DAY 8
ちょっと微妙な出来事があって。なんとなくすっきりしないまま、数少ない休日が過ぎてしまった。買って帰ったツリーの箱。すぐに開けて組み立てたかったけど、あの女の子の恨めしげな視線がちらついて気後れしちゃう。まあ、いいや。今夜帰ってから組み立てよう。
「おはようございますー」
出社して、制服に着替えようとしたら。更衣室が騒然としていた。
「な、なんだあ?」
泥棒にでも入られたんだろうか? 戸口に居た僕を見て、高梨さんが吹っ飛んできた。
「おう、三田! おまえ、何があったか知らんか?」
「え? なんのことですか?」
「がんちゃんが、急に休んだ!」
「ぎょええええっ!?」
みんなと同じように、僕もパニック状態になった。
「そ、そんなのありえないですよ! あの中瀬さんが!」
「だろ? 救急車で病院に担ぎ込まれても、点滴のビンぶら下げてまで工場に出て来るやつだぜ?」
「事前連絡はあったんですか?」
「今日はどうしても休ませて欲しいって、今朝突然電話がかかって来たらしい。みっちゃんが血相変えて部長んとこに駆け込んでよ。それからこの騒ぎさ」
超うるさ型の中瀬さんは、自分自身にもものすごく厳しい。仕事が詰まっている時期は、作業を優先して大事な結婚式やお葬式まで欠席する人だ。もちろん、今まで中瀬さんが欠勤したことなんか一度もない。有給すら何年も使ってないって聞いた。根っからの頑固職人なんだ。その中瀬さんが突然休んだ? ぎょええええっ!?
休んだっていう事実だけでも充分パニックものなんだけど、中瀬さんの役回りは他の人では埋められない。中瀬さんは、一日中製品精度の抜き打ちチェックをして回ってるんだ。相手が人間でも機械でも、だ。その『目』が……欠ける。
みんな、自分の持ち場は自信と責任を持ってこなしてる。それでもエラーは起きるし、規格を通らない製品が出来ちゃうことはある。うっかりそれを見過ごすと、小さな傷が全体に及んじゃうんだ。厳しい中瀬さんの目をクリア出来るってこと。それは、そのロットには問題ないぜっていうお墨付きだ。うざい、うっとうしいって言いながらも、僕もみんなもその目にどっぷり依存してた。その目が突然欠ける。パニックは不安の裏返し。たった一日なのに、自分の仕事の精度に自信が持てなくなる。本当にこれで大丈夫なんだろうか、と。
騒然としていた更衣室に、誰かがばたばたと駆け込んできた。折野部長だ。はあはあと息を切らせてる。
「すまん! 中瀬くんのことがあるから、今日はラインを午前中で止める。その分、後がしんどくなるがしょうがない。シフト組み直すから各自確認しといてくれ!」
「はい!」
「うす!」
「あの、部長」
確認しておこう。
「なんだ?」
「中瀬さんのお休みは今日だけなんですか?」
「本人は、そう言ってる」
折野部長は苛立ったようにそれだけ短く言い残して、さっと更衣室を出て行った。
◇ ◇ ◇
僕の横で。新型の打抜機がうなりを上げてる。
がしゃん! がしゃん! がしゃん! がしゃん!
機械の動作はプログラム通りに正確で、そこには怠けも手抜きも入り込む余地がない。確かに、安心だ。でも、もし機械にほんのわずかでも狂いがあれば、不調が紛れ込めば。それは、不良品の大量生産装置になる。
もちろん、僕もチェックを怠ってはいない。でも、『目』の精度は中瀬さんには全然及ばない。もし打ち抜かれた部材にほんの少しでも狂いがあれば、それは後で組み上げられた時に完成品まで歪めてしまうんだ。その恐怖は、ものを作ってる人にしか分からないだろう。製品の精度チェックと検品は、検査部でやってる。だけど、出来上がってしまってからじゃ遅いんだ。ゴミの生産をしちゃったっていうダメージは、コストの問題だけに留まらない。僕らのモチベーションまで下げてしまう。だって、ゴミ作りで浪費しちゃった時間はもう取り戻せないんだもの。
びーーーっ!!
