DAY 20

 今日も順調にノルマの生産数をこなして、土曜の一日出勤も無事に終わりそうだ。今日は早く帰れるな。終業間近、止めた機械の点検をしてた僕のところにふらっと中瀬さんがやってきた。


「よう、巧!」

「あ、中瀬さん。ちわー」

「今日の夜。あいてっか?」

「この前の延長戦ですか?」

「ああ、そうだ。まだおまえに言ってねえことがある」


 そうだ。中瀬さんは、一つは自分のことで、もう一つは僕のことって言ったんだ。僕のこと? 見当が付かないんだけどなあ。


「お付き合いします。どこで飲みます?」

「ああ、この前と同じとこだ」

「ええー? あんな高そうなとこ」

「いや、この前の料理が高かったんだよ。魚つついて一杯やるくらいならどってことねえ」


 ほっ。そうか。


「この前のカノジョさん。まだおまえんとこにいんのか?」

「……います」

「いつかれちまったな」

「はい。でも」

「うん?」

「もしかしたら、大事な人に。なるかもしれません」

「ほう」


 中瀬さんは、驚いたような顔を見せた。


「そうか。それなら、なおさらだ。彼女も連れてこい」

「わかりました。二人でうかがいます」

「七時半に駅だ」

「おっけーです」

「じゃあな」


◇ ◇ ◇


 定時に上がれたって言っても、中瀬さんとの待ち合わせの時間に身ぎれいにして行くならそんなに時間の余裕はない。部屋に帰り着いてすぐに部屋を横切りながら服を脱ぎ、そのままユニットバスに入った。いつものこと。僕にはなんの違和感もない。でも。いおりは、僕がパンツ一丁でユニットバスの周りをうろつくのを、顔を引きつらせながら見ていた。


 同居していると言っても、僕は彼女にユニットバスを使わせなかった。だから彼女は風呂だけは自室に帰って入ってる。僕はその間に部屋の風呂を使ってたんだ。そして、ベッドが一つしかないから、僕は床にエアマットを敷いて寝てる。そういうけじめみたいなもの。いおりは最初、それが僕の慎重な姿勢から来ていると思っていたみたいだ。下手に既成事実が出来ちゃうと、クリスマスの後にすぱっと切れなくなるからっていう……。それなのに、僕がなんの遠慮もなくほとんど裸に近い状態で目の前をうろついたこと。いおりは、それがどうしても解せなかったみたいだ。


 確かにけじめのつかない同居は、僕も嫌だよ。でも、それとこれとは別。自分の部屋なんだから、どんな格好でどう過ごそうが僕の勝手でしょって、そう思うんだけどなー。まあ、いいや。待ち合わせに遅れちゃう。さっさと支度しよう。


「さ。行こうか」

「うん」


◇ ◇ ◇


 待ち合わせ場所に現れた中瀬さんには、この前のような笑顔はなかった。ぎりっと歯を食いしばって何かを堪えるような、そんな表情だった。そんなに厄介な話なんだろうか?


「ああ、来たか。行こう。この前と同じとこだから分かるな?」

「はい」


 僕の返事を聞く前に、中瀬さんがさっと歩き出した。元々せっかちな中瀬さんだけど、急いでいるというより苛立っているような……。


『しずの』の格子戸をがらっと引き開けた中瀬さんは、女将さんに声を掛けた。

「えっちゃん。今日は軽くやる。適当に見繕ってくれ」

「話するんでしょ? 奥でいい?」

「ああ。済まんな」


 この前と同じ、奥の小上がりに通された僕らは、すぐに出てきたお通しをつついた。


「うわ。こういうところから、もうおいしいなあ」

「まあな。酒飲みには最初が肝心だからな。だが、今日は飲まねえうちに話をしたい」


 中瀬さんは、あぐらを組み直すと僕に向かってぐいっと身を乗り出した。


「なあ、巧」

「はい」

「おまえが普通に親のいるわけえやつなら、俺は何も言わん。親の躾や子供への向き合い方は、ほとんどそいつを作っちまう。俺が後からそれを直すことは出来ねえんだ。だが、おまえは孤児だ。親を知らん。そこが危なっかしくてしょうがねえんだよ」

