風編みの歌

風編みの歌1 お墓

 うっすら紅色に燃ゆる湖上に、小さな漁船が見える。

 夜明けの風を帆にはらみ、ゆっくりゆっくり、船着場に近づいてくる。

 船に乗っている漁師の名はメセフ。湖の向こうの小さな街に住んでおり、その父も、またその父も、寺院のために魚を獲ってきた。代替わりして間もない漁師はとても若くて、顎の髭もまだそんなに生えてない。

 船着場で待ち構える僕ら――蒼き衣の弟子たちは、メセフが広げる漁網にわらわらと手を伸ばして魚を獲り、ぴちぴち跳ねる魚を木の桶に入れ、調理場へ運ぶ。これが朝起きたらやらねばならない僕らの仕事だ。

 蒼き衣の僕らの食事は、魚。魚。魚。黒き衣のお師匠さまたちの食事も、魚。魚。魚。

 ゆえにお師匠さまたちは世の人々から、魚喰らいと呼ばれている。

「やっぱり魚、少ないな」

 桶を抱える赤毛のトルが、隣を歩く僕に囁いてくる。

「メセフの父さんなら、桶がいっぱいになるぐらい獲れてるはず」

「仕方ないよ。ひとりで漁をし始めて、まだ三月と経ってないんだし」

「そういえば、ボクらと同じぐらいの年だよね」

「十五? 十六?」

 トルは僕の問いにしばし考えてから答えた。

「たしか十六」

 ああ、同い年だっけ。ずいぶん体が大きくて日焼けしてて、年がいってるように見えるけど、きっと魚以外のものも食べてるからなんだろう。肉とか。肉とか。肉とか……。

 僕たちは魚の入った桶を調理場にいる弟子に渡した。魚の内臓を取り、塩をたっぷりかけて壷に保存するのは、僕らよりもっと年配の弟子たち。寺院には専属の料理人などいない。蒼き衣の弟子たちが修行の一環として、寺院におけるすべての家事や雑用、作業を行っている。掃除、洗濯、畑仕事。繕い物。油作りに道具作り。それから――。

「鐘が鳴った」

 トルは耳を澄まし、僕の背を押した。ごおんごおん、と鐘楼の鐘が朝の刻を告げている。

「風編みだ。お師さまの出迎えに行っておいでよ」

「うええ。やだなぁ。じゃあまたね、トル」

「食堂で待ってる」

「先に食べてていいって。給仕もあるんだし」

「いいや、待ってる」

 顔を見合わせてニッコリし合いながらいつもの会話を繰り返し。それから僕は走り出した。

 寺院の回廊を行くのは時間がかかる。露天の中庭を突っ切っていくと。

「う? なにあれ」

 夜明けの茜色の上空に黒い影が見えた。なんだかふわふわよれよれ……飛んでいる。

「ちょっとまて」

 カラスでもコウモリでも悪魔でも鉄の竜でもないけど……飛んでいる。

「おーう、弟子ぃー、ひゃほー。お空の散歩、気持ちいいぞーう」

 なんだか激しくこちらに手を振っている……。

「弟子ぃー、見えないのー?」

「いえ、見えてます! しっかり『見えて』ます!」

 叫んで答えるも僕の視線は地べた。今したいのは、他人のふり。というか。今見たものを即刻記憶から消去したいんだけど。黒い衣ってすそがふわっと広がってるんだよね。つまり下に居るやつには、その中味が……。おえっ。

「弟子もおいでえ」――「行けません! 浮遊の韻律知りませんっ」 

「勉強不足だなぁ」――「じゃあ教えてください!」 

「え。めんどくさ」

 あ。逃げた。なにあの必死な平泳ぎ。すごい退避速度。そんなに教えるのが嫌? 

 直接石舞台に行くつもりだな。でも間に合うのか?

「待合の間」に急ぐ。天井に四風神の壁画が描かれている薄暗い広間に、厳かな唱和が流れてきている。広間に隣接する石階段の上から漂ってくるものだ。


 湖上の風 

 空ゆく風

 ふきぬけるものよ、渦を成せ

 湖上の風 

 水ぬける風

 流れるものよ、殻を成せ


 それはたくさんの導師たちの、声の和合。

 低い声。高い声。穏やかな声。猛々しい声。一人ひとりの声が草の蔓のように絡み合い、ひとつの歌柱を作っている。その歌声が階段から流れ降りてきて、きらきら光りながら岩壁を這う。

 これは、言霊の結晶。音波振動に魔力がのっているものだ。

 階段の上には湖にせり出した岩舞台がある。そこで朝夕、黒き衣の導師たちが歌を編む。編まれる歌は、大いなる風と結界を生み出す。結界は、供物船やメセフの漁船以外のものをことごとく跳ね返し、僕たちの寺院を守ってくれる。だれも。何人も。寺院に入ってこれぬように。

