風編みの歌7 変身術

 トルからの本当の手紙を読んだ僕はいてもたってもいられなくなった。

 すぐにでも湖を越えて、メキドへ行かないと!

 そんな気持ちに苛まれ、その夜は一睡もできず目の下にがっつりクマができた。

 しかしこの寺院は、厳しい戒律と結界に縛られた場所。湖には強固な結界が張られ、許可なき者はおいそれとは出られない。勝手に出ようとすれば最悪右手を斬りおとされて、地下の底なし沼にどぼんだ。

 後ろ指をさされないで寺院から出る方法は二つほどある。

 現在ファラディア王国に赴いているコロンバヌス様のように、どこかの国の後見人となること。もしくは、大物で動かせない古代遺物を封印している遺跡巡りの監察員に任じられること。しかしいずれにしても、黒き衣の導師とならなければならない。

 導師になるのに年齢制限はない。三十ある段階試験にすべて合格すればいいだけだから、本人の能力次第では十代でも黒き衣をまとえる。

 でも。

 初歩的な試験すら合格できない今の僕が導師になるまで、一体何年かかるだろうか。

 気が急く思いでいらいら回廊を歩けば、中庭で大の字になってごろごろしている我が師が目に入る。のほほんと金色のコマを手の上で回して遊んでいる人の姿が。

 ちくしょう。何も教えてくれないこの人のもとについてたら、導師になるのは一生無理かも。トルのことを相談しても、鼻をほじって「俺らには関係ないしぃ」と言われそうだ。

 これは……こっそり寺院を抜け出す方法を探すしかないかもしれない。すべてを捨てる覚悟で。

(トルのために、ここを捨てる?)

 自問した僕はしばらく考えて自答した。

(うん……捨てられる) 

 正直、未練も執着も、この寺院にはない。だって僕は無理やり、ここに連れて来られたのだから。


『アスワド。大好きだ』


 別れ際の口づけ……。

 そ、それだけじゃない。トルは入院以来の親友だ。毎日一緒に魚をとって。一緒に全体講義を受けて。一緒に当番をしてきた仲だ。こうして実際に手紙で助けを求められたのに、みて見ぬふりはできない。気丈なトルは助けてくれなんてひと言も書いてないが、淡々と自身のひどい状況を綴ってきたその内なる心の思いはいかほどか……十二分にわかる。


『いつも君の顔を思い出している』


 トルがもし幸せなら、返事も出さない奴にこんなことは絶対書かないはずだ。

 このとき僕の脳裏に、ちらりと故郷の幼なじみのテレイスの顔が浮かんだ。十歳の時のままのつぶらな瞳の少女の顔が。あの子にもう一度会いたいと思う気持ちは、僕をここまで追いつめなかった。

 テレイスはトルと違ってきっと幸せでいる。

 浅はかにも、そう思い込んでいたからだろう。

(メキドへ行けば、トルはきっと喜んでくれる。僕は見習いだけどそこそこ韻律を使えるんだから。きっと役に立てる!)

 愚かなことにそう信じ、僕はここを抜け出す抜け道を求めるべく図書室の本を漁った。

 寺院の掟や歴史を記した本がずらりと並ぶ所を見てみたけれど、みんな節制と戒律を守ることが一番だと説くものばかり。

 手当たり次第に調べてみれば、寺院の地下の封印所の説明がされている本があった。手書きの文字だから、いつの時代かの導師様が著わしたものだろう。

『寺院の地下には広大な鍾乳洞が広がっている』――うん、知ってる。

『入り組んだ迷路のごとき構造で、遺物の封印所はその洞窟を利用している』――うん、知ってる。

『鍾乳洞の規模はこの星の極に及ぶ。地上へいたる穴もあり……』

 ――お。これは。

『鍾乳洞の奥へ潜れば、この寺院を出ることも不可能ではない。ゆえに我・黒き衣のガイウスは、鍾乳洞への立ち入りを厳しく制限するべきと考える。温石やヘロム採取を行う弟子には監視をつけ……』

 午後当番で、鍾乳洞に下って温石をとるというものがある。たしかに導師様の監督がついている。

 監督の目をごまかして、鍾乳洞の奥に潜る?

 しかしどうにかして地上に出られたとしても、浮上地点はおそらく極の近く。まったく人の住まぬ地に出る。道なき道、前人未到の氷山を越え、はるか南西のメキドに行くのは……およそ現実的じゃない。

「あれ? なんだこれ、韻律集じゃないか。図書当番、間違って入れたのかな」


 『変身術』。


 なにげなく手にとった分類違いのその本に、思わず目が釘付けになった。両開きのページいっぱいに描かれているのは、空高く飛ぶ鷹の姿――。

 そのとたん。身体に電気のごときものがびりっと走った。

(これだ!)

