りて来て、新庄と何やら話し始めた。
「松橋さん、気付いてくれたかしら」
「黙って!」
男らの姿を見ていたはる子が、突然ガタガタと震え出した。
「もう一回蔓を引っ張ってみる?」
「いや…落ち着きなさい…もう少し様子を…」
しかし、はる子は尋常じゃないほど震えていた。
「どうした、はる子?」
「分からない、震えが止まらない…」
「やつらがこっちに来る!」
俊介は蔓を引かないようにそっと持ったまま、はる子と更に奥に潜んだ。二人の男が、黒川夫妻の潜む藪のほうに、真っ直ぐ近付いて来るのが見えた。その時、黒川夫妻の後方から警戒の声がした。
「黒川さん、こっちさ!」
振り返ると、雑木の奥から弘が手招きをしていた。
「はる子!」
俊介は、震えが止まらないはる子の手をしっかりと握り、焦る気持ちを必死に抑えて奥に向かった。途中まで黒川夫妻を迎えに来た弘の目は、既に新庄を捉えていた。
「あいつ…あいつが? まさか…」
「弘…どんた塩梅だ?」
良三も途中まで来て覗いていた。
「あの男…新庄でねが?」
「新庄?」
「…成る程な」
「何しに来たべが?」
「胸騒ぎする…少し遠回りだども裏山ば抜げで駅の駐車場に出るべし」
藪でうろつく新庄の姿を警戒しながら、良三たちは廃鉱跡の深い雑木の更に奥に入って行った。
「新庄さん、何かあるんですか?」
「名前で呼ぶんじゃねえ!」
「すんません!」
新庄は車に引返した。
「作業に取り掛かれ」
荒木が車から降りて、トランクから灯油を出し廃鉱前に撒き始めた。新庄はタバコに火を付けた。
「そのぐらいでいいだろ、車に乗れ」
「火は?」
「いいから乗れ」
荒木は言われるままに運転席に戻った。
「車を出せ」
「火は?」
「いいから出せ!」
車の発進と同時に新庄はタバコを投げ捨てた。
黒川家の新居前にパトカーと救急車が停まっている。近くの住民たちも集まっているが警察関与には非協力的な様子だった。そこに黒川夫妻らを乗せた千恵子の車が帰って来ると、智弘の殺人事件の担当刑事でもある県警の沢口刑事が近付いて来た。
「ハイキングですか?」
「黒川さん達を森吉山に案内した帰りです。何があったしか?」
千恵子はとっさに小沢鉱山跡とは逆の方向を答えた。
「黒川さんのお宅が荒らされたようでしてね。深夜、警察に通報なさったのは、黒川さん、あなたですね」
「いえ、私は掛けていませんが…」
「おかしいですね。あなたのお宅の電話から110番通報されているんですが…」
「私どもは掛けてはおりません。今朝早くに山菜採りに連れてって頂くんで、昨夜からシカリの宿さんに伺っていました。引越しの片付けも済んでいない事もあって、食事の用意もできませんので泊めて頂きました」
「取り敢えず被害届けを出して頂けますか?」
「動物が入って荒らしたかもしれませんので確認してからで宜しいですか?」
「しかし誰かが110番通報されていますのでね」
「ですから、私どもは松橋さんとこに泊めて頂いてますから通報しておりません」
良三が車から降りて会話の間に入った。
「刑事さん、立ち話もなんだしから、一旦、おらえの宿さ来てお茶っこでも飲みながら…」
刑事は構わず黒川夫妻に質問を続けた。
「こちらに住む事になさったのは、どうしてですか?」
「あの子を忘れないためです」
「ご自分達で犯人を捜すおつもりでおられるんだとしたら…」
「そういうのは警察のお仕事でしょ? それとも犯人が見つかりそうにもありませんか?」
「・・・・・」
「解剖までなさっていただいたのに、未だに犯人を検挙出来ないのはなぜですか?昨夜、留守中に何があってどんな被害を受けたか知りませんが、被害届を出したってどうせ今回も犯人を見つけられないんじゃありませんか? 日本が世界に誇る法治国家だなんて…私どもは息子の件があって以来、とても信じられなくなっているんです」
「こちらとしても全力で…」
「全力で? 全力で犯人を守るんですか? 苦しんでいる私たちの陰で、のうのうと生きてる犯人を守る無神経な人権もありますが、殺された被害者の人権が消えたわけじゃないんです。これからものらりくらりと、遺族に捜査のパフォーマンスをし続けるのですか?」
「奥さん、お怒りは理解できますが、何もそんなふうに仰らなくても…私どもは被害者のご家族のために、何としても犯人を検挙しなければならないと思っています」
「被害者の家族のためじゃなく警察のメンツのためではありませんか?」
「それは違いますよ、奥さん。犯人が逮捕される事を一番望んでおられるのはご夫妻じゃありませんか」
「逮捕されることを望む? 私たちが犯人に望むことは、そんな生易しいことじゃありませんよ! 私たちが望むことは…」
千恵子がはる子の言葉に割って入った。
「今更犯人が検挙されたとしても、智弘さんが生き返ってくれるわけじゃありません。黒川さんご夫妻は、智弘さんが寂しくないように、智弘さんが亡くなったこの地で、智弘さんと一緒に余生を送りたいだけです」
町内のスピーカーから放送が流れてきた。
「緊急! 緊急! 只今、阿仁合の小沢鉱山跡で山火事が発生しました。消防団の皆さんは急いで救援に向かって下さい!」
野次馬で集まっていた住民がどよめいた。阿仁合方面を見ると空が赤く染まっている。
「こんたどごで油売ってでもええったべが、おまわりさん!」
相変わらずカップ酒を手にした金治が、大きな独り言を吐いた。住民が同意してそれぞれの言葉で騒ぎ出した。警察は黒川夫妻との話を打ち切って救急車を伴い救援に向かった。
「危ねがったな、弘」
「良三さんのいうとおりに裏がら抜げでねば、今頃みんな黒焦げにされでだな」
炎は小沢鉱山跡の入口を囲むように広がり、激しい火の粉の渦をうねらせながら一気に頂上へと昇っていった。阿仁合の町は、消防や警察の車が行き交う最中、麓の民家は少しでも貰い火を避けようと、家財道具を外に運び出すなど、怒声と悲鳴で騒然となっていた。
〈第16話「山狩りレース」につづく〉
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