第3話 老夫婦

 急行もりよしが鬼ノ子村駅のホームにゆっくりと入って来て停まった。内陸線は29駅ある。有人駅は角館、阿仁合、鷹巣の3駅、委託駅が合川あいかわ阿仁前田あにまえだ米内沢よないざわの3駅、他23駅は無人駅である。この鬼ノ子村駅に降りる殆どの旅客は火葬船桟橋を目指す。


ここは火葬船桟橋のある村

善い人だけが暮らす村

悪い人が消える村


 車掌は地元乗客たちと顔なじみで、今日も一緒にホームに降りて談笑しながら改札を始めた。各駅停車の場合、無人駅の改札は運転士が、急行は車掌が行う。少し遅れて地元住民とはどことなく雰囲気の違う老夫婦が降り立った。黒川俊介とその妻・はる子である。地元民たちは黒川夫妻に軽く会釈してから駅舎を出て消えて行った。あの日以来である。


「智弘…やっと会えるね…」


 駅舎を出ると、この土地の守護山である阿仁太平山などの山々が目の前にそびえている。駅前には火葬船桟橋に抜ける国道が線路と平行に走っている。大覚野峠からの旧・阿仁街道(大覚野街道)と呼ばれた国道105号である。この国道を少し南下すると、阿仁川の支流である鬼ノ子川に架かる橋があり、その先に鬼ノ子村トンネルがぽっかりと口を開けている。トンネルの手前左から内陸線沿いに県道308号が伸びているが、100メートル程行くと、火葬船桟橋の正面入口が見えて来る。その先の大きくカーブした村道を下りると、土地の風情には不釣合な白い羽立橋がある。その橋の下に火葬船のドッグが拡がり、川沿いの地形を利用した付属施設が一望できる。


 わが国では、団塊世代といわれる1947~49年(昭和22~24年)生まれの約700万人が2007年から2009年にかけて大量の定年退職を迎えた。少子高齢化、核家族化、過疎化によって、特に都市部での墓地や葬斎場、火葬場の需要が増大し、供給とのバランスが崩れつつある。このまま行けば、団塊世代が2030年代に平均寿命を迎え、死亡者数がピークに達するという。過去に火葬までに何日も待たされるという事などまずなかったが、既にその兆候が表れて久しい。葬斎場や火葬場の絶対数が不足して来たという事で、この先、団塊世代の波がどのような影響を及ぼすのかは歴然としている。さらに、厚生省の通達では、火葬場の許認可を民間の企業には下ろさない指導方針のため、民間のみでの火葬場運営は難しい現状となっている。かといって、許認可の対象となっている自治体はといえば、殆ど対策に前向きではない。ところがこの鬼ノ子村では、全国に先駆けて地形を利用した川による火葬船構想を打ち立てた。火葬場不足に悩む全国の利用客を美しい自然に恵まれた地へ呼び込み、故人と遺族を癒しの観光葬に誘おうというコンセプトである。将来、死亡者数のピークが過ぎたとしても、船であれば観光船に切り替えることによって余剰施設とはならないばかりでなく、全国にこの自然豊かな土地の知名度を上げるには絶好の手段でもある。

 鬼ノ子村・村長から火葬船構想の説明会があった折に住民の反対がなかったわけではない。過去に近隣地区の杉神村すぎがみむらでは放射性廃棄物処分場の騒動が起こっている。最終処分場誘致の検討すらせざるを得なかった財政破綻末期状態の現状は、杉神村のみならず阿仁地区全体の解決し難い共通の難題であった。火葬船構想はそうした杉神村の轍を踏まえて、金縛り財政打破のために持ち上がった産みの苦しみの結果だった。焦点は処分場誘致の悪夢があるだけに、構想の安全性が大きな関心事となった。そこで市は、河川の汚染に詳しい有識者や造船関係のスタッフに火葬技師を加えた委員会を結成。委員会からは住民への調査研究の経過報告を回覧板や駅前など公共施設の掲示板で頻繁になされ、それが功を奏して住民の協力が追い風となった。構想は実現へと一歩一歩急ピッチに進められて、その成り行きは全国の関心を集める事にもなった。阿仁地区の河川の歴史も大きな追い風となってこの計画を現実へと導いた。栄華を誇った阿仁鉱山の舟運の歴史が、新たな形で本支流で繋がる平成合併の四町を蘇えらせる結果となったわけである。

