第3話

 一体どこから来て、何者かも分からない少女。真里。

 誘拐され、自由を奪われていたという後ろめたい背後を彼女はあっけらかんと言っただけで、それ以上何も語らない。

 進に保護義務がある以上、親元に返さないといけないだろうが、真里は家に帰らなければ。と言うこともないのだ。

 この歳で親元を離れるのは精神的に辛いだろう。進も同じだ。

 なのに、真里ときたらまるで家や両親が初めからいないかのような自由さなのだ。家はどこ? 送ってあげようか? そう問おうとしたが、あまりに真里が自由奔放に振舞っているので、言えない。

 だから真里は、何かから離れてきたという辛さを全く感じない。

 危険惑星を離れた後。宇宙電車は宇宙に敷かれたレールを走り、進さえも行き先を変えることができないどこかへ向かう。

 それは進にとって、不安と恐怖の塊だ。宇宙電車を強奪する前に、銀河美少年交なり博史なり終着点を聞いておけばよかった。

 それでも宇宙電車は、何も見えない行き先真っ暗な宇宙を後戻りもできずに突き進んでいく。次に何が待っているのかも分からない。

 今の進の目的は、真里の願った誰も知らないずっとずっと遠くのどこかへ向かい旅をして、その中で何かを得ることだ。

 そして何かを得た後に地球へ戻って、博史をギャフンを言わせてやる。置いてかれる奴の気持ちが分かったか……と。

「うわー。キレー。これ全部進のものなの?」

「そうだよ。今日からは真里も好きに使っていいから」

 新たな同胞を迎えたため、進は宇宙電車の中を真里に案内する。

 真里はよほど辛い環境下で生きていたのか、豪華な客席車両を見ても、スイートルームを見ても、喜びっ放しだ。

 宇宙電車は永遠に輝き続ける銀河を背後に、進と真里を乗せて走り続ける。車窓はこの瞬間も流れ続け、黒い空間と対比して宇宙電車内の豪華な設備が輝いて見える。

 それは、真里もだった。彼女はひたすら笑い、こどもらしい健気で可憐な姿を進に見せるのだ。

 その幼さからすると、真里は小五の十歳ではない。小四の十歳だ。

 それでも、歳の割りに幼さを感じる。その代わりに、心理的洞察力に関しては並みのこどもよりも大人である。

 しかし、真里の精神的幼さこそ進の求めているものだった。

 どうにかして下心を悟られないようにすれば、進は己の望みを実現できるのだ。だからこそ、諦めないでよかったと心から思う。

 嫌なことや苦しいことだらけだったが、この先にこんな幸せが待っていたのだから……。

 そして進が夕食を作って、それをまたしても真里が無邪気に食べた後のことだった。

 次の行き先が表示されていないか確認し、ついでに敵の襲撃がないかレーダーで確認した後、自室であるスイートルームに戻った時のことだ。

 真里が、二つあるうちの一つのベッドで、寝ていた。

 あれほど危険な目に合ったのだから、よほど疲れたのだろう。

 熟睡だった。幼い寝顔で寝息を立てたまま、微動だにせずベッドに体を沈めているのである。風呂にも入ってない普段着のままで。

 進は隣のベッドに座って、彼女の熟睡する姿を見る。

 心に、何か熱いものがこみ上げてきた。

 彼女がここで寝ているということは、進とこの部屋で生活を共にする気なのか? 他にスイートルームも寝台列車もあるのに?

 進は気まずくなって、他のスイートルームを使おうとも思った。

 だが、足が止まる。その必要はないようだ。

 だって十歳の真里には、性的意識や抵抗がないのだから。

 あるのなら、ここで共に生活しようなど思わないはずだ。

 博史から受け継がれた、進の心の闇が広がる。

 進は、この少女を支配できるのかもしれない。真里は帰る場所がないのだ。だが進は、これから送る日常の場を与えてあげたではないか。だったら真里は、進のものになるのか?

 進が責任を持って真里を保護するかわりに、進は真里の上に立ってもいいのではないか? 表向きは兄妹のようで、何もヘンなことはないはずだ。真里もその関係を嫌がっていない。むしろ喜んでる。

 進の中でいろんなものが込み上げてきた。

 支配欲に性的欲求。それらを満たすものが真里にあり、その真里は今進の手の内にあるのだ。

 そして今。真里は無防備な状態だった。寝ている今なら気づかれない。多少のいたずらだってしてもいいはずだ。

 進は、そっと手を伸ばす。

(どんなパンツ穿いてるんだろ……)

 スカートをめくるくらい、気づかれないだろう。

 が、しかし。進の手が止まる。

(私は私だよ。誰のものにもならないから)

 その言葉に、手が止まる。それ以上何もできない。

 男と女が、どうして同じ部屋で寝てはならないのかを知った瞬間だった。進はもうひとつのベッドに座って真里を見た。

 そんなことをすれば、あの雪原で出会った時のようにまた嫌悪感をむき出しにされ、逃げられるかもしれない。

 今日一日で得た信頼関係を白紙にされていいのだろうか。

 進が欲望のおもむくままに、真里にいたずらしたらどうなる。

 スカートをめくっても、体にさわっても、それは体に興味を持っていることにしかならない。そこに、真里の心はないのだ。

 そう考えると、今日一日の体験を踏まえた上でいたずらなどできるはずなかった。進がここまでたどり着いたのは、「個人」としての心の在りかを求めたからだ。博史に押され、友達の中に溶け込み、そこに進はいなかった。

