第4話 シカリの宿

 民宿「シカリの宿」の前にかなり旧型の軽乗用車が停まった。黒川夫妻を送ってきた藤島刑事の車である。民宿の女将は藤島たちの到着を待っていたらしく、早速玄関の外に迎えに出てきた。


「ご苦労さんだったしな」

「おがさん、したら私はこごで」

「あれ、お茶っこだげでも…」

「交番の西根さんど、これがら小沢こさわ鉱山まで行ぐんてな」

「まだ小沢鉱山だしか」

「何べんでも行がねばな…したら黒川さん、少しでも疲れを取って下さい」

「ありがとうございます」

「あじましぐねがったしな、したら気を付けて!」


 黒川夫妻を民宿まで送った藤島は、女将の声に送られながら、おんぼろ車で去って行った。


 民宿「シカリの宿」の主・松橋良三と妻の圭子は改めて玄関に立ち、深い優しさで黒川夫妻を出迎えた。この宿は日光マタギの流れを汲む代々のシカリ継承の家柄で、主の良三は第十四代・シカリである。黒川夫妻は玄関の様子に目を見張った。そこには代々のシカリが使用した槍や山刀などの武器や、耐寒用の装備、仕留めた熊の剥製などが無造作に展示されていた。土地の風習など知らない黒川夫妻には何やら不気味な空間に映った。特にマタギの武器からは、その形状を見るだけで熊との死闘の歴史が生々しく漂ってくる。例えば一発勝負の火縄銃の時代には、弾丸が外れた場合に「クマ槍」と呼ばれるマタギ猟に進化した槍に持ち替えて立ち向かい、突き刺したら押し付けたままの「押し刺し」という使い方をしたそうだ。年代物の大小さまざまな山刀も展示されている。鬼の子村のマタギの伝統的な武器は「ナガサ」と呼ばれる、先が刀のように反り返り、引き抜く時にも鋭い切れ味で獲物にダメージを与える形状になっている。狩りにはマタギの誰もが魂として山刀を携帯し、武器として以外にも仕留めた獲物を捌くなど様々な用途で使用された。一際目を引くのが柄の部分まで鉄製の袋状になったナガサだ。袋状になった鉄部の柄に棒を差し込んで、槍としての武器にもなる。これは主の良三が荒瀬地区の鍛冶屋に提案して開発させた「フクロナガサ」と呼ばれる特殊なナガサである。

 黒川俊介は、黒く光るこの武器に落命と背中合わせのマタギの世界の一面を見た思いがして戦慄が走った。しかし、良三の穏やかな表情にはそうした世界に生きる片鱗すらなく、極限で鍛え上げられた人間だけが到達するであろう畏敬のようなものが漂っていた。

 鬼ノ子村では多くの伝説のマタギ衆が誕生している。幕末から明治初期に活躍した「重ね撃ち竹五郎」、どんな獲物も一発で倒した「一発佐市」、山渡りがべらぼうに速い「疾風の長十郎」、クマと格闘した「背負い投げ西松」など。良三にも「飛び撃ち良三」という呼称がある。


 良三がシカリになってまだ間もない頃の事。相棒の放った弾が僅かに熊の急所を逸れた。手負いとなったその熊が、突然起き上がって良三に猛進してきた。良三はとっさに雪の斜面を駆け上がった。一方の相棒は斜面を下って谷折の向いに飛んだ。すると良三を追ってきた熊は、突然体を翻し、下った相棒を追った。谷折を飛んだ熊が相棒に追い付き襲い掛かったかに見えたその時、良三も谷を飛んでいた。谷を飛びながら一発を放っていた。熊は「サジドレゴエ」とマタギが呼ぶところの、仕留められた時の唸り声を上げて谷をころげ落ちて息絶えた。寸でのところで相棒は助かったのだ。以来、良三は「飛び撃ち良三」として歴代の伝説のマタギ衆に名を連ねることになった。


 民宿「シカリの宿」は良三の父親の代に、屋敷を広げて博労や鉱山労働者を泊めるようになった。この地では馬の競りなども行われていた。この民宿の歴史は古く、当時の名残りがある。民宿の庭の池の側には人工的に穴の空けられた「馬つなぎ石」が無造作に雨ざらしで現存している。

