DAY 22
朝の工場。制御盤の前。
「……」
「おい、どうした?」
高梨さんに、咎められる。僕は、思い切りぼーっとしてたらしい。
「あ、すいません……。おはようございます」
「三田にしては珍しいな。上の空だったぜ?」
「すいません。ちょっと、シビアな考え事があって」
「気を付けろよ。そういう時にケアレスミスが出やすくなる。ミスで済めばいいが、怪我すりゃ労災になるからな」
「はいっ!」
今まで何かに悩んだってことがなかったから、こういうのはずっしり堪える。しかも、簡単に答えとか解決策の出ない悩みだしなあ。単調な作業を嫌だと思ったことは一度もなかったんだけど、時間がてきぱき過ぎて行かないことを苦痛に思ったのは、これが初めてだった。
「ふうっ」
ずっと制御盤の前に座ってて、分かりにくいマニュアルを読んでいるのがしんどくなってきた。機械を見回ってくるかあ。
打抜機のフレーム部分が交換されてからは、トラブルらしいトラブルはない。中瀬さんが言ったように、本体はとてもしっかり作り込まれてて、いい機械だっていうことが分かる。
「順調、順調!」
圧延鋼板のでかいコイルの端が少しずつ打抜機に飲み込まれていって、金型のところで打ち抜かれ、ぽんぽんと部材が落ちるリズミカルな音。それが、まるで子守唄のように聞こえてくる。目蓋が落ちそう。やばやば。
「ん?」
その時。前とは桁違いの違和感を覚えて、背中に悪寒が走った。なんか変だ。変だぞ!? 今度は、前みたいなわずかな音じゃない。何か変だ!! 制御盤まで全力で走って、急いで停止ボタンを押した。機械の作動が完全に止まっても、音が、異音が収まらない!
ぎ……ぎぎ……ぎ……。音の出ているところを探し当てて、青くなった。力一杯叫ぶ。
「宮部さん、危ないーーっ! 逃げてーーーっ!!!」
小型旋盤の前に座っていた宮部さんが訳も分からず立ち上がって、弾かれたように席を離れた。その直後だった。
びしーーーん!! とんでもなくでかい音がして、油圧で持ち上げられていた鋼板のコイルがぐらっと傾いた。
ぐしゃあっ!! 巨大なコイルを支える二本のアーム。その片側が完全に折れ曲がり、もう片方もぐにゃりとひしゃげて、でかいナットが銃弾のように吹っ飛んだ。
びっ! かああんっ! ナットは僕の頬をかすめて背後に飛び、甲高い音を立てて跳ね返った。その直後。支えを失ったコイルがアームから外れ、真下に落ちて轟音を上げた。
ごおおおん!! ごごんっ!
ひいっ! あまりの衝撃に思わずしゃがみ込み、目を固く瞑った。恐る恐る目を開けてコイルの行方を見る。
「止まってる……」
落ちたコイルが派手に転がったら、大惨事になっていたかも知れない。でも通路を横切ったコイルは、宮部さんの旋盤を押し倒したところでなんとか留まってくれた。誰か巻き込まれなかっただろうか? すぐに確認したかったけど、落下したコイルが安定しているかどうか分からなくて、怖くて近寄れない。激しい落下音を聞きつけた中瀬さんが血相を変えてすっ飛んで来て、立ち尽くした。
「なんだこらあっ!?」
◇ ◇ ◇
すぐに、社内の事故調査チームが立ち上げられた。手分けして被害状況をチェックする。幸い、僕の頬のかすり傷だけで、他に落下事故の巻き添えになった人はいなかった。物損だけ。でも宮部さんは……本当に危機一髪だった。宮部さんの操っていた小型旋盤は、落ちて転がったロールの下敷きになって倒れ、しかも半分以上潰れていたから。宮部さんは、青ざめた顔で僕の肩を抱いてがくがく揺すった。
「三田。ほんとに助かった。しゃれにならん」
「ええ……」
折れたアームを調べていた中瀬さんが、すぐに事故原因を見つけ出した。
「ちっ。今度も人為ミスじゃねえかっ! ばっけやろうっ!」
