第9話 メグミ
鬼ノ子村の駅前の旧道を、土地に不釣り合いな化粧の女が歩いていた。住民は家の窓から、或いは畑仕事をしながら素知らぬ態で、その女を窺った。女はうんざりした表情でスナック菓子を食べながら、無造作に道に食べカスを散らかして歩いていた。そこに自転車の笠原が擦れ違いざま急ブレーキ音を軋ませて停まった。女は何事かと振り向いた。笠原は女の捨てたゴミを拾い、自転車の籠に入れて、見向きもせずに再びサドルを漕いで去って行った。
「…なに?」
女は更に不機嫌な態で歩きながら、今度はチューインガムを口に放り込んで、丸めた包装紙を無造作に放った。
「ナイスキャッチ!」
メグミが振り向くと、丸めたゴミをキャッチした少年を中心に、数人の小学生らが無表情でメグミを見つめていた。メグミは一瞬ギョッとした。
「こんにちは! 他に捨てるゴミありますか?」
「・・・・・」
「タケシ、役場さ行ご!」
「ウン!」
「さようなら!」
少年達は何もなかったように楽しげに、メグミを追い抜いて走って行った。
「どういう事? 気味悪いし…」
夕方、笠原が農作業から帰って来た松橋団長に何やら報告していた。
「女の宿は?」
「ナガサホテルさん」
「今夜、贈物を届けてくれ」
「はい」
町から離れた国道沿いの山中に、周囲と不釣合いで派手な看板が立っているホテルがある。この地域で一番規模の大きな宿・ナガサホテルだ。鬼ノ子村では深夜に値する夜九時過ぎ、タクシーで帰宅した女が誰も居ないフロントを咎めて叫んだ。
「すいませ~ん」
返事がない。
「誰もいないの! 誰か! 部屋のキイ!」
「お帰りなさいませ」
声に驚いて “ギャッ ”と振り向くと、大男が立っていた。フロント係・鈴木治夫だ。
「浜野メグミさま。村の様子はいかがでしたか?」
「どっから声を掛けんのよ! びっくりするじゃないの!」
「失礼致しました。田舎の夜は早いでしょ。遠出は如何でしたか?」
「いいから早く部屋のキイ出してよ!」
「浜野さま宛に贈物が届いております」
「贈物? 誰から?」
「差出人様のお名前がございませんが…」
「気味悪いし…」
「如何いたします? 不審物として警察に届けますか?」
「警察!」
「ええ、お客様がお受取にならなければ、差出人様のお名前がございませんので警察に届けるしか…」
「いいわよ。受け取るわよ」
「そうですか、ではお受け取りのサインをお願い致します」
「それからね、備え付けのタオル臭かったわよ。清潔なのに替えてくれた?」
「それは申し訳ございませんでした。すぐにお取替え致します」
「変えてないの? …それとさ、ゆうべお風呂場で心臓が止まるかと思ったわよ」
「どこかお悪いんですか? でしたらお医者様をお呼び致しましょうか? …と申しましても、この時間となると救急車という事になるかもしれませんね。診療所の先生の往診は難しいと思いますので…」
「ゴキブリよ! なんでゴキブリがバスタブを散歩してんのよ! 有りえないんだけど! 田舎にはゴキブリなんかいないって聞いて来たのに、何よ!」
「申し訳ございません」
「ちゃんと掃除してんの?」
「係りの者に厳しく申し伝えます」
「今度ゴキブリが出たら宿泊代払わないからね!」
「そのような事が起こりましたら、すぐにフロントまでご連絡下さい。お部屋を替えて頂くなり何なりと善処させて頂きたいと思いますので」
「期待して来た食事だってメッチャマズいし、溶けたような肉の熊鍋とか、ぬるいラーメンって有り得ないでしょ! 折角の旅をどうしてくれんのよ!」
「お口に合うように最善を尽くさせて頂きますので、何かリクエストがありましたら仰って頂けますでしょうか」
「いいわよ、外で済まして来たから。どうせバカ高いだけのマズい夕食なんだし。夕食も朝食もキャンセルでいいでしょ!」
「かしこまりました」
メグミは部屋に戻ってフロントで受け取った贈り物を開けた。
「なに、これ!」
フロントに電話しようと受話器を取るが、その見覚えのあるゴミに立ちすくんだ。
「フロントです。何かご用でしょうか?」
「いや、なんでもないわ!」
メグミは乱暴に受話器を切った。ゴミを取り出しながら確かめる手が震えた。自分が今日一日の行動の中で捨てた全部見覚えのあるゴミである。
「全部…あたしの捨てた…誰がこんな事を…ストーカー!」
慌てて部屋の照明を消し、窓のカーテンを閉め、恐る恐る隙間から外に目をやった。ホテル前の駐車場の街灯が、疎らな車をぼんやりと照らしているだけで、人一人いない。気になってドアに近づき、スコープから廊下の様子を伺うが、誰もいないのにホッとした。
