DAY 9

 僕だけじゃなく、工場の全員が、今日中瀬さんがちゃんと出社するかどうかをものすごく気にしていたと思う。でも僕らの心配をよそに、中瀬さんは普段と変わらず出社した。その表情は柔和になったわけでも険しくなったわけでもなく、これまでと全く同じ。朝礼のあと配置に付いてすぐ、各部門の工員さんに文句を付け始めた。それはいつもの光景。うんざりする、うっとうしい文句の羅列だ。もっときびきび出来ねえのか、とか。作業場をきちんと整頓しろ、とか。出来たのを無造作にぽんぽん放るんじゃねえ、とか。いつもならまた始まったか、やれやれって感じになるのに、今日はそれでみんなの気合いが入った。


 不思議なもんだよね。中瀬さんがいなかった、たった一日。その一日で、みんなが中瀬さんのポジションの重みを再認識し、工場がびしっと締まった。昨日動かせなかった半日の分を、さっさと取り返すんだ。焦りじゃなく、そういう前向きなエンジンが回って、工場に充満する切削油の匂いが心地よく感じる。


「よう」


 お。僕のところにも来た。


「おはようございます!」

「調子はどうなんだ?」

「機械本体はいいんですけど、オペレータ泣かせですね。ほんとに設定が面倒で」

「機械ってなあそんなもんだ。慣れるしかねえ」

「ええ」

「アレ、だが」

「はい!」

「今週末に上がる」

「わ! 楽しみです」


 にっと笑った中瀬さんが、僕の背中をぽんと叩いて、すたすたと歩き去った。ただ、その後ろ姿が妙に清々しかったのが気になった。世の中の不平不満を全部背負って、それをぶちまけながら歩くのが中瀬さんだった。その背負ったものが、いつの間にか無くなっていたように見えたんだ。僕の気のせいならいいんだけどな。


◇ ◇ ◇


 あの子と約束した七時には間に合わないかと思ったんだけど、今日はみんなの気合いと馬力がはんぱじゃなくて、冗談抜きに昨日のハンデ分を取り返した感じだ。様子を見に来た折野部長もほっとしたようで、工場長にあまり張り切り過ぎて労災出さないように注意しろって釘刺していったらしい。定時を十五分超過したところで、切りがいいので上がりにする。


「お先っすー」

「お、巧。上がりか。お疲れさん」

「宮部さんはまだやるんですか?」

「もうちょいな。でも、七時前に上がるよ」

「お疲れ様ですー」


 更衣室でさっと着替えて、駆け足で社屋を出た。この分なら、ちょうど待ち合わせの時間ぴたりに着くだろう。


◇ ◇ ◇


「ああ、ごめんね。ちょっと遅れた」


 クリスマスのオーナメントを手にとって見比べていた女の子に声を掛ける。


「いえ……」

「時間がないんで、さっさと済まそう。こっち」


 僕の早足に慌てたように、その子がぱたぱたと僕の後に付いて来た。


 駅前から、目抜通りとは反対側に向かって高架の下をくぐり抜けると、駅前の喧騒とは全く違う世界が広がる。狭い路地を挟んで小さな屋台や平屋の古い飲食店が雑然とひしめき合う一角があり、午後六時を回ると汚れ仕事を終えた作業員や工員が晩飯がてらに一杯やるため、ぞろぞろ集まってくる。どの店も飯は安くて旨いし、量も多い。普段はビニ弁ばかりの僕も、たまあに晩飯を食べに来る。阿知良は、それらの店の中でも比較的酒飲みの客が少ないところで、あまりお酒が飲めない僕のようなタイプには居心地がいい。もちろん、決してきれいなお店じゃないけどね。


 まるで異次元に踏み込んでいったかのように、どんどん激変していく風景に絶句していた彼女は、僕が足を止めた店の前でがたがた震えだした。


「こ、こ、ここなの?」

「そうだよ」


 絶対にこんな野蛮な世界には足を踏み入れたくない。そんな強烈な嫌悪感を無理やり飲み下すようにして、彼女がごくりと生唾を飲み込んだ。まあ、そうだろうな。こういう機会でもなければ、都会の学生さんは店に入るどころかこの界隈に近付くことすらないだろう。でも、僕はそういう彼女の怯えに頓着しないで、がらっと引き戸を開けて大きな声を出した。


