しろがねの歌6 魔女
『うぐ……はぁはぁ。はぁはぁ……』
えづくぐらい、息が苦しい。
暗い暗い森の中を、僕は逃げる。ひたすら走って、走って、走って、逃げる。
目指すは北の、金獅子州。
トルのところに戻るんだ。リンや兄弟子さまだって、きっと僕との再会を喜んでくれる。
あそこには、冷凍保存された僕の体だってある……。
ともかく逃げるんだ。
この身を、城から離してしまえば。
この城の敷地から抜け出られれば、きっと――。
『トル……トル……きっといく、から!』
ひたすら走る。着の身着のまま。我が師の黒き衣だけを抱えて。
暗い暗い森の中を、あの「魔女」から、逃げるために。
ああ、目の前にかすかに、光がみえる。森の出口だ。
みるみる近づいてくる。
ここを抜ければ、城の領域から出られる。
馬か馬車か、何か乗り物を拾って、一気に国境まで――
『だめよ、お・に・い・さ・ま』
『ううう?!』
魔女、だ。黒い髪の。銀色のドレスの。にっこり笑う綺麗なひと。
どうして?
後ろから追ってきてたはずなのに、どうして――
『お城から、出てはだめ――』
『いやだ! 出してくれ!』
腕をつかまれる。
つる草のようなものがわさわさと両方から伸びてきて、森の出口が閉じていく。
『出してくれ!』
僕は、叫ぶ。
『出してくれ! いかないと、いけないんだ!』
叫ぶ。
『出してくれ!!』
叫ぶ……。
「うぐうううう……!」
「あらお兄さま。お目覚めになったの? まぁ、汗びっしょり」
やわらかな声が降ってきた。まぶたを開ければ、魔女が……いや、我が師の妹さんの顔がどんと目に入ってくる。
妹さんは、お湯でしぼった布で僕の額を拭ってくれた……。
「こんなにうなされて、かわいそうに」
「う……うぐ……」
声が出ない。喉がつぶれているからだ。
僕の体は、銀色の天蓋の下。豪奢な寝台に埋没中。
今の夢は……半分本当だ。僕は本当に一度、逃げ出したのだ。
この、魔女が支配する恐ろしい城から。
出立の時飲まされた黄金ショコラには、えたいのしれない薬が入れられていた。
丸三日、僕の手足はショコラのようにべっとり溶けて、ベッドの上で微動だにできなかった。
妹さんは、実にかいがいしく介抱してくれたのだが。
『うふふ。おにいさま。だめよ』
そのきらきらした瞳は、きらめきすぎて大きすぎて。
完全に不気味なものにしか、見えなかった。
なぜなら妹さんこそが……
『もう出て行ってはだめよ? 逃げようとしたらまた、お仕置きしますからね』
薬を盛った張本人だったからだ――。
『密偵が金獅子州の州都から詳しい情報を持ってきましたわ。戦は、デマですって。都の一角を、陽動で火事にした連中がいたそうですわ。その騒ぎに乗じて、金獅子州公の離宮に囚われていたメキドの女王陛下が、手勢を率いて州都から逃げたそうよ。
どうやら女王陛下は、金獅子州の敵になったみたい。とっても残念ね、お兄さま』
わずかに首を傾げられて言われた時の、にっこり顔のこわさといったら……思い出すだけでおしっこちびりそうになる。
まったく悪びれることなく隠すそぶりもなく無邪気に語るのは、僕が実の兄であることもさることながら、喉をつぶされ誰にも打ち明けられないからだろう。
そう、盛られた薬はご丁寧に声を消す効能つきだ。
おかげで韻律を唱えられないというやばい状況ながらも、体がなんとか動くまで回復したとき、僕は妹さんの隙をついた。
念のための保険をかけ、後生大事に『宵の王』の封印箱と我が師の黒き衣をつっこんだ鞄を抱え。よろめく足で、城を抜け出した。
城の敷地は、ばかみたいに広かった。不自由な足ではいくらも進まず、厩までの距離は、まるで地の果てのよう。それでも馬に乗ってしまえばなんとかなる……と、厩の扉に手をかけたところで。
『代理人どの。大丈夫でございますか!』
