DAY 25
じゃりじゃりじゃりじゃりじゃりっ!
いつものように、目覚まし時計が容赦ない騒音を響かせる。そいつをぶん殴ろうと思って、手を突いて体を起こした。
むにっ。
「いったあい……」
「あ、ごめん」
う。またやっちゃったよ。いおりのムネに手をついちゃった。そして僕といおりが一緒にベッドで寝てて、二人ともすっぱだってことに気付いた。ってことは……ってことだよな。でも、僕にはその記憶が全くない。
「うー……」
そうか。僕の中にはまだルーテスの痕跡が残ってる。そして、ルーテスはそっち系が全て禁じられていた。その影響がまだ残ってるってことか。でも、告白もキスも出来たんだ。エッチだけまともに出来ないってことはないだろう。まあ、それはこれからいくらでも確かめられる。今、ここでなくてもね。
「おっと。起きなきゃ」
跳ね起きてばたばたと身支度を始めた僕を、毛布を羽織ったいおりが眩しそうに見ている。
「あ、たっくん」
「なに?」
「ひぃちゃんのケージ買ってきてあげて」
「ああ、そうだな。ホームセンターで見繕ってくる」
「早番なら昨日くらい?」
「多分ね。遅くなりそうなら連絡する」
「わかったー。じゃあ、夕飯用意して待ってる」
「うっす!」
僕は、いおりに向かってちゅっと投げキッスをして部屋を出た。
◇ ◇ ◇
打抜機の制御盤を操作していたら、にやにやしながら近寄ってきた宮部さんが、いきなりえげつなく突っ込んできた。
「よう、三田。昨日が勝負だったんだろ?」
う……中瀬さんから漏れたな。しゃあない。
「ええ」
「どうだ? こませたか?」
「ぐひひっ」
僕のリアクションに喜んだ宮部さんは、僕の耳元で囁いた。
「続きは昼メシのおかずにさしてもらうぜ」
ぐええー、容赦ないなあ。
「こらっ! おまえら朝っぱらからなににやけてやがるっ!」
ぎょええっ!? 中瀬さん、いつの間にっ!? やばっ! 僕があたふたとうろたえてる隙に、宮部さんがささっと退避した。ずるいよう……。
「おはようございます!」
「……は、いいけどよ。気ぃ抜くな!」
「はい!」
「いいか? 走り出したばかりなんだ。そっから先がなげえんだぞ!」
あ! 気を抜くなって、そういうことか。
「はいっ!」
「浮かれてねえで、しっかり足元見ろいっ!」
「うす!」
中瀬さんは、肩をいからせながらゆっくり歩き去った。
「ふうっ」
昨日までと、今日と。僕の仕事の内容が変わったわけじゃない。でも、仕事の意味が変わったんだ。自分を高めるためだけじゃなくて、それで二人の生き方をしっかり支えていかないとならない。僕は、それを肝に銘じないとならないね。
「始業点検、始めっ!」
高梨さんの号令に、びしっと身が引き締まった。よしっ!
