深淵の歌7 甘露
後生大事そうに酒の袋を口にくわえる大鳥は、鳶色の髪の少女が操る鉄の鳥の後についていき、葉の落ちかけた広葉樹の森の中へと降りたった。
おびただしい数の鳥たちも大鳥と少女の周囲に降りてきて、葉っぱが落ちた木々の枝に止まり、神妙に様子を伺っている。
鳶色の髪。菫色の瞳。あきらかにメニスの混血である少女は、鼻筋の通ったなんとも美しい顔立ちだが、細い眉をつりあげるその貌は鬼のようにこわかった。僕の耳をぎっちりつかんで離さず、とにかく鳥たちを返せとの一点張り。
大鳥はしばし黙って彼女をまじっと見ていたが、形勢不利な状況をなんとかしようと思ったらしい。突然チッと舌打ちをして、一糸まとわぬ人間の姿に戻るという強硬手段に出た。
「な……? え……? ひ……?! っきゃああああ!」
たちまち、少女の端正な顔はまっ赤っ赤。ウサギの僕をほっぽり投げてその場にうずくまった。かわいそうに、免疫がまったくなさそう。目にいっぱい涙をためてぶるぶる震えだしたので、
「すみませんごめんなさい!」
僕が兄弟子様の代わりにあやまってしまう始末。
「うっわ、初々しいなー。マジ性格が女の子だわー、この
兄弟子様は少女を見下ろしてニヨニヨ。ずいっと近づき、調子に乗って腰に手をつけ仁王立ち。
「ふっはははは! ほれ! どーだ立派だろー!」
「ちょっ……ここここらやめろぉっ! 変態いいいっ!」
僕はウサギの後ろ足で思いっきり、スネ毛ぼうぼうのむこうずねを蹴り飛ばした。
「いてえ! あーわかったペペ、お前も仲間に入りたいんだな」
「ち! ちがいますっ! ちょ! やめ! ちょっと!」
――『その言葉は無に帰した』
「っきゃあああっ! 変なのが増えたー!」
な……! このセクハラ導師!
見目うるわしい少女になんという精神攻撃を!
さらにいや増す少女の悲鳴の中。人間に戻された僕は、大事なところを両手で隠しながら、周囲に散らばった荷物のところへ走った。
あの変態に早く黒き衣を着せないと!
草の腰布を探し当て、急いで巻きながら、僕は黒き衣を使って不時着したリンを探した。少し離れた木陰でリンがむくむくと人間の姿に戻っているのが見えたので、手を振って呼ぶ。
「アスパシオンの、無事でよかったです」
リンはにっこりして小脇に兄弟子様の黒き衣をかかえてきた。途中で草むらに落ちている自分の蒼き衣を拾い上げてこっちにくる。うわ。なんか色っぽい。ていうか、胸とアソコをちゃんと手で隠してるけど、下の部分の手のこんもり感がなんかその……。
「メニスが両性具有って……ほんとなんだね……」
「え?」
「いやなんでも!」
蒼き衣に腕を通すリンからあわてて背を向けると、くすくす笑われた。
「そうですね。外見は普通の男の子と変わらないと思います。寺院からもらった薬で女性の部分を抑えているから、胸なんかほんとぺったんこですし」
「そ、そうだね……いやその、ごめん!」
「それにしてもあのメニスの性格は、ずいぶん女性的ですね。胸も大きいし」
「む、胸?」
確かに、うずくまってるメニスの少女の服はまるっきり女の子っぽくて、胸は……。
「あ。お碗だ……」
リンがさっとその場に出ていって、兄弟子様に黒き衣を手渡した。
あそこを隠しもしない変態おじさんがしっかり視界に入ってるはずなのに、しごく冷静。こんなもの珍しくもなんともないって感じのリンに、へらへら笑っていた兄弟子様は「えっ?」と肩透かしをくらった。ぽかんとしたあの貌からするに、リンも悲鳴をあげるんじゃないかって、期待していたんだろう。
でも。
「あら、そんなに大きくないですね。私の方が立派かも」