 FMDによるネットワーク通信で心と心を溶け合わせ、個人の精神や魂が消えてゆく。そんな心の通わせ方は間違っていると知ったから、FMDを捨てたのだ。しかし進は、その過ちを克服したわけではない。孤独という脅威がある限り、いつ「個人」の存在を否定した心の融合へと踏み込むか分からない。

 けど、進はその道を欲っしようとも抗うつもりである。

 進は、「個人」が「個人」である意味に気づき始めてるのだ。

 今は真里の強さに敬意を表し、距離を置こうではないか。




 それから数日が経過したが、依然として次の行き先は分からない。

 危険惑星での苦労は、それまで何の苦労も苦痛も経験したことのない甘ちゃんの進にとって負担が大きかった。

 だからあの一日だけで三日分の体力と精神を消耗した気になり、暫く何もしようと思わない。そんな進に、次の行き先に辿り着くまでの空白の時間はいい骨休めとなった。

 博史に置いてかれて、ずいぶん誰もいない家にいたから、洗濯(進は真里に、自分の洗濯物は自分で洗濯して干そうと提案した)や掃除や料理も日常的な家事には慣れているので、宇宙電車内での日常は疎かにしない。

 しかし進には、ひとつだけ気になることがあった。

 真里と共に危険惑星を脱出して一週間が経つが、気になって一日一回調べることがある。それは、女子トイレに潜入してのことだ。

 進が設置している汚物入れを調べるのだが、そこには毎度何も入っていない。進の頭に、よからぬ邪念が広がる。

 もしかして真里は、「まだ」なのか。それとも単に「その日」が来ていないのか。もし、「まだ」だったら、それは真里の内面形成と大きく関わり進にとってとてつもなく好都合だ。

 だが、結論は分からない。もう少し様子を見よう。

 何よりも、真里のような少女と共に過ごせることが夢のようだ。

 そんなある日のことだ。進の心を動かす事態が起きる。

「進。誰かから電話だよー」

 十二月三十日。朝のことだった。

 今日は真里が朝食を作る日なので、手の離せない真里が言う。

 進はあとどのくらいで燃料が尽きるのかを確認しに、車掌室に向って戻っていたところ、電話が鳴っているのに気づくのだ。

 進は悪い予感がする。電話をかけてきた相手はもしかして……。

「進! 生きてるか! 俺だ、お父さんだ!」

 電話の向こうにいる父は、出発の時に追いかけてきた怒りと執念の形相とは打って変わって、こどもの無事をひたすら願う、悲痛な声を上げていた。大方進が博史の意志に背き離反した現実にこの数日間失望し、ようやく冷静になって電話をかけたのだろう。

 そして、電話で何を言われるのかもう分かっている。

 だが進は何を言われても答えは決めているつもりだ。

「ぼくならだいじょーぶ。だって宇宙怪獣の群れに囲まれてもなんてことはなかったんだから!」

 進はその言葉を言うと、後ろにいる真里を見た。

 真里は目で(私達二人でやり遂げたんだもん!)と目で言ってくれる。そして「私には関係ない」と知らんぷりしてこの場から出ていくこともせず、後ろで見守ってくれていた。

 本当にいい子だ。だから進は彼女に惚れるのだ。

 その熱い思いに対し、博史に対しては冷める一方だった。

「お前はなんて馬鹿なことを! 腕の一本も無くならないで五体満足で生き延びてること事態が奇跡だ! いいか進。よく聞け、その宇宙電車がどこに向かっているかお前は知らないだろう? 行き先は、誰も知らない宇宙の果てだ! お前は宇宙の果てにある壁の向こうに行こうとしているんだよ!」

 終着点の判明により、ぱっと進の心が明るくなった。

 この宇宙全てが、博史の手の内にあるようなものだ。どこへ行こうが博史の手から逃れられない。どこに行っても博史の評判が着いて回る。だが、宇宙の果てには行き止まりの壁があり、その先は博史の手の及ばない、到達できない未知の世界なのだ。

 進は決意した。真里を連れてそこに向かうと。

 この旅で、進の願いも真里の願いも叶えることができるのだ。

 しかし、博史は真里と違い、進を否定ばかりする。何も分かってくれない。その態度に段々進は怒りすら覚えてきた。

 彼はエゴイズムの塊のようなもので、自分が絶対的善であり進にとっての全てであり、進を手の内に収めなければ気がすまないのだ。

 何も知らないくせに。なのに全てを分かったつもりでいる。

 この旅で得た全てを、博史は否定する。それが許せない。

 それを否定するしかない分からず屋の博史の言うことなど聞くものか。徹底的に反抗して己の道を切り開いてやる。

「いいじゃないか。そこがぼくのゴールなら、辿り着いてみせるよ」

「よくない! その旅路に何が待っているか分かるか? 宇宙怪獣だ! 普通な、そういう輩に対処できるまで何年かかると思ってるんだ! 最低でも五年だぞ? 大人しく俺の推薦した宇宙中学校でまじめに勉強していればよかったものを……。どうしてお前は身勝手ばかり振舞って人に迷惑をかけるんだ……。お前はそんな子じゃなかったはずだ!」