 岩壁を這う音の結晶に手を伸ばすと。触れたとたんにそれは、ほのかにきらめきながら砕けて飛散した。

「ごきげんよう? アスパシオンの一番弟子さま?」

 背後から上品に挨拶され、僕はハッと手をひっこめた。ふりむけばヒアキントスのメノンが、訝しげな顔でこちらを探るように見ている。彼にはまだ、この歌声の光が見えないんだろう。

 メノンは黒き衣のヒアキントス様の三番弟子。寺院に来てまだ半年だ。僕と同期のレストの後輩で北五州のどこかの出身。師や兄弟子同様、目の冷めるような金髪。

「おはよう」

 僕は短く挨拶し返し、広間の隅に寄った。蒼き衣の弟子たちがぞくぞくと集まってくる。風編みを終えて舞台から降りてくる師を待ち、そのまま小食堂へと案内し、師の朝餉の給仕をするためだ。

 でも。僕と同期の子は、ずいぶん前から来なくなった。

 なぜなら出迎えも給仕も、一番年下の弟子の仕事とされてるからだ。同じ年に入った捧げ子の師たちは、みなさらに弟子を得ていて、出迎えはその子たちのお役目。

 でも我が師の弟子は、まだ僕ひとり。

 そして夜明け前に師をたたき起こしているのも僕ひとり。

 他の導師様はひとりでちゃんと起きられて、衣を羽織ってサンダルを履くのに我が師ときたら……。

「うわ。きた」

 突然目の前に、歌柱から外れた言霊がひょろひょろと枝分かれして伸びてきた。ちょっと歪んでてたどたどしい音が急に加わってきたのだ。この声の主は……。

「なんか音痴の人、いない?」

「いるいる、変な音まざってるよね」

 弟子たちがくすくす笑いながら囁きあう。僕は顔から火が出る思いで石階段を睨んだ。

 音程、外れまくり。でもなぜか一番輝きがある。その「規格外」の光は岩壁にあちこちぶつかり、光を飛散させながら、パッ、パッ、とまばゆく砕けていく。

 まぶしい……。というか。やっぱり大遅刻だよ。

 魔力はあるんだよね。だれよりも。でも協調性は、皆無。

 そう、これは我が師の歌声。僕の師、黒き衣のアスパシオンの輝く言霊。手の上に載せると、その光は虹色に弾けてぽわっとあたりに散った。まるできらめく星粒のように。





 風編みが終わって、導師様方がぞろぞろ石の階段を降りてこられるや。弟子たちは一斉に己が師を迎え、仲良く連れ立って広間を出て行った。しかしあの音痴な声の持ち主は、なかなか降りてこない。 首を伸ばしてしばらく階段を眺めていると、むっつり顔の最長老レクサリオン様の後ろから、ようやく我が師が降りてきた。ああ……のん気に大あくびをかましてる。

 渋顔の最長老様は、僕の方にまっすぐ歩いてきた。

「アスパシオンの。師を遅刻させるな。そして今日はちゃんと瞑想させるように」

「すみません!」

 反射的に低頭姿勢になる僕。

「風編みに重要なのは和合。飛び出る力は力とはならぬ。合わさらねば意味がない。瞑想は、魔力融合に必要不可欠の修行ぞ。午後になり次第、師を瞑想室に放り込むように。集中を削ぐものは何も持ち込ませぬよう、厳重に見張るのだ」

「はい。承知しました」

「弟子い、お腹すいたあ。食堂いくべ」

「アスパシオン! よいか、本日こそはちゃんと瞑想を――」

「なんか耳よく聞こえないなあ。弟子、俺、耳くそたまってるみたい。あとで耳掃除してえ」

「この、たわけがっ」

 あきれかえる最長老様が、なぜ弟子の僕に文句たれて指示を飛ばすのかというと。我が師はこんな調子でのらりくらり、僕以外のだれの言うこともまともに耳に入れないからだ。恐ろしい呪術の使い手、最長老レクサリオン様に対してさえこんな態度。本当に困ってる。

