第4話
進は寝起きでぼんやりとした様子もなく、ぱっと目が覚めた。
最初に見えたのは自室の天井だ。そしてレールの上を走る宇宙電車の音と、遠くからキッチンで何かを焼く音が聞こえる。
バターを塗ったトーストの匂いが漂い,さわやかな朝の始まりを感じさせた。が、進はのどかな気分になどならない。
起きたばかりなのに、鮮明な意識でばっと頭を抱えるのだ。
(あれ? どうしてぼくはここにいるんだろう)
なぜ進は、ベッドに寝ているのだ。
進は、洗面所で禁忌に触れた。
そして禁忌に踏む込むか踏み込まないかの選択を迫られた後、進はバスルームに向かってある一言を発したのだ。
そこから覚えていない。何を言ったのかも覚えていない。
気づけば、こうしてベッドの上で寝ていた。
進はひたすらあの後何が起きたのか思い出そうと頭を抱えた。
しかし、全く思い出せないのだ。
進は目を見開く。ようやくこの事態の異常さに気づいてきた。
思い出せないのではない。記憶が抜け落ちているのだ。
その事実に気づいた所で、更に進は混乱して頭を抱えるしかない。
そもそも、なぜ記憶が抜け落ちているのだ?
洗面所で禁忌に触れ、仮にその先へ踏み込んだところで、何がどういう仕掛けで記憶が飛ぶのだろう。
しかし、ひとつだけ答えが出る。これは、超常現象の類だ。
普通に考えて記憶が飛ぶなど考えられない。
ここは宇宙。どんな怪異が起きてもおかしくなってもなんら変ではない。考えても仕方がないので、早くベッドから降りて真里の作った朝食を食べることにしよう。
「おはよう真里! 朝ごはん作ってくれてありがとう!」
真里は焼きたてのトーストと、ウインナーをそえた目玉焼きをトレイに乗せてキッチンから現れる。
ほほえましいエプロン姿に、進は内心ニヤニヤしていた。
「これくらいいいよ。だって、昨日は進が作ってくれたもん」
二人が着席し、進がトースト食べる。
「いただきます。何を言ってるんだい? 昨日は真里が……」
はっとして、進は口にくわえたトーストを落としそうになる。
何か狂っている。異変に気づいたため、言葉が小さくなって最後まで出なかった。真里は、少し首をかしげた後何事もなかったかのようにトーストを食べるのだ。
そして、進はすぐに自分の遭遇している怪異の正体を知ることとなる。車内に、行き先を告げるアナウンスが流れるのだ。
「本日十二月三十日にこの宇宙電車は、給油と充電のため「惑星YB」へ停まります」
どういうわけか分からないが、洗面所で禁忌に踏み込んだ瞬間、時間が巻き戻されていた。
どうりで記憶が抜け落ちているわけだ。
(どうしよう……。時間が巻き戻されたら、またいつ巻き戻されるのか分からないじゃないか。このままじゃ先に進めないよ!)
時間が巻き戻される原因は分からないが、十二月三十日の八時五十五分に脱衣所に入ったのがひとつの引き金なのだろう。
もしかしたら、他にも引き金はあるのかもしれない。
そうすれば、永遠に進は宇宙の果てまでたどり着けない。
ぐるぐる宇宙をループするはめとなるだろう。
気がおかしくなりそうだ。しかもこの怪異を進以外に知る者はいないので完全に孤立無援である。
などと考えながらも、進はバリバリとトーストを食べていた。
(おいしー。やっぱり真里の作る朝ごはんは最高だ!)
トーストの焼き加減がうまい。サクっとした焼き菓子のような食感が歯ごたえよく、その上トーストにたっぷりしみたバターの牛乳めいたまろやかな味わいが、トーストの生地と共に口に入る。
半熟目玉焼きを箸でつつけば、オレンジ色のどろっとした黄身が出てくる。それを箸でつまんで食べ、玉子の黄身をよく焼けたベーコンと共にまとめてほおばるのだ。すると、硬い食感で油の乗ったベーコンが、黄身と共に口に入り込んでくる。
うまい。噛めば噛むほど歯が厚みのある玉子の黄身とベーコンを咀嚼し、確かに食事をしているんだという喜びがこみ上げてくる。
そして極めつけば、ウインナーだ。
進はウインナーを箸でつまみパリッと音を立てて食べる。
濃厚な肉の味わい。歯ごたえある弾力。空腹で飢えた腹に、確実に形あるものが入り飢えが満たされてゆく。
進は幸せな朝食を食べながら、ふと思うのだ。
(こんな幸せが続くなら、巻き戻されるのも悪くないかも……)
進には使命がある。この後楽しく遊べるのは、いずれ迫り来る過酷な試練への骨休めでしかない。その先に、宇宙怪獣との戦いが待っているのだろう。その脅威を目の前にして、進は足がすくむ。
試練に立ち向かい、全うできるのか分からないのだ。
何より真里を守るほどの強さが進にはあるのだろうか。
あるわけない。進はただのこどもだ。博史のような宇宙戦のプロでもあるまいし、真里を守りきれずに死ぬこととなるだろう。
だが、時間が巻き戻されるという怪異によって目的が阻まれても、甘えた方向性で考えるのならとても幸せなのだ。
だって、今日一日宇宙電車はあのアミューズメントに満ちた惑星に停車し、真里と一日中遊べるのだから。普通なら一日だけ許されていた楽しいひとときが、時間が巻き戻されたことにより二回三回と楽しめる。最高なことこの上ない。
などと考えると、朝食が終わった。そして、電話が鳴る。
「あっ。電話だ! 誰からかな?」
「ぼくのお父さんだよ。待って、ぼくが出るから」
「出てもいないのに、どうして分かるの?」
「ふふっ。宇宙の怪異がぼくを味方してくれるんだ」
なんだか分からないことを言う進を、首をかしげて真里が見る。
進は迷うことなく、受話器へ向った。
あのわからず屋はまた自分の意見ばかりを傲慢に押し付け、進を連れ戻すことしか言わないだろう。
一方こっちは経験済み。何に言われるかも分かっているから、言葉で博史を圧倒させて即電話を切ってやる。
「進! 生きてるか! 俺だ、お父さんだ!」
進は怒ることもなく、平然とした声で言うのだ。
「ぼくなら全然大丈夫だよ。宇宙電車の旅は快適だし、宇宙怪獣が襲ってきても敵じゃないしね」
「お前はなんて馬鹿なことを! 腕の一本も無くならないで五体満足で生き延びてること事態が奇跡だ! いいか進。よく聞け、その宇宙電車がどこに向かっているかお前は知らないだろう? 行き先は誰も知らない宇宙の果てだ! お前は宇宙の果てにある壁の向こうに行こうとしているんだよ!」
「それくらい知ってるよ。これからぼくが、危険な路線に向っていることもね。だから今日はお休み。かわいいオンナノコ片手にたくさん遊ぶんだ!」
電話の向こうにいる父の声が、急に変わった。
わが子が散々悪いことをしているのに、遊んでいることや、かわいいオンナノコというワードに引っかかったのだろう。
「お前は遊んでいい身分じゃないだろう! 宇宙犯罪者の立場が分かってるのか? それにお前、遊ぶってそんな金どこに持ってるんだ。まさか窃盗でもしたわけじゃ……」
「旅に出る前。お父さんがゴルフと酒飲みに使う預金通帳を持ってきたんだ。くだらないことに使われるより、未来ある少年に使われた方がマシだよ」
とどめの一言で、博史は完全に取り乱してしまう。
「ぎゃあああっ! 探しても見つからないと思ったらお前だったのか! 俺の至福がぁぁぁぁっ!」
勝った。博史は楽しみにしていた酔狂と道楽の予定を全て台無しにされ、怒るよりも先に取り乱し泣くしかない。