 鬼の子村から20キロ圏内には、江戸の昔から鉱山景気で栄えた鉱山跡が点在している。そのため鬼の子村はかつて物資の往来の中継地点として人馬の往来も多かったのだ。マタギに限らず、山に関わる者が一度は通る「つやこ」という厳しい水垢離の儀式があった。「オガワノミズヲ堰キ止メテ、我ガ身ニ三度、アビセタマエ、ハライタマエ、キヨメタマエ、南無アブラウンケンソワカァ!」と大声で気合を入れながら、寒風で身を刺すような水を受け、体から湯煙を上げて身を清める風習だ。良三の代あたりからその風習も消え、新暦の十二月十二日の山神様の祭りが残るだけとなった。


 民宿「シカリの宿」も、今は釣り客や観光客がほとんどだ。良三の妻・圭子は、鬼の子村とは正反対の、秋田県では都会に類する能代の人だ。嫁ぐ日の列車は予約の必要もない利用頻度の低い列車だったが、その日はたまたま満席で圭子の座る場所もなかった。嫁ぎ先の鬼の子村では、今か今かと祝言を待っているので絶対に遅れるわけにはいかない。駅員の機転で何とか列車には乗れたが、そこは貨車だった。折角の嫁ぐ日なのに貨車というのは…などと若い圭子は動じることもなく、駅員の精一杯の手配にただただ感謝した。貨車に揺られながら、圭子はお見合いの席での良三の言葉を思い出していた。


「米代川ばずっと遡れば鬼の子村だ。水で繋がってる」


 圭子の嫁いできた頃は、まだ厳しいマタギの習慣が残っており、シカリの嫁として覚えなければならないことは山ほどあった。つらくなった時にはいつも、あの見合いの席での良三の言葉を思い出して故郷を近くに感じて堪えた。シカリの妻が板に付いたのは娘の千恵子が小学校に上がったころだったろうか…宿は圭子の人柄が、多くのリピーターの心を捉え、過疎の土地にあって長く維持されてきていた。


 黒川夫妻が最初に案内された部屋には、大きな熊の毛皮の敷物があった。


「遠くからよく来てけだしな。疲れだしべ。まじは上がってたもれ」


 圭子のこの言葉は、初めて嫁いできた日の自分への励ましの言葉でもあったろう。夏だというのに中央の囲炉裏にはオキ(煌々と火の入った炭)が入っていた。開け放たれた隣の大広間の畳を這う涼しい自然の風が、時折、オキを撫でて心地良い肌触りを醸す。黒川夫妻は良三夫婦の案内のままにその囲炉裏を囲んで座った。圭子が入れてくれた熱い煎茶の湯気に、黒川夫妻はこの地に来て初めての安堵を覚えた。


「玄関で驚がれでだようですな」

「あ…ええ…何というか…」

「この土地は昔から熊狩りの風習がありましてね。うちは先祖代々なもんだしから」

「そうでしたか」

「幕末の戊辰戦争で官軍側についだ佐竹公が、私らの先祖のマタギの鉄砲の腕さ目え付けで、藩の兵隊にしたもんだし。今でいう特殊部隊というやつだべしな。そのマタギだぢは “新組” と呼ばれで大活躍したもんで、マタギは幕府の隠密だどがって思った人も居であったしものな」

「あんた、そんったら話をしても…」

「いや、お聞かせください。この土地がどんなところかも全く知りませんので」

「んだしべ。山の奥の奥だしものな。まさがこんな僻地の里が国の歴史に大きく絡んでだなんて思わねしよな」

「あれは何ですか?」


 俊介は囲炉裏の上に吊るされている黒い小さな塊を指した。


「ああ、熊のだし。万病に効ぐ漢方薬だしな。昔は貴重なマタギの現金収入源だったものだし」

「マタギ?」

「この土地に伝わる猟師のごどをそう呼ぶんだし」

「そうでしたか」


 囲炉裏端を少しの沈黙が包んだ。主の良三は改めて恭しく正座をした。


「この度は大変な事でさぞお気落としの事だと思います。したども、人の縁というものはどんな事情であれ、出会った事には必ず訳っこがあるもんだんてな。これをご縁に宜しくお願いします」