◇ ◇ ◇
少し押したけど、この時期にしては早く上がれた。予定通りホームセンターに寄ってハムスター用のケージを買い、それをぶら下げて帰宅した。待ち構えていたいおりが、ケージをささっとセッティングして、ひぃちゃんを中に入れた。最初ケージの中をきょろきょろ見回していたひぃちゃんは、目ざとく回し車を見つけてぽんと飛び乗った。からからからから……ひぃちゃんが、勢い良く回し車を回し始める。
「うわ、楽しそうだなあ」
「ふふ……」
しばらくその様子を眺めていたいおりは、ケージから離れて座卓の前に正座した。そこには、いおりの携帯が置かれてる。じーっと座卓を見下ろしていたいおりが、意を決したように携帯を掴んでどこかに電話をかけた。
「あ、お母さん?」
そうか。実家に……かけたんだ。
「わたし。いおりです。うん。元気よ」
「どうしたのって? うん、年末そっちに帰ろうと思って。いや、大学は止めないよ。もう就活しないとなんないし」
「ううん。仕事は、そっちではしない。こっちの方が職選べるから」
いおりの携帯から漏れてくる音が大きくなったから、お母さんが怒りモードに入ったんだろう。これまでのいおりなら、売り言葉に買い言葉でぶち切れていたのかもしれない。でも、いおりは冷静だった。
「あのね、お母さん。わたしね、帰りたくないからこっちで就職するんじゃないの。こっちで働きたい理由が、ちゃんとあるの」
あ……。
「わたしね、一緒に生きたい人が出来たの」
携帯から漏れていた声が止まった。絶句したんだろう。
「ううん、大学の友達じゃない。わたしより四つ年上。三田さんていう人。仕事? してるよ。工場で機械の操作してるの」
「騙されてる? そんなのありえない。わたしが彼に迷惑かけたんだもの。あのね」
ひとつ。大きく深呼吸したいおりが、さっきより大きな声で、きっぱりと話し始めた。
「わたしね、そっちにいる時も、こっち来てからも、ずうっと独りだったの。寂しかったの。誰もわたしを分かってくれない。受け入れてくれない。みんなわたしを切り崩そうとするだけで何もくれない。お母さんもお父さんもよ。みーんな!」
「だから、わたしは一人で立ってられなくなったの。こっち来てから、いろんな男に倒れかかったの」
し……ん。携帯から漏れていた大きな声が止まった。絶句したんだろうな。
「誰か。誰でもいいから、わたしを丸ごと受け入れて。わたしを切り刻まないで……って。でもね。失敗ばっか」
「ふしだら? うん、そうね。でも、なんて言われても構わない。わたしがどんなに汚れても、蔑まれても、独りぼっちよりはましだったの。お母さんには……分かんないでしょ?」
「今月、またやっちゃった。貢いで、捨てられて。ぼろぼろになって……。そんな時、彼に出会ったの」
「え? 優しくされてその気になっただけって? 違うよ。彼がわたしを慰めてくれたことなんか一度もないもの。大変だねとか、辛いよねとか、一回も言ってくれたことない」
「彼は……わたしを説教したの。向こう見ずで、勢いだけで突っ走って、見るからに危なっかしいって。それがただの説教だけだったら、わたしは反発して終わりよ。お母さんと変わんないもん」
「でもね、彼は……自分の生き方に妥協しない人だったの。ふらふらしてるわたしとは正反対」
「社会人だから? そんなことないよ。年上の人とも付き合ったことあるけど、いい加減な人ばっかだった。わたしがそういうのを見抜けなかったんだけどさ……」
「お母さん」
いおりが、居住まいを正した。
「彼は、孤児なの。親の顔を知らない。それなのに誰も恨まないで、必死に努力してバイトしながら大学を出て、今ものを作るってことに真正面から向き合ってる。まっすぐで、熱い人」
「彼が作るっていうことの中には、自分を作るっていうのも入ってるの。彼の職場の上司の人は、頑固ですっごい厳しい。でも彼は、どんなにきついこと言われても絶対にへこたれないの。わたしは……」
「それがうらやましかったの。だから、彼のところに押しかけた。寂しかったからじゃない。ないないないって文句言うだけじゃなくて、わたしも何か作らなきゃって……生まれて初めて、そう思ったの。でも。彼には迷惑だったと思う。何も知らないわたしがいきなり押しかけちゃったから」
