深淵の歌2 星の子

 黄金の鎖をひきずる奇妙なおじさん――深淵の番人のねぐらは、魚を捕った泉のすぐ隣の穴にあった。

 寝台がふたつみっつしか置けないぐらいの狭い穴だ。

 奥に草をしきつめてマットのようにした寝床があり、壁際には白く膨らんだ魚の空気袋がずらり。中にたぷたぷと液体がつまっている。

 甘く発酵した匂いがぷんぷん充満しており、入ったとたん頭がくらっとした。

 たぶんこれは、みんなお酒なのだろう。

「すごいですね! これが闇イチゴの実ですか?」

 リンが赤黒い実がいっぱいに入った籠を見つけて目を輝かせると、番人はとても嬉しげにへへへと鼻の下をこすった。

 魚の身を籠から出し、じょっと韻律で焼きつけて、僕とリンに食べろと気前よく差し出してくる。

 早く深淵の中に入って、我が師に指示されたものを取りに行かなければ。

 僕は焦ったが、おじさんはまあゆっくしろよと、自慢の酒をすすめてきた。

 薬草学に通じるものがあるのだろう、リンは魚を食べながら、闇イチゴの酒の製造方法を根掘り葉掘り、番人から聞いていた。

 寺院からの脱出にはこの人の協力が不可欠。

 リンはそう理解しているゆえに、おじさんと親しくなろうとしているようだ。

 空気袋から酒を少し口にふくんだ彼女は、まあ! と大きな声で叫んだ。

「素晴らしいわ。ねえ、飲んでみて」

 酒を呑まされてぶったおれたことがあるから不安だったけど。僕も覚悟を決めておじさんの酒を口に入れてみた。

 うう、これはかなりきつい。とたんに頭がくらくら。 

 なんだか別世界に来たような感覚が襲ってくる。

「それにしても、ずいぶん長い鎖ですね。囚人とは……とても思えません」

 リンの声がふわふわ耳をくすぐる。

「鎖は一番始めのころより、ずいぶん引き伸ばしたわ」

「伸ばせる……ものなんですか?」

「俺様を繋いでる鎖は、深淵の入り口から伸びてる。始めは入り口付近しかうろうろできないぐらい短かったんだけどさ、それじゃあ不便で嫌だったんだ。囚人食はいらねえ、自給自足するからって訴えたら、レクサリオンが延長を渋々認めてくれた。へへ、だもんで、今も自分で少しずつ鎖を引き伸ばしてるんだぜ」

 自由に鎖の長さを変えられる? ならば、鎖自体を自由に外せそうなもの。

 それに見たところ、韻律も好き放題使える。

 すぐにでも逃げ出せそうなのに、深淵の近くに自ら住み着いているなんて、この人は、鎖で繋がれていなければならない理由があるんだろうか?

「草の布、本当に素敵ですね。服にも出来そう」

 リンが僕の腰に巻いてある布をみて感心する。

「番人さん、作ってお召しになったらいかがですか? あ、でも……導師様は黒い衣以外は着てはだめでしたね」

 うん。そうだ……だからたぶんこの人は、ぼろぼろになってもまだ黒き衣を着ているんだろう。

 黒き衣は、導師であることを示す身分証。

 この世の者ではないという証。

 導師になると、生まれた時にもらった名は完全に取り去られ。新しい名を与えられ。己が会得した技の色の衣をまとうことが義務づけられる。

 魚喰らいであることを、周りに隠すことは許されない。

 『たったひと言の韻律で、生ける物の息の根を止められる』

 黒き衣は、そんな恐ろしい技を使える者であることを周囲に知らしめる標章だ。

 髭ぼうぼうの番人は、ぼりぼり頭を掻いて苦笑した。

「そうだなぁ。まあ、俺様は破門されて囚人だから、絶対着なくちゃいけないってこともないんだけどさ。それでも、この黒き衣は脱ぎたくないわ。この衣は俺の師匠の形見だからな。できればずっと着ていたい」