「こちらこそ…いろいろとご迷惑をお掛けするかもしれません。知らない土地ですのでどうかお力になって頂ければ幸いです」

「それだば、なんも心配さねでけれ。娘の千恵子どのご縁だしもの。私にできるごどは何でもさせでもらいます。私はこの土地しか知りません。なしておらだがこんたらド田舎の村さ生まれだが考えだりもしました。それは山神様がおらだマタギに与えでけだ宿命だべど…したどもマタギは時代に消されようどしてる。山はなんも変わらねのに人の暮らしはどんどん変わる一方だ。今、おらだぢ残されだマタギに出来るごどは、マタギの根性を持ち続げるごどしかねんだし」

「ぬるぐなったしな」


 妻の圭子が再び煎茶を入れた。


「黒川さん」

「はい」

「熊には危険だ時が三つあってな。手負いの熊、人に飼われだごどのある熊、仔持ちの熊…息子さんの無念を晴らしたいなら腹を決めるごどだしな。法で裁げねものでもマタギの根性なら裁げる」

「マタギの根性…」

「んだし。マタギの根性だし」


 黒川夫妻の目と良三の目が一瞬だが強く固定された。圭子が入れ直した煎茶を差し出すと良三は自分から膝を崩した。


「まじは膝っこ崩してけれ。固い話はここまでで終わるべし」


 囲炉裏のオキに灰をかけて火加減を見ながら話しを続けた。


「この町の人間はみんなあんだ方の味方だがら。今は辛いべども、息子さんのために、こご一番踏ん張ってたもれ」


 良三の言葉は黒川夫妻の心に染みた。


「ありがとうござい…」


 俊介の妻・はる子の言葉はそれ以上続かなかった。


「安の滝には伝説がありましてね」

「お父さん!」

「悲しい伝説なんでやめておきますが…あはは、この土地はなんもねえしども、伝説には事欠がねしな。昔は子供を間引きさねばなねほど貧しい時代があったんだし」

「お父さん!」

「なんだよ?」

「もう…この人は初めての方にはいつもこの話をするんですよ。やめてよ、お父さん!」

「いえ、どうぞ聞かせて下さい。ご主人のお話を聞かせて頂く方が気持ちも落ち着く気がします」

「そうですかあ? お疲れだと思いますので無理なさらないで下さいね」

「いえ、無理なんてそんな」

「おまえはいちいちうるひぇな。黒川さんは聞きたいんだから」

「はいはい、じゃどうぞ!」


 潤んだ目のはる子が思わず噴き出して笑った。そんな妻を見た俊介の笑顔から、急に涙が溢れ出した。


「あ…ほんとに申しわげねしな、黒川さん。やっぱりお休みになったほうが…」

「いえ違うんです…しばらく笑うのを…笑うのを、忘れておりましたので、妻の笑顔を見て…」

「んだしべ…んだしべ…熱いうちにお茶っこでも飲んでけれ」


 圭子は囲炉裏の鉄瓶のふたを布巾で摘まんだ。少なくなって煮えたぎった湯気がふわりと拡がった。良三は大きなアルミのヤカンを持ち上げて囲炉裏のアクにこぼれないよう慎重に新しい水を足すと、圭子は慣れた手つきで鉄瓶のふたを閉じた。


「占ってみだしよ」

「え?」

「このヤカンの水がこぼれれば、灰が勢いよく舞い上がって大変なごどになります。したども、一滴もこぼれねがった…黒川さん…」

「は…」

「悪者退治は必ず、うまぐえぐしよ」

「はい!」

「このヤカンの水は、娘の千恵子がね、黒川さんのためにって安の滝で汲んできた水だし」

「千恵子さんが安の滝に?」

「黒川さんがお見えになる前にと、今朝早ぐにね。おいしい水ですよ」

「安の滝は遠いんですか?」

「ここから車で40分ぐらいです。そこから45分ぐらい歩いで登るど、美しい二段滝があるんだし。その滝の水は、夏場でも不思議と駐車場まで戻っても冷たさは変わらねんだし」