そして、進が電話を切る前に最後に言うのだ。
「じゃあねお父さん。ぼくは楽しいデートに行くから!」
ガチャン。進はとてもいい気になって電話を切った。
そして、真里の手を少し強引に引っつかみ言うのだ。
「行こう真里。お兄ちゃんが遊んであげるよ」
それからは楽しくて楽しくてたまらない。
だってお別れしなければならなかった、この都市で再び遊ぶことができるのだから。進は真里にお洋服やゲームなど、望むものをたくさん買い与えた後、ゲームセンターで遊んだ。
まだ時間があるので次はどこで遊ぼうかと考えながら、進は真里を腕に抱えにぎやかな冬の街並みふらふらと歩く。
進は遊びに遊んで、この都市がなんたるかを知った。
ここは、人々が我を忘れて道楽にのめりこみ、嫌なことを何もかも忘れさせてくれる玩具の世界だ。
進は結果的に、この都市から抜け出せなくなる。
どっぷりとはまり、依存し、気持ちよくてたまらないのだ。
向うべき場所があるというのに、どうしても足が止まってしまう。
だって、腕にはこんなにもかわいく進を慕ってくれる真里がいるのだから……。その抜け出せない依存心と心の融合こそが、この惑星を覆っている閉塞感そのものだった。
世界には天井がある。限りもある。なのに、人の心をドロドロにする玩具達は、日々発展し拡大してゆくのだ。
どんどん便利になる。次から次へと楽しくなる。そんな万能で便利で楽しい玩具が海のように溢れ出し、人を飲み込んでゆく。
そして人々は狂うような楽しさを感じる傍ら、どこか息苦しさと閉塞感を感じるのである。
世界には限りがあるのに、人も技術も文化も融合したひとつの生き物が日々拡大して窒息してゆく。
それは、この宇宙全体が抱える問題だった。
真里がべっとりと進にくっつき、進がブヒヒと有頂天になりながら次はどこに行こうかと考えていた時のことだった。
この大通りをたくさんの恋人連れが手をつなぎ腕を組み、密着して歩いているというのに。あの女が向こうから現れるのである。
最初は小さな人影にしかすぎなかったが、進との距離が縮まるにつれ徐々に大きくなってゆく。
降り続けた雪が、冷たい風に吹かれ煙たく進の目の前をさえぎる。
あの女の姿も、薄い煙に撒かれたように不鮮明になった。
進は暗い気持ちになる。そして、風が弱まると同時に向こう側から歩いてくる女の姿が見えてくるのだ。
女は黒いコートを翻し、雪を背後にただひたすら前だけを向いて歩いていた。周りにいる、酔狂と道楽に踊らされるだけの腑抜けとは違う。ひとつの楽しいこともなく、嬉しいこともなく。悲痛で、涙にぬれたような表情を浮かべて、ただひたすら孤独に歩くのだ。
だが、そこに暗さはない。どれだけ色あせた悲しみを背負おうとも、彼女は沈んだ色合いをしていない。
取り囲む人工的な客寄せの光よりも何よりも、誰よりも、そこに輝きがあるのだ。
その女は、今この時を濃厚な存在感を放ちながら雪に吹かれていた。だから周りでただ遊んでいるだけのうつけと存在感が違う。
そして進はようやく気づいた。そして寒気を背筋に感じる。
あの女は、警察に追われる後々の殺人逃亡犯だ。
つまり、彼女は自分の想いに気づいてくれない恋人を引きとめようと彼の元に向っているが、その先に互いのコミニケーションが通じず破綻し、相手を殺してしまう結末が待っている。
あんな結末など断じてありえないと信じたい。でも、あの女を見るとそれが疑わしくなるから嫌なのだ。
真里との関係は絶対だ。博史と不仲になった先に、真里と出会い結束したものを手に入れたのだから。
そして女は進との距離を縮め、風を切るような勢いですれ違う。
遠ざかっていく女の後姿を背に、進は嫌になった。
何もかも分からない。なぜ抱いた想いが通じず、注いできた熱意も愛情も無にするようにコミニケーションが破綻するのか。
進はまだこどもで、今何よりも人に想いを注いでいるからその破滅があるなど断じて受け入れられない。
そして。なぜあの女は想いを打ち砕かれ、相手を殺すことになるのに。その結末に向ってああも力強く突き進んでいるのだろう。
人を愛して求め続ける気持ちは分かる。だが、自ら死にに行くような運命を受け入れられる精神が分からない。
だって、周りにはたくさんの道楽と酔狂に満ちた玩具が溢れているではないか。その玩具を使って、仲の悪い恋人と遊べばいいではないか。心溶け合わせれば、破滅だって回避できるはずである。
進は死に向かう女を引き止めることもできず、ただ真里を腕に抱えるしかなかった。
それから十分に進と真里は遊び、仲むつまじく停車した宇宙電車
に向うため惑星外の宇宙空間をタクシーで飛ぶ。
その途中、窓からまたサイレンを鳴らすパトカーを見た。
警察官が本部に連絡を要請している。
「現在、被疑者と思われる男は被害者を殺害した後宇宙空間上を逃走中。極度の興奮状態であり危険なので至急応援を要請する」
真里は遊びすぎて疲れたのか、眠むたげだ。
進は、またもやいやらしいことを考える。
真里の心はガッチリ掴んでいるのだ。
そろそろもっと深い交流をしてもいいのではないだろうか?
つまり進は、真里の唇を奪いたいのである。
それもこどものチュー程度ではなく、もっと濃厚に舌で真里の幼い口をかきまわすくらい激しく……。そして進は妄想する。顔を赤くしてどうしていいのか分からないこどもな真里に、これがオトナの関わり方だ。君とぼくは特別な関係なんだよと言ってあげよう。
そしたら真里は自分が特別に思われてると知って心奪われるに違いない。そしたら真里は、進から離れないだろう。完璧だ。
真里をものにするなら、心の壁を完全に形成しきってない今がチャンスだ。そう確信していると、宇宙電車が停車している宇宙空間まで近づいた。進は内心にやりとする。宇宙電車こそ、真里と進だけの世界だ。そこに二人以外の人間はいない。誰にも邪魔されないのだ。ふわりと進は真里と共に宇宙を浮き、目の前に二人だけの世界が迫る。あそこにさえ入れば、真里は進のものだ。多少強引でもいい。思いっきり抱きしめて、大人のキスを真里の幼い口にねじこんでやる。そうすれば真里は術にかかり、進の虜になるだろう。
闇の中にレールが続き、宇宙電車が重く鎮座しているはずだった。
しかし、違った。宇宙電車の前に、ぽつぽつと宇宙服を着た人達が浮いていたのだ。子連れの主婦や老人など、すごく立場の弱そうな人々が肩身を寄せ合っている。彼等は一体何者だ。
進は、ひどく無自覚で無責任なことを聞いてしまった。
「あの、ぼくの宇宙電車の前で何を待っているんですか?」
「何って……。発車を待っているんですけど」
「もう二時間近く待ってるんだがの」
頭を殴られたような衝撃を受けた。そして、冷や水をぶっかけられたような寒気がぞっと襲ってきて、進は己の愚かさを知るのだ。
(この女ったらしの愚か者! お前はそれでも車掌か!)
進は今更現実に引き戻された。今まで怠慢と道楽の世界におぼれていたため、尚更己の愚かさを知り打ち砕かれるのだ。
人を乗せない電車がどこにある。そんなものは電車じゃない。
なのに、進は宇宙電車を我が玩具としていた。
そして、ガラガラの電車で女の子片手にいちゃつこうだと?
