第12話 引越し

 智弘の遺骨を抱いた黒川夫妻が、鬼ノ子村駅のホームに降り立った。西側はこの集落の守護山・鬼ノ子山が見下ろしている。一年前、黒川夫妻がこの駅を去る時、妻のはる子は山の頂上を見上げて「あなたは全てを見ていたのよね」と呟いて去った。あの時の無念の記憶が蘇っってくる。はる子は鬼ノ子山を見つめて、これから始まる息子の弔い合戦の力を授けてもらえるならばと、大きく息を吸った。己の手で智弘の無念を晴らすために、今日からこの村での生活が始まる。


「黒川さん!」


 千恵子は、駐車場の片隅に停めた車から降りて叫んだ。黒川夫妻は、千恵子の笑顔を見て、心に力が漲るのを覚えた。三人は駅前の国道105号を突っ切って、旧道に入った先の道路沿いにある鬼ノ子役場に寄った。黒川夫妻の転居手続きのためだ。

 役場に入ると、人気の少ない町のわりには、十数人の老人たちが椅子に腰掛けて談笑していた。それに軽くお辞儀をした千恵子は、黒川夫妻を受付に案内した。老人たちの談笑が一斉に止まった。


「木村さん!」

「おお、千恵子か…あらら、東京から引っ越して来てけだ人だね」


 役場の最古参である助役の木村市松が応対に出た。


「ようこそ! お待ちしておりました!」


 黒川夫妻は老人たちの重い視線を背に感じながら転居届けを提出した。


「どうも。あの…青年団の方は?」

「あ、はいはい、第2陣もほぼ揃ったみでだども…団長がまだ…」

「第2陣?」

「あそごさ集まってけだ人達だしな」


 木村助役は老人たちを指した。黒川夫妻は重い視線の理由を理解してた。緊張した面持ちで一同にお辞儀をすると、老人たちは一斉に立ち上がって丁寧にお辞儀を返して来た。黒川夫妻は恐縮して再び深々とお辞儀をすると、座り掛けた老人たちがまた立ってお辞儀を返して来るので、居場所に困った。数人の子供達が入って来て “村おこし課 ”の受付に並んだ。


「おじちゃん、ゴミ!」

「はい、ご苦労さん!」


 “村おこし課 ”の職員は、子供からゴミを受け取って50円分の “役場券 ”を渡した。


「ありがとう!」


 嬉しそうに子供達が帰って行った。その様子を不思議そうに見ていた黒川夫妻に、窓口の職員・松橋由美子が声を掛けて来た。


「この村では、観光客が散らかしたゴミを拾って来てくれた子供には、村のお祭りなどのイベントで金券として使える “役場券 ”をご褒美に出してるんですよ」

「あ…そうなんですか…」

「したども、大人は駄目だしよ、あははは…」

「あ…はあ…」

「あそごさ掛げで、も少し待ってでもらえますか?」


 黒川夫妻が席のほうに振り向くと “青年団 ”の老人たちが自分たちの座っている席の真ん中を空けて笑顔で立った。夫妻は千恵子に促されて、恐縮しながらその場所に掛けた。