 黒川夫妻は圭子が入れた濃い煎茶を啜りながらおいしいと思った。このお茶の味は一生忘れないだろうと思えた。他人の苦しみをこうして大きく包み込む主夫妻の心は、この地の大自然の厳しさから習得した術なのだろう。東京では味わう事のない神聖な空気が部屋に流れていると思った。


「間引きとか仰ってましたが…」

「それだよ。昔はな、産児制限とかには無頓着なもんで…」


 良三の話によると…この村にも間引きの貧しい時代はあった。子供の食い扶持に困って、やむなく親の手で我が子を死に至らしめた。間引くために、トリカブトが使われた。空腹の子に茹でたトリカブトを与えて、親はしばらくその場から姿を消した。親にとって、身が裂けるような時間が過ぎていったことだろう。トリカブトの根は勿論の事、全草にアコニチンなどの毒があり、減毒を施して漢方薬として使われている。減毒には減圧加熱か塩水で2~3日煮る方法がある他、残熱の灰の中にトリカブトを濡れた和紙で包んで埋める方法などが施されて漢方薬となる。親は我が子がどんな苦しんだ状態で死んでいるのか、涙を堪えて確認に行くと…


「これだば美味えんて、まだ山がら採って来てけれな、かっちゃ(母さん)」


 と子供は元気に答えた。親が驚いていると…


「食うべど思ったら硬がったんで、もう一回 “あぐ(囲炉裏の灰)” で煮でから食った。まだ山がら採って来てけれな、かっちゃ」


 子供はかつて、硬い山菜は “あぐ ”で茹でると柔らかくなると、親に教えられたとおりに灰で煮込んだ事で、知らぬ間に減毒作用が施されていたのだ。良三は初対面の宿泊客には決まってこの “間引き ”の話をするのが慣例になっていた。


「父さん、またその話? 母さん、なんで止めさせないの!」


 と言って千恵子が入って来た。千恵子は日本画から抜け出たように、透明感のある容姿だ。目鼻立ちがはっきりして、妖艶というより健康的な美しさがある。野性的な目元は、シカリの父に似ていた。スキー競技では東北屈指の記録保持者でもある。


「止めだわよ」

「すみません、お疲れなのにこんな話にお付き合いさせてしまって」

「いえ、興味深いお話でした」

「したらまじは、ゆっくりしてってたもれ」


 千恵子が来たので、良三と圭子は部屋を出た。


「初めまして。松橋千恵子と申します。この度は智弘さんが…」


 千恵子はそこまで言うと声を詰まらせた。


「初めまして。智弘の父です。これが家内のはる子です。智弘の事ではいろいろと…」


 仏間からだろうか…漂う線香の香りがする。三人は無口のまま時を委ねるしかない悲しい空気だった。千恵子は囲炉裏の自在鉤に掛かる鉄瓶からお湯を取り、黒川夫妻に新しい煎茶を淹れた。湯気を絡んだ緑茶が、急須の口から優しい音色を立てて注がれた。


「智弘さんとお付き合いさせていただいてました。私の生まれ故郷には何も見るものなんてないんですが、智弘さんは廃坑を観たいといって、こんな山奥まで遊びに来てくれたんです」

「廃坑?」


 千恵子は黒川夫妻に智弘の手紙を渡した。


「智弘さんは、自分が死んだらあの火葬船で…」

「火葬船?」

「はい…あの日…」


 千恵子の頬をひとすじの涙が伝った。


 鬼ノ子村駅から内陸線・鷹巣行きが発車した。ホームには智弘と千恵子が立っていた。


「いらっしゃい!」

「この駅…いい香りがする」

「空気がきれいでしょ」

「野草の香り」

「野草だらけだから」


 千恵子は笑った。


「夢があるんだ」

「夢?」

「野草の栽培…」

「野草?」

「全国に分布する魅力的な野草種を一箇所で栽培して、それを全国に出荷したいんだ」

「なぜ野草なんかを…」

「昔、友人の披露宴に出席した時にこれだと思った。それはテーブルの中央にあったんだ。 それまでに出席した披露宴では、どれも華やかな気持ちになるようなアレンジメントがなされていたのに、その友人の披露宴の飾り付けは寧ろ貧弱にさえ思えた。おや?と思って逆に目を引いたんだ」