「彼は、わたしの作ったご飯をおいしいおいしいって食べてくれた。そしてね、わたしにこれしろあれしろって一切言わなかった。彼にとっては、そんなのどうでもいいこと」
「朝早くから仕事に行って、油まみれで帰ってきて。それでも疲れたって言わないで、いつも新しい自分を作ることを考えてる。それを見てて……悔しくなったの。わたしは、これまでなんでそういう生き方が出来なかったんだろうって」
「わたしは、そういう彼のまっすぐな熱さが好きになった。その熱さが欲しいなって思ったの。でもね、彼はそれをわたしに分けてくれない」
「ううん。彼が冷たいからじゃないの。その熱は、彼にしか意味がないからなの。わたしにない熱は、わたしが自分で作んないとなんない。彼はそれをわたしに教えてくれたの」
「彼が好き。大好き。離れたくない。だって、彼の側にいたら、わたしもがんばらなきゃって思える。いやいやじゃなくて、一生懸命がんばらなきゃって」
「そしてね……」
いおりの声のトーンが落ちた。
「わたしは、彼に償わないとならない。いや、何か彼のものを盗ったとか、壊したとか、そんな悪いことしたわけじゃないよ」
「さっき言ったみたいに、彼はずっと独りで生きてきたの。それを寂しいって思ったこと、ないんだって。でもね。わたしが押しかけて。一緒に暮らして。彼を弱くしちゃった」
あ……。ちゃんと分かってて……くれたんだ。
「わたしがここを出ると、彼をすっごい傷付けちゃう。勝手に押しかけて勝手に出てって。彼が知らないで済んだはずの要らない寂しさだけ残して……傷付けちゃう。わたしは、自分がされてきたそんなひどいことを、彼にだけは絶対にしたくないの!」
いおりは、必死に訴えた。
「わたしが彼を支え続けるには、わたしがしっかりしないとならない。そんな逃げるみたいに家に閉じこもっちゃったら、わたしはひ弱なままなの。わたしも彼みたいにしっかり自分を作りたい! 彼はそれを手伝ってくれるの。一緒にやろうよって」
「だから、こっちで職を探す。彼が苦労してるみたいに、働いて自分を支えるっていうのはそんなに甘くないと思う。でも……それを、必死に歯を食いしばって乗り越えないと、自分を作れない!」
「うん。うん、分かってる。そんな青臭いことって、お母さんが心配するのも分かる。分かるよ。でもね、したくない経験しちゃったのは、ちゃらに出来ない。それなら、失敗したことは糧にしないとだめでしょ?」
「そう。わたしはずーっと逃げてきたんだから。お母さんやお父さんから。でも、もう逃げたくない。ちゃんとわたしを認めて欲しい。認めてもらうなら……その前に、わたしはこれよって、きちんと自分を作んないとなんないの」
「あ、ごめん。電池切れそう。続きは、帰った時に話すね。ケンカしに帰るわけじゃないから、そこんとこよろしく。うん。日程とか、また連絡するね。ばいばい」
いおりのしてきた経験は、決して人に自慢できるようなことじゃない。親に隠せるなら、一生隠しておきたかったんだと思う。でも隠すのは目を逸らして逃げること。いおりは……ちゃんと覚悟したんだ。もう自堕落な自分には絶対に戻らないぞって。
それでも、大事なことをちゃんと親に話せてほっとしたんだろう。携帯をそっと座卓に置いたいおりは、はあっと大きく息を吐いて目を擦った。
「どう? 納得してくれそう?」
「分かんない。すっごい怒ってた」
「まあ、そうだろなあ」
「でも、恥ずかしいことじゃないもん」
からからからから……。ひぃちゃんが楽しそうに回し車を回してる。それを見て、ふと思った。いおりの中で、家を出てからずっと止まっていた時計の針が。今、回り始めたんだなって。
「わたしは……」
まだきらきらと輝いているツリー。それをじっと見てたいおりが僕の横に来て、ぴったりくっついた。
「たっくんからいっぱいプレゼントもらったけど、まだ何も返せてない。ごめんね」
「えー? そんなことないよ」
「そう?」
「僕にとっては、いおりがでっかいプレゼントだからさ」
「うっきゃあっ!」
これ以上うれしいことはないっていう風に、力一杯僕の首っ玉に齧りついたいおりがキスをせがんだ。
んんー。ぷはあ。
ああ、そうだよね。僕はずっとこんなプレゼントが欲しかったんだ。ずいぶん待たされたけど、やっとプレゼントがもらえたよ。