目を細めるリンから非常に……そら恐ろしい言葉が炸裂したので……「……!!!!」
あわれ兄弟子様はびきっと氷結して、氷の彫像と化した。
僕も思わずおのれの股間に手を当てる。ち、ちょっと待て。あ、あれでそんなにって……私の方がって……だったら僕なんか、全っ然勝負にならな……
にこにこしながら兄弟子様の肩に黒き衣をひっかけたリンを見て、メニスの少女がハッと驚きの色を顔に浮かべる。
菫の瞳は同胞の証。警戒心丸出しでこわばっていた貌が、ほんのりゆるんだ。
「あなたメニスの……混血?」
「はじめまして、ごきげんよう」
リンはもと皇女らしく上品に小首を傾げて、あでやかな微笑みを浮かべた。
「あのね、鳥さんたちは、勝手についてきてしまったんです。でもなんだか、奪ってしまった形になってしまってごめんなさいね。それにしてもすごいですね。みんなあなたのお母様のものなのですか?」
穏やかに話しながら、さりげなく兄弟子様の姿を隠すリン。草の腰布を巻いた僕も急いで彼女の隣に並び、有害物を目に入れないようにしてやると。メニスの少女はようやく安心したように大きく息を吐いた。
「ええそうよ。お母様は、六翼の女王ルーセルフラウレンから鉄の鳥たちの面倒を任されたの」
「六翼の女王とは……グライアの女王のことですね? 何千年も前に、竜王を倒した、伝説の神獣……
「当時から動いてる鳥はもうほとんどいないけど、母様は今も鳥たちを作り続けているわ。北の森の地の底で永遠の眠りについてるルーセルフラウレンが、さびしくないようにって。いつでも、鳥たちに囲まれているようにしてあげたいからって……」
「北の大地に隠れたという話はやはり本当のことだったんですね。眠る神獣のために今もこんなすばらしいものたちを……。あなたのお母さまは、灰色の導師なのですか?」
「……」
「金属でこのような生き物を作れるのは、灰色の技を極めた導師だけです。でも大陸において、その技は大昔に失われたとされています。灰色の導師はひとりもいないはず……」
少女が口を貝のように閉じる。リンは、もしかしてあなたのお母様は相当なお年なのでは? と微笑んだ。
「メニスの一族は長命ですものね」
氷結からなんとか回復してぎぎ、とぎこちなく体をうごかす兄弟子様が、もし純血種なら数千年は余裕だよなぁとブツブツつぶやく。でも人間との混血の寿命は二、三世紀ぽっきりだとかなんとか。
百年生きられるかどうかの僕ら人間にとって、数世紀すらかなりすごいんだが。数千年って……ちょっと想像できない。
それにしても――
「いい匂い……」
鳶色の髪の少女はえもいわれぬ香りを放っていた。
ほんのり甘い、蜂蜜のような。花のような……甘い甘い、不思議な匂いだ。
「アスパシオンの、もっと離れて」
リンに言われてハッと我にかえる。ずっとウサギでいたので、動物の仕種が身についてしまったんだろうか。ぶしつけに鼻を突き出してくんくんしている僕にどん引いて、少女があとずさりしている。
警戒する相手に僕は思いきって、「頼む!」と、両手をぱんっと合わせた。
「あの、ちょっとだけ、このままお母さんの鳥たちを貸してくれると、すごく助かるかも。ちゃんと返すから……」
「鳥たちを貸す? あなたたちに?」
「実は古代兵器が、暴走しているんです」
僕はちらちらと鳥たちを眺めながら事情を話した。
バーリアルという人型の鉄の兵士が、とある導師の悪巧みによって動かされていて。金獅子家が統べる北州を蹂躙しようとしていると。いやすでにもう、破壊が始まっていると。
「古代兵器には古代兵器で対抗するのが有効だと思うんです。ですから……」
「……兵器……ですって?」