 鬼ノ子山の入山口に立てられた村内放送用のスピーカーから由美子の余所行きの声が響いた。


「第二陣の青年団の皆さん、第二陣の青年団の皆さん! 本日、引越しの方が到着致しましたので、至急役場までお集まり下さい! 繰り返します…」


 すぐ近くで町内スピーカーが響くカーテン越しの薄暗がりで、塊が妖艶に蠢いていた。息を切らせて喘ぐ園子が囁いた。


「も少し…も少しだんて…」


 丁度そこに、自転車で弘を迎えに来た公園管理の笠原の叫び声がする。


「松橋さーん、集合かかってますよーッ!」


 弘の動きが止まった。


「あ、迎えが来てしまったな」

「ええんて…も少しだんて! 早ぐ早ぐ!」


 園子は自分の両足を強引に弘の腰にからめ、凶暴に腰をうねらせた。


「こっちが先だべ! さ早ぐ! も少しだんてがんばねばだめ! さ早ぐ早ぐ!」

 園子の激しい野生が弘を侵食する。弘も野性を煽られて凶暴になって行った。

「んだ、んだ…」


 弘の返事がないので、笠原はサドルに足を掛けて一応叫んだ。


「松橋さーん! 先に行きますよーッ!」


 弘の腰は獲物にとどめを刺すべく牙を剥いた。


「今行ぐがら! も少しで行ぐがら!」


 園子が雌の目に変った。血走る弘の下で、小刻みな痙攣が始まった。息を止めて固まった園子は、大きく仰け反って短い野生の呻きを漏らし、さらに仰け反った。弘は園子の身に次の瞬間やって来る強烈な縛りから間髪で脱出した。ひとり床に放たれた園子の黒光りしたシルエットが、不規則な痙攣を繰り返しながら女の幸せにさ迷っている。弘はその姿を見て美しいと思った。


「弁天様は段々おっかねぐなるもんだ…どれ、したらオレ出掛げっから」


 弘は園子の神々しい様に合掌して玄関を出た。


 笠原が玄関先で自転車に乗ったまま、熊蔵と立ち話をしていた。


「おや、熊蔵さん、来てだしか」

「弘、まだ居だのが? みんな役場で待ってるべ」

「弁天様を拝んでだもんで」

「また真っ昼間がらが?」

「信心深いもんで」

「ほどほどにしねえと早死にするど」

「なんもオレはそれが長生きの秘訣だべ」

「熊蔵さんが娘さんのご命日だそうで…」


 見ると熊蔵は手に桶を持っていた。桶には熊蔵が朝に摘んだらしいお供え用の花と柄杓が入っていた。


「そういえば、今日だったしな」

「墓参りしたら手伝いに行ぐつもりだども…」

「なんも…こっちの人手は揃ってるべがら、ゆっくり娘さんのお墓参りして来てたもれ」

「したら…」


 そう言って熊蔵は墓参りに向かった。


「いやいや、待だせだな、後ろさ乗ひでけれ」


 笠原は弘を自転車の後ろに乗せて役場に向かった。


 笠原たちの通り道、畑仕事の農民たちもそれぞれが村内放送を聞き付け、作業を後回しに役場に向かっていた。弘は汗だくで役場に到着した。


「や、どうもどうも待だひだしな」

「あちらの方…」

「おい、開いでるど」


 木村助役が呆れ顔で弘を見た。


「あ、んだしか!」


 弘が木村の視線に促され、チャックを締めながら黒川夫妻に近付いた。


「引っ越してきたのは、あんだ方ですか?」

「はい…あなた様は?」

「青年団長の松橋弘と申します」

「…あ…そうですか。このたびはお世話になります」

「なんもなんも。したら、一緒に消防団のワゴン車で行きましょうか」

「黒川さんたちは私の車で…」

「おお、千恵子、来てだが。したら行ぐべ」

「まだ手続きが済んでないのよ」

「手数料払うばりだべ」

「そうだけど」

「おい、木村!」

「なんだい?」

「手数料、負けどげ」

「そうは行きませんよ」

「したら、付けとげよ」

「飲み屋じゃないんだがら」

「こっちは急いでんだがら!」

「ああ分がったよ。じゃ支払いは後でいいよ」

「あ…でも、お支払してからでないと…」

「えんだ、えんだ。踏倒ひばえんだ」


 弘の強引な “リーダーシップ ”で、黒川夫妻は千恵子の車に、老人たちはワゴン車に乗り合わせて、黒川夫妻の新居に向かった。笠原は自転車で埃の舞う車の後を追い掛けた。黒川夫妻の新居は、火葬船桟橋まで歩いて15分ほどの距離にある4叉路の別れ口にあり、成田の “塒 ”である廃屋になったガソリンスタンドとは、狭い農道を挟んで隣接していた。そこには既に引越し荷物のトラックが到着しており、第一陣の手伝いの村民が荷降ろしを始めていた。

 黒川邸の新居から少し離れた所に黒いワゴン車が停まった。運転席には桜庭建設社員、後部座席には大柄の男が引越しの様子を覗っていた。黒いワゴン車は、黒川夫妻の到着を確認すると、ゆっくりと発進して黒川家の前を通り過ぎた。一足遅れて来た自転車の笠原が、黒いワゴン車と擦れ違いざま、見覚えのある後部座席の人物に「・・・?」となった。


〈第13話「手紙」につづく〉

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