 小食堂への道すがら、僕は深い安堵のため息をついた。

「お説教されてたんですね。それだけで済んで良かったです。呪いをつけられたら、はがすの大変ですから」

「歌い終わるなり、爺さんがなんかゴネゴネ言ってきてさぁ。ヘタクソとか散々言われたわ」

「僕もお師匠さまの歌は、下手だと思いますよ」

「えっ……そう? そんなにヘタ? 視えない?」

「視えすぎです」

 太く野太い光の帯。太い幹の一部にならねばならないのに、もう一本幹を生やしてしまっては……

「なんだ視えてるならいいじゃん」

「よくないですって」

「それよりぺ――」

「はい?」

 ギッときつく睨みつける僕に我が師がハッと口をつぐむ。我が師が僕の名前を呼ぶのを、僕はある理由から固く禁じているんだけど。この人、すぐ忘れるんだよな。 

「……っとごめん! で、弟子」

「なんですか?」

「衣の裾、破れた」

「は?」

「岩にひっかかちゃって」

「……平らな岩舞台のどこに、ひっかかるところがあると? 急降下中に、岩に突き出た枝にひっかけたとか?」

「うんうん、そうそれ!」

 目を細めて我が師の黒い衣の裾を見やれば。ああ、縦に裂けてる。思いっきり。歩くと太もも丸見え。

「あの。衣ダメにするの一体何度目ですか? こないだハエをとるのに派手に光弾ぶっぱして飛び火して、燃やしたばっかりじゃないですか。配給部からもう支給停止って言われてるんですよ?」

「わかってるって。だからさ、縫い縫いしてよ。でも色っぽいなこれ。そういやみんな、俺の白くてほそーい足にみとれてたわ」

 導師の皆様は、ただあきれてただけだろうな。いや、見せ付けなくていいから。スネ毛ぼうぼう大根足なんか見たくないから。早くしまえ。

「食事のあとすぐ繕います。食べ終わったら部屋で待っててください。それまでは、腰に毛布でも巻いててください」

「ねえねえ、このまんまでさ、食堂でみんなを誘惑しちゃだめ?」

「だめです。みなさまから呪いを飛ばされます。ていうか、食堂から追い出されます。自重して下さい」






 風編みが終わると、導師様方は壁画の描かれた小食堂に入られ、朝餉をお摂りになられる。

 席は序列順。七人の長老さまは、上座の横一列の席にずらり。普通の導師様方は、それに向かい合う四列の長い食卓に序列通りにお座りになられる。

 しかし序列が下から数十番目ぐらいの導師様は、すぐ席につくことはできない。導師の数総勢百人強に対し、据え付けの席は七十しかないからだ。下位の方々は廊下で談笑しながら、下座の席が空くのをお待ちになる。

 導師様の数が席の数を超えたのは、十年ほど前。ごくごく最近のこと。岩を穿って造る寺院の部屋は簡単には拡張できぬゆえ、下位の方々に負担がかかっている状態だ。

 そんなわけで我が師はしばらく廊下で待ったあと、下座側の入り口そばの、一番はじっこの席に座る。万年指定席。そう、いまだに序列は一番下のまま。

 昨年と一昨年、二人の弟子が新しく導師になるも、二人ともあっという間に弟子を二人お持ちになったので、我が師より上位になってしまわれた。

 寺院では、弟子の数が年齢よりも物を言うのだ。

 それにしても今朝の給仕は忙しかった。僕は急いで師の部屋から毛布をとってきて我が師に巻きつけ、朝餉にありつくまでヒマな我が師のストリップ劇場をなんとか阻止(ほんとにやる気だったらしい)。やっとこ空いたいつもの席に座らせ、杯に水を注いだり魚の皿を置いてやったり。

「くちゃくちゃ音立てないでくださいっ」

「へいへい」

「なんでお椀伏せるんですかっ。遊ばないでっ」

「へいへい」

 我が師への給仕が済んだあと。調理場から自分の朝餉をもらって、急いで大食堂へ。

 供物のパンと塩漬けの魚。朝餉はそれだけ。もっといろんなもの食べたいんだけどね。肉とか、肉とか、肉とか……。でも、肉はご法度。魔力が落ちる。

 大食堂は、寺院で一番大きく広い部屋。ここで蒼き衣の弟子たちが朝夕の食事をする。

 縦にずらっと並ぶ長い長い食卓が四本。席順は師の序列や交友関係が反映される。よって僕はいつも、末席で食事をするんだけど。

「アスワド!」

 赤毛のトルが手を振ってる。僕がいつも座る席の向かいに座って。長老の弟子なのに、わざわざ僕のために下座に座ってくれている。僕は親友を満面の笑みで眺め、手を振り返す。

 トル。いつもありがとう。大好きだ。

「アスワド、食べよう」

「うん。待っててくれてありがと」

 僕らがこの寺院に来て、あっという間に六年。

 僕は大人の口調を覚え、トルはすっかり共通語が流暢になった。彼女は僕を黒髪の子アスワド、と母国語の愛称で呼んでくれる。僕が本名で呼ばれるのを、ひどく嫌がってるからだ。