 火葬船の運営は予想を遥かに上回って、営業開始前からの問い合わせが殺到。開始と同時に全国から多くの利用客がやって来るようになった。更に阿仁地区の未だ未開の自然は、全国の火葬船利用客をその後もリピーター観光客として固い絆で結んでいってくれたのである。そして、内陸線沿線の寺では利用者からの要望が相次ぎ、遺体の保管施設が充実した事によって火葬の日程の幅が広がった。その結果、遺族の心にゆとりができ、一連の葬のセレモニーに遺族の保養と観光の意味合いが加えられて中期の滞在を求められたため、寺を初めとして、民家での宿泊の受け入れも可能になっているところが増えている。

 計画当初、一番危惧されたのは天候の影響による弊害であった。川の荒天だけでなく、この地は東北内陸の山間部という事で豪雪地帯でもある。一年の半分が雪解け後のメンテナンスを含めて大なり小なり雪の影響を受ける。火葬船稼動の季節が限定される事は運営的に大きな打撃である。しかし、桟橋にはメンテナンス用の火葬船ドックが建設されていた。このドックは二艘の火葬船が停泊出来る設計になっており、荒天の場合の停泊火葬への切り替えが可能になっている。火葬船のメンテナンス日は鬼ノ子村の市日に当たる “5 ”の付く日であるが、その日以外は神棚を祀る正月と盆暮れを除いてフル稼働のため、厳寒の冬季でも遠方からの利用者を待たせる事はない。政府からの “悪魔の埋葬物 ”の誘惑に打ち勝った氏子に、奥羽の大自然から与えられた恵みなのかもしれない。


 駅に降り立った黒川夫妻は一年前の記憶を辿っていた。二人は走る終電の内陸線に乗っていた。薄暗い車内灯の灯りが黒川夫妻の疲れ切った姿を窓に映していた。妻のはる子は、その姿をじっと見ていた。


「私達…幽霊のようね」

「疲れたろ…」

「いいえ」

「・・・・・」

「警察なんて当てになりませんね」

「あそこに住もうか」

「え?」

「あの町に引っ越そうか…智弘が住みたかった土地で、老後を過しながら弔うのもいいかなと思って…」

「・・・・・」

「冬になれば真っ白になって何もかも消えるんだ」

「消えないわ…絶対消えない…消さない」

「…そうだな」

「智弘を近くに感じられるのはここしかない」

「あなた…それだけじゃないでしょ?」

「・・・・・」

「逃げたくないんでしょ? …何年連れ添ってると思ってるの?」

「智弘が遺体で見つかったという廃坑に行ってみたくなった」

「慣れない年寄りの足では無理って言ってたでしょ」

「慣れればいい。智弘のためならすぐに慣れるさ。私は一人でも必ず行く」

「・・・・・」

「あれから音沙汰なしだな、捜査の状況…」

「何か、真っ黒いものが立ちはだかっている気がするの」

「犯人は私たちを知っただろう。年寄り夫婦だと思ってのうのうと高をくくってるはずだ。でも、私たちが動けば黙ってはいないかもしれない」

「私たちを殺しに来るかしら」

「そうかもしれない…いや、それでいいんだ。そうなれば犯人に近付いてるということになる」

「こんなに長い間、捜査に何の進展もないなんて…」

「なにかしっくりしないね」

「警察なんて…。自分の子どもじゃないんだから」

「所詮、他人事なんだからな」

「犯人は二人で見つけ出すしかないのよ。私たちが生きているうちに仇をとってあげないと」

「犯人に殺されたって、幽霊になってでも智弘の仇は討ってやる」

.