「?? どういうことですか?」

「おまえには生臭さがない。それが薄気味悪いんだよ」


 生臭さがない? うーん。考え込んでしまった僕をちらっと見て、中瀬さんが話を続けた。


「死に別れならともかく、おまえは捨て子だって聞いてる。普通は親を恨むんだよ。なんで俺を捨てたんだってな」

「……はい」

「だが、おまえから、そういうどす黒い感情を感じたことがねえんだ」


 確かに、僕はそういう感情を持ったことがない。だって、親が誰か分かんないんじゃ、恨んだってしょうがないじゃん。そう考える僕はおかしいのかなあ?


 横目でじろっと僕を睨んだ中瀬さんが、畳み掛けた。


「俺だけじゃねえ。折野や高梨、いやうちの会社の誰もが、おまえを好青年として高く評価してる。高梨に言われただろ? あの曲者の横山だって、おまえをいじりようがねえって」

「はい」

「最悪の過去を持っていながら、それにこれっぽっちも引きずられずに前しか見てねえ。それは、あまりに出来すぎなんだよ」

「出来過ぎ、すか……」

「誤解すんなよ。おまえがなんでも受け入れるおめでたいやつじゃねえってのはよく分かってる。でも、一番受け入れがたいことをあっさり飲んじまってるから、おめでたく見えちまうんだよ」

「そうですか」


 うーん。自分の中で、違和感がどんどん膨らむ。中瀬さんは体を引いて、今度はいおりの方を向いた。


「なあ、あんたはこいつのどこに惹かれた?」

「え……」


 いきなり直球の突っ込みが来るとは思ってなかったいおりは、どぎまぎしてたけど。覚悟を決めたように、はっきり言った。


「しっかり自分を持ってて、前向きだなあって」

「優しいとかは?」

「優しいとは思いますけど、それより……」

「ああ、厳しい。きっぱりしてる、だろ?」

「はい! わたしは、自分がなくて、ふらふらしてるんで、こんなんじゃいけない、頑張らなきゃって」


 にっ。笑った中瀬さんが、ひょいといおりに指を突き出した。


「でも、こいつから恨み節を聞いたことはねえだろ?」

「そうなんです。それが不思議で」

「不思議、か」


 中瀬さんの顔から、さっと笑みが消えた。


「不思議じゃねえ。不気味なんだよ」


 もう一度僕の方に向き直った中瀬さんが、ぐいっと身を乗り出す。


「おまえは、今まで教えられる立場だった。俺や高梨にどやされ続けて、それをこなして根性を鍛え、仕事を仕切れるようになった。鍛えてる俺らからすれば一安心さ。順調に育ってるなってな」