 身勝手を押し付けてるのは博史の方だ。

 自分の手の内に人が納まっているといい気になり、少しでも人がその範囲内から出ようとすると怒り出すなど、都合が良すぎるではないか。もう怒りしか込み上げてこない。

 流石にこうも否定に否定をされては進も黙っちゃいられない。

 穏やかな進にしては珍しく、声を荒げるのだ。

「ぼくはお父さんの操り人形なんかじゃない! 言う通りにして宇宙中学校に通ったら何? 次はお父さんの言う宇宙高校に通えって言うんでしょ? だったら三十歳になっても五十歳になってもお父さんの言うこと聞かないといけないわけ?」

「当然だ! 俺を誰だと思っている! お前の父であり、宇宙船団の船長だ! 一子相伝の物語の何が悪い! 父から受け継いだ魂を子が受け継ぐのは男のロマンだろうが!」

 この期に及んでまだそうやって己のエゴを押し付ける気か。

 あきれてものも言えない。進は父に失望して、反論もしなかった。

 それでも、博史は進に押し付けてくる。

「悪いことは言わん、進よ。すぐに近場の惑星で降りて宇宙電車を旅団に引き渡せ。これが最後の警告だ! もし諦めてくれればお前の罪を不問にして、ゲームでもおかしでも何でも好きなものを買ってやるから。なっ!。重罪が「思春期の暴走でした」ですまされるんだぞ? もし諦めなかったら、お前は宇宙怪獣に食いちぎられて死ぬか、宇宙少年院で札付きのワル共にリンチだ!」

 博史は頑なに己の意志を曲げない。

 だったら進も、開き直って己の意志を貫き通してやる。

 進は右手で受話器を持ちながら、見守っていた真里の背中に手を回し、抱きかかえた。突然そんなことをされ、真里が喜ぶ。

 そのまま後方のソファに、ドサっと座る。

「お父さん。ぼくが今何抱えてるか知ってる?」

「ああ、何を言い出すんだ当然。どうせ宇宙ネコ(平沢進の曲?)でも拾ったんだろう? だったら今すぐ捨てなさい。そいつはかわいいようにみえて強暴だ。食い殺されるぞ!」

 進は真里を更に抱き寄せる。真里の何にも汚れない柔らかな肌と、こどもな匂いが進に触れ彼を奮い立たせるのだ。

 真里は、進が何を考えているのか分からないような表情で、兄を見上げるようにポカーンとするしかない。

「違うよ。抱えているのはオンナノコ。ぼくのカノジョだよ。お父さんには絶対に会わせないからね。この子が誰も知らない宇宙の果てまで行きたいって言うんだから、ぼくが連れていってあげるんだ。だからぼくは帰らないよ。ね、真里!」

 進と真里は、体を寄せ合って、無邪気に笑う。

「私を連れていってくれるんだ! 私、進だーいすき!」

 その事実が、完全に電話の向こうにいる博史を玉砕したらしい。

 唖然とした声で、博史が最後の言葉を言う。

「なっ……。お前は不純異性交遊にまで手を染める気か……。たかが十二歳の分際で……」

 ガチャン。ショックのあまり電話を落とす音がした。

 そのまま、進は電話を切るのだ。

「くそっ! 父さんの分からず屋め!」

 真里を抱きかかえていい気になってみたものの……。

 心の中に、ぼこっと沸騰するような暴力衝動が生まれたのだ。

 この不快感は何だろう。こっちの気持ちが相手に伝わらない。

 相手の気持ちがこっちに伝わらない。人の言うことを怒りと悲しみの感情から受け止められず、逆に心無い暴言で相手を傷つけ、傷つけられた相手が怒りと悲しみから、同じように心無い暴言で進を傷つけるのだ。進が怒り憎しんでいるものは、進の中にあるのだ。