「ちわーす!」


 間髪入れずに返事が降ってくる。


「らっしゃあい! お?」


 おやっさんが、ぎょっとしたような顔で僕の後ろの女の子を見た。


「おいおいおい、たっくん! お見限りかと思ったら、カノジョ連れかい!」

「違うよ。仕事の筋」


 なあんだって感じでがっかりしたおやっさんは、ぱたぱたと手を振った。


「がっかりさせなさんなや」

「あはは。奥、空いてます?」

「空いてるぜ。何にする?」

「僕は唐揚げで。彼女は野菜炒め」

「あいよっ! メシは?」

「僕は大盛り。彼女は少なめで」

「うーす! 唐揚げ大、野菜小!」


 すぐに、若いあんちゃんがごんごんごんと大きな音を立てながら炎の立つコンロの上で勢いよく中華鍋をあおり始めた。


「ああ、座ろうか。こっち」


 カウンターじゃうるさいし、ごっついおっさんたちにじろじろ見られながらじゃ、彼女も気になって話なんか出来ないだろう。奥に一マスだけあるテーブル席。出入りが面倒臭いので、馴染み客にはあまり利用されることがない。でも厨房から少し離れてるし、騒音もここならそれほどじゃない。


 あまりの異世界に恐れをなした彼女は、さっさと話を済ませたかったんだろう。席に着くなり、身を乗り出すようにして話を始めようとした。その目の前に、まだじゅうじゅうと派手な音を立てている定食が運ばれてきた。


 どん! どん!


「はいよ。唐揚げ大と、野菜小ね」


 料理のボリュームに唖然としてる彼女の表情を、してやったりと満足そうに見ていたおやっさんが、僕の肩をぽんと叩いて厨房に戻った。僕のさっきの説明は、出来の悪い言い訳だと思ってるんだろなあ。


「これの、どこが小なの?」


 彼女が非難口調で、でかい皿を指差した。小はご飯だけだよ。おかずはどれでも同じさ。


「ひひひ。盛りのいいのがこの店の売りだからね。でも、おいしいよ」


 僕の目の前にも山盛りの鶏の唐揚げ。そして、ご飯はどんぶりだ。


「さて、先に飯にしよう。話はそれから」


 彼女の返事なんか待ってる暇はない。腹減ったよう。僕はどんぶりを鷲掴みにして、ご飯を口にがばっと押し込む。揚げたての唐揚げが香ばしい。


「うー、べらんまー。時間が合うんなら毎日でも来たいけどなあ」


 まるで化け物を見るような目つきで僕を見ていた女の子も、お腹は空いていたんだろう。気は進まないけどって感じで、恐る恐る山盛りの野菜炒めに箸を伸ばした。


 ぱく。


「あ……」

「うまいだろ?」

「うん! へえー!」


 最初は、なんとかおしとやかに見せようとしていた彼女の化けの皮はすぐに剥がれた。育ちとか躾とかそういうことのせいじゃなくて、単にお腹が空いてたんだと思う。絶対に食べ切れないって思っていた量をきれいに完食してから、はっと我に返った彼女は顔を赤らめた。


「ごめんなさい」

「いや、腹が減ってるとまともに話出来ないからさ」

「うん」

「君は学生さんでしょ? ちゃんと食べてんの?」


 しゅんとして。俯いてしまった。彼女は太っていない。むしろ、もっと肉を付けた方がいいかなっていう感じで、不自然に細い。それは無理に痩せようとしてそうなったっていうより、経済的な事情なんじゃないかなあと。そういう印象だった。


「バイト代がぎりぎりなの」

「仕送りは?」

「家賃で全部消える」

「かつかつ、か」


 まあ、いい。今日はメシだけにしておこう。これから彼女がどういう話を切り出すのかは、今ので大体想像がついた。それを確認するだけなら、この騒然とした空気の中でしなくてもいいだろう。ただ、それを聞いた後で僕がどうするか。そっちの方が問題だよなあ。


「あの……」

「うん?」

「なんでこういうお店にしたの?」


 まあ、そうだろな。


「君は、自分しか見えてないだろ?」

「え?」

「僕は、金属加工工場で機械のオペレータをやってる。朝から晩まで切削油に塗れて機械と格闘してるの」

「あ……」

「退勤の時に汚れた服は着替えるけど、手足や髪に付いた油は、ちょっと洗ったくらいじゃ落ちない。匂いもあるし」

「うん」

「その状態で、しゃれた店になんて行けないよ。他のお客さんに迷惑だ。仕事帰りに外メシするなら、こういう大衆食堂にしか寄れないのさ」

「そ、そっか」

「君は学生さんだから時間を調整しやすいかも知れないけど、僕はそうは行かない。今日はたまたまほとんど定時に上がれたけど、仕事が詰まってきたら毎日八時、九時だよ。そうしたら、もっと行ける店が減る」

「うん……」


 どうも、彼女は視野が極端に狭い感じがする。自分の目の前しか見えてないよな。うーん。


「あのさ。君は、僕にお願いをする立場なわけ。そうしたら、僕が今どういう状態なのかは、真っ先に確認しないとならないでしょ?」

「そう……だよね」

「そういうところにちゃんと気を回さないと、就職の時に苦労するよ?」


 僕は、嫌味でそう言ったつもりはない。彼女は見るからに危なっかしいんだ。見知らぬ僕にいきなり突っ込みを入れたみたいに、自分の言動や行動に大きな危険が潜んでいることが分かってない。僕は、年下の女の子相手に大人気なく逆ギレするつもりはないけど、彼女の物の言い方にむっとしたのは事実だからね。無邪気は取り柄だと思うけど、それも時と場合によるから。さて。