中瀬さんの怒りが大爆発する。
「フォーク乗りはど素人かあっ!」
あっ!! 居合わせた全員が、アームの折れ口を凝視した。折れた部分に、フレーム表面の塗装がくっきり残っていたんだ。
この前、交換する新しいフレームを搬入した時。どでかいフレームを乗せたフォークリフトを運転していたのは、僕より若い兄ちゃんだった。まだ操縦に不慣れで、狭い工場の廊下を通り過ぎる時に、降ろしてあったアームにフレームをがりっと擦ってしまったんだろう。アームもフレームも鋳鉄製で、どちらもがっちりした作りだけど、大きさが違いすぎる。擦られたでは済まなくて、アームに傷が付いてしまった。作業の時にはコイルを外してあるから、擦ったことのダメージをすぐに想像出来ない。当たっちゃったけど、まあいいやでスルーされてしまったんだ。
傷付いたのが負荷のかからないところだったら特に問題はなかった。でも数トンもあるコイルの重さを支えるアームに傷が付くと、いくら鋳鉄製の頑丈なものでも微振動と重みで傷口から少しずつ曲がってくる。そこからぼっきり折れてしまったんだ。コイルがもっと派手に転がっていたら、冗談抜きで死傷者が出ていたと思う。
この前のフレームの瑕疵の時には、中瀬さんのクレームは厳しかったけど決して糾弾ではなかった。次から気をつけてくれ、だった。でも今度はそうは行かなかった。
「ぶっ殺してやる……」
あれほど恐い顔の中瀬さんを見たことがない。真っ青になった中瀬さんは、慌てて駆けつけた機械メーカーの担当者の胸ぐらを掴んでがなり立てた。
「おめえんとこは、どういう教育をしてんだよ! 死人が出てからじゃ遅いんだぜ!?」
ミスは。ものすごく単純なミスだ。擦ったことが運転手からきちんと報告されていれば、アームはすぐに交換されていたはずだし、それは大したことじゃなかっただろう。その時も、ちったあ気を付けろで済んだはずだ。それが見過ごされると、こうなってしまう。
そして。今朝高梨さんにミスするなと注意されていたにも関わらず、僕も重大なミスを犯していたことに気付いてしまった。始業時の機械の各部点検は、僕の役目だ。傷を見過ごしていなければ、今回のトラブルは起きなかった。自分のことに気を取られて、肝心なことを見落として。なんて……ことだ。
◇ ◇ ◇
折野部長のところに行って、土下座して謝った。
「すみません! 始業点検をおろそかにして、危険を見過ごしてしまいましたっ! こんなぽかやらかすようじゃ、とても主任なんか」
あとは言葉にならなかった。悔しくて、情けなくて。
「まあまあ」
折野部長が僕の腕を引っ張って立たせた。
「あらあ、点検項目外だよ。普段は触れないところだから、メーカーの保守点検で見つけるしかないんだ。フォークの操作ミスで傷が付くなんてこと自体、とんでもなく想定外さ」
「……」
「それより、君が早くに気付いて宮部くんを避難させたのは、大手柄だ。人的被害がなければなんとかなるからな」
「はい……」
「申し訳ないが、あちらさんにはきっちり補償してもらう。機械メーカーとしての保安意識があまりにお粗末だよ。これじゃあ、付き合いを考え直さないとならん」
「今日来られた方じゃどうにもならないんじゃ?」
「当たり前だ。社長を呼びつけてる。来なけりゃ、もう取り引きは打ち切る!」
でかい声で部長が怒鳴った。相当頭に来てるみたいだ。そりゃそうだよな。物損で済んだのはたまたまに過ぎない。もしコイルがもっと派手に転がったら、僕だってどうなってたか分からない。思い返してぞっとした。全身に震えがくる。ううう……。
「どんなにいい機械を作っても、それを動かすのは人だよ。作業者やオペレータが危険にさらされるようなリスクは最小にしないとならないし、そういう意識がない会社のものは怖くて使えん」
