風編みの歌6 土台
僕が熱を出してから一週間ほどのち。
岩窟の寺院は食の惨禍に見舞われた。夏が近づいて蒸し暑い日が続いたせいだ。調理当番の弟子たちが魚の樽に入れ込む塩をケチって、魚が腐った。
寺院に住む半数以上の者が腹をこわして大騒ぎ。薬学にくわしいメディキウム様が連日特効薬を作りまくって治療に大わらわ。優等生のリンも痛むお腹を抱えながら、けなげに立ち働いていた。
幸い僕らのお腹はその薬のおかげで数日で全快。寺院の秩序はすぐに元に戻り、いつもの厳格な雰囲気を取り戻した。
が。
夏のきつい日ざしはまだまだ、この北の辺境に容赦なく降り注いでいる。今日もうだるような暑さの中、僕は午後の週当番にいそしんだ。
今週の午後当番は家畜の世話。中庭にあるトリ小屋で卵を採ったり、臭いヤギの糞を片付けたり。ヤギの乳を搾ったり。
とても暑い。汗がだらだら顎から流れ落ちる……。
そろそろ屋内の仕事がしたいと、暗い回廊を見やる。岩窟の寺院は分厚い岩壁のおかげで屋内はわりとひんやり涼やかだからだ。でも来週の当番は、繕い物だったな。実は僕の一番苦手な分野。針に糸を通すところからして、悪戦苦闘。だから我が師の衣をつくろうのって、実は結構な拷問だったりする。我が師が春にぶっ裂いた衣を縫うの、徹夜だったもんな。
ああ、苦手といえば。来週は試験だ。今度のは神聖語の試験ではなく問答。もっぱら哲学や倫理学、宗教学など、一般教養について根掘り葉掘り訊かれるものだ。
試験官は七人の長老様のどなたかで、最悪の場合、厳しくてこの上なく博識な最長老様に当たることもありえる。当たったら最後、あきらめるしかないかも。
一番訊かれやすいのは、なんといってもカイヤールの倫理学。この哲学者は博学な古代人で、天についてとか、元素についてとか、音楽論とかいろんな文物を著しているが、一番有名なものが倫理学。これを知らなきゃ導師になれぬといわれるので、みんな必死で覚えている。
うん、ほとんどの人は理解するのではなく、暗記している。というのも、理解するのは一生不可能なぐらい、内容がおそろしく難しいものだからだ。そのカイヤールの倫理学の本は、どの導師様もたしなみで所有して愛読してらっしゃる。つまり書棚の標準装備なのだけれど。
「カイヤールぅ? なんだっけそれ。えっ? モノじゃない? 人なの?」
部屋に本を一冊も置いていない我が師には、未知なる別次元の物体だった。
「誰か他の導師から借りれば? 試験の時、俺もそうしたよ」
「え? お師匠さまのお師匠様って、前の最長老様でしょう?」
「俺の師匠も本大嫌いだったけど、なにか?」
「……」
いやそれ。ありえないから。仮にも最長老って位についてた方が本嫌いとか、ましてやカイヤール持ってないとか、ありえないから。象に鼻がついてないぐらい、蝶々に羽ついてないぐらい、ありえないから。
この人、絶対嘘ついてるな。というか。
「かつて導師試験の時、本を借りて読んだんですね、お師匠様!」
「うんまあな。ヤマ張ってさ、めぼしいやつを友人からとか、図書館からとか借りたわけよ。そうだな、図書室にあった本の方が役に立ったかもな」
うんうん。本や参考書を全然読まないで導師になるなんて、不可能だ。普段は読み書きもおぼつかなげな我が師も、やる時はやるんだ。
「図書室のは、一般書で小さくて隠しやすいんだよな」
……。
はい?
今、僕、なんか聞き間違えしたような。
……隠す?
「易しく書いてあっから、薄っぺらくて軽いしさあ。お腹に入れても全然目立たないからいいぞ。五冊とか余裕。『大陸おもしろ雑学集』とかマジおすすめ。あれ超面白いしいいぞー。絶対借りとけよ『大陸おもしろ雑学集』。大事なことだから、二度言ってやったからな? 覚えとけよ」
……お師匠様、それ……。
「そんでな、鏡を張るのよ。投影鏡。だって問答試験って、試験官と向かい合わせでくっちゃべるだろ? だから鏡つくって、相手には、真面目な顔でおめめぱちくりで座ってる自分を映して見せててさ。その鏡を盾にぺらぺら必死に本めくるわけ」
ち、ちょっと! なんで、カンニングするんだよ!
「え。だって、覚えるのめんどくさいじゃん」
というか。なんで『投影鏡』なんて超高等な韻律を、弟子の分際で唱えられるんだ? なんて器用で大胆なことするんだこの人は。しかも全然ばれないとかちょっと信じられない。我が師の魔力がべらぼうに高いのは把握してたけれど、弟子の時代にそんな長老レベルの韻律を悪用するとか、ほんと勘弁してほしい。
僕には絶対無理だ。何でそんな韻律、蒼き衣の弟子の分際で知ってたんだ?