「形見? ということはお師匠様の衣……なんですか?」

 リンの声に、打算ではない本物の優しさが入る。

 そうだ。

 この人の師は、殺されたと言ってたっけ。それで濡れ衣を着せられたと。

「うん、お師匠様が殺されたあと形見分けで貰ったんだ。俺の弟弟子も欲しがったけど、じゃんけんで勝ちとったぜ」  

「じ、じゃん?」「けん……?」

「はじめ一回勝負でやったら、負けやがった弟弟子がわぁわぁ泣いてだだこねてさ。三回勝負だって言い張り出して、しかも後だしだとかはじめはグーだとか、そりゃあもう、熾烈な争いだったけどよ。ほら、俺は魔力強いし? 予見なんざお手の物よ。だから楽勝だったぜ。

 けけけ。ハヤトめ、地団駄ふんで悔し泣きしてたな」


 ハヤ……ト?


 その名をきいたとたん。

 僕の体はぴきりと固まった。

 どこかで、きいた名前。

 その名前は。

 たしか。

 たしか……。

「ハヤト?」

 リンが眉間に皺を寄せて首を傾げている。彼女も、この名前を知っているんだろうか。

「おおそうだ」と目を輝かせて、おじさんはぽんと手を打った。

 昔語りをしたら、どんどん記憶がよみがえってきたらしい。

「そういや、導師になったその晩に、お師匠さまにえらく祝ってもらったなぁ。すっげえ喜んでくれて、酒を注いでくれたんだ。お酒解禁だって言ってさ。そうそう、儀式の時に師匠から貰った俺の導師名はさ……」 

 酔いでぐらつく頭をおさえ、僕は耳をすました。導師となった者に導師名を与えるのは、最長老様のお役目。然るべき時期に然るべき儀式を執り行って、導師になる者に新しい名前を与える。

 ということはやはりこの人は、カラウカス様の弟子で間違いないんだろう。

 ええとすなわちとどのつまり……

「アステリオンだ。大層な名前過ぎて、恥ずかしいよなぁ。星の子って意味なんだぜ。うはは、すんげーだろ」

 この人は、我が師アスパシオンの、兄弟子様!?

「お師匠様は気さくな人だが、すっごい韻律の使い手だったんだぜ。大精霊一体何個お持ちだったんだろうなぁ。難しい韻律もちょちょいと舌先ひとつで簡単にかけちまうしさぁ。で、俺たち弟子に『ほれ、やってみ?』って言うんだよな。無理だってそんなの。スメルニアなまりの巻き舌なんて、マネできねえって。うははは」

 髭ぼうぼうの番人はどかりと胡坐をかいて豪快に笑った。

 肺袋にたぷたぷつまったお酒をがぶがぶと呑み干しながら。

 ああ。

 そういえば。

 カラウカス様の形見の本の話では、お師匠の弟子は二人いたって書かれていたっけ。

 この人がそのモデルのひとり?

 酔いが回っているのか、おじさんの口はとても饒舌になったのだが。

「そんな風に鍛えられたおかげで、俺は十九で導師になれた。でもそのせいで師匠は、大変なことになってよぉ……」

 そう言うなり、顔が暗く曇った。話の雲行きが深刻めいた雰囲気を帯びてくる。

「十代で、導師様に?」

 リンがひどく驚く。さもあらん。

 この寺院で、十代で導師になった者は今までいないはずだ。

 公式の記録では、まだひとりも存在していない。三十代でやっと全部の試験に合格するのが普通。二十代でなれれば、天才であると畏れられるほど、黒き衣をまとってよいと認められるのは難しい。

「まさか……」 

「やっぱ信じられんかぁ。長老たちも認めてくれなかったわ。お師匠様は俺のこと、天才児だーとか、神童だーとか、入院した時からベタ褒めだったけどさ。親の欲目って思われてたんだろうな。