部長は、僕の頬の擦り傷を指差した。
「三田くん。済まんがこれから外科に行って、その傷の診断書をもらってきてくれ」
「ええっ!? こんな擦り傷で、ですか?」
「擦り傷で済んだのは、幸運だっただけさ。目に当たれば失明。額に当たれば死ぬかもしれん」
ぞおっ……。
「そういう危機感を、連中に突きつけんとならんからな」
◇ ◇ ◇
病院に行って診断書を書いてもらう。そんなのつばでも付けときゃ治るっていう感じのお医者さんに事故の状況を話したら、思い切り顔が引きつっていた。そうだよ。数ミリずれてただけでも骨折。もうちょっと顔の中心に飛んでたなら命に関わったんだ。診断書を社に届けて、早上がりすることにした。今日は……もうだめ。よれよれになって、部屋に帰った。
「ただ……いま」
「あれ? どうしたの? こんなに早く?」
夕飯の支度をしていたいおりが、キッチンから振り返って首を傾げた。
「とんでもない事故があった」
「えっ!?」
真っ青になって、いおりが吹っ飛んできた。
「大丈夫なのっ!?」
「幸いね。物損だけで済んだけど」
「車?」
「いや、僕が操作してる機械。打抜機のでかい鋼板コイルの支持アームがぽっきり折れたの」
「お、折れ……って」
「何トンもあるでかい鉄の塊が落ちて転がるんだ。当たったら命に関わる」
「ひいっ」
はあ……。僕もいおりも玄関先で、腰が抜けたようにへたってしまった。
「僕のミスが原因じゃないけどさ。それでも緊張感が足りないと、思わぬトラブルを呼び込むね」
「その頬の傷は?」
「ああ、アームを留めていたナットが吹っ飛んで、かすめたみたい。擦り傷だよ」
いおりが、安堵の表情を見せた。
「でも、あとちょっと。あと数ミリでもずれてたら大怪我さ」
拳を握って見せる。
「こんな鉄の塊が、弾丸みたいなスピードでぶっ飛んだからね」
「う……」
「運が良かった。命拾いだよ」
見る見る泣き顔になったいおりが、僕に覆いかぶさるようにして抱きついた。そして、ぼろぼろ涙をこぼして……。
「やだあ。いやだよう。そんな怖いこと言わないでよう。わたしを一人にしないでよう。置いてかないでよう。わああああっ!!」
激しく泣きじゃくった。僕は黙っていおりを抱きしめながら。その温もりを感じながら。一人でないことの嬉しさと悲しさを初めて思い知った。心から僕の身を案じてくれる人がいる。僕と一緒に喜び、僕のために泣いてくれる人がいる。それを知ってしまったら。僕は一人に戻れなくなる。
いおりが上京してからずっと苛まされていた孤独感。それは、いおりがずっと家族と一緒に暮らしていたから感じたこと。失って、一人になって、その大切さを思い知って。大きな心の穴を埋めるものを必死に探し続けた。その方法がどんなにみっともなくても、必死に。
そして今。僕もいおりと同じ立場になってる。同じように感じるようになってる。これまでの僕なら、無事だったからまあいいやって割り切っただろう。でも。僕は弱くなってる。一人に耐えられなくなってきてる。それはいいことなんだろうか? 悪いことなんだろうか?
「大丈夫。落ち着いて。大丈夫さ」
いおりの背をさすって慰めながら、僕はクリスマスツリーを指差した。
「あさってはイブじゃん。仕事があるから派手には出来ないけど、楽しく過ごそうよ。そういう楽しいことを考えよ?」
うんうんと頷いたいおりに、一つ提案をした。
「せっかくのイブなんだから、お互いにプレゼントを用意しよう。お金がないから、手作りってことで、どう?」
まだしゃくりあげてたけど、いおりは笑顔を取り戻した。
「うん!」
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