「はい!」

「だが、来年おまえは教える立場になる」

「……そうですね」

「主任をこなすには、これまでとは違った力量が要るのさ。どやされなくなる代わりに、今度はきっちりどやさねえとなんねえんだよ」

「それが、指導ですものね」

「そうだ。その時には、おまえの熱をはっきり見せねえとなんねえのさ」


 熱、か。


「おまえは、熱心だ。そして、他人はどうでもいいとも思ってねえ。批判的な目も姿勢も持ってる。必要な熱はちゃんと揃ってんだよ」

「はい」

「でも、それがすとんと見えねえんだ。俺にだけじゃなく、誰にもな」


 いおりが、中瀬さんの話に頷いてる。昨日僕がいおりに言われたこととと同じ、だ。


「感情を殺してるなら別さ。でも、おまえの喜怒哀楽は素直に出てるんだ。それは俺にも分かる。ただな、それに色がねえ。生臭くねえんだよ」


 いおりが、あっと声を上げた。


「そう! そうなんです!」

「だろ?」


 苛立ったように、中瀬さんが膝を揺すった。


「そういうのはな。指導される立場のやつにはつめたーく感じるんだよ。せっかくのおまえのいいところが、まるっきり誤解される」

「あ……」

「俺はそれが怖くてしょうがねえんだ。単純に、ここを直せって話じゃねえ。だからなかなか言いにくくてな」

「はい」

「俺がまだ現場に居て、おまえがまだ下っ端なら、じっくり説教すりゃあいいかなと思ってたんだが、状況が変わった。俺がめる前に、折野がおまえに主任の話を振っちまった」


 中瀬さんが、がたがたと音を立てて激しく膝を揺すった。


「俺は。なんとかこなせって言うしかねえ。自分はそういうやつなんだからしょうがねえって開き直るんじゃなくて、どうすりゃ自分をうまく使えるか、使い方、出し方を考えねえとならん」

「そうですね」


 ふうっ。大きく息を吐いて、背筋を伸ばす。


「昨日、いおりにも同じことを言われたんです。感情の見え方が淡い。欲の形が見えないって」

「欲の形、か。そいつは、ちぃと違う」


 指をひょいひょいと振って、中瀬さんが訂正する。


「欲の種類が限られてんだよ。おまえは坊さんみたいなのさ。酒飲んで、博打打って、女抱いて。そういう俗っぽいことに対する欲が極端に少ねえのよ。だから生臭くねえって言ったんだ」


 うう。僕はそうじゃないんだけどなあ。中瀬さんには枯れて見えちゃうってことか。


「ただな。それに不釣り合いなくらい我欲がつええ。真面目で安易に妥協しねえってのは、立派に欲さ」


 なるほど。確かにそうかも。


「まあ、それはおまえだけのこっちゃねえよ。俺ら職人には共通だ。俺らはこれしか出来ねえ。それなら出来ることで人に負けたくねえ。それは欲だ」

「ええ」

「ただな。それは一方ででけえストレスになる。俺はこれっぽっちしか出来ねえってことの裏返しだからな」

「あ、そうか」

「そういうところがいろいろ歪んで出るのさ。俺みたいに口が悪くなったり、オフに好き放題やって気晴らしするってな。だが、おまえにはそれがねえ。怖くて……しょうがねえんだよ」


 ぶんぶんと。中瀬さんが激しく首を振った。


「我慢してるなら分かる。それなら、俺は我慢するな、溜めるなって言える。でも、おまえは我慢してねえ。作るってことに全部自分を放り込んじまってるんだ。とんでもねえ欲のでかさだよ。それえ、ばらす方法を考えといた方がいい。決して自慢にはならん」

「どうしてですか?」

「一人で抱え込んで、自爆すっからだ」

「じば……」

「いいか!?」


 中瀬さんが、僕の顔の前に指を突きつけた。


「おまえは今、半人前だと思って何でも吸収しようとしてる。その間は、他の連中と接点が出来る」

「ええ」

「けどな。それはいずれいっぱいになるんだよ」


 ぐ……。


「そうしたら、今度は自力でなんでも作ろうとして意識が中を向く。外との接点が切れる。縁故のねえおまえは、その時点で世間から浮く。それぇ、破滅だぜ?」


 どこにも逃れようのない、厳しい指摘だった。


「は……い」

「それだけじゃねえ」


 中瀬さんがいおりを指差す。


「おまえが彼女とどうするつもりなんかは、俺は知らん。だが、おまえもいずれは誰かと所帯を持つだろう?」

「そのつもりですけど」

「自分の欲だけに囚われてると、家族が見えなくなる」

「あ……」

「俺は、親兄弟はちゃんといるのに、家族との付き合いがうまく出来んかった。仕事に突っ込み過ぎて、女房子供をきちんと見てやれんかった。俺は、女房の死に目に会えてねえ」