ふざけているにも程がある。だから進は愚か者なのだ。
そんな愚か者に対し、悲壮な表情の親子が問うのだ。
「宇宙の果てまで向う電車が宇宙のどこかを走っていると聞きました……。まさか私達が乗れるとは幸運です。ですからお願いがあります。電車賃は払いますので私達を乗せてください! 私達を知らない所へ乗せていってほしいんです!」
進に対し、人々が詰め寄る。老人までもだ。
「この老いぼれにも新世界への導きを!」
突然の事態に、進は面食らうしかなかった。
それでも、望みを託される。ただの十二歳なのに。
待っていた人々は幸福ではない。立場を捨ててどこか知らない場所へ逃げなければならないような、重たく辛い境遇の人々ばかりだ。
どこか遠くの知らない世界で希望にめぐり合えると信じて、イレギュラーな存在である宇宙電車に乗るため、ずっと暗い宇宙を浮きながら待っていた。なのに、進は遊んでいた。真里と一緒にアイスをペロペロ舐め、ゲームセンターできゃきゃっと熱中していたのである。そんな進だから、この人達を背負いきれるか分からない。
長らく生ぬるいことしか経験していなかったので、もし宇宙怪獣の襲撃があろうものなら、宇宙電車を守りきれるだろうか。
けど、ここで背くわけにはいかないのだ。
「いいよ、降りたい場所があればいつでもどうぞ」
進が乗車を許可した瞬間、待っていた人々の顔が明るくなる。
「ありがとうございます! 感謝します!」
まあ、いつまでも博史の金に頼るわけにもいかないし、お金だって入るわけだから社会貢献してると思おう。
人の願いを叶えているのだから悪い気はしない。
進はエネルギー充填の済んだ宇宙電車の鍵を出し、宇宙電車を、開ける。進と真里の二人だけの世界が、終わった瞬間だった。
そして進のたくらみも、全て実現不可となり消えた。
その途端、こどもがドンと進を突き飛ばす勢いで、きゃきゃっとはしゃぎだす。広い電車の直線通路を走り回り、靴を脱いで座席に上がる。裸足のこどもが座席の上で飛び回る。窓の外に広がる銀河に目を奪われたらしく、顔をぶにゅっとくっつけて見入るのだ。
「見て見てお母さん! すっごくキレイだよ! ここに住むの?」
「少しの間だけよ。こら、はしゃがないの!」
汚されたり壊されたりするんじゃないんだろうか。
進は踏みにじられる気がして不安になる。手に負えそうにない。
そのこどものはしゃぎように、真里がぱっと目を覚ました。
「進。この人達誰? どうしたの?」
「君と同じお客さんだよ。ぼくは車掌室で電車に危険が及ばないか管理するから、真里はこの子達と遊んでいて。頼んだよお姉ちゃん」
「任せて! 私、小さい子大好き!」
すると、母が子の背中を押して言うのだ。
「ほら、お姉ちゃんが遊んでくれるって。おとなしくしなさい」
こども達は真里を気に入ったらしく、座席からばっと降りて床に裸足で着地し、真里に駆け寄るのだ。
進は幼い笑い声が聞こえるその場から背を向け、車掌室に向った。
乗せる人員が増えた分、車掌の責任は重くなる。
進は車掌室に入ると、まず索敵レーダーを起動した。
そして六車両全てに機銃を起動させる。接近された時のことも考え、近接格闘用の短刀装備ロボットアームもだ。
進路及び宇宙電車自体に異常はない。特に給油と充電をしたばかりだから、宇宙電車は勢いよく走行する。
進が警戒しているのは、外敵の襲来だった。ここのところ楽しくて生ぬるいことばかり経験していたので、そろそろしっぺがえしとして宇宙怪獣の襲来もありそうな気がしてきたのだ。
進も調べてから驚いたのだが、宇宙電車は襲来する外敵を排除して乗客を守るために、全車両の屋上に武器を展開するシステムが存在した。遠くからの敵を打ち落とす機銃に、万が一接近された時の短刀装備ロボットアームまである。
戦闘時となれば備え付けられているFMD(オフライン)を装着し、脳波通信で思いのままにそれらの兵装を操作することができるのだ。
つまり頭で進が「撃て」と念じれば機銃が撃たれ、斬れと念じれば短刀を装備したロボットアームが斬る。
今のところ敵の襲来は無さそうだが、進は気になって真里のいる車両の監視カメラを見てみた。
写ったのは、言われた役目を果たしている真里だ。
こどもに車内が荒らされた様子もなく、むしろこども二人は真里に抱えられてすやすやと眠っていた。
その様子を見て、進は真里を大人だと思う。
少なくとも昼間の時のように、進に与えられるだけ与えられて大人しく進の手の内に収まっている真里とは違うのだ。
監視カメラを通して見る真里の姿こそ本当の姿で、昼間の真里は進にとって都合のいい姿でしかない。
今の真里は、進の手から離れているのである。
時は待たない。誰だって大人になる。
真里も確実に成長してゆくのだ。それを進は引き止めた。
なんと進は愚かなのだろう。なぜ真里が進の手の内に収まらなければならないのだ。真里は真里だ。進は進だ。親子や兄妹じゃあるまいし、一人の人間を阻む権利などどこにもない。
ではなぜ、進は真里を阻み手の内に収めようとするのか。
ただいまの時刻は夜の十時だが、前回の場合夜の八時五十五分に進が眠りから起きて、洗面所に入ったら時間が巻き戻された。
しかし、今回は違う。時間は巻き戻されていない。
乗客を乗せたら、洗面所に入る出来事が丸々起きないのだ。
逆に乗客を乗せなかったら、洗面所に入った出来事が起きていただろう。代わりに進も真里も違うことを経験している。
進は外敵を警戒して車掌室で戦闘準備体制に入り、真里はやんちゃなこどもを眠らせているのだ。
つまり、目標である宇宙の果てに向っているである。
それは、喜ぶべきではないか?
しかし、素直に喜べないことに進の心の闇があった。
進が再び真里のことが気になって、監視カメラを見てみる。
すると、真里はこどもを抱えた状態で違う乗客と話をしていた。
それが誰かを知った瞬間。進は、その現実に衝撃を受けた。
だって相手は、進よりも年上のカッコイイ少年だったのだから。
たぶんその少年は、こどもをあやす真里の姿に好感を覚えたのだろう。真里も、悲惨な状況下で宇宙電車に乗った少年のりりしさに好感を持ったのだろう。二人とも、すごく楽しそうである。
(くっ! 何かムカツク! よくもぼくの真里を!)
進はすぐに二人の仲を引き裂きたくなった。たとえ二人に好意がなかろうとも、己の存在意義を問われてる気がしたのだ。
あれほど与えてあげたのに、進が真里の手から離れて他の男と仲良くしているなど許せない。助けてあげて二人で危機を乗り越えたのに、真里は進を裏切るつもりか。
だが、直接その場に向かって手出しはできないのだ。
なぜなら、外敵を警戒していつでも戦闘体制に入れるようこの場にいなければならないのだから。進は、真里が大人になるのをただ見ているだけしかできない。屈辱だ。
そんな進に、恐れていた事態が起きるのだ。
レーダーに生物反応。こっちに三体向かってくる。
それは、宇宙ゴリラ三匹だ。
進ははっとして、すぐにFMDを装着し兵装を操れるようにする。
接近格闘のロボットアームがあるといえども、宇宙電車に接近されることは避けたい。だから、接近される前に撃ち落さなければ。
進は機銃を宇宙ゴリラに向ける。その間も、宇宙ゴリラは宇宙空間を飛行してこちらに向かってくるのだ。
そして、照準を定めて、撃つ。
まっすぐと銃弾が放たれ、一匹を撃ち落すことができた。
(まずい。接近されるまでに落とせるか!)