 だって、傷つけられた進は同じ方法で進自身も博史を傷つけているのだから。

 その自己矛盾。まるで自分で自分を殺しているかのようだ。

 そして相手の心を殺す。結果的に自分も相手も破滅を迎えながら独りで死んでいくようなもの。

 進は思いっきり暴れたかった。何か物を破壊して、心の底から沸騰する怒りも悲しみも出し尽くしたいのだ。

 しかし、そんな進にも絶対的救いはある。きっと彼女がいなければ、進はこの宇宙電車の中で怒り狂っていただろう。

 この真っ暗で何も無い、絶望的なまでに孤独な宇宙の中で進の存在を繋ぎとめてくれる、奇跡的な存在。

 たった一人の少女がいなければ、進はこの真っ暗な宇宙で心の不通という、精神を崩壊させる地獄で自己矛盾を抱えながら己を破壊し尽くしていただろう。

 進は絶対的に自分を信じ、裏切らないでくれる小さな天使をきゅっと全身で抱きしめた。

「お願いだよ真里。ぼくの隣から離れないで……。ずっと一緒にいて。真里がいなくなったら、ぼく死んじゃうよ……」

 真里は、弱弱しくなる進を幼く無邪気に撫でた。

「だいじょうぶだよ。私はずっと進の友達だから」

 その時だった。車内に行き先を告げるアナウンスが流れる。

「本日十二月三十日にこの宇宙電車は、給油と充電のため「惑星YB」へ停まります」

 進ははっと顔を上げる。ようやく宇宙空間から解放され、地面のある惑星へと降りられるのだ。さすがに出ることのできない宇宙電車に閉じこもっていると、進だって心身共になまって仕方ない。

 そして、給油と充電が必要ということは、降りる場所は都市があって人がたくさんいる、まともな惑星ということになる。

 進の心が明るくなった。前の危険惑星のように宇宙怪獣に追いかけられ、死に直面する心配はないのだ。

 それに、給油と充電中にたっぷり遊べるかもしれない。

 進は真里を見て、にやりとする。

「行こう。お兄ちゃんがたくさん遊んであげるよ。真里の好きなもの、なーんでも買ってあげる!」

「ホント? わーい。やったぁー」

 真里は目を輝かせ、ぴょんぴょん跳ねると進に飛びつくのだ。

 その小さな存在が、無邪気に進の手の内に収まっていれば、進は愛おしさを感じずにいられない。真里は、何があっても進を裏切らない(絶対にそのはず)のだから。

(真里はぼくのものだ。絶対に放さないよ)



 宇宙電車が停車する惑星は、当然ながら進の乗る宇宙電車専用の駅など持っていない。だから宇宙電車は惑星の近辺の宇宙空間に停車し、進は電話で技術屋を呼ぶ。

「もしもし。ぼくは「銀河美少年宇宙列車の旅」っていう計画を代行(本当は強奪)することになった進ですけど。僕の宇宙電車を給油と充電してくれませんか? 場所は、惑星の外に宇宙電車のレールが敷かれてあるのですぐに分かると思います」

 そう電話で問い合わせると、すぐに技術屋の人は来てくれた。

「我々にお任せください! その間、ごゆっくりと!」

 進は博史のゴルフ代と酒飲み代に消えるはずだったお金を渡し、後は真里と一緒に惑星行きの宇宙船に乗って楽しい旅へゴーだ。

 辿り着くや否や、進と真里は目を輝かせる。

「うわー。まるで宝の山だ!」

 降り立った都市は、アミューズメント一色だったのだから。

 見渡す限りのあらゆるものが、進の興味で埋めつくされていた。

 まず、右に左にゲームセンターが何軒も建っている。

 電球装飾付きの看板が絶えずピコピコ光り、自動ドアが開くと「いやー。めっちゃおもろかったな! サイコーだったぜ!」などと満面の笑みを浮かべながら、必ず友達や親しい者同士で人が出てくる。

 ドアが開いた時に、進は遠くからだが見た。

 店内に何台もの筐体型ゲームマシンが並び、その筐体に向かって人が熱中して向かっている。

 ガチャガチャボタンを押し、レバーを倒し、画面が音を響かせて光りを放つ。向かう人々は前のめりになる勢いで、ひたすらゲームに没頭するのだ。自動ドアが閉まり、その光景はにぎやかな音と共にシャットアウトされる。真里も遊びたくてたまらないらしく、目を輝かせっ放しだった。

「ねねっ! あそこ行ってみよ! あっちもおもしろそう!」

「落ち着きなよ。先に行くがあるから」

 真里は落ち着きなくどこへでも行って、溢れる人ごみに消えてしまいそうなので、常に腕を掴んで放すことができない。

 よかった。この惑星は確実に幼い真里の心を掴むようだ。

 そして目に映るのはゲームだけでない。最先端テクノロジーもだ。

 進は機械やパソコンに詳しいので、街頭に設置された広告や宣伝映像を見れば立ち止まって入りたくなってしまう。

 最新機種発売。革命的性能であなたの世界が変わる。今なら新機種パソコンを買うとオンラインゲームの契約が格安になるサービス付き。などなど。進の心を掴む広告が目白押しなのだ。

 そんな、全てが宝の山に溢れる中。辺りは寒気に覆われていた。

 光は差さず、辺りは沈んだ色合いと空気に満ちている。

 ガチャガチャと派手な装飾を並べ立てるビルとビルの間を、絶えず冷たい風が通り抜けてゆくのだ。

 人々はぶ厚い上着を着て、そして親しい人と体を寄せ合って寒さをしのぐのだ。風が吹き、頬や手をしもやけで傷めても人々はなんてことなしに楽しげに歩く。

 だって、こんなにも楽しいことで溢れているのだから。

 この灰色の空の下、全てが光と喧騒に満ちている。光に溢れるゲームセンターの中に入れば、寒さも感じることなく楽しいことが目白押しなのだ。そしてその絶対的光を、人と共有できる。