「なんでって、そりゃあお師匠さまが」
まさか教えた? ど偉い最長老様が? カンニングの仕方を?!
「いやだから、投影鏡のやり方をさ。教えてくれたのよ。ある晩、目の前でやられて、簡単だろ? とか言われて、ほれやってみ? やってみ? って」
「……」
やってみ? て言われても、普通やれないと思うんだけど。
「俺、一発でできちゃったぞ? 超簡単だから、おまえもやってみ? えっと、投影鏡の韻律は、六韻律ヘクサメトロンでさー」
いやだから、やってみ? って……。
カンニングを奨める師匠がどこにいるんだよ! 恥を知れ!
「ざっと百行ぐらいあるけど、規則性あるから、一度聞いたら覚えられ……あれ? 弟子? 弟子どこ? おーい、弟子ー!」
我が師は全くあてにならないので、僕は優等生のリンに相談することにした。赤毛のトルがいなくなった今、彼女が僕と一番よく話す友人になっている。とはいえ、トルのようにいつもべったり、という密度ではない。ひとりで食事する僕を気遣って、たまに一緒に食べてくれたりするぐらいだ。
「カイヤールの初版本は写本版にはない章があるのですって。だから初版本はとても貴重なのです。たしかバルバトス様とアキネリウス様が揃えてらして、ことあるごとに自慢なさってます」
そういえば、全巻の価値、五十金とか言ってたな。お披露目の儀式の時、僕をほしがった誰か……そう、アキネリウス様が。
五十金って、広い農場十箇所ぐらい買い占められるぐらいだ。昔、僕の親の地主さんが、農場五金もするから買い取りたいけどちょっと無理、とかぼやいていたっけ。
せっかくだから、バルバトス様に初版本を借りてみようかな。黒髭の御方はトルの師。トルとずっと仲が良かった僕とは、浅からぬ縁がないこともない。トルがいたころは、結構話しかけてもらったこともある。我が師があんな感じでサボり魔だから、時々、トルと一緒に講義を聞かせてもらったり、ていうこともあった。ほんの、二、三回だけど。
というわけで、僕はバルバトス様にかけあってみた。
「カイヤールか。いいぞ。ただし手袋をはめて読んでくれ。そして試験が終わったらすぐ返すこと。私の弟子たちも常に読んでいるからな」
「ありがとうございます!」
黒髭の御方は快諾してくださり、カイヤール以外にも僕がリクエストした本を全部貸してくださった。さすがは長老様、太っ腹だ。
カイヤールの倫理学全十五巻とラステイネスの形而上学と、レリウスの年代記。
ラステイネスはカイヤールに次ぐ人気の天文学者だし、もし歴史学の研究をなさってる長老メシオドスさまが試験官だったら、絶対スメルニア大戦役のことを聞かれるはず。ここはしっかり、おさえておかねば。
僕はそれからその三作を一心不乱に読み込んだ。
倫理学はさすがに理解しがたい難解なものだったけど、それでもなんとか概要をつかみ、重要そうなところは丸暗記。形而上学も年代記もばっちり暗記。
よし、これで勝負をかける――!
そして問答試験当日。僕の目の前に座ったのは。
「えっと……よろしく、お願いします」
「うむ。私が貸した本は全部読んだのかね」
「はい!」
「それはえらいな」
試験官は、何の因果か、長老バルバトス様。黒髭の御方はにっこりなさり、さっそく問答を開始した。
「紅獅子は砂漠に生息するが、黄金牛の生息地は、如何に?」
「……」
「人間の血管をすべてつなげた長さは如何ほどか?」
「……」
「果物のアボガドの語源とは如何に?」
「……」
「大陸三大景勝地とは、如何に?」
「……」
「大陸七不思議のうち、三つをあげてみせよ」
「……」
バルバトス様は固まる僕の頭をぽんぽんと叩き。
「アスパシオンの。無理な背伸びはいかん。頭でっかちの愚者になろうぞ」
そうおっしゃって、僕にうすっぺらい本を一冊渡した。その本には、図書館の分類札がついている。
題名は、『大陸おもしろ雑学集』……。
「土台をちゃんと組んでから、上モノを建てないとな。君は、まず土台をしっかり作らないと。カイヤールは、それからだ」
『大陸おもしろ雑学集』。その本のページをめくると、いきなり黄金牛の絵と説明が。それから人体の不思議という項目や、大陸の三大景勝地や、七不思議が紹介されている。裏表紙の裏には、鉄筆でかわいいウサギの落書きがあった。幼い子供が書いたような下手うまな絵だ。
ウサギ? ウサギといえば我が師……って、あ。
おもしろ雑学……。……!? そういえば、この本は――!
『絶対借りとけよ『大陸おもしろ雑学集』。大事なことだから、二度言ってやったからな。覚えとけよ』
うああああああああああああああああああああああ!