次の標的に向けて宇宙ゴリラが迫る。進は狙いを定めるが、脅威が接近してくるという現実的恐怖を背負っていた。
だから焦って、銃弾を乱射してしまう。
的外れな方向に撃たれ、宇宙ゴリラは銃弾をかいくぐるのだ。
進は脱線レベルに達さない程度に宇宙電車の走行スピードを上げる。すると窓から見える宇宙空間が加速する。
そして、敵を引き離して動きが鈍ったところを、一撃。
撃ち落せた。しかし、一匹に集中するあまりもう一匹を見失ってしまったのだ。その瞬間、ガンと衝撃が走った。
走行する宇宙電車に、宇宙ゴリラが取り付いたのだ。
その瞬間、客席車両の方で悲鳴が聞こえる。
進は敗北した。敵の接近を許してしまえば、宇宙電車の被害はただですまない。美しい車体だろうと、内装だろうと、ボコボコにへこまされたり破壊されたりするだろう。
乗客だって、守りきれるかどうか分からない。
所詮進は宇宙戦の経験もないただのこどもだ。だから、ちょっとしたことが原因で戦闘に影響が出るくらい、弱い。
進は挫折感を感じながらも、乗客の乗っている第四車両まで一直線に走った。今は膝を折っている場合ではないのだ。
宇宙電車に取り付かれた場合、機銃やロボットアームで攻撃し排除することはできない。宇宙ゴリラの力押しに負けてしまうだろう。
だったら、勝つより乗客の命の方が大切だ。
望みはある。乗客を避難させ、宇宙ゴリラが暴れている車両を切り離すのだ。そしたら被害は車両を失うだけで済む。
そして第五車両に入った途端。目にしたのは固まっておびえる乗客達だった。入ってきた進を見るや否や、真里が駆け寄ってくる。
「進! すっごく大きな音がしたよ。何か来たの?」
「宇宙怪獣に取り付かれた! ここは危ないから皆で逃げよう!」
「宇宙怪獣に取り付かれたって! そんなことさせないで運行させるのがあなたの役目でしょう! そんな無責任でよく私達を乗せたわね!」
「よせ、相手はこどもじゃろう! 無理がある!」
「こどもが車掌やってること自体がおかしいのよ!」
乗客の主婦がこどもを抱え進に対して叫ぶ。進は反論できない。
幸い乗客は十人程だ。混乱もせず避難できるだろう。
皆に避難を呼びかけようとした、その時だった。
大きな破壊音が響き渡る。そして、宇宙電車全体に大きな衝撃が、一撃。乗客と進は立っていられずに、反射的に何かに掴まった。
大きな衝撃は天井からだ。天井に、奴が乗っかっている。
その見えない恐怖が、乗客と進を支配する。
そして、さらに一撃。今度は天井がバコっとへこんだ。
追い討ちをかけるように、電源が落ちた。明るく清潔な光に満ちた車内が突如として暗黒と化し、乗客は叫び恐慌するしかない。
進はかろうじて見えるくらいの暗闇の中で、真里だけはガッチリと放さずに言うのだ。
「みんな、先頭車両に逃げよう。ぼくが電車を切り離す!」
しかし、乗客の避難も電車の切り離しも叶わない。
次の一撃で、宇宙電車の天井に穴が開いたのだ。
星々がかすかにかがやく宇宙空間が天井から丸見えになる。
幸い宇宙電車の周辺は重力制御もされており、空気も覆っているので窒息したり宇宙空間に投げ出される心配はない。
しかし、穴が開いたと共に大きな巨体が音を響かせ落ちてきた。
暗闇の中で動く巨体。それは宇宙ゴリラである。
乗客が一斉に慄いた。恐怖のあまり逃げることもできない。
進は抱きかかえていた真里の体を離して、固まっている乗客の方に下がらせる。皆の盾になるよう、進は電気銃を持って前へ出た。
宇宙ゴリラはすぐにでも襲い掛かる体勢を取っている。
勝機はないこともない。電気銃を最大にして撃てば、体毛に覆われた宇宙ゴリラは引火して焼かれることだろう。
暗闇の中で進は震える。強大な敵を目の前にして、電気銃を持つ手がなかなか上がらない。けど、ここで勝たなければ皆が死ぬのだ。
そして、震える進よりも先に、宇宙ゴリラの巨体が、動いた。
気がつけば、進は自室のベッドで寝ていた。
宇宙怪獣の脅威もない、隣のベッドで真里がすやすやと寝ている、穏やかな朝だ。進は起き上がり、日付け記されたデジタル目覚まし時計を見る。日付は十二月三十日。またループしてしまった。
(ぼくは、守れなかったんだ。最悪だ……)
原因は分からないが、時間ループの引き金は十二月三十日の夜八時五十五分に洗面所に入ることだけではない。
それ以降の時間軸で起きる、宇宙怪獣の襲来も引き金だ。
宇宙怪獣によって進が殺されれば、時間は巻き戻される。
やはり、楽しいことの次には辛く厳しいことが待っていた。
進は、必ず迫り来る宇宙怪獣に勝てないだろう。どんなに努力しようが、所詮は戦闘経験の無いただのこども。必ず殺される。
進は隣のベッドで寝ている真里を見た。
幼い寝顔の彼女を見ると、とてつもなく罪悪感がこみ上げてくる。
何と進は愚かなのだろう。二人には、契約めいた関係があるのだ。
進は、真里に与えている。この宇宙電車も、これから買い与えてあげることとなるお洋服やあらゆるものもだ。
それと同時に、進は真里に愛情と信頼を与えられる。
進はもうこどもじゃない。与えられているということに気づかず、何もせずにただ笑って日々を漂うほど無力でもない。
逆に、何の対価も無しに与えてあげるほど優しすぎるわけでもない。それらの等価交換の関係は両者の中で全く口に出さずとも、心の中で分かっていて無言で成立するのだ。
進は真里に与えもするし与えられもするし、真里は進に与えもするし与えられもする。
そして与えてあげるということは、真里は進のものであり、手の内に収めているということになる。(悲しいことにその保護と非保護の関係は時間が限られており、すぐに真里は進の手の内を離れてしまうことになるが)代わりに進は、真里に危害が及ばないように何があっても守らなければならない。
ここは何が起きるか分からない宇宙。そんな危険な場所に、少女を孤独にさせるわけにはいかない。少なくとも、どこかに真里を安全な場所に送り届けるまでは保護義務がある。
進だってこどもじゃない。あの危険惑星で真里に手を差し伸べたからには、遊ぶだけ遊んで都合が悪くなったら捨てる。といったペット感覚で真里を捨てるわけにはいかないのだ。
しかし、契約は破綻した。真里が進にたくさんのものを与えてあげても、真里から要求される保護義務を遂行できないのだ。
それは、お金を借りて返済の義務があるのに、返済せずにとんずらすることと同じである。最悪だ。
おいしいところだけ味わって、遂行すべき難関を目の前にすると気持ちよくしてもらったに見合った働きができない。
進は、決断を迫られた。真里を守れるか分からない難関が待っているのなら、難関を回避すればいいだけだ。
(ループしていいじゃないか。好きなだけ遊べばいいんだよ)
進はベッドから飛び降りると、電話に向かった。
そして、電源を抜くのだ。これで博史との口喧嘩も起きない。
進は、真里を連れて誰も知らない宇宙の果てまで向かうという旅の目的がある。そこへたどり着くまでに、避けては通れない宇宙怪獣と戦うという難関が待っているのだ。
しかしその前には、猶予として真里といちゃいちゃ楽しく遊べる夢のような期間も用意されている。
だが、進は宇宙怪獣を倒せない。仮に宇宙ゴリラ三匹を倒したとしても、まだ強力な宇宙怪獣が待っていることだろう。
確実に負けて殺されることが決まっているのだ。しかし、進にはその難関から背いて楽しくいちゃいちゃ遊び続けることができる。
十二月三十日の夜八時五十五分に洗面所に入れば、なぜだか分からないがループして一日を巻き戻すことができるのだから。
嫌なことから背いて好きなだけ遊ぶことができるなど、最高だ。
「ねーねー。どうしたの真里。ぼくがこれだけお洋服もゲームも買ってあげてるのに、どうして嫌がるの?」
それは、惑星に降り立っていつもと同じ服屋に行ったときのことだった。
「……。なんかいや……」
進は真里とたくさん遊んだが、真里はずっと不機嫌だった。
