第5話 タギング

 この寂れた土地に流れて来る浮浪者が、そのまま居着く事はめったにない。 “なつ ”と呼ばれる中年の女の浮浪者ひとりだけは、決まって夏場になるとやって来ていたのだが、ここ数年前からその姿も見なくなった。最近になって見掛けないホームレスが、時折、駅舎の裏にある朽ちかけた物置に泊まるようになった。最初の頃は、車の音がする度にいちいち警戒もしたが、凡その出入り時間が決まっていることが分かると、殆んど気にならなくなっていた。


 今夜は、“不定期 ”な時間に車の音がするので、久々に警戒感が走って小屋の隙間から覗いてみると、案の定見掛けないワゴン車だった。そのワゴン車は、国道から駐車場に入るなだらかな坂の途中でエンジンを切り、ライトを消したまま、物置の反対側の駅舎の壁向こうに消えて停まった。ホームレスは胸騒ぎを覚えた。ドアの開閉の音が、時間差で聞こえてきた。複数の人数のようだ。激しい違和感に身を固くしながら “侵入者 ”の会話に聞き耳を立てた。


「しょぼいところだな」

「このボロ駅を最後にずらかるか」


 二人の男は車から降りるなり、手慣れた段取りで駅舎の壁にタギングを始めた。彼らにとってはこの村での三日目のアートパフォーマンスだった。昔から鍵を掛ける習慣のない集落の民家を、片っ端から物色したが、金目のものには全く有り付けなかった。その腹いせもあってか、スプレー缶から勢いよく噴射されるカラーペンキが、駅舎の壁面を容赦なく泳いだ。夜風に乗って刺激臭が物置の方向に流れた。ホームレスは咳き込むのを我慢するのに必死だった。


 この村には数日前からタギングが相次いでいた。この一日二日で町の電柱や民家、役場の壁にまで同じタッチの “作品 ”が描かれた。こうしたタギングを放置すると犯人は犯罪に無関心な地域とみなし、その行動が他の仲間へと伝播し、エスカレートしていくのが特徴だ。

 タギングが日本各地で散見されるようになったのは1990年代にインターネット上から各種メディア上に公開されるようになってからだという。タギングを放置すると “割れ窓理論 ”でいうところの「建物の窓が壊れているのを無関心に放置すると、他の窓も全て壊される」という心理で悪循環の増殖が起こる。活動が活発になり劣悪なタギングも増え、見る見る日本全域に拡散していった。タギングは、公共または個人の財産を汚損しているため、器物損壊の範疇で取り締まられているが、許可を与えたわけでもない突然の落書きに、被害者側からみれば軽すぎる刑である。消せども消せども繰り返し執拗な常習的手口は、所有者にとって単なる器物損壊などでは済まされない。鬼ノ子村の住民は、この初めての “無礼 ”に驚きと怒りがマックスに達していた。


 一人が仕上がりを確認しようと駅舎の壁面に懐中電灯を照らした。


「消せ! 車だ!」


 二人はワゴン車の下に潜り込んだ。物置のホームレスは、千恵子の車だと分かった。川釣り目的の宿泊客を、終電に合わせて駅まで送って来たのだ。駅舎に入る千恵子の顔が駅灯に照らし出された。


「驚いたぜ…見ろ、こんな田舎に上玉だよ」

「どうする」

「・・・・・」


 間もなくホームに角館行きの終電が入ってきた。終電でこの駅に降りる乗客などひとりもいない。千恵子は釣り客らを送って駅舎から出て来た。駅舎沿いに普段見掛けない車が停まっているのに目をやって “おや? ”と思ったが、そのまま自分の車に向かった。ワゴン車の下から抜け出した影が、千恵子の背後に近付いて行った。

 その一部始終を見ていた新米ホームレスが、とっさに手元に落ちている薪を掴み、影を目掛けて投げつけた。その薪が、誰やら地べたに寝ていた人間に当たったらしい。


「痛ッ!」


 新米ホームレスは慌てて身を伏せた。千恵子の足が止まった。タギング犯も大慌てで近くに積んである枕木の隙間に倒れ込んだ。千恵子が振り返ると、地元の住人らしい男がだらしなく起き上がった。