 進の目の前に世界がある。無数に人がいて、文明も文化もある。

 それを目の前にすると、涙が出そうになる。

 何でもない光景でも、俗世から隔離されて棺桶に入れられたような死を疑似体験した進にとって、こうして人間のいる世界へ戻ってこれたことが奇跡に思えて仕方ない。

「真里、お兄ちゃんが楽しませてあげる!」

 進が真里の手を引きまず最初に向かったのは、デパートだ。

 それもデパート内のゲームセンターやおもちゃ売り場ではなく、女の子の気を一番引ける場所。服屋に向かう。

 宇宙電車での旅を続ける以上、女の子としては同じ服を着続けるわけにはいかないだろう。色とりどりの服があった方が心輝くはずである。進だって、かわいい服を着た真里を見てみたい。

 女心を察したかいあって、真里はよりいっそう喜んだ。

「ここから何でも選んでいいの? やったぁ!」

 真里がぴょんぴょん跳ね、頬を赤くする様がかわいいことこの上ない。並んだ女児向けの服を眺め、真里は好みに合った服を選んでいくのだ。そして試着室に真里が入って、カーテンを閉める。

 試着室の前に進がいることも、全く気にしない。覗かないでよとも言わない。その、性的意識の無さに進はニヤリとした。

 カーテンの向こうで真里が脱いでいるのだ。

 スカートを脱ぎ、シャツを脱ぎ、今下着姿になった所だろうか。

 進はまだ真里の裸を見ていない。ぜひとも見たい。

 妄想がさらに広がる。真里は性的意識が全く無いのだから、裸を見見ても嫌がらず、幼く笑うだけかもしれない。

 進は真里に何でも与えてやるつもりだ。

 服を買ってあげ、ゲームセンターにも連れて行ってあげるし、食べたいと言ったものも食べさせてやる。

 だったら真里にとって、進は全てだ。進が真里を支配していいのだ。だって与えるだけ与えられて、真里が何も進に返さないわけにはいかないだろう? 

 あの子は馬鹿ではないから、それくらい分かっているはずだ。

 進が全てを真里に与えたなら、対価として真里は進の支配下に下る。心も、体も、全て進のものだ。

 あの小さく、薄紅色の唇を奪うのも自由。体を触るのも自由。

 そんなことをできる可能性がある。

 考えただけで、血液が沸騰するような興奮がこみ上げてくる。

 しかし。あくまでそうなればいいなと「妄想」の段階であって、今は実現に移すつもりはない。実際にそういった接触や上下関係を真里に強要すれば、嫌われてしまう可能性も否定できないからだ。

 真里が百パーセント心の壁を形成していないとは限らない。

 性的意識が無いといえども、ちょっとしたことで性的内面が芽生える可能性がる。それだけで進の欲望は実現できなくなる。

 しばらくは様子を見よう。

 なんて進が頭の中で煩悩が渦巻いていると、真里がシャッとカーテンをしゃっと開けて姿を現した。

「どお? かっこいいでしょ?」

 真里が選んだ服装は、寒さに応じたジャケットを長袖のシャツの上に着込み、下はデニムスカートだ。

 靴は動きやすいスニーカーだった。新たな姿で現れた真里は、腰に手を当てて足を開き、ジャキーンと決める。

「すごくいいよ! 似合ってる!」

 進はそう言うが、真里の姿は理想とは違っていた。

 もっと女の子っぽいお姫様の姿かと思っていた。

 何より真里が選んだのは、以外にボーイッシュなスタイルだ。

 真里は進百パーセント進の理想には沿わない。

 カーテンを開ける動きもそう。パンを食べる動きもそう。

 以外と力強く、男勝りである。

 やはり真里は真里であり、進のものにはならないのか。

 それでも愚かにも、進は真里を自分のものにしたいと願っている。

 そうでないと、ある結末を迎える可能性があるからだ。

 だが、進の思い通りにならない面もあれば、進の理想に(素直で幼く、純粋なところ)沿ってくれる面もある。それだけで、進は幸せだ。

 進に肯定されて、真里はとてつもなくうれしいらしい。

 きゃきゃっとあどけない笑みを浮かべると、進に抱きついてくる。

 進にとって、自分よりも年下の子がべったりと柔らかな肌を合わせてくることが、たまらなく嬉しかった。

 真里がよりかかったまま、二人は次の場所へ向かおうとするのだ。

「次はどこ行く? ぼくが、何でも買ってあげるよ!」

「私アイス食べたーい。それからゲーム買ってー」

「いいよ。僕の分も買って宇宙電車の中で対戦しようか!」

 デート作戦は大成功だ。物を買い与えれば、真里は進の虜になる。 

 裏切らないのだ。嫌われないのだ。

 心同士の不通による破綻に苦しめられた進にとって、心と心が合致し想い合えるこの瞬間が嬉しくてたまらない。

 それが、心傷ついた進にとってどれだけ救いになることだろうか。

 一人の少女を手の内に収め、支配欲が溢れ出てくる。

 しかも、可憐でかわいくて、キレイなお洋服を着ているとなればなおさらだ。進は心がドロドロに溶けるように幸せだった。

 一通り買い物をして、進は手に買ったゲームやら玩具やらを一人で抱えることとなる。非力な進にとって少し負担になるが、真里の笑顔を思えばなんてことない。

 しかし、この買い物を通して進は決定的事実を掴んだ。

 真里にはまだ「あれ」が来ていない。その事実を知った瞬間進は勝利を確信したのだ。なぜなら真里は、買い物の際に必要なものを買わなかったからだ。これが進にとって、何の得になるのか。