進が真里に強要するのだ。真里が着たいというお洋服を買ってあげず、進が「ブヒー。かわいい……」と萌え萌えするような、お人形チックな服装を買って着せるのだ。
買ってあげるアイスはより甘いものへ。刺激的なアミューズメントより、楽しくて幸せいっぱいになるアミューズメントへ。
徹底して真里を己の手の内へ収めようと、彼女を支配する。
真里はいずれ大人への道を志す。精神的に進から自立することは避けられない。しかし、この先のことを全て知っている進だからこそ、どうにかして真里を己の手の内に収めたかった。
だからそのために、邪魔者は排除だ。遊んで帰ってくると、宇宙電車に乗ろうとした乗客が待っていたが、進は乗せずに二人だけで出発した。
その傲慢さが、真里の怒りに触れたらしい。
「どうして乗せないの? ずっと待ってたんだよ?」
「乗せなくていいだけだよ。真里は気にしなくていい」
それでも進は、真里を自分のものにしようと更に強引になる。
誰もいない客席車両の座席に座りながら、進は言った。
「真里。チューしてよ。ほっぺたにちょっとするだけじゃだめだよ。口と口を絡めるオトナのチューだからね」
進が密着し、迫る。真里は思いっきり嫌がり、掴まれて動けなくてものけぞって逃れようとするのだ。
そして真里が、そして真里が、進の顔を掴んで押した。
「ぎゃっ! 痛い!」
「やめて! こんなの進じゃない!」
頬に指が食い込み、思わず進は真里をばっと離してしまう。
進は頬の痛みを手で抑え、愕然とするしかない。
真里に嫌われたのだ。あれだけ想いも熱意も注いできたのに、真里だって絶対的に好意を寄せていたのに。
熱かった心の温度が、急速に冷たくなってゆく。
そして心が否定的感情によって押しつぶされると、死を迎えるのだ。しかし、死んだ心は死んだままではいられない。
生存本能に従って、死んだ心が存在意義を確立すべく息を吹き返すのだ。悲しみが、怒りへと変わった瞬間だった。
相手が何を考えているのか分からない。
お互いが、分からない存在と化す。
「どうして嫌がるんだよぉ! あれだけお洋服もゲームを買ってあげたじゃないか! ぼくを嫌いにならないでよ!」
進は逃げる真里を後ろから追いかけた。
真里は頑なに否定的感情を変えない。進ははっとした。
逃げる真里は、脱出ポッドに向かっているのかもしれない。
(実際は違う。真里はただ独りになりたいだけだ)
脱出ポッドには救難信号を出す装置と、わずかな食料が積まれている。進とは違う人の元へ行くことも可能だ。そして進は、否定に否定を重ねられた挙句、捨てられるのだ。
そうすればどうなる。真里を逃してしまえば最後。
進はまた誰もいない宇宙に放り出され、今度こそ死ぬかもしれないのだ。真里に捨てられたとしても行く先に宇宙怪獣の襲撃が待っており、殺されれば時間は十二月三十日の朝に戻る。
だが、ループする中で知ったが、起きるイベントは決まっておらずランダムだなのだ。もし、宇宙怪獣の襲撃がこの時間よりも十日後とかだったらどうなる? その十日間でも、進が宇宙電車で独り取り残されれば地獄だ。きっと発狂してしまう。
行く先に真っ暗闇が広がっている。それを目の前にすれば、何も無くなるのだ。何も意味を成さないのだ。
声を出そうが動こうが何にもならず、無へと消えていく。
考えただけでも地獄だった。
そして、強引に真里の小さな体をガシっと掴む。
「やーだー! 放して! こんなの進じゃない!」
それでも真里は進の手から逃れようとひたすらもがく。
真里は体を掴まれて尚、力いっぱい抵抗し、暴れた。
捉えて離さない進の顔に、容赦なく真里の拳が、叩き込まれる。
鼻がつぶれた、顔がへこんだ。この上なく痛い。
「行かないで! ぼくを一人にしないでよ! ぼくは嫌われることなんてしてないじゃないか!」
「放して! 私を独りにして!」
空白の宇宙電車の中で、二人がもがく。
進が真里を力の限り引っ張り。真里が、手も足もあらゆる力を使って逃げようとする。両者の力が衝突し、互いに動けなかった。
進はひたすら、真里を掴んで放さない。
まるで、真空の宇宙に放り込まれたような窒息感だ。
苦しい。こっちの想いが伝わらない。真里に何を言っても通じず、相手から受け入れがたい言葉が飛び交う。
今まで自分の行ってきた行為も好意も全て否定し尽くされ、そこに、進がいないのだ。何を言っても否定される。何をしても無駄。
なのに、誰もいない真空の宇宙で窒息死する進を、容赦なく暴力が振られ続ける。正に地獄だった。
否定。拒絶。嫌悪。怒り。否定に否定を重ねられ、進は心身共に叩きのめされる。それでも進は、真里を放さず掴み続けた。
真里だけが、天もなければ地もない宇宙に残された唯一の命綱だ。
だから進は何が何でも真里を離さない。離してしまえば、発狂して進は死ぬ。
それが真里にとって、憎悪を爆発させる暴力でしかない。
そんな進を、更なる事態が襲う。
真里が言葉にならない叫びを上げると、彼女が電撃を帯びて光出したのだ。男のエゴイズムによる絶対的支配から無力な彼女が反抗する、絶対抹殺の暴力。魔法だ。
進は成す術なく、宇宙電車もろとも爆発した。
そして気がつけば、進は十二月三十日の朝に戻っていた。
またループである。どんな結末であれ、進が死ねばループするのだ。しかし、今の進にとってそれは幸福だった。
隣にはいつも通り進を慕ってくれる、純粋無垢な真里の姿があったのだから。
「お願い真里! おっぱいできてるか見せてよ! 前々から気になっていたんだ! 服の上からちょっと触るだけでもいいから!」
「いやっ! こないで!」
進はそう叫んで真里を追っかけ回す。真里は宇宙電車の直線通路を、ただひたすら走って逃げ回っていた。
どうしても、真里の存在を求めてしまう。
多少強引でも、欲望が真里の心と体を欲するのだ。お兄ちゃん。大好き! と言われ心を支配してしまいたい。
その無垢で幼い体を抱きしめたい。
だって、真里はいずれ大人になって進の元を離れていくのだから。
そして、行く先に宇宙怪獣の襲撃による凄惨な死が待っている。
死にたくない。真里からも離れたくない。
だから、真里に依存する。進は完全に宇宙の果てまでたどり着き、博史の手から逃れようとする、自立心ある目標も見失っていた。
真里を強く求めすぎるが故、逃げる彼女を強引に掴むが。
今度も力の限り抵抗され、二人はバランスを崩して転倒する。
グキ。その時、嫌な音がした。
気がつくと、転倒した進の下で真里が頭を打っていたのだ。
即死だった。進が真里を殺してしまったのだ。
「うわぁぁぁっ! 真里っ! 真里っ!」
いくら揺さぶっても、死んだ真里は動かない。
そこにあるのは、絶望だった。進は真里に対する依存心によって、真里自身を殺してしまったのである。
だから、今の進を愛してくれる者は誰もいない。
進はこの宇宙電車でただ独りになってしまった。
絶望する進は、ばっと周囲を見渡す。
誰もいない。誰も見てくれない。誰とも会話できない。
誰にも触れることができない。この真っ黒な宇宙でただ独り、何も無い宇宙の黒色に圧縮され、潰れて死んでしまう。
「誰かいないの? ぼくはここにいるよ! 誰か返事してよ!」
進は圧死してしまいそうな孤独の中で、ひたすら叫ぶ。
しかし、誰もいないのだ。進が何をしても何を叫ぼうが、何も無い虚無によって否定される。何にもならない。何をしても無駄。
心が、死ぬ。その現実を目の前に進は錯乱した。
その時だった。突然大きな衝撃と共に、宇宙電車が揺れた。
そして天井が砕け散り、巨大な宇宙トカゲが姿を現す。
進が恐怖に震えて逃げるよりも先に、宇宙トカゲが口から火を吐く。その衝撃で進は吹き飛ばされた。
「痛てっ!」
進は地獄の苦しみの中で焼き殺されると覚悟したが、彼が受けた衝撃は火炎ではない。ぽんと投げ出されてしりもちをついたような衝撃だった。何が起きたのかわけがわからず、己の手や体を見るが、どこも焼かれた形跡はなかった。一体何が起きたのだろう。