いや……そうじゃないな。僕はすぐに思い直した。真っ直ぐに。正しく。いつでも前向きに。誰かに命じられたわけでもないのに、僕はそうやって生きて来た。いいやつ、好青年になろう、そう見せようって意識したことは一度もない。
僕は、こうやって生きたいっていうのを一切妥協したくなかった。ルーテスのサンタとしての資質とエゴが、僕をがっちり縛り付けていたんだ。その姿が、たまたま人には好青年に見えてただけ。中瀬さんに気味が悪いって見破られた通りなんだよね。そして。これまで僕は、理想の生き方を追い求めようとし過ぎて光しか見なかったんだ。光の当たらないところに目を向けようとしなかったんだ。
そんな僕にいおりが強引に入ってきて、心に触らせてくれた。それは、決して無垢できれいなハートってわけじゃない。傷も、弱さも、もろさも、打算もある生身の心だ。僕が目を塞いで、ずっと見ないようにしていたほの暗い炎。でも、それが僕の心に明かりを灯してくれた。
いおりが、僕を見てこれじゃいけないって思ったみたいに。僕もいおりに触れて、これじゃいけないって思ったんだよ。自分を向上させるのはいい。それを止めるつもりはない。でもだからって、弱いこと、情けないことを無視しちゃだめだったんだ。だって、それは僕にもいっぱいあるんだもの。
僕は神様じゃない。サンタさんでもない。ルーテスが去った今、僕はただの出来損ないの人間だ。あるかどうか分からない未来のプレゼントを、しゃにむにもらいに行くんじゃなく。プレゼントがあることに気付かなかった僕がこれまで置き去りにしてきちゃったものを、探して受け取らないとだめだよね。
そうさ。ホームの所長さんや先生も、中瀬さんも、僕にとっては親代わり。たくさん僕にプレゼントをくれてたんだ。形のない、でもとても大切なプレゼントを。僕は、これからそれをもっと大切にしなくちゃいけない。そして……。ただ受け取って、ありがとうじゃなく。僕からも何が贈れるのかを、真剣に考えないとね。
所長さんから言われたこと。
『君の生き方自体が、私たちにはプレゼントよ』
ううん、所長さん。僕はまだ何も贈れてません。でも、これからしおりと二人で何が贈れるかを考えます。とりあえず、しおりと一緒に顔見せに行かないとな。
からからからから……。回し車の回る音で、はっと我に返った。僕の止まっていた心も、今、せわしなく回り始めた。
「これから忙しくなるなあ」
「え? 仕事?」
「違う。それ以外にもいろいろさ。独りじゃないんだ。二人での暮らし方を考えないとなんない。それを作っていかないとね」
「うふふ。そうだね」
「来年、新採の人が来たら僕は主任になる。仕事の内容もだいぶ変わると思う」
「うん」
「主任になったら、給料もいくらかは上がるはず。ここは二人で暮らすには狭過ぎるから、どっか他の部屋を探さなきゃ」
「そっか……」
「いおりは就活がんばらないと」
「うん! ねえ」
「ん?」
「たっくんの会社ってさあ、求人してないの?」
「どうだろ? 何人か募集するって聞いてるけど、僕は詳しいことは知らない。人事に聞いてみる?」
「うん。求人票欲しい。たっくんがいるからそこに勤めたいってことじゃないの。中瀬さんみたいな、しっかりした人が上にいる会社に勤めたいの」
「そうだね。中瀬さんだけでなくて、部長も他の人たちも、仕事に妥協しない頑固で堅実な人ばかりだよ。ただ……」
「うん?」
「みんな一癖あるけど」
「あははははっ!」
「晩ご飯食べたい。腹減った」
「あ、ごめんね!」
ばたばたばたっ! キッチンに走って行ったいおりの背中に声を掛ける。
「ねえ」
「なに?」
「帰省した時に、いおりはどうやってご両親を説得するの? 相当大変そうだけど」
振り返ったいおりが、ぱちんとウインクした。
「大丈夫よ。たっくんは本物のサンタさん。サンタさんをダーリンに出来るなんて、世界中探したってわたし一人でしょ!」
わははははっ! そう来たか。でも……。
「僕はもうサンタじゃないよ?」
「ううん」
いおりが、ぶんぶんと首を振った。
「今でも。そして、これからもずっとサンタさんよ!」
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