黒の章

序歌

序歌1 白綿蟲(しらわたむし)

 隣の家のテレイスが子守唄を歌っている。

 小さな妹をおんぶして。隣の畑で、麦の穂先を一所懸命拾いながら。


 空よ わたしは飛んでいく

 綿虫になって飛んでいく

 十の年のお迎えに

 お船にのって飛んでいく


 およそ子守唄って歌詞じゃない。でもテレイスは、いつもその歌しか歌わない。

 歌は、それしか知らないからだ。テレイスは僕と同じ十歳の女の子。学校に行ってなくて、毎日子守りをしながら畑で働いてる。親は、地主さんに雇われてる小作人。

 だから、なんにも知らない。

「こら! さぼるんじゃないよ」

 歌うテレイスにぼうっと見とれていたら、母さんに頭をはたかれた。今日の母さんは、なんだか朝から機嫌が悪い。パンがこげてたし、お茶はとっても苦かった。今日は蒸し暑くってかなわないって、ぶうぶうぼやいて畑に出たんだ。

「はたらかざるもの、食うべからずさ。ほら、さっさと刈り取りな」

 母さんは大きなお尻をこっちに向けて、ざっくざっくと麦を刈っていく。ふうふう言って額の汗をふきながら。

 僕の両親も地主さんの小作人。兄弟は五人いる。父さんは今、上の兄さん二人と街に行商に行っている。下の兄さん二人と末っ子の僕は、母さんと一緒に朝から畑に出ずっぱりだ。

 僕の家もテレイスと同じで、学校に行けるほど豊かじゃない。

 だから僕も、なんにも知らない。テレイスが歌う歌以外。


 空よ 私は飛んでいく

 綿虫になって飛んでいく


 テレイスの歌声が風に乗って舞いあがる。透きとおった音がふわふわと、蒼い空を昇っていく。


 十の年のお迎えに

 お船にのって飛んでいく……


 声に釣られて空を見上げると。ふわりと白いものが落ちてきた。

 手をさしのべて受け止めてみたら、それは真っ白い綿のような羽蟲はむしだった。

「ああ、蟲が降ってきた。つもったら脱穀が大変になるよ。急がないと」

 母さんがさっきよりも倍ぐらいの早さで腕を動かし始めた。僕も我に返って、一所懸命鎌を動かした。母さんの言う通り、今日はいやに蒸し暑い。顔からぽろぽろ汗が落ちてきて、体中汗だくになってきた。


 ふわふわ ふわふわ。


 白綿蟲がどんどん降ってくる。ああ、夏が来ちゃったか……。

 蟲がつもれば、農作業は大変になる。急いで刈り取らないと。


 ふわふわ ふわふわ。 


「うわっ、口の中に入っちゃった」

 白綿蟲はどんどんどんどん降ってくる。雪のように降ってくる。

 風に乗って吹き荒れる様は吹雪のよう。蟲たちは、あっという間に黄金色の畑を白く染めた。

 突然。

 隣の畑で、テレイスがきゃあと短く声をあげた。

「な、なにあれ?」

 テレイスは震えてあぜ道を指差した。彼女の指の先に視線を向けた僕は、びくっと慄いた。

 白いふわふわの蟲たちの降る中で。真っ白な蟲の吹雪の中で。

 黒い衣を来た老人がひとり杖を持って立っていて、じいっと僕らの畑を見つめていた。


 まるで、死神のように――。


 白くてふわふわの羽蟲はむしが降りしきる中。

 あぜ道に立つ黒い人を見て、母さんが吐きだすように言った。

「また魚喰らいが来たかね」

 魚喰らい。湖の向こうの寺院に住んでいる魔法使いたちのことを、僕の村の人たちはそう呼んでいる。

 黒い衣の彼らは、湖の魚ばっかり食べて暮らしているからだ。普段は寺院に篭っていてめったに姿を見せないけれど、なぜか夏が近づくと姿を見せる、不思議な人たち。

 僕はまじまじとあぜ道の老人をながめた。

 ものすごくやせていて、彫りの深い長い顔には数えられないぐらいの皺。木の杖はよく見ると、すごく細かい模様の彫刻がびっしり。黒い衣の裾や袖口がきらっと光っていて、金色の縁取りがしてあるんだと分かる。たぶん金糸の刺繍だろう。すごいな。はじめて見たかも。なんだか、とっても偉い人みたい。

「なんで来たね!」

 でも母さんはその偉そうな人に、なんとぶるんぶるん鎌を振り回しながらざっざと近づいていった。鬼のような母さんの振る舞いに、僕は度肝を抜かれた。

「あんたにやるもんはないよ!」

 杖持つ黒い衣の老人は、母さんの剣幕に表情ひとつ変えない。心なしか、その澄んだ蒼い瞳はテレイスをとらえている気がする。

「十になったはずだが」

 ぽそりと老人が言うのが聞こえた。

「まだ九つだよ!」

 すかさず母さんが畳みかけるように返して、脅すように鎌を振り上げた。

「仕事の邪魔さね。さあ、もう行っとくれ」

「だが、約束したはず。十になったらまた来ると」

「だからまだ、九つだって」

 だれがまだ九つ? 約束って、なに? 十歳だと何か都合が悪いの? また来るって、前にも来たことがあるの?