しかし、ある事実に気づく。真里の死体が跡形も無いのだ。
そして、宇宙電車も破壊されていない。つまり、時間が巻き戻っているということか。進は客席車両にあるデジタル表示を見てみるが、日付けは十二月三十日の夜八時五十五分となっていた。
だったら話は早い。早く洗面所に行って時間ループ現象を起こし、真里とぎくしゃくする前の時間に巻き戻さなければ。
進は走り、自室であるスイートルームに向かう。
その途中、客席車両を通るとなぜだかつるっと滑った。
「何これ?」
なぜか床の一部がぬるぬるしていたのだ。
ワックスでもかけたのか? 結論は分からない。
そしてスイートルームの洗面所の前に立つと、お湯が跳ねる音がかすかに聞こえた。
ドアノブに手をかけようとしたその時。誰かが後ろから警告する。
「そのドアは開けちゃだめだ。ロリータループ宇宙から出られなくなるよ」
振り返ると、そこには進がいた。進が同じ空間上に二人もいるのだ。突然の事態に、進はわけがわからなくなってしまった。
「ぼくが二人? どういうこと? ロリータループ宇宙って何? それに、真里はどうしたの? もしかして嫌われちゃった?」
「嫌われてなんかいないよ。むしろ、最近とても仲がいいんだ」
進はドアを開けることを止め、もう一人の進と向き合う。
そしてもう一人の進は、思いの他丁寧に説明してくれるのだ。
「君は宇宙怪獣に吹き飛ばされた衝撃で、別の宇宙に飛ばされたんだ。今君が会っているぼくは、可能性のうちのひとつ。平行世界の進だよ」
「どうしてぼくを止めるの? そもそも、なぜ十二月三十日の八時五十五分に洗面所に入ると時間が巻き戻されるのか教えてよ」
平行世界の進は、一連のループ現象の正体を知っているようだ。
いい加減わけのわからない現象に踊らされるのはごめんなので、ここで徹底的にどうなっているのか聞くことにしよう。
そして、もうひとりの進はひどく疲れた表情で言うのだ。
「ループ現象を仕掛けている誰かがいることは間違いないんだ。洗面所の先に行けば、抜け出せないあり地獄にはまるよ」
「だから、洗面所の向こうに何があるの?」
「それは言えないよ。言ってしまえば君までループから抜け出せなくなるからね。君も一度は洗面所に入ってループしたんでしょ。実は、その瞬間に迂回線路が現れてレールが切り替わったんだ。だから一日巻き戻された。そして巻き戻されたと同時に、迂回線路で起きたことは無かったこととして記憶共々かき消される。そうでなければ、君は精神崩壊してまた同じ時間に洗面所に入るからね」
もう一人の進は、立ち話をやめてソファに座る。進も向かい合って座り、話を聞くことにした。平行世界の自分とはいえ、先ほど死に値する絶望的孤独を味わったところなのだから。
だから人と向かい合えることが彼にとって光であり救いだった。
「ぼくは、迂回線路での出来事を自分のものにしてしまったんだ。だから記憶も消えていなければ無かったことにもされていない。そのせいで出られなくなってしまった……。何度も何度も迂回線路を回るうちに、閉ざされていくんだ……。ぼくは、壊れた心と精神で何百回もあの洗面所の向こうに引きずり込まれてる。そんなぼくは、もう車掌でもなんでもないよ。ぼくは何のために宇宙に出たんだろうね。お父さんから少しでも離れて違う道を歩もうとしたのに、いつの間にか先にも進めずに遊ぶしかない愚か者になっちゃった……」
もう一人の進は、そう言うと体勢を低くして顔を伏せる。
そこに、苦悩するもうひとつの己の姿があったのだ。
彼は無限に繰り返される恍惚と快楽の世界に溺れ、己の存在意義を失っている。それがよくないことであり、解放を望んでいるからこそ洗面所に入るなと警告したのだろう。
進の心が、動いた瞬間だった。彼の中で何かが変わってゆく。
そんな進に対し、もう一人の進が問いを投げかける。
「君は、真里が好き? 彼女を自分のものにしたいと思う?」
「もちろんだよ! だって、小さくてかわいくてぼくを慕ってくれる妹みたいな子がいれば、ぎゅっと抱きしめて全部ぼくのものにしたい! って思うじゃないか」
しかしもう一人の進は、さらっと幻想を打ち砕くのだ。
「けど、真里は誰のものにもならないよ。キレイなお洋服やたくさんの物を買ってあげても、こどものように慕ってくれる時間は限られてる。彼女は大人になるんだ。君は、真里が大人にならないルートがあるんじゃないかって探して何度もループしているんでしょ? でもぼくは知ってるよ。攻略不能な真里を攻略するチート(ずる)コマンドをね。それを見つけたんだ」
最後の一言が、とてつもなく悲痛だった。まるで、真里をものにすることが間違っているとでも言うように。
進は、すぐにもう一人の進をずるいと思った。
真里はだれのものにもならないと言っておきながら、自分だけ真里をものにして楽しんでいるとはどういうことだ。
「そんなのずるい。真里をものにして何が悪いの? 君はそれで楽しんでいるのに? だったら、そのチートコマンドを教えてよ」
進が感情的になり、ソファから立ち上がって言う。
もう一人の進も、やや距離を置いて立ち上がるのだ。
まるで、最期の時が来て警告をするように……。
「それでも真里をものにしちゃだめだ。全てを得る代わりにとてつもなく無力に堕ちていくからね。ぼくは、君に諦めてほしくない。僕だって、どうにかしてロリータループ宇宙を脱出したいと思っている。依存や快楽なんて、同じものが永遠と続いていくだけの飽和する生き方でしかないよ。だから君だけは、天井の無い生き方を選ぶんだ!」
気がつくと、進は十二月三十日の朝にベッドで寝ていた。
隣のベッドで、真里が幼い寝顔で寝ている。
今なら無防備な彼女にいたずらできるだろう。パジャマの上から胸を触ったり、唇を奪ったりすることもできるはずだ。
そんなことをしたい欲求はある。進だってまだ真里の裸を見ていないわけだから、もてあそびたいのだ。
真里を保護しているのだから、彼女の心も体も支配していいはずである。だが、進はそんなことをしようと思わなかった。
真里は小さな少女でしかない。その一方で、進はもうすぐ中学生にもなるオトナ。自分よりも小さな存在に、進はおっぱい見せてだの何だの萌え萌えしていた。本当にしょうもないと今では思う。
今ここで真里に依存してしまえば、また同じループを繰り返すだろう。依存はただの依存だ。同じ快楽が永遠と続くだけで、すぐに飽和状態になってしまう。それでも進は、天井の見えている閉塞的な道を進はもう一度歩むか。もう答えは見えていた。
十二月三十日。進は、違う道を歩むべく動き始める。
起きるや否や、何度もループしてきた中で一度も遭遇しなかったイレギュラーな事態に遭遇した。
「何かヘン……。すっごくおなか痛い……」
真里が、起きても動こうとしないのだ。いつもなら朝から元気イッパイでのんきに朝食をバクバク食べるのに、ベッドの上で布団にくるまったまま、朝食すら取らない。進は、手を額に当ててみる。
「熱は無いか。何が原因なんだろ……」
真里は熱もなければ、吐き気もない。単なる風邪ではないようだ。
そこに、病気めいたものは感じられなかった。
ただ、ひたすら沈痛な面持ちで腹だけを押さえて小さくなっているのだ。全くトイレに行く気配が無いことからも、便秘や下痢症状でもないらしい。だが、体のどこかが重たく不調なようである。
あれやこれやと原因を考えている進に対し、真里は言った。
「進。私なら大丈夫。私はお留守番してるから、進は買い物行ってきていいよ……」
そう言う真里は、とても弱弱しい。
真里がそう言うなら、進は行くしかないだろう。今日は電車の補給を業者に任せ、進は必要品を買いにいかなければならない。
ついでに医者から薬を貰らってこようかと聞いたが、真里はすぐに治るから心配しないでと弱弱しく微笑む。
「体調が悪いならこの部屋から出ちゃだめだよ。宇宙はキケンで、この宇宙電車の中が一番安全なんだから」