 鳥になればいい。鍾乳洞に潜り、なんとか地上に出て空に飛び立てば、岩山も海も越えられる。メキドまでひたすら飛ぶのだ。

 決行時には遺書をしたため、湖に飛び込んだように見せかける。そう、自殺を偽装すればいい。サボり魔の師のせいでぜんぜん試験に受からないと、僕が常日頃悩んでることはみんな知ってるはずだから、たぶん不審に思われることはない。

 しかし……

「これ、覚えられるかな」

 記された韻律を見てみれば、おそろしく難易度の高い上位神聖語の六韻律ヘクサメトロン。発音記号の複雑さに一瞬めまいが……。

 いや、きっとやれる。やらなくては!





 幸いにして。数日経っても封書を一通抜いたことはバルバトス様にばれず、僕はホッと安心した。

 図書館で鍾乳洞の地図を探したり、『変身術』の習得にとりかかる、という具体的な行動を始める前に、まず僕は、親友に励ましの手紙を書いた。


『トル、僕は一刻も早く、君のもとへ行くつもりだ。

 この寺院からなんとかして出て、必ず君を助けにいく。

 僕が行くまで、がんばれ!』


 この手紙を僕が直接供物船に託しても、十中八九届きはしない。

 バルバトスさまに命じられている供物船の船頭によって、湖に捨てられてしまうか。それともメキド王宮の廷臣たちに処分される可能性が大だ。

 だが一刻も早、トルにおのが気持ちと覚悟を伝えたかった。彼女が辛い境遇の中でも、なんとか希望を持ってくれるように。

「メセフ。頼みたいことがあるんだ」

 僕は毎朝船着場にやって来る若い漁師にこっそり手紙を託した。メセフは、僕が手紙と一緒に押しつけた小さな黄金色のコマを見て目を剥いた。

「なにこれ? すげえ!」

「古代のコマだよ。黄金製だ」

「ひ!」

 これは何の気まぐれか、以前我が師が僕にくれたもの。

『弟子にもやるよ。これで遊んでみ』

 僕が我が師に望むのは韻律の講義だというのに。オモチャなどいらないのに。何年か前にひょいひょいと、いくつも押しつけられた。

 我が師が自慢げに言うには、弟子の時代に、師であられるカラウカス様からいただいたものだという。

『ほらほら、好きなコマ取れよ。これとそれ以外はどれでもとってっていいぞ』

 寝台に置いてある我が師の宝箱を開けられて見せられたけど。箱の中には、オモチャしか入ってなかった。

 香木の板でできたしおりやお守りの札。

 金銀のコマに、お香がつまった貝殻や色とりどりのトンボ玉。

 一枚一枚本格的な細密画で手塗りされた、神獣大戦の遊戯札……。

 どれも王侯貴族の子どものために造られる特注品だという。

 弟子時代の我が師は、カラウカス様にとてもかわいがってもらったらしい。

 大事にとっておくなら別に問題ない。しかしいまだに我が師は、宝箱の玩具をたくさん衣の袂に入れて、昼寝の合間に遊んでいる。

 金のコマを手のひらに乗せて回してたりとか。銀のストローでぷうぷうシャボン玉吹いてたりとか……。

「お弟子さま、こ、このコマを一体どうすりゃ?」

「街にやって来る隊商に渡して、仕事を依頼してほしい。メキドの女王トルナーテ・ビアンチェリ陛下に直接この密書を渡し、直接返事を貰ってくること。これがもし成功したら、金のコマと同等の価値の商品を五つ、その隊商に成功報酬として与えるつもりだ」

 隊商は大陸中を巡っている。大陸の西の果てにも、東の果てにも、どこへでも行く。元手なしで王侯貴族に売れるような商品が手に入るとなれば、きっと依頼を受けてくれるだろう。それから僕はもうひとつ、小さな銀のコマをメセフに渡した。