 できれば、他のみんなにもそう呼ばれたいところだが……。

「おう。ペペ様は今からお食事か? 遅いな」

「遅いお給仕ごくろうさまね、ペペちゃん」

 わざわざ上座の方から、食事を終えた金髪のレストと黒肌のラウがやって来る。レストは僕の頭をぽんと叩いて、ラウは思わせぶりな艶やかな視線を投げて、下座の出口から出て行った。あの二人はいつもつるんでいて、いまだに僕の名前を蔑んでくる。もういいかげん慣れっこだけどね。

「アスパシオンの。これ、今日の分です」

 食卓の中ほどから白い肌のリンが席を立って、油紙にくるんだ花束をすっと僕の皿の近くに置いてきた。リンは導師様のように、「アスパシオンの」と、大人びた呼び方で呼んでくる。誰に対してもそう。トルは「バルバトスの」と呼ばれてる。

 リンの背丈は十歳の時とあまり変わらない。長寿のメニスの血が入っていると、人よりも成長が遅くなるんだそうだ。 

「いつもありがとうリン。今日のは、レンゲ?」

「うちのお師様、今夏はそればかり育てるおつもりよ。裏庭でミツバチを飼うんですって」

「蜜を採るの?」

「薬には、何かと必要ですから。供物でいただくだけでは全然足りないので、ついに自家製にふみきるそうです」

 リンの師のメディキウム様は薬学に長けておられるお方。さまざまな薬を手ずから作られる。専用の薬草畑を裏庭に持っていて、リンは毎朝、そこに咲いてる花を少し分けてくれる。

トルと楽しく話しながら朝餉を終えると、僕はそのレンゲの花束を持って一人で中庭へ向かった。トリやヤギのいる家畜小屋の真後ろに、こんもり盛り土がしてある。そこには、消えかけたつたない字が書かれた棒が一本。


『ぺぺのおはか』


 ここに眠っているものこそ、僕が自分の名を嫌う元凶。


 ウサギのペペ。


 先代最長老の使い魔にして、我が師がかつて世話していた動物……。

 師曰く、ここに毎朝お参りするのが、「アスパシオンの弟子」の最優先の務めなんだそうだ。毎日お参りした証拠に、墓碑にお花を捧げないとといけない。師は毎日厳しくチェックしており、もしサボれば烈火のごとく怒って尻を叩いてくる。

「おまえの前世の亡骸が眠ってるんだからぁ! ちゃんとお参りしなきゃダメえっ」

 かく言う我が師は毎夕、ぱんぱんと手を打って墓に向かって真剣に祈る。他のことは全部すべからく完璧にだらしないというのに、なぜか「ウサギのぺぺ」に関してだけは、うんざりするぐらい几帳面で本気で真剣。なぜか……

 命を賭けている。

 弟子になって六年経つが、いまだに僕は我が師の思考回路がよくわからない。ウサギと師の間に何があったかも。師は今だかつて、そのことを詳しく語ってくれたことがないからだ。いつものらーりくらり、聞かれてもふざけてかわす。たぶんそれはそれは哀しい思い出で、語りたくないもの……なんだろうか?

 リンからもらったレンゲを供え。手を合わせ。

「ペペの魂が安らかならんことを」

 さあこれで朝の務めが終わったと立ち上がった時。

――「それで、出目は?」

 家畜小屋の前から、冷ややかな声が聞こえてきた。まるで氷の刃のよう。この声は、レストの師のヒアキントス様?

「3と5が出た」

 ぶっきらぼうに誰かが答えている。この声は……トルの師、長老バルバトス様だ。僕はとっさに家畜小屋の影に身を隠した。

「ふむ。それは微妙ですね」

「であろう?はっきり1と1とか、6と6とか、出るものだと思っていたのだが」

「白黒おつけになりたいお気持ちはよく分かりますが」

 ヒアキントス様が、黒髭のバルバトス様に何かアドバイスをしているようだ。出目とは、サイコロの数字のこと? とすると、何かの遊戯の話?

「たしかにこのような件に関しては、灰色の結果が出ることが多いのですよ」

「はっきり決め手がほしいのだがな……この方法がだめだとすると」

 バルバトス様はなんだかとてもイライラされているご様子。

「もう一手、試されてみますか? 投じ方を変えれば、別の結果が出てきましょう」

「ふむ。仕方ない、そうするか。では、手配を頼む」

「御意に」 

 黒き衣のお二人がその場からいなくなるまで、僕は息を潜めていた。なんだか今出て行くのはまずいと直感したからだ。

 二人は中庭から回廊に入ると、ついと反対方向に離れた。振り返らずにすたすたと、北と南の階段をそれぞれ昇っていく。つい今しがた親しく話していた素振りなど、露ほども見せずに。

「変なの。なんの遊びの話だろ」

 導師様方は遊戯室で時折すごろくなどたしなまれておられる。その時の話?

 首をかしげながら、僕は三階の師の部屋へ走った。我が師の破れた衣の裾を直しに。

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