 それが、真里が「あれ」が来ていないことによって性的内面が形成されておらず、完全なる心の壁を持たないということだ。

 心の壁が完全ではない。それは進が真里をものにできる可能性があるということだ。そして真里はというと、アイスを食べながらデパート前のベンチに座ってニコニコ満面の笑みだ。

 進も隣に座り、真里の口についたアイスを人差し指で取ってあげる。真里はふふっと笑って、進に肩を寄せるのだ。

「次はどこに行くの? 私、キレーな景色が見てみたいな!」

 真里が、ごきげんよく足をパタパタさせて言う。

「いいよ。じゃあ、できるだけ高い場所に行ってみよ!」

 そう言って、白いアイスを口の周りにつけて食べる真里を、変な笑みで見る(なぜ?)進だったが、そんな彼はある光景に遭遇するのだ。

「はぁ? ちょっと待って! あんた私がどれだけ与えたと思ってんの? 恩を仇で返す気?」

 前方で、二十代後半かと思われる女が電話をしていた。

 電話の相手は恋人の男と思われ、とても仲がいいとは思えない。

 その女は表情からして苛立ち、行き詰っているようである。

 感情的で抑制する術を知らず、怒りで相手を否定するのではなく、相手の存在を強く求めすぎているようだ。

 しかし、場所が場所なだけにタチ悪い。だから進は不愉快だった。

 ここは冬の凍てつく空気の中で、人と人とが仲を深め心を共有するハッピーな場所である。そんな場所だから行き交う人々の表情も明るく、恋人同士から親子から老夫婦まで様々な関係が相互理解しあっているのだ。それは進と真里も同じだった。

 なのに、目の前で電話をしている女のきたら……。

 もつれ話なら他所でやれと言いたい。だって人々が楽しくしている中で、ただ一人だけ険悪なムードの女が電話をしているのだから。

「なんで勝手なことするの? 私があれだけ宇宙に行くなって言ったじゃない! 何? 身勝手を押し付けられているのはこっちだって? よく言うわね。私の支え無しに生きていけないくせに!」

 女の怒りは止まらない。けれどそんな女の目の前を、円滑なコミニケーションを実現して、仲むつまじい恋人達が通りすぎてゆく。

 冷たい風が吹き、雪がぽつぽつと降る中で。夕暮れ迫った不毛な夕暮れの空を背後に、それでも女は怒るのだ。

 誰もその女に対し、迷惑な表情を浮かべない。変な目でも見ない。

 他者と楽しく心通わせている人々にとって女はいない存在なのだ。

 とてつもなく痛々しく、孤独である。

 目の前で楽しい連中がわんさかいるのに、彼女は何もうまくいかない意思の普通にぶち当たっているのだから。

 日没は迫っていた。辺りはよりいっそう寒さを感じさせる乾燥した空気に覆われ、人々は影と化す。

 それでも彼女は吹きすさぶ冬風の中、孤独に立ち続ける。

 周りの人々が楽しかろうと、背後で道楽と酔狂の電光がパカパカ光続けようとも……。進はそんな彼女を見て、嫌悪感しか抱かない。

 そして、女が感情的に言うのだ。

「私が壁に向かって話してたことになるの? 全部無駄にする気? あんたが私との数年を台無しにするってことは、私の行動全てが無意味になるの? 何をしても無駄だった! 何も意味なかった! 何にもならなかった! ふざけんじゃないわよ!」

 進は、その女を見ない。あんな結末などあってなるものか。

 けれどありえないこととしながらも、目の前で起きているという現実が到底受け入れられない。

「真里。行くよ!」

「ああん。ちょっと待ってよー」

 進は真里を立ち上がらせると、強引に連れてゆく。



 進と真里は最後の締めとして、デパートの屋上へ向かう。

 当然ながら屋上に出た途端、ばっと風が吹きすさんで進は震えた。

 そのまま雪さえ混じる寒気は続き、進は震え続けるしかない。

 白い息が絶えず出続け、厚い上着にすっぽりと身を沈めた。

 しかし。真里が広い空を目の前にして嬉しくなったのか、進にぴったりとくっついてくれるのだ。

 真里がそうしてくれると、進は寒さに耐えられるようになる。

 曲がり気味だった猫背が、直線に伸びた。

「見て真里。ここからだとよく見えるよ」

「ほんとだー。すっごくキレイ!」

 デパートの屋上から、今日一日楽しんだ都市の光景がよく見える。

 薄暗く、沈んだ冬景色の中に都市が光を放っていた。

 赤も青も白も黄色も、あらゆる光が機械的に放たれ、拡散し、それは人工的な冷たさを感じることこの上ない。

 この都市全体がそうだ。全て人による作り物なのである。

 街灯。電飾。車のバックライト。窓から光る電灯。それら全てがよせ集まって光の海を作り、その中で夜の闇も年末迫った冬の寒さからも背く人々が、楽しく溺れている。

 眼下に広がる光の中で、食べることも遊ぶことも何だってできるのだ。キレイなお洋服もある。最新ゲーム機もある。高性能パソコンもある。人々は溢れんばかりの宝の山で孤独を忘れ、思う存分楽しみ尽くすのだろう。今日の進と真里のように。