 二人は改めてゆっくりと窓に映る自分たちに目をやった。息子の遺言どおり、本人の遺体は火葬船で荼毘に伏し、自分たち夫婦は長年住み慣れた東京を離れ、この土地で晩年を送る決心をしたのだった。喪が明け、息子の遺骨とともにこの鬼ノ子村に引っ越して来たのである。


「あれから一年が経ったのね」

「智弘もきっと許してくれる…」

「私達の時計の針はあの日に止まって…」


 夫妻は忌々しい報せの電話が鳴った時からのことを思い出していた。


「黒川でございます…はい、智弘は手前どもの息子でございま…秋田県警?」


 はる子の顔色が失せた。


「どうしたんだ?」

「あなた…」


 愕然とした二人の時間は過去に逃避していった。木漏れ日に笑う幼い智弘の姿があった。成長する感動の日々が心地よく黒川夫妻の記憶に蘇った。気が付けば二人は、秋田新幹線こまちに座り、受け入れがたい現実へと向かっていた。


「人騒がせよね…人違いに決まってるのに…」

「・・・・・」

「行き違いになるかもしれないと思って食事は冷蔵庫に…」

「・・・・・」

「あの子、今頃どこほっつき歩いてんのかしら…」


 殺害された智弘の遺体を確認した黒川俊介が妻・はる子の肩を抱きかかえて霊安室から出て来た。秋田県警の刑事・藤島周平と鬼ノ子村診療所長の湊泰治医師が後から続いた。


「司法解剖となりますので、ご遺体をお引取り頂くまで日数が掛かります」

「司法解剖! そんなのお断りします!」

「犯罪の疑いがありますので裁判所から鑑定処分許可状が出ております」

「私どもの息子です! 勝手な事はさせません!」

「ご両親の同意がなくても解剖は強制的に実施されます」

「そんな! すぐに連れて帰ります! このまま返して下さい!」


 犯罪による死亡が疑われる変死体は、司法検視の対象とされ、本来、検察官の権限だが、実務では警察官が代行で行っているのが現状だ。検視によって犯罪の可能性が疑われた場合に司法解剖される。裁判所の鑑定処分許可状によって遺族の同意がなくても強制的に司法解剖が行われている。警察医によって解剖され死因などが調べられ、死体検案書が作成されるまで遺族は葬儀を待たなければならない。また、解剖は外傷だけではなく、無傷でも頭蓋骨を開いて脳を取り出したり、臓器も摘出して調べられ、検分されたものが山積みされていく。解剖が終わると摘出された脳や臓器は、膨張などで正確に元どおりにはならないため、大体の位置に押し込んで納められるという。


「どうして! どうしてこんな事になったのよ!」

「何か、お心あたりは…」

「そんな事、あるわけないじゃありませんか! まるで私どもに原因があるみたいじゃありませんか! 殺されただけじゃ足りないんですか、息子を返して…」

「取り乱すな、はる子! しっかりしなさい、智弘のために!」


 はる子は大きな震えと共に天を仰いで泣き崩れた。藤島刑事は湊医師を促した。


「先生、ではすぐにご遺体の搬送をお願い致します」

「分かりました」

「先生、息子はどこへ連れて行かれるんでしょうか」

「内陸線の終点にある県北秋田大学です。ここでは司法解剖が出来ませんので」

「私も行きます! 息子を一人になんてできません!」

「お気持ちはお察し致します…お辛いと思いますが、一刻も早い犯人の逮捕にご協力頂かねばなりません。息子さんのご遺体はこちらでの調査が済み次第お引渡しできますので、もう少し我々にご協力願います。こんな状況で申し上げ難いのですが、いくつか遺留品があるのです」