『体がけいれんしておられる。今すぐ、お城へお戻りを!』
あえなく、衛兵たちに保護された……。
『奥様! みつかりましたぞ!』
ほかでもない、それは妹さんが放った追っ手だった。
『助かりましたわ、みなさん。おかげでご病気のお兄さまを、お止めすることができました。安静にしていないといけないのに、ご無理をなさるんですもの、心配でたまりませんわ。さあ、お礼の銀棒です。どうかお受け取りになって』
『奥様……兄上さまは本当に、感心な方でございますな。かような状態であられるのに、白鷹のために、戦火燃える金獅子州へ行こうとされるとは』
『ありがとう、衛兵長さん。どうかお兄さまを、お部屋へ運んでくださいな』
『御意にございます』
妹さんが亡き旦那さんから受け取った遺産は、白鷹州公に搾取されてもなお、莫大に残っている。でも、彼女の最大の武器は、物品やお金じゃない。
ぎゅっと手を握ったり、かわいらしく微笑んだり。
妹さんは、女性たるものの魅力を最大限にふりまいていた……。
――『あの女は魔女だぞ』
金髪のゴランスン卿の言葉が脳裏によみがえる。
そうかもしれない。
まさしくそうかもしれない。
「あう……うああ……うああ……!」
「あら、おなかがすいたのね? ショコラをどうぞ、お兄さま」
「うぁああ!」
「だめよ。吐き出さないでのみこんで。これはお薬なのよ」
水差しのような器でどくどくと、甘い液体が口の中に流し込まれてくる。
はじめ飲まされたものと、同じものだ。手足の自由をうばい、ろれつが回らなくなる薬。
もう……絶体絶命。
しかしかろうじて、保険は発動してくれている。
「今朝方、第二宰相がお兄さまの代わりに「宵の王」の封印箱を携えて、金獅子州へと向かいましたわ。お兄さまったら、私の目を盗んで首尾よくやりましたのね」
うん。隙をついて城を逃げ出したときに、急いで令状を書いていったんだ。
僕に何かあった場合は、第二宰相が。彼に何かあった場合は第三宰相が。
「宵の王」と、事情をしたためた僕の親書とを、金獅子州に届けよと。
親書の内容は、トルを擁護するものだ。
短い時間でそうできたのは、われながら奇跡だと思う。
「まあ、お兄さまがここにおられるというだけで、よしとしますわ」
にっこりのたまう妹さんは、白鷹の城内をひそかに不気味に侵食している。
その触手が、廷臣たちに伸びないことを願うばかりだ。
妹さんは基本僕にべったりだが、週の半分くらい、晩餐から朝までは、小天幕の中にずっと入っている。「病」にかかっている白鷹州公を、夜通し「看病」しているのだけど。
「ああ眠い。二人も病人を抱えるなんて、大変だこと」
朝に僕のもとに戻ってくる妹さんは、あくびをかみ殺しながら、実に楽しげに語る。
自分の父親が、いかにぶざまな生き物に成り果てたかを……。
「うふふ。あのねお兄さま、お父さまはもう、人前には決して出られないご容姿になっていますのよ。だから毎日、薬が入ったショコラを飲ませないといけませんの。少しでも、ご容態が良くなるようにね」
白鷹州公の病は。その原因は。
たぶん、僕と、同じ……。
「侍医の方がね、おいしいショコラを飲んだあとに、公文書にそのひどい病の見立てを書いてくださいましたのよ。城の外で作った女の病気が移ったものだって。だから公妃さまは今は少しも、お父様に近づきませんわ。だってさわると、体中に生えてるこぶが移ってしまいますもの」
でも私は、お父様を見捨てませんわ――。
妹さんは微笑みながらそう囁く。
うっとり夢見るような顔で。けなげな娘、という雰囲気を放ちながら語る。
「だって私のお父様ですもの。ちゃんと、親孝行しなくてはね」
星見の時に小天幕からかいまみえたものは、見間違いじゃなかったようだ。
天幕の隙間から見えたのは、うごめく赤いこぶの塊のようなもの。