「はい。だから古代兵器の鳥たちに協力してもらって、鉄の兵士たちの動きを止められないかと思った……ん……だけど……」
僕は息を呑んだ。菫の瞳の少女の顔が、みるみる怒気を帯びてきたからだった。
言葉が喉の奥でつかえる。まずい。すごい形相だ。
少女の顔は赤味を通り越し、いまや真っ青に変化して、わなわなと肩を震わせている。
「この鳥たちのどこが、兵器ですって?」
勘気もあらわに少女は叫んだ。菫の瞳に、涙をいっぱいためながら。
その涙は透明ではなく、真珠のようにまっ白で。甘くかぐわしい芳香を放っていた。
「お母様の鳥は、兵器なんかじゃないわ!」
「鳥たちのことは、残念でしたね」
げっそり落ち込んでいる瑠璃色の大鳥の背の上で、荷物籠のてっぺんに座るハツカネズミがぽりりと頬をかく。
はるか蒼穹高くへと舞い上がる大鳥のはるか後方を、またもやウサギに変じた僕は心中複雑な思いで眺めた。
そこに見えるのは、北のかなたへ飛び去っていく鳥たちの群れ――。
『兵器なんかじゃないわ!』
メニスの少女の頬を伝った涙は、透明じゃなくて、まっ白だった。
鼻を突く甘い香り。花のような。いや、果物のような。
まるで秋にたわわに実るリンゴ? それともブドウ?
なんともかぐわしい香りだった。
僕は片手を伸ばして、自分でも気づかぬうちに少女の頬に触れていた。
いつのまにか頭がぼうっとしていて、リンに引っ張り寄せられなかったら、すっかり魅入られていたかもしれない。
『口に入れないで!』
頬に触れた指先から地に落ちた涙のしずく。それが地面に触れるなり、あたりにものすごい芳香がはじけ飛んだ。
ほんの一滴なのに、メニスの甘露は目眩を起こしそうなぐらい強烈だった。
まるで果物がたっぷり実った果樹園の中にいるよう。果実をもいで無性にかじりつきたい……そんな衝動がむくむくと心に湧いてきて困った。
リンはそんな僕をぐいぐい引っ張り、少女から十パッスース以上ががっと離れ、少女を宥めようとしたのだが。
『だめ! 絶対そんな目的には使わせないから! 戦いだなんて……!』
まっ白な涙を拭う少女は、憤然として許してくれなかった。
『お願いだから、母様の鳥を惑わせないで!』
かくして。少女は大鳥のような鉄製の鳥に乗り、精巧な金属の鳥たちを率いて去っていった。
大きなその鳥が離陸するや、ぶおんと大きな風が地表に吹き降りてきた。
少女が乗る鉄の鳥は鳥たちのいる木々の周囲をゆっくり何度も旋回し、歌詞のない歌を歌って鳥たちの注意を引いていた。
とても不可思議な調べ。韻律に似ていて、どことなく懐かしいような。鈴の鳴るような。何かに呼びかけているような……。
すると鳥たちはみるみる葉の落ちた枝から飛び立ち。大きなうねりを作って渦巻いて、美しい群隊を作りながら少女に付き従っていった――。
――「まあ、初対面でいきなりあの鳥たちを貸してくれなんて、無理ですよ」
ネズミのリンが苦笑いする。そうなんだけど、あの鳥たちが味方になってくれたら、どんなに心強かっただろう。
鳥を作ったあの少女の母親に、直接かけあってみたかったかも。
そんな思いが深いため息になって出ると。察しの鋭い兄弟子様が「おいおい、変なこと考えるなよ」と釘を刺してきた。その目は心なしか、しょぼしょぼ。リンの口撃のショックがまだ完全に抜けていないようだ。
「あのお嬢ちゃんの母親は、大昔の灰色の技を継承してるんだろうな。つまりこの世界にはもういないとされてるもんだ。人が住まない北の森に隠れて平和にやってるんだから、表の世界に引っ張りだそうなんて無茶は、俺もやばいと思うぜ」
「そう……ですね」