 そして、楽しみ尽くす中で人々が心通わせるのだ。

 二人が心を通わせひとつに溶け合い、三人いれば三人が心溶け合わせ、人々はこの都市で強烈に他者を求め心溶け合わせるのだろう。

 人の開いた穴を、この都市の無数に溢れるアミューズメントが埋めてくれる。結果的に大勢の人々が、道楽と酔狂に飲み込まれる。

 それはさながら一個の生命体のように化し、今も進の眼下で音と光と笑い声を響かせて蠢いているのだ。

 綺麗な風景を身に来たはずなのに、進の顔がこわばる。

 よほど疲れたのか、眠気をもよおした真里が寄りかかり進はしっかりと抱きとめるのだ。

 進は都市の光景を目の前にしながら、電話で怒りをぶつけているあの女のことを思い出した。

 彼女は、男を支配しようとしていた。男にとって自分がなくてはならない存在と化すことで、己を恒久的に求められ続ける存在にしようとしていたのだ。その気持ちは、進にも分かる。

 けど、彼女の思いは打ち砕かれた。だから怒っていた。

 あれだけ尽くしたのに。与えてあげたのに。

 なのに想いを跳ね返される。こちらの好意も愛も伝わらない。

 そうすれば、人の心はどうなる。どれだけ熱い想いを抱こうとも、相手から全てを否定された瞬間が恐ろしいのだ。

 意思が不通になり、こっちの思いも相手の思いも届かず互いに殴り合い殺し合うような絶望。何もかも否定され、全てが虚無に落ちていく。並みの大人でもその精神的外傷に耐えられるか分からない。

 しかし、お互いに傷つけようとしているわけではない。

 強すぎる相手への想いが、抑制を知らず相手を傷つけるのだ。

 進は、眠りこける真里を見て不安になった。

 もし。あの女と同じように、進がこれだけ真里に与えてあげ、何でもしてあげるのに、その好意を突っ返されたらどうなる?

(進なんて大嫌い!)

 考えただけで絶望だ。そして、好意は激しい怒りに変わるかもしれない。だって、これだけ懇意して与えているのに、嫌いだと言われれば、真里のことが何もかも分からなくなる。

 人間にとって一番恐ろしいのは、相手が「分からない」存在になることだ。「分からない」同士の衝突は、何もかも破滅に導く。

 それこそ真空の宇宙に放り出され、窒息して真っ暗闇の中でもがき苦しみながら孤独に死んでいくようなものだろう。

 暗黒の宇宙の中で孤独に苦しむ進の命は、この小さな娘が握っている。真里に否定されれば、進は死ぬのだ。

 だからこそ、進は真里を己の手で、きゅっと抱きしめる。

 届かない想いなどあるわけない。進と真里の関係は絶対だ。

 そう信じてる。絶対に嫌われなどしない。

 なのに、同じ状況下に立たされたあの女は、現に尽くしに尽くしても想いを打ち砕かれ破綻が生じたではないか。

 だったら進もどれだけ真里を想い、与えても、その想いが真里に伝わるとは限らない。そんな最悪の可能性が頭をよぎる。

 進はそう考えると嫌悪感をむきだしにする。

 絶対にそんなことなどさせない。想いが打ち砕かれるなど断じてあるか。真里は、進のものだ。進は真里に愛されている。



 進はよれよれと眠たげに歩く真里を連れ、宇宙電車に帰ってきた。

「給油と充電ご苦労様でした! ありがとうございます!」

 帰ると宇宙電車の給油と充電が完了していたので、進は業者に礼を言う。その時、宇宙空間上をパトカーが停車して、何人かの警察官が宇宙空間上を宇宙服を纏いながら集まっている。