あのとき。少しも動けず、苦しそうにうめくその肉塊に、妹さんは無理やり茶色い液体を流し込んでいた……
「ふふふ。ショコラは栄養たっぷり。とくにファラディア産のが、濃厚で味がよろしいですわ。いろんなものを、まぜやすいんですのよ」
閣議の資料で知ったけれど。
ショコラを扱う最大手は、妹さんの亡き旦那さんの貿易商会だ。現在、旦那さんの甥がその経営を担っているけれども。
「お兄さま、今日はね、甥のセルゲイが城に来ましたの。ごらんになって、あの人、スメルニアの真珠をくださったのよ。溶かして飲むと美容にいいんですって。この前肌によいと、サイの角をくださったばかりなのに。ふふふ、あの人ったら、次から次へとほんとにいろんなものを持ってきてくれるんですのよ」
美しいアリージュワルド。
旦那さんの甥も、きっとその魅力にとらわれているのだろう。
商会は実にさまざまなものを取り扱っている。妹さんはつまり、嫁ぎ先からいろんなものを手に入れられる。
ヒスイの遊戯盤から、怪しい薬まで。本当に、なにからなにまで――
「おかわいそうなお父様。そしておかわいそうなお兄さま。でも、大丈夫ですわ。私が、ずっとそばにおりますからね」
病の父をかいがいしく看病する娘。
倒れた兄を介抱する妹。
はた目には、そう見える。まるで聖女のように、この人は映る。
妹さんは今日も微笑む。きらきらした大きな目を細めて、優しくにっこり微笑む。
「だからもう二度と、このお城から出てはいけませんわ。お兄さま」
抵抗すれば薬入りのショコラを流し込まれる――
そう悟った僕は極力従順にして、相手を刺激しないようにした。
なんとか笑顔を見せるだけにしていたら、数日後、ショコラに別の薬を混ぜられるようになった。
声だけを潰す薬だ。どうやら逃げ出す意志をなくしたと、判断してくれたらしい。
これで手足はなんとか動くようになったが、足は寝台に鎖で繫がれて部屋からは出られない。口を封じられては韻律を使うことができず、水晶玉でスポンシオン様と連絡をとるのは無理だ。
妹さんが部屋をあけた夜。それでもあきらめきれずに水晶玉を出し、韻律を唱えようとうめいていたら。
ほのかに、玉が光った。
「う、う、う、う……!」
『ハヤート』
頭頂まぶしいあの人の声が、玉からかすかに漏れてきたとき。
僕は思わず泣き出しそうになった。
『そこにワルドはいますかな?』
「うう……う……う……」
『いないようですな。では、腹を割って話しましょうぞ。そなたは、城にとどめられているのですな? ぺぺくん』
「う……う……!」
『むう。声をやられておるのですか。かわいそうに……。あたらしく金獅子州の後見となった導師から、「宵の王」が白鷹州公から贈られたと聞きましてな。そなたの仕業とみましたが、そなた自身はワルドにとらえられましたな?』
「ううう……!」
これは罰かもしれない。
スポンシオン様に前もって相談していたら、妹さんに注意しろ、ぐらいの警告はもらえたかもしれない……
『できれば白鷹の城でおとなしく、ワルドに笑顔を与えて続けてほしいところですがのぅ……』
「うううう!」
『もう知っておるでしょうが、あの子は心がこわれておるのです。幼いころに母を失い、たよりにしていた兄を寺院にとられ、幼くして嫁がされた。その嫁ぎ先で、かなり苦労したようでしてな……』
豪商であった旦那さんは、妹さんに表立ってひどい扱いはしなかった。
ちゃんと奥さんとして扱ったという。
ちゃんと、一人前の妻として――。
『だから、こわれてしまったのでしょうなぁ……幼いからだには耐えられぬことをされたゆえに。純潔のまま出戻ったと私が公言せなんだら、あの子は首をくくって死んでいたでしょうな……』
スポンシオンさまの憂い声に、僕は息を呑んだ。
成人前に、むりやり「夫婦」になることを強要された?