「そしてこれは、君への報酬。この依頼が満足できる結果になれば、君にもさらに成功報酬をさしあげる、と……」

 僕は一番大事なことをゆっくりはっきり告げた。

「黒き衣のアスパシオン様が、仰せになっている」

「わ、わかりやした。黒き衣の導師さまのご依頼ならば、だぁれも無碍にはできやしません。密書を送るよう、隊商にかけあってみやす」

 心の中で我が師に手を合わせる。

 腐っても鯛ってやつだ。

 これが、黒き衣の威力。国無しの導師でも、それなりの畏怖を持たれている。

 魚喰らいは呪いの技に長けている――というのが俗世での一般常識だ。そんなものにはだれだって恨まれたくない。

 メセフはごくりと息を呑んで、金と銀のコマをポケットにしまいこんだ。

 僕は祈りながら、船着場を離れるメセフの船を見送った。

 どうか。

 どうか、トルのもとに僕の手紙が届くように……。





 それから僕は、人知れず『変身術』の習得を始めた。

 修練場所は、完全にひとりになれるかわや

 上位神聖語を、辞書と首っ引きで死に物狂いで解読。

 解らない単語。解らない文法に悪戦苦闘した。

 韻律とは、音波震動を起こして大気や物質に変化を促す超伝導法だ。

 魔力を降ろした空気の中で低音や高音を発声すると、その震動は飛躍的に増幅して周囲に効果を顕現させる。

 しかし正確な発音と音程で歌わないと狙った結果は顕現しない。

 ほんのわずかな音のずれなしに、美しく正確に歌う。

 それが黒の韻律の大鉄則であり、習得が至難であるゆえんである。

 「地獄の七霊」は五韻律六十六行の長歌で、召還するのがかなり大変だった。とはいえこいつは術者のかわりに呪いを放つ、いわば自動砲塔のようなもの。自身に常に憑依させておけば、短詩ですぐ呼び出せるようになる。

 だが、変身術に短詩はない。しかも歌うのが難しい六韻律ヘクサメトロンの大長歌。短韻と長韻の複雑なつらなりが実に百行近くにもわたる。

 歌を覚えるのも、正確に間違えないで歌うのも骨が折れる。

 実のところ何度も心が折れそうになったけど。


『いつも君の顔を思い出している』


 袂にしのばせたトルの手紙を何度も見返して、心を奮い立たせた。


(トル! 絶対君のところに行く!) 


 数日たって、なんとか呪文をひと通り読めるようになったころ、漁師のメセフが、隊商に手紙を託すことができたと報告してくれた。

「金のコマを見せたら、隊商は大興奮でして。ものすごい年代物だとか言ってやした。で、さっそくメキドに向けて出発してくれやしたよ」

「メセフ、ありがとう……ありがとう!」

「お弟子様、俺がもらったのも、街の商人にすごく高く売れたんだ。母さんにいろんなもの買ってやれた。服やらごちそうやら。なんか申し訳ないから、こいつは、ほんのお返しです。どうか、アスパシオン様に」

 人のいいメセフは街で買った本と雑誌をどっさりくれた。ニコニコと満面の笑みで。必死にお礼はなにがよいかと考えて、寺院の外の様子を教えてあげるのがいいんじゃないかと思ったらしい。自分は黒き衣の導師の隠密となった、というひそかな自負が見え隠れしていた。

 僕は貰った本を厠で眺めた。外の文物は院内持ち込み御法度。ザッと目を通してから処分しようと思って小説や観光案内本、有名な画家の絵画集をぱらぱらめくる。

 そこでふと目に留まったのは、『月刊王国島』という雑誌。その雑誌はたくさんの絵が入っていて、とても色鮮やか。その巻頭に……


『メキドの女王陛下、戴冠さる。新たなる時代の幕開け』


 なんと緋色の美しいマントをまとったトルが、神官らしき人から輝く黄金の冠を載せられている絵が載っていた。

 燃えるような真っ赤な髪。面立ちもかなりそっくり。

 記者が、戴冠式をじかに見て描いたものなんだろうか。

(トル、すごく綺麗だ……)

 この雑誌だけはとっておくことにした。他の記事もなんだか面白そうだったからだ。

 中ほどをめくれば、『王国公認ご当地ゆる神様』なるものが特集されていて、色とりどりの着ぐるみが解説付きで記されている。

「へええ。街ごとに、ご当地神ってのが次々作られてるのか。ふむふむ、位置づけ的には主神である太陽神の子どもで、分社みたいなもの? ええと、


『ご当地の神さまたちは、街おこしの催し物で大活躍しています。

 特に我が王国で大人気、人気投票第一位のご当地ゆる神さまは、小さな北の辺境、果て町のピピちゃん……』


 えっ? 果て町って、向こう岸の街の? あそこにもいるの? っていうか一番人気? へええええ……」

 恐ろしくかわいいピンクの着ぐるみのウサギの絵をみつめると、ため息が出る。

 はるか遠い西ではつい最近、戦が起こったのに。この王国は。エティアは。こんなにも平和な国なのだ。





 こうして一週間ほどたったころ。

 僕はトルの戴冠の絵を我が励ましとしつつ、『変身術』に記された長たらしい韻律をなんとか覚えたのだが。


『…………áeide Moúsá moi fíli (我に歌え音の神)

molpís d᾿ emís katárchou:(その聖なる息吹にて歌い始めよ)

ávri dé són ap᾿ alséon (我が身動かせ音の神)』


 ……はあはあ。ど、どうだ?