「分かってる。いってらっしゃい……」
進は、布団にくるまったままの真里を背に宇宙電車を出た。
そして進は惑星に降り立ち、雪の降るアミューズメントに満ちた街を歩く。右にパチンコ。左にデパート。前も後ろも玩具からゲームからファッションにギャンブルまで、所狭しと魅惑の道楽が並びつくして人を飲み込んでゆく。
どこもかしこも電飾をピカピカさせ、誇大広告を流し、楽しいことがイッパイの道楽と酔狂の世界に、人々は惑わされていた。
極寒の雪風が、こんなにも激しく打ちつける中でだが。
寒い。雪が頬や手に打ちつけられ、全身が凍りつくようだ。
コートを着ていても寒さを防ぎきれない。
進は過酷な環境下をただひたすら歩き、常に雪にまみれ続ける。
隣には誰もいない。けれで周りの奴等はカノジョやカレシを連れてキャハハウフフで遊んでいるのだ。すぐに楽しい道楽の世界へ入っていくのだから、寒さなんぞなんてことはない。
それに対し、進の隣を歩き手を握ってくれる者は誰もいない。
ただ、無情にも激しい雪が進を打ち痛めつける。
これが、孤独か。周りがどれだけ楽しく煌びやかな光に満ちようとも、その光に背き続けてただひたすら歩むしかない。
重たいものをずっしりと背負うのだ。楽しい思いもできないのだ。
あまりの寒さと気の重さに、周りの景色がぼんやりとなる。
日の差さない暗雲の下、あらゆる電飾の光がにじんで見えるのだ。
何もかも遠い。皆が笑って、楽しんで、心を共有しているのに進だけ蚊帳の外。本当は真里を連れて遊びたいが、そんなことをしてはまた快楽に頭をやられループ現象が起きてしまうだろう。
進は我慢した。今は宇宙電車の中で苦しい思いをして小さくなっている真里のことを想いながら、孤独に歩むしかないのだ。
進には使命がある。博史に背いて宇宙電車を強奪した以上、宇宙の果てにたどり着いてその先にある未知の領域に踏み込まなければならないのだ。真里だって、誰も知らない遠い世界へ行けることをひたすら夢見ている。だから進は、こんな所で遊んでいるわけにはいかない。それは自分に対するけじめだ。
そんな時だった。向こうから吹雪に吹かれてあの女が現れる。
そう、何度もループする中ですれ違った、後々に恋人を殺してしまったり殺されたりするあの女だ。
進は心の痛い思いをする。なぜ向こうから向かってくる女は、ああも死に向かい続けているのだろう。周りには、そんなものから背くことのできる楽しいアミューズメントに溢れているのに。
行く先に待っている破滅を予感はしているはずだ。だったらなぜ破滅する前に回避しない。死にたくないに決まってるだろう。
そんなことを考えているうちに、その女は進の隣を通りすぎる。
まずい。彼女の後姿が遠くなってゆけば、間違いなく死ぬ。
進は、雪の向こうへ消えていくはずの彼女へ対し、叫んだ。
「待って! その先に行っちゃだめだ!」
もしかしたら、頭のおかしい奴に思われてるかもしれない。
だって、雪の中を歩いていたら突然見知らぬ少年に、その先に行かないで、行ったらあなたは殺されたり殺したりするかもしれない。などと言われたからだ。進は全く知らない大人をそう引き止めたことに、強い精神的な負担を感じた。だがそうしないと彼女は死ぬ。
しかし、意外なことに彼女は進を軽蔑しなかった。
「事情は話せないけど私の未来を知っている少年ね。面白いじゃん。宇宙は広い。どうりであいつが私を置いて憧れるわけだわ」
女は進を近くの広場まで連れて行くと、暖かい缶コーヒーを買ってくれた。意外に優しい人だ。
「私の名前、良子よ」
進はありがとうと言ってコーヒーを受け取ると、少し遠く離れた距離にいる良子に対し苦いコーヒーを少し飲んで言う。
「彼との関係、悪いの? 嫌われてるの?」
「ううん。私もあいつも嫌ってない。むしろ愛してる方よ。けどお互いの気持ちが分からなくなって、心がすれ違って、どっちもムキになりすぎてる。コミニケーションの不通ってやつね」
進はなんとなく気づいた。彼女達は明確な殺意を持って相手を殺してしまったわけではない。ちょっとした拍子に相手が死んだのだ。
一度真里に嫌いだと言われた進が精神的に恐慌して真里を強引に掴んだ拍子に、バランスを崩して真里を殺してしまったように。
人間というのは、ほんのちょっと力と力のぶつかり合いの末に運悪ければ相手を殺してしまうものなのだ。そして、進は良子に問う。
「コミニケーションの不通なのに、どうして彼の元に向かうの? 彼に傷つけられて辛いことばかりじゃないか。だったらさ、デートとかして彼と仲直りすればいいのに。ここには綺麗な服もおいしいものもいっぱいあるよ」
良子はコーヒーを飲むとクスっと笑う。
「ふふっ。ごまかしたくない。そういうのこどもの発想よ。デートして楽しんだからって何? いい物買ってあげたりもらったりして互いのご機嫌取って何? 何も解決しないじゃん。そんなことして一時的に仲良くしても、またすぐに仲悪くなるだけじゃん」
進が、目の前にいる良子がとてつもなく大人だと知った瞬間だった。だって問題事から逃げないのだから。そして、傷つけられることもあれば傷つくこともある苦しい道へ真っ直ぐ進んでいく。
逃げ道を与えられ、問題事から背き続けたこどもな進には分からない。なぜ彼女は平気で死にに行くのか。そこに何があるのだ。
進は、核心に迫るべく問うた。
「そんな……。さっき言ったけど、あなたは死ぬかもしれないし殺すかもしれないんだよ。だからやめようよ。ぼくは、もうあなたが死ぬ結末を見たくないんだ」
「あなた優しい子ねー。ありがと。確かに今の私もあいつも殺すか殺されるか分からないくらい危険な所にいる。両方とも馬鹿で幼いから、相手の気持ちが分からないだんだ思う。人間ってね、たったそれだけで殺したり殺されたりするのよ。ただ、相手のことが分からない。これだけでね。じゃあ聞くけど、あなたは大切にしている人はいる?」
進は、博史や真里のことを思い浮かべる。
二人とも、真っ暗で何も無い宇宙で進の命綱を握っているようなものだ。もし、その命綱が切れたらどうなるだろう。
進は本当の真っ暗闇に放り出され、圧力で潰されながら、死ぬ。
「いるよ。ぼくだって今、大切な人達と仲良くできるかできないか分からない所にいるんだ」
「じゃあ、その大切な人に想いも熱意も注いでいたあなたが、突然嫌いと言われて何もかも否定されたらどうなる? あなたがいないって言われるの。何を思おうが、何をしようが無駄。声が聞こえない。意思が伝わらない。なのに相手から否定の暴力が飛ぶ。否定されたまま、殴り殺されるようなもんね。相手だって同じでしょ? 煮えるような熱い想いが否定された時こそ悲しみが激しい怒りに変わり、悲しみを分からない相手からひどく馬鹿にされ侮蔑された気になる。並みの大人でもその時に冷静さを保てるか分からないわ。心ってのはね、破壊された時が恐ろしいの。生存本能に従って心のありかを求めるべく暴れ、心を否定した相手を殺しかねない。両方とも愛してるのに、相手の心が分からないだけで、真空の宇宙に放り出されたまま両者とも破滅を迎える。心って、恐ろしいでしょ?」
良子は笑って缶コーヒーを飲み終えると、ゴミ箱に捨てて言う。
「ありがと。あなたみたいな謎めいた少年に出会えて、私もあいつみたいに宇宙に想いを馳せることができたかもしれない。今ならあいつの気持ちも分かるかもね。だから行かないと!」
進は、とても良子を笑って見送ることなどできない。
だって彼女は、死と破滅に自ら向かっていくのだから。
ぶわっと、凍てつく雪風が吹いた。進は孤独に吹きすさぶ雪に打たれながら、距離の開いた良子を見送るしかない。
良子と関わったからといって、何かが変えられるわけではなかった。何も変わらない。彼女は変わらず死と破滅に向かい続けるのみだ。そんな彼女を、手を伸ばし阻むこともできない。
しかし、それでも進は去っていく後姿に対し、叫ぶのだ。
「どうして行くの? 殺すか殺されるか分からないんだよ!」