 導師になった時、俺の師匠がごり押ししたってみんなに思われちゃって、俺たち師弟は周りから最悪の印象を持たれたんだわ。しかも師匠が俺にスメルニアの後見の座を譲ろうとしたもんだから、みんな大騒ぎさ。十代の奴が大国の後見? ってみんな大反発しちゃって。それでお師匠様はみんなから糾弾された。毎日ありとあらゆる本気の呪いが飛んできたよ」

 黒の技の大半は、おそろしい呪術だ。技を極めた導師たちは、己が身を守る結界を、無意識のレベルで常に張っているものけど……。

「長老どもも加担して一斉に攻撃してきたもんで、呪いを避け切れなくてさ。お師匠様は寝込んじまって……そのまま……。しかもあろうことか、この俺がお師匠様を殺したってことにされちまったってわけさ」

 最長老殺しの大罪をかぶせられた人。

 十代で導師になった者がまだひとりもいないとされているということは。

 この人の記録はきれいさっぱり寺院から消去され、はなから存在しなかったことにされているに違いない。

 我が師は今までひとことも、この人のことは口にしたことがない。

 カラウカス様との思い出は結構喋るけど、その死についても、一切話してくれたことがない。

 まさかカラウカス様は殺されたなんて。

 兄弟子様が地下の封印所に囚われているなんて。

 そんなこと、少しも。ほんの少しも僕は……。

「まあ、命をとられなかっただけマシってもんだな。俺のすんげえ魔力を失うのはもったいないから、深淵の封印に役立てようって、レクサリオンはここに俺を繋いだわけなのよ」

「でも、逃げられるのでは?」

 がっくりうなだれる番人に、リンが僕が抱いたのと同じ疑問を投げかける。

「鎖を自由に伸ばせるなら、切ることだって……」

「いや、逃げられねえよ。だって地上じゃ、」

 じゃら、と黄金の鎖を打ち鳴らし、番人のおじさんはぼりぼりと汚らしい頭を掻いた。

「俺の弟弟子が、人質にとられてるからなぁ……」

「人質……」「な……!」

 つまりこの人が鎖で繋がれているのは、僕のお師匠様を……守るため?!

 なんてことだ。

 なんてことだ。

 僕は。

 何も知らなかった。

 今まで何も。

 何も知らなかった……。

 いや。忘れてしまったのかもしれない。

 もし僕が本当に、カラウカス様とその弟子の使い魔だったのなら、この事は当然、当事者として経験していて。怒り狂って。嘆き悲しんで……!

「僕の……お師匠様は……序列最下位です……」

 思わず僕はすっくとその場に立ち上がった。酔いで体がよたつくがなんとか直立する。口から、声を絞り出す。

「魔力はたぶんだれよりも強い。でも、寺院での発言権は全くない。本当は器用でだれよりも蹴鞠が一番上手なのに、わざと馬鹿で愚かで、何もできないふりをしてる……。毎日、中庭に寝転がって鼻をほじって、講義なんか、ちっともしてくれない……」

 視界がぼやけてくる。酔いが回ってるせいじゃない。

 目にしょっぱい水がたまってきたせいだ。

 今、分かった。ようやっと理解できた。

 なんであの人が、ああなのか。

「あの人、きっと、わざとそうしてたんだ。恐ろしい長老様や導師様たちに攻撃されないために。身を守るために。そしてたぶん、地下に囚われてる兄弟子様を殺されないために……そうせざるをえなかったんだ! なのに僕はいつもあの人に文句ばかり言って……!」

「うあ? な、なんだおまえ? もしかして――」

 自分でも驚いたことに。

 僕は眉根をひそめるおじさんに勢いよくすがりつき、無我夢中で叫んでいた。 

「お願い……!!」

 我が師の兄弟子であるこの人に。

 強力な魔力を持つこの人に。

 星の子と名づけられたほどの、才ある人に。

「お願い一緒に来て!! ハヤトを助けてっ!! え……」

 僕は叫んだ。

 僕が知らないはずの。

 この人の、本当の名前を。

 


「エリク!!」

 



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