「師に何を読めばいいか教えられなかったようだが、」
いえ……教えられ……まし……た。
「今度からは、師に出題範囲を聞いてみるといいぞ。アスパシオンは、かつて試験のヤマを見事に当てていたからな。まあ、視えるんだろうな。予知ってやつだ」
「……」
机にずぶずぶ沈んでいく僕を見て、バルバトス様はからからと朗らかにお笑いになられた。愛嬌のある、黒髭のお顔で。
次の日の夕方。僕は借していただいた本を返しに、バルバトス様の部屋を訪れた。岩をくりぬいた寺院の導師房はとても狭いのだけど、長老様たちの房は別格。バルバトス様の部屋には続き部屋がふたつもあり、ひとつは寝室。もうひとつは書庫になっている。
カイヤールを何とか暗記したというのに、問答試験は当然不合格。また三ヵ月後に再試験だ。今度は一般書も読み込まないと……。
「あれ? お留守かな……」
夕餉の後だから、確実にいらっしゃると思ったんだけど、黒髭の御方はご不在のようだ。僕は衣の袂から鉄筆と羊皮紙の欠片を出し、お礼の言葉を書きつけて、本の山と一緒に書庫にあるテーブルの上に置いた。
「うわ。なんか落ちた」
どっそりと本を置いた時、卓上に山と積まれた書類やら書簡やらを押しやってしまったようだ。慌てて紙切れを拾い上げる。卓上が雑然としすぎてるな。せっかくだからお礼の気持ちをこめて本を書庫にしまっていこう。
カイヤール全集の場所は十五冊ぶん空きがあるところ……ああ、そこか。岩をくりぬいて作られた書棚の右端。
一冊ずつ本を入れていく。しかし大判だから、背表紙がういてるな。もっと置くに入らないかしら。ぐいと本を押し込むと。ごとり、となにかが奥に押されて――
「え?!」
いきなりがばりと、目の前が開けた。
なにこれ。まずい。隠し金庫……みたいなもの? 小さなドーム型の空間がある。そこにあるのは、山と積まれた封書。
これはたぶん……み、密書だ。どうしよう。まずい。これ、どうやって閉じればいいんだ?
「あれ……この封書?」
うろたえる我が目に、とある封書の文字が飛び込んできた。
『アスパシオンの弟子 アスワドへ』
僕はおそるおそるその封書に手を伸ばした。それは間違いなく僕宛の手紙だった。
差出人は……トルナーテ・ビアンチェリ。メキドの女王になった、あの赤毛のトルからだ。でも、僕が貰った手紙とは、署名の形が全然違う。この少し尖った字はまさしく……
「トルの直筆だ」
胸がドキドキと不自然に鳴る。震える手で、周りの手紙も確かめてみる。それはなんと、半分以上が僕宛のものだった。他のものは優等生のリンや、他の仲良しだった子や、兄弟子たちに宛てたもの。そして。すべて開封済み……。
バルバトス様が手紙を止めている?
なぜ? どうして? なぜ手紙を、みんなに渡さない?
まさか、トルの手紙の内容は……。
僕宛のもので一番新しい日付のものを一通だけ、袂にしまいこむ。それから隠し金庫を閉じる。上の段にある本を押しこめばよいことがなんとかわかって、幸いだった。
本棚をいじったことがばれないように、借りた本はやはり卓の上に積み上げなおした。それでも……気づかれるかもしれない。
でも。いくら長老であり師である人の判断だからといって、トルからの手紙を見ないで放っておくなんて、できない。
僕は急いで、しかし足音を極力立てないように共同部屋へ戻り、寝床に飛び込んでかけ布をかぶった。暑い夜のこと、じわっと汗が噴き出すのも構わずに手紙を開けて広げてみる。手のひらに魔法の光をともして、淡い光を出しながら。
「トル……ああ……やっぱり」
嫌な予感は的中した。ほのかな明かりに浮かび上がった文字。トルは手紙の中で、いつも僕の顔を思い出す、と書いていた。
それから今は、籠の鳥だと。自分は城に閉じ込められたただのお飾り。周りの大臣たちがみんな勝手に決めていくと……。
『君からの手紙はまだ一度も来ない。でもアスワド、君はボクを忘れていないと信じている』
ぐっと手紙を握りしめる。
僕の手紙が届いてない? 何度も書いて出したのに。この前トルからようやく来た代筆の手紙にも、ちゃんと返事を書いたのに。バルバトス様に、ちゃんとお願いしたのに?
手紙を止めたのは。そしてあの一行だけのにせの手紙を書いたのは。黒髭のバルバトス様なのか? あんなに愛嬌のある笑みを浮かべる方が、なぜそんなことを? 寺院にいる僕らがトルの近況を知ったら心配するから?
わからない……わからない……。
トルは、悲鳴をあげていた。
彼女自身が書いた本当の手紙の中で、哀しげに訴えていた。
『アスワド、随分愚痴ってしまってごめん。でもボクは、ボクなりにがんばるよ。だから、君もがんばって』
……助けてくれ、と。
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