「それでも行くわ。私、独りじゃ生きていけないから!」
死と破滅に向かう背中が、雪吹きすさぶ中へ消えた。
進は、良子がその後どうなったのか分からない。
進はその後必要な買い物を済ませ、エネルギー供給の終わった宇宙電車に帰ってくる。しかし、気になるのは真里のことだった。
何時間も宇宙電車を空け真里を独りにしていたのだ。
真里に宇宙電車から出てはならないと注意していたが、進のいない間に体調の不良は治ったのだろうか。
更にひどくなっているなら、早く医者に見せた方がいいだろう。
そう思いながら、進は自室の扉を開ける。
「ただいま真里。体の調子は……」
そこに真里は、いなかった。
だが、ベッドの上にある布団に真里がくるまっていた形跡が残っている。それも、つい先ほどまでいたように……。
真里は体調が芳しくないのだ。だからいないというだけで進は不安になる。もしかしたら宇宙電車の中にいないのか。誰かが弱った真里を誘拐したんじゃないか。
などと不安が頭をよぎり、進はいてもたってもいられなくなる。
進は早足に客席車両を探して回った。どこかの客席に真里がいないか見るが、真里はどの客席車両いもいない。
寝台列車にも、他のスイートルームにもだ。
真里が行くはずもない車掌室まで探したが、やはりいない。
ただそれだけで、進は不安になる。真里の幼く疑いを知らない笑顔が、忽然にパッと消えるかもしれないのだ。
そしたらどうなる。進は、真空の宇宙でただひとつの命綱を切られて真っ黒な虚無へと独り消えていく。
宇宙を旅すれば、死と孤独に対する恐怖を嫌というくらい知る。
何も無い。誰もいない。ただ真っ黒が広がっているだけ。
窓の外から見えるその光景に飲み込まれたらどうなるだろう。
掴む物が何もないのだ。人にとって意味のあるものが無いのだ。
光り輝く都市も、人がたくさんいる社会も、全て遠くに消える。
そして動くことのできない真っ黒な棺桶に入れられ。
圧迫されながら窒息して、死ぬ。
それが、宇宙を旅する上での孤独に対する恐怖だった。
独りになるという現実的恐怖を目の前に、進は戦慄した。
大人からすれば、失笑ものだろう。真里独りがいなくなったからといって何だ。都市に再び降りれば人だってたくさんいる。
そこで友達なりカノジョなりまた作ればいい。と思うだろう。
しかし進は、こどもだ。真里独りを失うだけで、真っ黒な宇宙空間へ孤独に放り出され、死ぬような気がしてならない。
今は、死ねばループする怪現象に遭遇しているが、いずれその怪現象からも見放されたらどうしようか。と恐怖するのだ。
それだけ真里に依存しているのだ。だって進は何週も宇宙をループして、真里にのめりこんでいるのだから。
真里と出会ってたかだか一週間と数日程度だが、進はループを繰り返していることで、もう一ヶ月以上真里と一緒にいる気がする。
心の死を目の前にして恐れる進だが、宇宙電車のどこかに真里がいないかとまだうろうろしていた時のことだった。
化粧室の前を通った時のことだ。真里の声が、かすかに聞こえた。
はっとして進は耳をすませてみる。
病的な息遣いで、真里が苦しんでいる。女子化粧室からだ。
体調不良が悪化しているのか。進は中に入ることなく声をかける。
「真里。体の調子が悪いの? だったら病院に行こう。ぼくが連れていってあげるから。独りで隠れて苦しまないでよ」
すると、かすかに真里の返答が返ってくる。
「だめ……。こないで。来たら進に嫌われちゃう……」
「もう。体調が悪いだけでしょ。そんなことで意地張らない!」
進は、来ないでと言われるのに女子化粧室に入る。
中は真っ暗だ。かすかに真里が腹を抱えて奥の方でうずくまっているのが見える。進は真っ暗な中で、真里に手を伸ばした。
しかし。伸ばした瞬間にぬるっとした感触がする。
変だ。何か生臭い。排泄的な臭いとは違う、生暖かい変な感じだ。
「いやっ! だめっ!」
暗闇の中で、真里に拒絶された。姿が見え辛い暗闇で、真里に何かが起きている。真里が、何が異形へと変じている。
進はひたすら慄いた。だって、あの幼く無邪気に慕ってくれる真里が、真里でなくなっているのだから。
見えないけど分かるのだ。真里から発せられる雰囲気そのものが変わり、何かこう、近寄りがたい気配を放っている。
そして感じる悲しみの感情。暗闇と重なり、真里が泣き続けて目の下を腫らしたことが分かる。
彼女はただ独り、体を蝕む何かの変調と戦い続けていたのだ。
進の心が動く。真里を独りぼっちで泣かせるわけにはいかないのだ。だから、真里に何が起きたのか向き合わなければならない。
「真里。電気つけるよ!」
「だめっ! つけちゃだめ!」
真里の拒絶に反して、進が電気をつける。
ぱっと暗闇が白い光に包まれ、真里の正体が白日に晒された。
壁に寄りかかり、腹を抱えた真里は。血を流していたのだ。
スカートの中から血が流れる血は、床を赤く染める。
進は、ぱったりと膝をついて愕然とするしかない。
真里は、ただひたすら顔を手で覆い、泣き続けていた。
進の望みは打ち砕かれたのだ。もう、真里は進のものにならない。
進が上に立って、真里を保護する必要もない。
進は打ち砕かれた存在意義を取り戻すべく、後々に待ってる宇宙怪獣に殺されでもして時間を巻き戻そうと思った。
だが、その画策も打ち砕かれる。これだけは避けられないのだ。
だったら何度時間を巻き戻しても同じ。
何をどうしても必ずこの結果が待っているだろう。
それを分かっていて、進は真里を引き止めていた。
お洋服に玩具にお菓子を与え、この結末を回避しようと必死だったのだ。それは、真里を侮辱する愚行だと自負している。
そしてただ泣くしかない真里は、進に対し言うのだ。
「私の中で何かがおかしくなるの。私が真里でなくなったら、進に嫌われちゃう。ここから追い出されちゃうかも……」
「違う! 悪いのはぼくの方だ!」
進は反射的に叫ぶ。そして、無意識のうちに真里の手を握った。
「こうなるって分かってたんだ。真里だっていつまでもこどもじゃない……。こうやって大人になって、ぼくの手から離れて、ぼくの知らない所で誰かと仲良くなったり、ぼくと違う男の事を好きになってここから離れていくことだってあるんだ。それが普通なんだよ! そんな当然のことも分からないぼくは愚か者だ!」
そして、進は涙の止まった真里の前髪を優しく払ってあげる。
真里の額と、痛みに耐えた大人の表情が露になる。
「だから君は自由だ。寂しいけど、ぼくはもう阻まないよ。君がぼくの元を離れてどこか遠い所に行っても、引き止めることはできないんだ。笑って、さよならしなきゃ……」
真里は、進の手を強く握り返す。まだ幼く柔らかな手と、少し硬く大きくなった手が重なり合う。
「私、こんなに汚いよ……。こんな私でも、嫌いにならない?」
「ならない! むしろキレイだ! オトナっぽくていいよ!」
いつの間にか、二人に悲観的な感情はなかった。
お互いを受け入れたのだ。真里は真里だ。進は進だ。
二人にはもう壁ができて、心溶け合わせることもできない。
この日を境に、進は寝台列車で寝ることになるだろう。
だからこそ、お互いを一人の人間として称えるしかないのだ。
そして、真里が進の背中を押した。
「ありがとう……進。私を好きなら、あなたは私の好きな進でいて。あなたは立ち止まってる人なんかじゃない。私だってどこまでも行きたいけど、きっとこうやって立ち止まっちゃう。でもあなたは違うよ。進は何があっても前だけを見て進む人だから……。ほら、私の後ろの窓に宇宙が広がっている……。そしてあなたはこの宇宙電車を動かせる。だから私みたいのノロマなんか置いて、どこまでも先へ進まなきゃ。だって、私の好きな進なんだもん」
迂回線路へのレールが、切り替えられなかった瞬間だった。
進が、まだ知らない世界へと走り出す。
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