「遺留品…」

「ご本人のものかご確認頂かなければなりません」

「もう死んでしまったのよ、智弘は! 調査はあなた達の仕事でしょ! あなた達で勝手にやればいいでしょ!」

「はる子! …怒りをぶつける相手は、刑事さんじゃないよ」

「じゃ、誰に! 誰にぶつければいいのよ!」

「私にぶつけなさい。智弘がなぜこんなことになってしまったか、事実が分かるまで…私にぶつけなさい」

「あなた…」


 室内に空しい冷気が充満し、はる子は力なく肩を落とした。


「では…」

「分かりました。よろしくお願いします」


 黒川夫妻は藤島刑事に案内されるままに別室に向かった。テーブルの上にはいくつかのビニール袋に入った遺留品が並べられていた。遺留品の中に智弘宛の手紙がある。差出人は松橋千恵子となっていた。


「この方は?」

「捜査のため手紙を読ませて頂きました。どうやら息子さんのご交際相手と思われますが、何かご存じでしょうか?」


 黒川夫妻は戸惑った。智弘の交際している女性が、東京から遠く離れたこの鬼ノ子村で暮らしていた事をこの時に始めて知った。


「知りません…何も知りませんでした」


 手帳に挿まれた写真には千恵子との笑顔のツーショットが写っている。


「これがその交際していたと思われる松橋千恵子さんですが…お会いした事はありますか?」

「…いえ、一度も」


 それをじっと眺める俊介の目からついに涙が溢れた。


「あなた…」


はる子は俊介の手を強く握りしめて冷静さを取り戻した。


 黒川夫妻は二週間ぶりに鬼ノ子村駅舎の前に立っていた。


「黒川さん!」


 藤島刑事が待ち合わせの時間どおり駅前の坂を下りて来た。


「お久しぶりです…その節は…」

「…こちらこそ」

「大丈夫ですか?」

「え?」

「無理もありませんがかなりお疲れのようで…」

「大丈夫です」

「そうですか…では早速宿にご案内します」

「それで犯人は…」


 妻の黒川はる子は言葉に詰まった。


「残念ながら犯人はまだ特定されておりません。事が事ですので、お二人の身に危険が及ばないとも限りません。お出掛けになる場合は前以て私に一言…おつらいでしょうが何かとご協力を…」

「…わかりました」


 そう答えるのが精一杯の二人は重い背中で藤島の車に乗った。


 藤島は刑事としては少し変り種だった。かつてこの地域が「マタギ」という映画の撮影の舞台となった事がある。

 宿の主の松橋良三には逮捕歴があり、その逮捕に関して藤島は上司に強く異論を訴えた。撮影の取材に来た田中毅夫と名乗る地元記者にマタギ猟で使う鉄砲の説明を請われ、良三は丁寧に説明をした。その地元記者が鉄砲を持ってみたいというので良三は快く持たせた。その映像が公に流れた。その結果、視聴者から銃刀法に触れるのではないかというクレームがつき、結局、良三は逮捕され実刑になってしまった。その背景には、撮影協力で脚光を浴びた良三に対して蠢く一部の地元民の嫉妬がある。その嫉妬を利用して地元記者の田中が鬼ノ子村で脚光を浴びている良三潰しのスキャンダルを強引にでっち上げていた。藤島は上司に激しく抗議して、高齢の良三の実刑を免れる働き掛けをしたのだが、上司は藤島を無視し、報道陣を前に体裁を繕う結果となった。

 良三は服役中に心労で健康を害し、釈放後はマタギ猟に戻れる体力ではなくなっていた。藤島は服役中の良三を気遣い、こまめに刑務所に見舞っていた。良三は、出所後一線を退いて民宿の運営に専念するようになっていたが、藤島は変りなく濃い交流を続けていた。


〈第4話「シカリの宿」につづく〉

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