「なんだ、金治じっちゃでねが。また酔っ払ってここに寝てんの? そんなにここが好きなら家建ててこごさ住む? ばっちゃに叱られでもしらないよ」

「クソばばあだば、な~んもおっかねぐね!」

「酔ってない時にもういっぺんその言葉聞きたいね、さ、送ってってやるがら車に乗って!」


 千恵子は慣れた段取りで老人を抱えて自分の車に連れて行った。


「酔ってる分だけ粗末になりま~す」

「酔ってねえ!」

「はいはい! ドア閉めるよ! 挟まったら痛いよ!」

「年寄りばもっと大事に扱え!」

「酔っ払うといつも体重3倍だな、じっちゃ」

「おめ、千恵子だな」

「そう、千恵子だよ」

「千恵子だば仕方ねな、言うごど聞くべ」

「そう、わたしの言うごど聞がねば明日がら酒っこ呑めねぐされるよ」


 やっとの事で老人を乗せて千恵子の車は駅舎を後にした。枕木の横に寝そべって潜んでいた影が駅舎の壁に戻ってきた。


「ちッ、酔っ払いじじい!」

「じゃ、お絵描きだけにしますか…あれ?」

「どうした」

「臭い…」


 戻ってきた影も悪臭に気付いた。


「踏んだな、おまえ…」

「クソッ、あの枕木のとこだ」

「さっさと仕上げて引き上げるぞ」


 影は再び懐中電灯を点灯した。その灯りで素早く壁にスプレーを吹き付けて仕上げに取り掛かった。じっと息を殺していた新米ホームレスが、漂ってきた刺激臭に思わず咳き込んでしまった。影は慌てて懐中電灯を消した。


「おい、見えねえだろ」

「黙ってろっ!」

「…どうかしたのか?」

「誰か咳しなかったか…近くだ…」


 影らは気配のする駅舎の反対側に向かった。近付いて来る影は二つだ。慌てた新米ホームレスが、物置から飛び出したところで二人のタギング犯と鉢合わせしてしまった。


「やあ、こんばんは」

「何も見てない!」

「じゃどうして逃げようとするんだ」

「オレはただのホームレスだ、見逃してくれ!」

「ホームレス? へえ~こんな田舎にもいるんだ」


 新米ホームレスは一瞬の隙を突いて遁走した。


「どうする?」

「顔を見られた。声も聞かれた。やるしかねえだろ!」


 新米ホームレスは走り出した。駅前の国道を突っ切り、坂を上って旧・鬼ノ子村小学校跡地の空き地に逃げ込んだが、いつの間にか二人の男に二方向から挟まれて、身動きが取れなくなってしまった。


「見逃してくれ! 助けてくれ!」

「てめえらブルーテントの連中のその哀れさには反吐が出るんだよ!」


 男はジャンパーのポケットからビニール袋を出した。


「おまえ…なんで生きてんだ?」

「何する気だ」

「四、五分だけ我慢しろ…幸せにしてやる」


 新米ホームレスはいきなりビニール袋を被せられて押さえ込まれた。必死に抵抗したが呼吸困難になって動きが次第に鈍くなっていった。顔に貼り付いたビニールが自分の息で白く濁っていく。暗闇にぼんやりと灯りが霞んで見えた。外灯だ。鈍痛が走った。息が出来る…被せられたはずのビニールはどうしたんだろう。どうやら自分は今、袋叩きに遭っているようだ。


「窓口でふんぞり返ってんじゃねえんだよ!」

「私に何の怨みがあるんですか!」

「断ったろ、てめえ!」

「断った? 何をですか?」

「ナマポだよ!」

「ナマポ?」

「生活保護をおめえの窓口に頼みに行った男を覚えてるだろ!」

「あ・・・」

「思い出したか…おめえはそいつを断った!」

「生保の受理条件を満たしていなかったと思います」

「るせえんだよ! 今満たしてやるさ!」


 一同はさらに暴行を加えた。


「明日もう一度おめえの窓口に行くからな…受理しろよ、いいな」

「それはできません、あの方は…」


 みぞおちに強烈な蹴りが入る。


「受理しろ」

「お断りします」

「そうか…やれ」


 一同の暴行が始まり、視界が白濁して閉じた。


 何か手応えがあった。目の前に自分を襲ったはずの族のひとりが倒れて痙攣していた。その族の向こうには、もう一人の族が顔を引き攣らせて立っている。これが現実なのか幻覚なのかと思いながら、意識が再び闇に包まれたのも束の間、心臓を握り潰されるような苦しみで新米ホームレスはわれに返った。しかし体を動かすことができない。さっき自分を襲ったはずの二人組みが、別の集団の影によって逆にビニール袋を被せられてもがいているのが見える。あれも幻覚なのか…。肩で激しく息をしている自分が、寸でのところで開放されたことに気付くまでにはしばらく時間が掛かった。目の前でさっきの自分のように呼吸困難になって暴れる男が居る。男を押さえ付けて取り巻いている集団は誰なんだろう。

 気が付くと、自宅近くの路上でうつ伏せに倒れていた。這うようにして玄関に辿り着くとドアは開いていた。異常を感じて家に入ると、寝室で妻と幼い娘が無残な姿で息絶えていた。新米ホームレスは絶叫した。

 今までの情景がまた一変した…というより元の空き地に戻ったのか…集団の影たちが一斉に振り返ったようだが暗くて誰の顔も見えない。ただ懐中電灯に照らし出されて、恐怖に引きつった二人のタギング犯の顔だけがくっきりと浮かんでいる。その目は大きく見開かれたまま静止し、ぐったりとなっている。そして、集団によって無造作に引き摺られて闇に消えていった。


〈第6話「地元記者」につづく〉

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