「気分最低!」
部屋の冷蔵庫を開けた。
「カラだし…」
メグミはバッグの財布から小銭を出し、自販機のビールを買おうと部屋のドアを開けて唖然とした。廊下は真っ暗なのだ。辛うじて廊下の奥の非常灯の灯りで歩ける程度になっている。
「こんなの…なんかあったら死ぬだろ、クソホテル!」
部屋を出てドアを閉めた。傍に人の気配がする。メグミはゆっくりと気配のするほうに振り向いた。男が立っていた。メグミは一瞬息を吸い、目を剥いてしゃがみ込んだ。呼吸が止まり声が出ない。全身に震えが走り、止まらなくなった。
「どうかなさいましたか?」
ゴミ回収のワゴンを引いている男が、メグミを立たせてあげようと手を伸ばしてきた。
「触らないで!」
メグミは渾身の思いで声を絞り出した。
「ゴミがあったらどうぞお出し下さい」
「・・・・・」
メグミは凍りついたままもう言葉が出なかった。
「なければ…失礼します。ゴミはゴミ箱へお願いします」
ゴミ収集ワゴンを引いて、ゆっくりと去っていく男は、清掃スタッフに変装した笠原だった。動けずに震えが止まらないメグミは失禁していた。我に返り、急いでバスルームに入った。
静まり返ったホテル正面の駐車場に、ライトを消した車が静かに入ってきた。車から見えるメグミの部屋の奥からあかりが漏れた。
シャワー室から出たメグミは、ベッドに入ってからも中々寝付けなかったが、緊張の疲れが出ていつしか寝息を立てて深い眠りに入った。強引にシーツを剥がされる気配で目を覚ました。自分の腰が誰かに持ち上げられて、既に男のものが侵入していることを初めて自覚した。これは夢? …いや現実だ。乱暴な振動が自尊心を八つ裂きにしていく。メグミは歯を食い縛って声を漏らすのを堪えた。長くしつこい時間が流れ、相手の息が上がった一瞬の隙を突いて男の腰から離れ、力任せに股間を蹴った。急所に命中したらしく、男は呻き声を上げてベッドから転げ落ちた。その隙にメグミは脱衣室に逃げ込んで鍵を掛けた。脱ぎ捨てたままだった脱衣籠のジャージのポケットをあさって携帯フォンを取り出し、ドアの外に叫んだ。
「警察呼ぶわよ! 早く逃げないと捕まるわよ! ドアを開けたらてめえらの写真も撮ったろか!」
「なめんじゃんえよ、クソッ!」
ドアを蹴破ろうとする男らをリーダー格の男が制した。
「やめれ!」
一同は慌てて部屋を出て行った。
やっとのことで立ち上がったメグミは、携帯フォンを押した。
「…あたしよ…ひどいことをするのね」
「なんのことだ?」
「とぼけないでよ…あなたの臭い…忘れてないわよ。相変わらず “ど下手クソ ”ね!」
「・・・・・」
「明日、あなたの実家に押し掛けるからね…警察沙汰にされたくなかったら逃げないで。それなりのもてなしをしてもらえたら、おとなしく東京に帰るわ」
怒りに震える体でシャワーを浴び、ベッドに倒れ込んだ。
翌日、メグミは佐藤巌の実家に押し掛けていた。
「昨日の夜、部屋にお客さんが来たの」
「・・・・・」
「警察に届けようかと思って」
巌の父・重松が、メグミの前に札束を置いた。
「ゆんべ、何があったが知らねども、これでお互いきれいさっぱりというごどに…」
「東京では随分羽振りのいい話だったわね。それがこれ?」
「あんだも生娘でもねしべ。この見栄っ張りの馬鹿に欲得ずくで近づいたわけだしべ。こごはひとつ、難しい事は言わねで気持ちよぐ受げ取ってもらえねべが」
「…いいわ。こんなところで時間過ごすなんて一秒だってうんざり。さっさと消えてあげる」
メグミは無造作に札束を掴みバッグに入れた。
「物分りのいい娘さんだごどな。宿の精算もこっちでさせでもらうんて、したら、この足で…」
「それじゃ…」
メグミは立ち上って振り向いた。
「いつかまた来るかも…」
「んだしか…来るのは自由だども、次にこの村さ来ても、いい事は何もねど思いますよ。最近は熊どがに人が襲われで死んでるもんで、よーぐ気を付けねばな」
「おー怖ッ、東京まで無事に帰れるかしら」
「この土地に二度と来ないつもりで、今日中に帰りさえすれば、大丈夫だど思いますよ…多分」
「あら、よかった。巌ちゃん、あたしを思い出したら連絡してね。もしかしたら、こっちから連絡しなきゃならなくなったりして…だって、昨夜、巌ちゃん、あたしの中に出しちゃったでしょ」
めぐみは胸をはだけて片方の乳房を佐藤巌に向けて露にした。巌は目を逸らした。重松は巌を憮然と睨み付けた。
「確かめてみる、お父さん? ここにあんたの息子の息子が入っちゃったんだけど」