 何か事件があったのだろうか。警官の一人が、耳に装着したマイク付の通信機で本部と連絡を取っている。

「現在、被疑者と思われる女は被害者を殺害した後宇宙空間上を逃走中。極度の興奮状態であり危険なので至急応援を要請する」

 そして、警察はパトカーに乗ると慌しくその場を去っていった。

 宇宙電車に帰った途端、自室に入って進は重たい買い物袋を床に落としてしまう。肩がこってしょうがない。

 真里はよほど眠たいのか、すぐにベッドへ倒れ込んだ。

 そして、嬉しそうな顔をして進に言うのだ。

「進。今日はありがと……。私、進と一緒にいれてとっても楽しいよ。だから、このまま私の知らないずっとずっと遠くまで連れていって……」

 真里はそう言うと、寝た。

 進はベッドによりかかって座り、その無邪気な寝顔を見る。

 進は、その言葉で己の目的を思い出した。

 進の目的はこの電車の終着点である、宇宙の果てに行くことだ。

 宇宙の果てには行き止まりの壁がある。

 どういうわけか分からないが、この宇宙電車で宇宙の果てに行くと、行き止まりの壁が開かれその先に行けるというのだ。

 その先に、未だに博史を始めとする大人達はたどり着いていない。

 だから、こどもを宇宙電車に乗せ、そこまで向かわせる計画「銀河美少年青春電車の旅」が計画されたのだ。

 その壁の先は、博史が知らず手の及ばない世界なのだ。

 しかし、壁の向こうには何が待っているのだろう。

 進が博史さえも知らず、手の及ばない世界へ足を踏み入れた時。

 そこで進は何をする。何になる。

 今の進には分からない。ぱっと、真っ白な空白を目の前にする。

 博史の力を以ってしても壁にぶち当たり、辿り着けなかったのだ。

 だから進は、何が何でもそこに行くつもりである。

 だってこの宇宙は思ったよりも狭く、そして宇宙のどの場所にいても博史の世界であり、博史から逃れられないのだ。

 進は、そんな世界で息苦しさと生き辛さを感じる。

 そして、そんな世界から壁に囲まれて出れないと知った時、進は絶望した。だから、何が何でも真里を連れて壁の外へ向かわなければならない。だってそこは、博史の知らない世界なのだから。

 真里だってその先を夢見ているのだ。

 だったら、進は真里を連れて行かなければならない。絶対にだ。

 進にやる気が出てくる。今日はいっぱい遊んだから、明日から厳しい旅路に立ち向かわなければ。 

 進は、そう決意するが真里と同じく眠気が襲ってきた。

 隣のベッドで寝ようとはせず、真里の寝ているベッドに腕を置き顔を突っ伏す。そのまま、寝てしまった。

 それから目が覚めたのは数時間後のことだ。

 目が覚めると共にガタンゴトンと宇宙電車の揺れる音が聞こえる。

 窓の外は、銀河が輝いているわけでもなく、隕石が点々と浮いているだけだった。進は顔を起こして周囲を見渡す。

 そこに真里はいない。宇宙電車内のどこかにいるのだろうか。

 そんなことを思いつつ、洗濯物を入れなければと思い立ち上がる。

 洗濯機はバスルームの前の洗面所に設置されているので、進は洗面所へ向かうためドアを開けた。

 開けた瞬間、お湯がざばっと跳ねる音がした。

 まずい。顔を赤くした進が、背徳と罪悪感に苛まれる。

 入ってはいけない。踏み込んではいけない。

 そこから先に踏み込むということは、この世に生きる全てのこどもに化せられた禁忌である。皆暗黙の掟に阻まれて、日々を抑制的に生きているのだ。もし、進がその先に踏み込もうものなら。

 こども世界における異端者の烙印を押され、絶対悪となる。

 だから、今すぐドアを閉じなければならないのだ。しかし。

 ドアノブを持つ手が、好奇心から離れられなかった。

 胸の動悸が早まる。お湯をぶっかけられたような熱さを全身に感じて、体が、動いてしまうのだ。

 開きかけたドアをそっと開けると、音を立てて見える範囲が大きくなる。それに従い、お湯の音も大きく聞こえた。

 進は足を完全に洗面所に踏み入れ、境界線を越えてしまう。

 洗面所は薄暗く電気はついていないが、バスルームからはオレンジ色の暖かな光が漏れ出ている。

 そのぼんやりとした光に、進は照らされて立ちすくむしかない。

 薄暗い中での唯一の光が、目の前にあるのだ。

 洗濯物を洗濯機に入れることなどできない。でも、本当なら一秒でも早く洗濯物を洗濯機に入れて、退散しなければならないのだ。

 でないと、破滅する。何もかも終わりになってしまう。

 しかも、その終わりの瞬間はいつやってくるのか分からないのだ。

 なのに、体が動かない。いてはいけないのにここにいたい。

 進は背徳感に心苛まれながら、どうしていいのか分からなくなってしまった。しかし。ある可能性が頭をよぎるのだ。

 トイレの汚物入れに何も入っていなかったことや、買い物で買わなかったもののことを思い出した。

 進は光に照らされて目を見開く。

 もしかしたら進は、禁忌に直面していないのかもしれない。

 一定の条件により、目の前の禁忌は禁忌でなくなんでもない普通のことになる。進の頭は沸騰を通り越して、爆発した。

 その可能性に気づいた瞬間、進は究極の選択を迫られる。

 今の進は自爆スイッチを握っているようなものだ。

 しかし、自爆スイッチを押しても自爆せずに、それが究極の救いへつながる可能性もある。

 成功すれば天国。失敗すれば地獄。それは賭けだった。

 しかし、今なら間に合う。賭けをせずにこのまま退散する選択肢もある。それが一番安全な判断だろう。

 そして、極限の精神状態の最中。進は選択を決断した。

 バスルームに向かって、声が出る。

 ガチャン。その声と共に、運命のレールが切り替わった。

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