「それが野草だったのね」

「近くのテーブルに付いたひとりのご年配のご婦人が、うわーッと感嘆の声を上げたんだ。すると周辺の方々も野花に気が付いて大変な喜びようだった」

「野草がそんなに感動を与えるなんて意外よね」

「最初は単なる郷愁なんだと思った。でも、僕自身、野草を見ているうちに癒されて来たんだ。この披露宴を企画した新郎であるその友人が、苦労して全国からいろいろな野草を集めたらしい。彼らしいなと思った。彼の暖かさが心に染みたよ。お仕着せの豪華な花より費用が嵩んだろうに」

「素敵な披露宴だったでしょうね」

「過疎化の町では土地があっても高齢化で耕す人が居なくなる。野草の栽培なら稲作より数段手間が掛からない上、品種の保存にもなる。お年寄りにも手伝ってもらえば町の活性化にも繋がるかもしれない」

「素敵な夢ね。新しい道路が出来てその利便さの陰で、知らないうちに絶滅している貴重な野草種があるかもしれないと思うと複雑だわ。この土地が自然に恵まれているといっても、それは人の側からの思いだから。自然の側から見れば間逆よね」

「ひとりひとりが、自分に出来ることをするしかないよ」

「そうよね」

「栽培が軌道に乗ったら…この土地の人と結婚して、両親も呼んで…幸せに年老いて…そんな夢をみたりして…」

「私も手伝いたい!」

「実現するかな?」


 千恵子は大きく頷いた。


「そう…なんか、本当に実現しそうな気がしてきた」

「実現させようよ!」

「そうだね!」

「ええ!」

「ぼくは、いつかここで送ってもらいたいな」

「え?」

「千恵子さんに…」


 仏間で囲炉裏の自在鉤に掛かる鉄瓶から白い湯気が噴き出した。黒川夫妻が何度も頷いていた。


「智弘がそんな夢を…」


 圭子がお茶受けに、山菜の “ミズ ”の漬物を用意して入って来た。


「うちで漬けたミズのお漬物だしども、お味見してたんせ」


 圭子は黒川夫妻のお茶を入れ直した。


「智弘とは大学で?」

「いえ、図書館で…国立国会図書館で初めてお会いしました」

「図書館で…」

「卒論の資料を探していたんです。偶然に智弘さんも同じものを探していたんです」

「同じ本を…」

「この阿仁地区に栄えていた鉱山の資料です。そんな本はめったに見る人がいないと思ったのに。それが同じ大学の同窓生だったんでお互い凄く驚きました」


 阿仁一帯は今でこそ過疎化の波に飲まれてしまったが、金が産出されていた当時は阿仁金山と呼ばれて鉱山景気で賑わっていた時期もある。小沢鉱山、萱草かやくさ鉱山、真木沢まぎさわ鉱山、三枚さんまい鉱山、一の又鉱山、二の又鉱山の六ヶ所を総称して阿仁鉱山、または阿仁六鉱山と呼ばれる。黒川智弘の殺害現場となった小沢鉱山は、その中でも金山として最初に発見された鉱山である。

 金も掘りつくした寛文十年(1670年)に銅の鉱床が次々に発見され、幕府の御用銅は日本随一となった。阿仁銅には銀の含有量が多い事から幕府は平賀源内を派遣し、銀絞法の “真吹 ”という精錬技術を伝習させたと伝えられている。鉱質の低下によって1931年頃に操業が一旦停止されたが、戦時下に入った影響もあってか、四年後に再開されている。しかし鉱物の国際相場の暴落などで採算が取れなくなり、昭和四十五年(1970年)に670年続いた採鉱の幕を閉じて以来、六ヶ所の阿仁鉱山は放置状態のまま荒れ放題となっていった。