 う……うううう。頭が痛い。き、きたか?

 だ、だめか。体の一部が変化するだけ、か。全身が変化するまでに至らない。

 しかも……

「なん……で……ウサギ?!」

 へにょんと前に倒れ落ちてくるのは。

 白くて長い耳――。

 暇さえあればかわやに入って、こっそり何度も変身を試すんだけど。どうしても。どうしても。ウサギの長い耳が、生えてくる。自分では鳥の翼を生やしているつもりなのに、羽一枚生えてこない。

 どうして?!

「くそ。もう一度!」

 魔法の気配を降ろす。そして長々と歌いだす。


『我が腕よ。細き腕よ……』


 音程に気をつけてゆっくり歌う。


『……かく空に広げし銀光は

 白はやぶさの疾風はやて立つ

 風切る翼 きめらかに

 変じよ我が腕 おおらかに


 我に歌え音の神

 その聖なる息吹にて歌い始めよ

 我が身動かせ音の神』


 長々と歌った直後。ぎりぎりと痛む頭。めりめりと生えてくる、違和感のあるもの。

「……」

 うああああ! また、頭に長い耳が!

「ちくしょう……なんで……」

 垂れ落ちる長い耳をいまいましげに両手で握ったとたん。

――「うあー、どいて弟子ー!」

 いきなりガラリと、かわやの戸が開いた。長い耳をつかんで、石のように固まる僕。

顔から一気に血の気が引いていく。まさか。鍵を閉めたはずなのに!

「弟子! ごめん! ずっと我慢して待ってたけどもう無理! 他のとこ、なんかいっぱいでさー! すまんっ、どいて!」

 我が師がどかどかと中に入ってきて、凍りつく僕を押しのけた。

 ちょっと待て。

 え、ええとこの人、鍵開けの韻律を使ったのか? 

 僕が中にいると確認して? わざと開けたのか? 

 自分の弟子だから割り込んでもいいだろうって、それって……どうなの? 

 もし僕が用を足してる最中だったら、どうするつもりだったの? 便器から押しのけてたわけ?

 ……。

 い、いやともかく、今はばれないように。ばれないように。我が師が背を向けてしゃがんだ隙に、退去だ――!

 ウサギの耳を両手で抑えこみ、そろそろとあとずさる。息をひそめ、ゆっくりと外に出て。そして一気に、共同部屋までつっ走る。

 部屋に飛び込むや、自分の寝台にもぐりこんで毛布をひっかぶって、変身術を解く。ああ、危なかった。なんとか気づかれずに済んだか。

「あ!」

 『変身術』の本は、ずっと蒼き衣の袂に入れていたから大丈夫だったものの。『月刊王国島』を、うっかりかわやに置いてきてしまった――!

 トルの戴冠の絵が描かれた雑誌……我が師のことだ、絶対目ざとく雑誌の存在に気づくにちがいない。

 僕のですとかいったら、入手方法を聞かれて脱院計画がばれる。

 それはだめだ。もし弟子のなのかと聞かれたら、流行物研究者のデクリオン様の忘れ物じゃないですかって、しらばっくれることにしよう……。

 でも……ああ……ああ……。

 と、とりあえずなんとか、この状況を打破しないと。

 僕は頭をがしがしと掻きながら、うなだれた。ウサギの耳が生えたあとの頭は、なぜかとてもくすぐったくてたまらない。

 鳥の絵でも見れば、連想の効果で羽根が生えてくるんだろうか。

 そう思って図書館へ向かい、鳥の本を大量に借りてみた。

 かわやが空いたのを見計らって、本をいっぱいに抱えて再びそこに滑り込めば。

「やっぱり雑誌……持って行かれちゃったか」

 まったく、手癖の悪い人だ。それから僕は鳥の本をいっぱい広げて、何度も何度も変身を試してみたけれど。

「うぐ……なんで……」

 どうやっても。どうしても。羽は一枚も生えてこないで。

 我が頭からただただ白く長い耳だけが、しつこく、しつこく、にょきにょき生えてくるのだった。




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