メグミは父親に股間を晒し、陰部を両手で開いて腰をくねらせた。巌が怒鳴った。
「やめれ!」
「あら、昨夜も同じに怒鳴ったわよね。それであんただって分かっちゃったんだけど」
そういうとメグミは高笑いした。
「折角ええもの見ひでもらってるどご申しわげねしども、こごは田舎で電車の本数があんまりねえもんで、早ぐ帰らねば永久にこの土地出れねぐなるがもな」
表情ひとつ変えずに直視して話す重松に、メグミは悪寒が走った。
急いでナガサホテルに帰ったメグミは、荷物をまとめてホテルのフロントに行った。
「タクシー呼んで!」
「お出掛けですか?」
「帰るのよ!」
「チェックアウトですか?」
「そうよ、急いでタクシー呼んで。タクシーが来る前に精算して!」
「もうすぐ送迎バスが来ますが…今からだとタクシーよりバスのほうが早いですよ」
「じゃ早く精算してよ!」
「かしこまりました!」
フロント係りの一人が精算のため奥に消えた。到着するホテルの送迎バスが、いらいらして待つメグミの目に入った。数人の宿泊客が土地の訛りで盛り上がりながら降りて来た。忌々しそうにフロントの奥を覗くとやっと支配人がもたもた出て来た。
「急いでよ! あのバスでしょ?」
「そうです。宿泊のお客様が降りられたら折り返し出ます」
「だから速く精算してよ!」
「あの…今さっき電話がありまして、お客様の宿泊代は佐藤様へのご請求となりました」
「あ、そうだったわ…じゃ、あのバスに乗っていいのね」
「はい、またのお越しをお待ちしております」
「二度と来ないわよ! タオル臭くて、ゴキブリ出るホテルなんか!」
メグミひとりだけが乗った送迎バスは5分ほどで内陸線・打当温泉駅に到着した。無愛想な運行係の女が運転席から降りて後ろに回り、メグミに荷物を渡した。メグミは運行係の女から乱暴にボストンバッグを受け取り、ホームに続く階段を上がった。運行係は、メグミがホームに立ったのを確認して一礼し、送迎バスを発車させた。
この打当温泉駅は角館方向から十二段トンネルを抜けた二駅目にある。風景はこの駅から線路を挟んで西側に森林、東側に田園と民家が点在している。無人駅のホームは閑散として自分の呼吸が聞こえる程だ。都会の喧騒に慣れた人には、時間が止まっているようにすら感じるかもしれない。
「電車来ないし…どんだけ待たせんのよ。熊にでも襲われたらどうすんのよ」
ホームの向かいの山の傾斜は、女の小言などには薄ら笑いを浮かべて相手にもしない。メグミにとっては気の遠くなるような静寂の二十分がまったりと過ぎ去った頃、やっと内陸線・角館行きがやって来た。ヨタヨタと降りる老婆に舌打ちしながら乗車したメグミは、血走った目で空席を探した。車内は通学生や老人がそれぞれのお決まりらしき席に座り、メグミには無関心に穏やかな会話を交わしていた。メグミは、ひとり浮いた感じの自分との距離感を覚えたが、4人席を占領してバッグからキャンディを出して口にほおばった。その包みが何気なくメグミの手から離れた。電車が十二段トンネルに入って窓外は真っ暗になると車内等が点灯した。キャンディの包み紙が薄明りの空間にハラハラと落ちて行った。乗客の会話が止まり、その視線は一斉に、落下して行く包み紙を追った。その顔が恐ろしい形相に変わり、今度はゆっくりとメグミを睨み据えた。
メグミの脳裏に、ナガサホテルでの恐怖が蘇って全身が引きつった。
「どうかなさいましたか?」
ゴミ回収のワゴンを引いている暗闇の男が怪訝そうに声を掛けてきた。
「・・・・・!」
「ゴミがあったらどうぞお出し下さい」
「・・・・・!」
メグミは凍りついたまま言葉が出ない。
「なければ…失礼します。ゴミはゴミ箱へお願いします」
ゴミ収集ワゴンを引いてゆっくり通り過ぎていく清掃スタッフを恐る恐る見ると内陸線車内販売の女性だった。
メグミは、あの時と同じ表情になっていた。
「内陸線名物はいかがですか? お米プリンはいかがですか? 幻の伏影リンゴジュースはいかがですか? 柴田ばあちゃんのバター餅はいかがですか?」
販売員と目があって我に帰り、自分の手から離したキャンデーの包み紙を慌てて拾った。その手の震えが止まらない。自分のバッグに納めるのがやっとだった。車内は元の穏やかな会話に戻っていた。メグミの錯覚だったかもしれない。
「なんなの、この村…」
内陸線が十二段トンネルを抜けた。車窓は再び豊かな沿線の自然を流しながら、終点・角館駅目指してひた走った。
〈第10話「松森会議」につづく〉
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