そ、それは……僕には……とても想像できない領域の話だ。
『ゆえにワルドは、自身を老人にくれてやった父君を、それはそれは恨んでおるのです。我が子を獣に捧げたも同然の兄上は、自業自得。相応の罰を受けるがよろしい。しかしそなたは……』
ほわほわと、水晶玉が暖かく光った。
『そなたは、ハヤートではありませんからな。実のところ正体を明かすのが一番かもしれぬが』
でもそんなことをしたら。こわれているあの人は……。
『しかしそれでは、あの子の笑顔が消えてしまいますなぁ。
よろしい、なんとかしましょうぞ。しかし私はこの寺院で、ヒアキントス殿の陰謀をかわすので手一杯。私自身は動けぬゆえ、使い魔を送りましょう。しばし耐えて待っていなさい』
天の助けが降ってきた……!
もう、スポンシオン様には足を向けて寝られない。
そう思った矢先――。
『その代わり』
スポンシオン様は、究極の選択をつきつけてきた。
『正式に私の弟子になってくれますかな? ぺぺくん』
「う……」
『いやいや。無理強いはするまい。しかし考えておいてくだされ、虹色の魂の子よ。そなたには本当に、惜しいぐらいの才があるのですぞ』
三日後の夜。妹さんが父上のもとにいってしばらく経った時。
それは、開け放たれた宵の窓からさあっと飛び込んできた。
やってきたのはかなり大きな頭の白い鳥。
まさに白鷹の家に仕えるにふさわしい、威風堂々とした鷹だった。
鷹は僕の寝台の象牙の枠に止まり、声高らかに言祝いだ。
『かがやけ! はばたけ! アリョルビエール! アリョアリョ・アリョル・ビエールぅ!』
その姿を見るなり全身に震えが走ったのは、鷹に変じたヒアキントス様のことを思い出したからだろう。
銀のかごから逃げたウサギの僕を追いかけたとき、なぜに氷結の御方が鷹に変じたか、目の前にいるものをみれば一目瞭然。あの御方は、スポンシオン様の使い魔に変身したのだ。
おのれに嫌疑がかからぬようにし、他の州公家に罪をなすりつけるためのやり口といったところだろうか。
まったく、僕が後見代理なんてほんとに無理な話だ。
周到なあの人と対等の地位でやり合うなんて、絶対不可能だと思う。
『ごっきげんよう、白鷹の御曹司』
「うぐ……う……」
『わたしのことは、ビオレグラーヴァ・グレイシャスクリリエとお呼びなさい』
つんと張るハト胸の盛り上がりようがすごい。
相手はこんなに張り切って元気まんまんだけど、僕はといえば、夕方妹さんが出て行く前にたっぷりショコラを飲まされて、意識もうろう。ショコラなんてみたくもないぐらい、めっさ気持ちわるくて最悪な気分。
鷹はぎょろりと首を傾げた。
『ふん。口がきけないのかね? とりあえず、我が君の仰せにしたがい、君を助けよう。私のしもべが、アリョルビエールのところに君をかくまうぞ』
こっほんと鷹は咳払いして、僕の足の鎖の上に飛び降りる。
『ふん。韻律もなにもかけられていないのに、外せないとは情けない。口封じされたときの対処法を、日ごろから準備しておくべきだな、御曹司』
なんか、ものすごくまっとうなことを突っ込んでくる鳥だ。
ていうかこれ、すごく賢くないか? 普通にしゃべってるし。
『しもべよ、きたれ!』
おごそかな命令と同時に、部屋の扉から、鳥の下僕なるものが入ってきた。きょろきょろ辺りをうかがいながら身をかがめて入ってきたのは……
「ううう?!」
金髪頭のおじさん。ほかでもない、あの剣山伯ゴランスン卿だった。
「ほう……魔女は、父上のところでお楽しみか?」
『そのようだ。さあしもべよ、この鎖を外して、君の弟を背負うのだ』
「了解、とりさん」
『こら。とりさんではないっ。ビオレグラーヴァ・グレイシャスクリリエと呼べと、日ごろから何べんも教えているだろうっ』
「ながたらしくて覚えられん」
ゴランスン卿は目を見開く僕の足首をつかみ、にやりと不適な笑みを投げてきた。
「よう、ナッセルハヤート。どうやら俺は、おまえの救世主となるようだな」
今から大いなる貸しを作ってやる。
そんな顔で――。
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