「ねえ、アスパシオンの。きっと大丈夫です。私たちだけでなんとかなりますよ」
ネズミのリンが微笑んでくる。
「あのメニスの少女の言う通りです。あの鳥たちは兵器じゃない。だからこそ、自由にこの空を飛べるのでしょうね」
「兵器ではない……からこそ?」
「金獅子州へ連れて行けば、鳥たちは確実に人間たちに認知されます。そんな状況で一回でも兵器として使われたら、あの鳥たちは、ただの鳥に戻ることはできなくなります。大陸憲章の定めるところによって、古代兵器とみなされて、寺院に封印されるか、破壊しなければならなくなりますから……」
たしかに。
あの少女にとっては、鳥たちは友達……いや、大事な家族と同じなのかも。だから鳥たちをただの一羽も失いたくないし、他人を傷つけるような真似をさせたくないのだろう。
「古代兵器を破壊するって理由でも、だめなんだな。戦い自体が嫌そうだったもの……」
「ごたいそうな理由掲げて戦う? いやいやぁ、俺たちって何様だってのよ」
兄弟子さまが鳥の目を細め、くつくつと自嘲気味に笑う。
「バルバトスやメルちゃん、そしてシドニウス……大義名分のために躊躇なく兵器を使うってことは、結局あいつらと同じことをするってことだ。正義のためならなんでもしていいってのはやばいぜ。そんなんじゃいずれ必ず、街を焼いても仕方ない、人を殺してもかまわないってなっちまうぞ。あいつらみたいにな」
憎いやつらと同じになるといわれて、心がざわつく。
違う、僕はそんなんじゃないと、僕は心中で必死に否定した。
鳥たちを味方にして兵士たちと戦わせる……おのれの早急な思いつきが急に恥ずかしくなり、うつむいた僕の肩に、隣のリンがこつりと頭をつけてきた。
「それにしても。あの子のようなメニスの子は、初めて見ました」
「ん? あの子のような?」
「北の森に隠れ住んでいるのでしょうけど。甘露を隠す術を何も知らないようでした。私でさえ一瞬くらっとしましたよ。共通語を喋ってはいましたけど、人とはまったく、交わりがないのでしょうね」
リンはフッと遠い目をした。
「だれに気を使うこともなく、自由に、人のいない空を飛んでいる……閉じ込められることなしに……うらやましいです」
――「いやぁあの子、ほんっと女の子らしかったよなぁ」
兄弟子様がにへらっと鳥の目を山型にする。
「あの反応は萌えたぜ。なあぺぺ、おまえもあの子のめくれそうでめくれないスカートの下、期待しただろ? え? ちょっと期待しただろ?」
「い、いや僕は……」
「涙が白いからもう成人してるみたいだったけどなぁ。てことは三十才はもう越えてるんだろうが、あの胸はよかったよなぁ。そこそこ大っきくてなんというかこう、見がいがあるっていうか、触りがいありそうっていうか――」
「でも、あの子にもちゃんと、アソコにアレがついてますよ」
「え」
にっこりするネズミのそら恐ろしい言葉に、兄弟子様がまたびきりと凍りついた。
「ちょっ! はばたかないと! 兄弟子様! ほら羽動かして! 落ちる! 落ちるからー!」
「兄弟子さん、がんばってくださいね」
り、リン……ころころ笑ってる。お、おそるべし。
北の空の彼方へ消え行く鳥の群れはすっかり見えなくなったころ。僕はとあることに気がついた。
あのメニスの子の名前、聞きもしなかった……。
でも。また会うことはおそらくないだろう。だからまあ、いいか。
瑠璃の大鳥は大空を一路、南へ南へとひたすら飛んだ。
早く人里が見えてこないかと僕はじっと前方を見据えた。
トル。
もうすぐ君に会える。もうすぐ――
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