「!! そ、そんな」

「それを息子どもに恨まれてな。縁切られてんだよ。あんたなんか親でもなんでもねえってな」


 俯いた中瀬さんの声が揺れ、震え始めた。


「あの人は頑固一徹の職人。それがあの人なんだから恨まないでと。女房はそう言い残してくれた。けどな」


 ぎりっ。力一杯歯を食いしばる音がした。


「おまえには、俺みたいになって欲しくねえんだよ。親のいねえおまえは、人一倍家庭ってことを真剣に考えねえと俺以上に後悔することになる。俺みたいに……なって欲しく……ねえんだ」


 言い終わった中瀬さんの目から涙がこぼれて。ぱたぱたとテーブルの上に落ちた。


 大きな大きな後悔。したくない失敗や挫折。でも、それがあるからこそ言えることがある。一切過去を振り返らないで、明日だけを考えて来た僕の生き方には大きな落とし穴があるって……ことか。


 さらっと襖が開いて、女将さんが料理を運んで来た。


「ねえ、がんちゃん」


 泣いていた中瀬さんを慰めるように。女将さんがぽんぽんと肩を叩いた。


「姉さんは納得してたよ。そんなに自分を責めないで」


 あ! 女将さんは……中瀬さんの奥さんの妹さんだったのか。


「く……う……」

「がんちゃんが姉さんを裏切ったわけじゃない。ただ、不器用だっただけ。姉さんもそれは分かってた。しょうがないわ」


 女将さんは、僕にではなく、いおりに目を向けた。


「あなたは、がんちゃんみたいな人を愛せる?」


 ふっと俯くいおり。


「私には無理。でもね、それでいいって人もいるの。それは理屈じゃない。そうね、運命ってやつなのかもね」


 にこっと笑った女将さんは、僕といおりを見比べた。


「男女の仲ってのは、そんなに単純なものじゃないよ。アンバランスが当たり前。お互いがそれでもいいって思わないと続かない。だから私は今まで独りなのよ。すっごい欲しがりだからね。ふふ。ごゆっくり」


 料理を配膳した女将さんは、静かに襖を閉めて離れて行った。


◇ ◇ ◇


 とてもお酒なんか飲める雰囲気じゃなかった。僕らは黙ってわずかばかりのお料理を食べて、店を後にした。


 中瀬さんは。あの後ずっと無言だった。


「じゃあな」


 その一言だけ。


「ふううっ」


 部屋に戻って、床にへたり込む。ショックが……大きい。


 部屋に立てられたツリー。まだ完成していない。そのイルミのスイッチを入れたいおりが、点滅する明かりをじっと見ている。


「ねえ、たっくん」

「うん?」

「わたし……」

「うん」

「クリスマスが終わったら、一回家に帰ろうと思う」

「え?」


 親への反発だけで自分の生き方を駆動して来たいおり。それをやめるってこと? いおりは、僕の心配顔を見て少しだけ笑った。


「大丈夫よ。それでもう実家に引き上げちゃうってことじゃないから。でも」

「うん」

「わたしは、本当に親の心と向き合って来たのかなあって」

「……」

「さっきの中瀬さんの話。すっごい重かった。あれは、たっくんに先輩として話したことじゃないよ。あれは……お父さんの話だよ」


 ああ。そうだ。親を知らない僕が、致命的な失敗をしでかさないように。中瀬さんが、僕に親心を注いでくれたんだろう。いおりがいなかったら、いずれ折りを見て説教しようだったのかもしれない。でも、いおりと暮らしている僕を見て、本気で心配してくれたんだ。大丈夫か? おまえ一人のことじゃ済まないんだぞって。


「はあー」


 思わず俯いてしまう。一人暮らしの時には、大穴が空いた自分の姿が全く見えてな

かったんだ。そして、今その事実を突きつけられて、途方に暮れている。


「僕はどうすりゃいいんだろう?」

「うん……」


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