「名刺渡したから分かると思うけど、僕は三田みたたくみと言います。勤務先や仕事、連絡先は名刺にある通り」

「うん」

「君は?」


 黙り込んでしまった。自分の名前や所属、連絡先は言いたくないんだろう。そういうところはちゃんと用心してるってことか。でも、そういう強い警戒心と行動とがずれてるんだ。それが、どうにもしっくり来ない。僕が腕組みして首をひねったことで、彼女は僕の機嫌を損ねたと思ったんだろう。慌てて口を開いた。


「あ、あのっ! わたしは」


 まではすんなり出て。それでも、次の一言が出なくて何度か口ごもった。


「わたしは……聖野きよの伊織いおりって言います」

「きよのさん、か」

「うん」

「ごめん。疑うわけじゃないけど、学生証見せて」


 偽名使われると、うんとこさ気分が悪い。でも僕のリクエストを聞いて、彼女は顔色を変えた。


「どうしても見せないとだめ?」

「学生証でなくても、どっかのお店のポイントカードとかでもいいけど、君が今言った名前が本当かどうかを確認したいの」

「……。どうして?」

「全然知らない人が、身分も明かさないで僕の買った商品をどうしても譲ってくれって言う。もし君が僕の立場なら、そんな申し出にほいほい乗る?」

「う……」

「そういうところも、常識ないと思うよ」


 僕は思わず大きな溜息を漏らしてしまった。ふうう。


「あのさ。いくら君があのツリーに執着してるって言っても、知らない男にいきなりそれよこせっていうのは、ものすごーく危なっかしいの。名前や連絡先を僕に言いたがらないのは自衛で、それは女の子としては当然だと思うけど、それと今回君の取った行動とが大きくずれてるの。そう思わない?」

「……」

「普段ちゃんと意識してることが、ツリーで全部ぶっ飛んでるんだ。それって、怖いよ?」

「うん……」


 蚊の泣くような声で、彼女がこくんと頷いた。それからのろのろとバッグを開けて、学生証を出した。R大の経済、三年生か。もう就活じゃん。学生証の写真は、今よりもずっと垢抜けない高校生のような幼い顔。ふうん。名前は確かに聖野伊織だった。


「ありがと」


 学生証を返して、さっと席を立つ。


「今日は、ここまでね」

「え?」

「交渉の前にきちんと身分照会をしておかないと、お互いに気持ち悪いでしょ? 次の交渉のセッティングは君がやって。僕は忙しいから」

「でも。名刺の電話番号は、会社のなんでしょ?」

「そうだけど?」

「かけずらい……なー」

「いや、僕の携帯の番号を教えてもいいけど、それだと君のも知らないと連絡を取れない。さっきも言ったけど、僕の仕事は上がりの時間がよく延びるから、僕の方で君にかけられないと調整が出来ないの。どうする?」


 あくまでも、僕は彼女の出方待ちだ。なんてったって、彼女の交渉の申し出を僕が受けないとならない義理はないんだもん。しばらく逡巡していた彼女は。諦めたように、一枚のメモ用紙に番号とメアドを書き並べた。携帯を出して、その番号を打ち込んで彼女のにかける。彼女のバッグの中で、『星に願いを』が鳴り出した。慌てて携帯を引っ張り出した彼女が、着信画面を見て番号を確認した。


「着歴で分かるよね? メールはそのまま返信すればいいし」

「うん」

「じゃあ、また明日以降に」

「あの! 今ここじゃ出来ないの?」

「周り見てごらん」


 僕が店内を見回す視線に引きずられるようにして、彼女がさっと周囲を見渡した。僕らが入って来た時にいた客は、ほとんど入れ替わってる。空き待ちで、外に立ってる人が数人。


「ここはあくまでも飯を食うとこ。それが終わったらさっさと出ないと、みんなの迷惑なの」

「あ」

「晩飯時を外せば、飲みの客ばかりになるからのんびり出来るけど、今はまだそうじゃないからね」

「うん」

「そして、さっき言ったでしょ? 僕は油塗れ、汗塗れなの。ここ出て、この格好のままで入れるとこ、どこ?」

「う……」

「明日以降の設定も、それを考慮してくれないと受けられない。よろしく」


 僕は彼女の分も支払って店を出た。二人合わせて、漱石さんでお釣りが来るって。安いよなあ。


 駅まで戻って、今日はおしまい。


「じゃあね。おやすみ」

「うん。今日はごちそうさまでした。また連絡します」


 異世界から戻ってきたっていう安心感がそうさせたのか。彼女は笑顔でぴょこっとおじぎして、バス停に走っていった。うーん、まだ諦めてないってことか。


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