 鉱山跡周辺一帯の山懐には墓らしき苔生した石が数多く点在している。劣悪な労働環境で “よろけ ”などと称した塵肺症患者や、硅肺病の鉱害や災害の犠牲者は想像を絶する数に登ったのではないだろうか。それから半世紀近くが経ち、鬼ノ子村駅は誰からともなく火葬船桟橋駅と呼ばれるようになって久しい。


「明日はどうなさいますか?」

「警察の方が大学病院に連れてって下さるそうですから、秋田での諸々の手続きを済ませたら、一旦東京に帰ろうかと思います。ただ、帰る前にその火葬船桟橋を見てからにしたいと…」

「私に案内させて下さい!」

「宜しいんですか?」

「そうさせてほしいんです…夕飯まで少しありますからお風呂でも」

「支度ができたらお呼びしますので、“ミズ”でも味見しながらお待ちください」

 そう言って圭子と千恵子は席を立った。


 黒川夫妻は静寂に包まれた。騒音のない土地。自分の呼吸の音が聞こえる。控えめな野鳥のさえずりに、やっと部屋を眺める落ち着きを取り戻した。目の前の囲炉裏に架かる自在鈎を辿ると、がっしりとした天井の梁組みが竜のようにくねって黒光りしている。板戸が開け放たれた隣室に目をやると、陽射しを柔らかく反射させた琥珀の板の間が、部屋に心地良い光を取り込んでいる。さらにその奥の大部屋の畳が、鈍い黄金の光でぼやけている。


「智弘の事、何も知らなかったのね、私達…」

「子供はいつの間にか親から巣立ってしまってるものなんだね」

「智弘はとっくに、私達から巣立って行ってたのね」

「・・・・・」

「ずっと遠くへ…もう、帰ってこないのね」

「ああ…もう、帰って来ない」

「でも…智弘は恋だってできたのよね。好きな人と将来の夢だって語り合えたのよね」

「そうだな。生きていたら…きっと千恵子さんと結婚して、かわいい子を儲けて…」

「・・・・・」

「私は、二人がこっちで所帯を持つなんて言ったら反対してたかもしれんな」

「そうよ、あなたは反対したわよ。私は賛成したと思うわ。あなたと違って理解があるもの」


 そう言ってふたりは無言になった。千恵子が迎えに来た。


「お支度ができました」

「千恵子さんはきっと良いお嫁さんになりますね」

「あの…」

「え?」

「私は智弘さんがこの鬼ノ子村駅に降りた時、思ったんです。もしかしたら私はこの人と結婚するかもしれないって…そう思ったんです…思ったんです」

「千恵子さん…ありがとう」


 黒川夫妻は、千恵子の心の傷が未だ癒えていないことを知って、それ以上言葉が続かなかった。俊介はゆっくりとお茶をすすった…ふりをした。玄関のほうで電話が鳴った。圭子が対応する声が聞こえる。宿泊客の予約のようだ。千恵子は黒川夫妻を部屋に案内した。


 翌早朝、千恵子は車で黒川夫妻を火葬船桟橋を経由して鬼ノ子村駅に送った。


「お陰様で火葬船桟橋も見れました」

「智弘を引き取ったら、その足であの子の願いどおりに、火葬船で送ってあげたいと思います。千恵子さんも一緒に送ってくれますか?」

「待っています…私…」


 思わずはる子と千恵子は抱き合って嗚咽した。遠くで汽笛が鳴いて、終点・鷹巣行きの電車が鬼ノ子村駅のホームに入って来た。


「私の作ったお弁当です。宜しかったら内陸線の中ででも…智弘さんに食べてもらったのと同じ “マタギ ”のお弁当に…」

「千恵子さん…ありがとう…」


 黒川夫妻を乗せた内陸線が、鬼ノ子村駅を発車する。早朝に包まれた内陸線の後ろ姿がどんどん遠ざかって霞に消えた。知恵子にとって見慣れた電車だが、こんな悲しい姿に写るのは初めての事だった。


「智弘さん…明日、野草を生けて…待ってるね」


〈第5話「タギング」につづく〉

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