 そういえば、テレイスは僕と同じ十歳だ。黒衣の老人の視線の先を見て、僕の心はとたんに不安に見舞われた。杖をとんとついて老人が隣の畑に入ったので、僕の心配は一気にふくらんだ。老人はさくさく進む。その歩みの先には――妹をおんぶしている、かわいい少女。

 もしかして。もしかして。

(この人、テレイスをどこかに連れていくつもり?!)

「テレイス! あぶないっ」

 気がつけば。僕の体は跳ね飛んで、幼なじみのもとへ駆けていた。

 黒衣の老人が杖を掲げて、テレイスに向かって呪文をぶつぶつ唱えだす。

 とたんに。

 老人の周りの空気が、なんだかがらりと変わったような気がした。そこだけ、白い羽蟲はむしがひどくゆっくり落ちている。まるで時間の流れが変わってしまったように。

(大変だ! テレイスになにかされる!)

 僕は迷わず変な空間の中に飛び込んで、相手のちょっと丸まった背中に思いっきり飛びついた。老人は一瞬呪文を途切れさせたけれど、すぐに僕を振り払い、またぶつぶつ唱えだした。あたりに降りている変な空気がますます濃くなっていく。テレイスは恐怖のあまり真っ青な顔で硬直していて、動けない。

「あ……!」

 その場にしりもちをついた僕は、あきらめず老人にとびかかろうして。そしてハッと動きを止めた。

 なんと……何百何千と降ってきていた羽蟲はむしが、完全にぴたりと空中で止まっている……。

 不意に。テレイスがおぶっている赤子の妹から、ふわっと何かが飛んでいった。その場に尻もちをついた僕の目に、それは黒い影になって映った。

(今のは、なに?!)

 影が飛んでいったとたん、あたりに降りていた変な空気がふっと消えた。羽蟲はむしたちがまた普通に降ってくる。

「今の……は? なんかの、呪いなの?」

「呪い? まさか」

 黒い衣の老人は肩をすくめて、息を呑む僕に手を貸して立たせてくれた。

「赤ん坊の病の気を払っただけだ」

 えっ、とテレイスがびっくりした顔で老人を見上げる。

「黒い邪気が赤子の内に視えたのでな。追い払ってやったのだ。放っておけば、高熱を出して死んだだろう」

 そういえばテレイスがおんぶしてる妹は、朝からずうっと泣いていた。具合が悪かったせいだったのか……。

「さて」

 老人は僕の腕をつかんで、ぐいと引っ張った。

「行こうか」

「え?」

「魚喰らい! うちの子はまだ九つだっていっただろ!」

 母さんが鎌をふりかざして走り寄ってくる。

 黒い衣の老人は表情を変えずにぼそりと言い放った。

「嘘を言うな。父親の許可はとった。昨夜街で会ったぞ」

 とたんに母さんは老人の目の前で固まって、哀しい目で僕を見た。

「嘘だろ? うちの人に会ったなんて」

「その記憶をここで見せてやってもよいが?」

 老人が言うなり、その差し出された手のひらの上にぽうと光が浮かび。小さな幻が現れた。

 その光の玉の中には……


「父さん?」


 まちがいない。街に行商に行ってる僕の父さんだ。酒場かどこかにいるんだろうか、ぐでんぐでんに酔っ払った父さんが、兄さんたちに抱えられて介抱されながらなにか喚いている。その三人の姿が、小さく小さく、幻の玉の中に映っている。

 玉の中から、父さんの声がびんびん響いてきた。

『今年も来たのかあ? 何度目だ? 三度目? まいどごくろうさん! あーあー、そんな面で睨むなよ、そんなにほしけりゃあ、くれてやるよ。三度も来られちゃなあ』

 兄さんたちが父さんに抗議する声も聞こえてきたけれど。父さんはガハハハと笑っていた。

『連れてけ、連れてけ。ま、食い扶持が減って助からあな』

 母さんが震えながら鎌を地に落とした。畑の奥にいたテレイスのお母さんが駆け寄ってきて、慰めるように母さんの肩を抱く。

 そして僕は。ぐいと、黒い衣の老人に腕を引っ張られた。

「では、行くぞ」

「ま、待っとくれよ、せめてこの子に、旅支度を……」

「なにもいらぬ」

 うろたえる母さんにぴしゃりと言って、黒い衣の老人は石のように固まっている僕をずるずる引っ張った。降りしきる白綿蟲しらわたむしが真っ白に彩るあぜ道に、僕は茫然とよたよた足を出した。

「これから街へ行く。そこで儀式を執り行うて船に乗る」

 ぎっちりと僕の腕を握る黒い衣の老人が、なんだかいろいろ言ってきたけれど。僕の頭の中は真っ白。蟲が降り積もったあたりの景色と同じように、ただただ真っ白……。ただテレイスの今にも泣きそうな顔だけが、僕の脳裏に焼きついた。


 まだこの時。僕は何も知らなかった。 

 その記憶に焼きついた顔が、僕が見た最後の、「元気なテレイス」の顔になることを。

 まさかテレイスに会えなくなるなんて……。

 僕にはまったく、予知できなかった。

 この時は、まだ。

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