工場内に鋭いブザー音が鳴り響いて、続いて午前中の作業終了のアナウンスが流れた。僕は制御盤の電源を切り、周囲を見回す。いつも以上にみんなの口数が少なくて、表情が硬い。もちろん、中瀬さんがいなくても作業はいつも通りに出来る。でも、たった半日の稼働であっても、その間に生産されたものが『中瀬クオリティ』にならない。みんな、それを不安がってる。もちろん僕も、だ。
◇ ◇ ◇
折野部長の言い方だと、中瀬さんの休みは今日一日だけなんだろう。突然休んだということだけで、中瀬さん的には十分責任を感じてると思うし、それを僕らがとやかく言うことでもない。僕らに出来るのは、明日は普通に出社してくるだろう中瀬さんをいつも通りに出迎えることだけ。気持ちを切り替えるしかない。
「それじゃ、お先に失礼します」
「おう」
「お疲れー」
「明日は早出だろ? 遅れんなよ」
「はい!」
更衣室で着替えた僕は、ベテランさんよりも先に社を後にした。ああ、もやもやする。中瀬さんが、いつまでも社にいるわけじゃない。でも、中瀬さんがいないという状況を誰も想像出来ない。ベテランさんでもそうなんだから、ましてやまだ自信がないひよっこの僕はもっと不安だ。
それより。会社は今回のことをどう考えるんだろう? 一人の職人さんがいないだけで工場の操業が事実上ストップしてしまう。そんな脆弱な操業体制でいいのか? そんな風に考えるんじゃないだろうか? そうしたら。満点は要らない、八十点のものでいいって、安全を見込んでクオリティを妥協しちゃうんじゃないだろうか? ああ、もやもやする。僕が先回りしてくよくよ心配したってしょうがない。確かにそうさ。それでも、もやもやする。
◇ ◇ ◇
考えたくないことがある時は、何か他のことに目を向けた方がいい。没頭は出来ないけど気は紛れるから。僕は昨日買ったツリー付属のオーナメントがちゃちだったことを思い出して、駅前の百均を覗きに行った。きんきらきんにするつもりはない。でも中瀬さんのオーナメントだけが突出するようじゃ格好が悪いから。
「ええと。どんなんにするかな」
銀モール、ガラスボール、ベル、打ち抜きのシルバースター。見栄えがするものでも、プラスチック製のは外した。ツリー本体がプラスチックだから、下げるもので質感出さないと、もっとチープに見えちゃう。てっぺんの星は、自分で作ってみよう。中瀬さんのレベルにはどうやっても達しないだろうけど、僕なりに凝ってみたいし。じゃあ、金銀のワイヤーも要るな。
と。何も考えないでいろいろ放り込んで、カゴの中をふと覗いて思わず苦笑いしちゃった。これじゃあ、ツリー本体より高くなっちゃう。自分で作る分を増やして、既製品を減らそう。カゴの中のを吟味しながら入れたり出したり。四苦八苦しながら買うものを選んでいたら。横ですっとんきょうな声が響いた。
「あれえ?」
ぎょっとして振り返ったら。昨日の子が、僕の買い物カゴを覗き込んでる。
「趣味悪いな。後を付けたんか?」
「ち、違うよっ!」
むきになってその子が否定した。
「ラッピングペーパーとかリボンとか買いに来たのっ! ほらっ!」
がさっと開けた袋を見せつけられた。いかんいかん。最近ろくでもないことばかり起こってたから、知らないうちに機嫌が悪くなってたんだろう。
「分かった分かった。もういい」
「忙しいんじゃなかったの?」
どうして、こいつは! せっかく丸め込んだ怒り虫が、その一言でむくむくと鎌首をもたげようとする。でも、知らない女の子に当り散らしたところでしょうがないだろ。自分にそう言い聞かせて、冷静さを取り戻す。
「今日は工場でちょっとアクシデントがあって、仕事がストップしちゃったんだよ」
「へー」
「ここんとこ休日も出の日が多かったから、こうやって使える時間が出来たんなら無駄にしたくない。そういうこと」
僕がレジに行こうとくるっと背を向けたら、昨日別れ際に見せた懇願の視線がまた突き刺さってくる。
「あの、さ。やっぱり……だめ?」
「だめ」
「交渉の余地は?」
「よっぽどのことがないと、ない」
「よっぽどのこと?」
「そう。どうしても昨日のツリーじゃないとだめっていう重大な理由があれば別だよ。あれが一番コスパが良かったからっていうのは、僕と同じ理由だから却下」
「う……」
しおしおになって俯いてしまったから、そんなに重大な理由じゃないんだろう。前から狙ってたのを、僕っていうとんびにあぶらげさらわれて諦めきれない。そんなところじゃないかと思う。でも彼女は引き下がらなかった。僕が交渉を完全拒否しなかったことを最後の拠り所にしたんだろう。一大決心をしたような顔で、交渉を切り出してきた。
「あのっ! 明日、どんなに遅くなってもいいから交渉させてくれないっ!?」
なんで昨日のツリーにそんなにこだわるのかなあ。見ず知らずの僕に、立ち話では出来ないことをわざわざ説明するの? うーん、あの箱の中には、実は麻薬が入ってる、とか。某国スパイの通信機が仕込んである、とか。実はわたしの手作りなのよ、とか。
いや、ありえんな。どう見ても、ただの売れ残り見切り品だ。でも、この前も後味が悪かったし、彼女をしっかり納得させた方が僕もすっきりする。
「しょうがないな。どこでやる?」
「え、と。うー」
どう見ても、学生さんだよなあ。そして、お金の余裕はなさそうだ。僕も今月はいろいろと出費がかさむ。安く済まそう。
「じゃあ、明日七時にここで。駅近に
「高く……ない?」
「君ならワンコインでも食い切れんと思う。ただ、女の子には入りにくいところだよ」
「うー」
「なにか急用とか出来たら、早めに連絡が欲しい。今月はほんとに忙しいんだ」
社の名刺を渡す。
「あの、ラインとかは?」
「やってないし、やるつもりもない。前も言ったけど、僕は独り者でやり取りする相手がいないし。会社の人はみんな年配の人ばかりで、メールすらほとんど使わないからね」
「そうかあ」
それでも、自分の携帯の番号を教えたくなさそうな女の子にとっては、携帯じゃなく公衆電話からもかけられる連絡手段でほっとしたんだろう。
「分かりました」
「それじゃね」
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