#5 蛙工場のハッピーエンド

 「もうそろそろ、産卵する頃だから」

 とだけ言って電話は切れた。僕は混乱したまま受話器を置いた。


 家の前で待ち合わせたサチコはだぼだぼのウインドブレーカーを着て、ピンク色のバケツを持っていた。僕はタモを持たされた。他人から見たらさぞお似合いに見えるだろう。

 僕たちは近所の農業用水路にそって、カエルの卵を探し歩いた。

 「あっ、あったよ、これカエルの卵だろ」

 僕は足を止めて、水中を指さす。巻いたゼリー状の物体が水の底に固まっていた。サチコはちゅうちょなく水に手を突っ込み、卵を素手で持ち上げる。

 「うーん、これは違うね、これはヒキガエルだ」

 僕たちが探すのはウシガエルの卵なのだとサチコは言う。

 「このあたりにそのウシガエルって、いるの」

 「いるよ。夜にボーウ、ボーウって田んぼの方から音がするでしょ。ホラ貝みたいな音。あれがウシガエル」

 「ああ、あれカエルだったんだ」

 「きみは本当に何も知らないのだね。あの鳴き声でオスとメスが出会って交尾する。だから卵はぜったいこの辺のどこかにあるのだ。見つからなかったら明日も探そう。卵のあいだは逃げないしね」

 くたくたになるまで歩いたが、見つかるのはヒキガエルの卵ばかりだった。卵が見つかるまで、ずっとこんな調子で用水路めぐりをしなければならないわけだ。

 戻った僕たちはかなめ石に座っておにぎりを食べた。

 ぬるい麦茶を飲みながら、東京の出勤ラッシュを思い出す。少しだけなつかしい、少しだけ。ふと不安になる。こんな事してていいのかな、と。

 まあもちろん良いわけはない。僕らは人生のレールを全力で踏みはずしつつある。


 僕たちがウシガエルの卵をようやく見つけたのは、その二日後だった。

 それは皮肉にも僕たちの水槽のすぐ近くで見つかった。あまりに近く過ぎて探さなかったのだ。幸せの青い鳥みたいに。

 僕たちは卵をごっそり採ってそれぞれの水槽に入れた。目を近づけて見てみると、卵がオタマジャクシになりかけたものが見えた。

 「あとは育てればいいんだよ、簡単だろ?」

 「そう簡単にいくかなあ」

 数日後には、オタマジャクシたちの姿がみられた。それらは自分の命に戸惑うみたいに水の中で蠢いていた。水草をとってきて入れてやるとそこに集まった。

 僕らの仕事はオタマジャクシの世話に変わった。

 余った時間はかなめ石にすわって過ごした。ショッピングモールと水槽のある変わらない風景を眺めて、飽きたら眠って、また目が覚めたら風景を見て、また眠る。

 かなめ石に長い間じっと座っていても、体が痛くなったりすることはない。この石の曲面は、なぜかどんな椅子よりも僕らの身体にフィットしていた。まるで巨大なクリームチーズに体をあずけているような感じだった。

 サチコはかなめ石に座るとすぐうたた寝をはじめる。サチコが眠ってしばらく経つと、僕が眠くなってくる。僕が眠りに落ちると、サチコが目覚める。ぼくらはシーソーのように交互に眠る。

 ここで眠ると、きまって子供の頃の夢を見る。


 子供の僕は丸太を手にしている。

 丸太の端はかなめ石の下にもぐりこんでいて、僕はもう一方の端に飛び乗る。

 小学四年生のとき、僕はかなめ石をひっくり返そうとした。

 秋のことだった。小学校で運動会が開かれる。その年の運動会は憂鬱だった。学級全員で長なわとびを飛ぶイベントが企画されていたから。

 みんなで長縄飛びをするアイデアはテレビ番組の二番煎じだった。体育の先生が発案者だったのだが、いつのまにか話が大きくなり、ローカルのテレビ局まで来ることになった。先生は僕らを強制的に居残りさせて、日が暮れるまで練習をさせた。用事がある子がいてもおかまいなしだ。

 練習は苦痛だった。長なわとびは、一人が引っかかったらそれで終わりだ。緊張しやすい僕はしょちゅう引っかかる。体育の先生は大きなホワイトボードを用意して、引っかかった子どもの名前を書き出し、転んだ回数を数えた。僕の名前の下には、正の字がたくさん並んでいく。

 運動会が近づいてもその正の字は減らなかった。僕は毎日吐くようになり。脚を折ってしまいたいと願うようになった。

 サチコが言った。「じゃあ、二人で雨を降らせよう!」

 「どうやって雨を降らせるの」

 「かなめ石をひっくり返すんだ」

 かなめ石には、動かすと天変地異が起こるという言い伝えがあった。干ばつの時にひっくり返すと何日も大雨が続いたとか、洪水の時にひっくり返したら水が引いたとか、水に関係する話が多い。

 たしかに雨がふれば運動会は延期になるし、もう一回雨がふれば中止になることになっていた。でも、しょせんおとぎ話だ。

 でも僕はそれに乗った。辛くてたまらなかったから。もう何でもよかったのだ。ふたりでかなめ石の横に深い穴を掘った。棒を差し入れて、てこで石を動かすつもりだった。今から思えば、そんなもので動くはずがないのだけど。

 必死に掘ったけど、かなめ石は掘っても掘っても新しい石肌が出てくるばかりで、てこを引っかけるべき底の部分は見えてこなかった。両手から血がにじんできて、泥と雑じった。それでも掘った。

 「あった、裏側だ」

 二人がすっぽり入れるぐらいの穴を掘って、僕たちはようやく石の底に到達した。僕らは材木を穴に差し込み、二人でぶら下がって体重をかけた。

 「動く、動くよ!」

 サチコは言った。木にぶら下がった僕たちは、少しづつ下に降りていた。

 「あと少しだよ!」

 でも違う。石は動いていない、木がたわんでいるだけだ。僕は泣きそうになる。

 「何やっとるか!」

 僕の祖父が怒鳴りながら走ってきて、ほとんどはたき落とすみたいに、僕らを木から降りさせた。残ったのは痛む体だけ。

 けっきょく雨は降らずに、縄跳びは実行された。僕は引っかかり、テレビカメラの前で失敗した。マイクを向けられて、どんな気持ちかな? と訊かれた。僕は吐いた。けっきょくその部分は放映されなかった。

 「あのときは嫌だったよね」

 サチコが僕の夢を読んだみたいに言った。「つらかった」

 「うん」

 目を覚ました僕はひたいの汗をぬぐった。

 「あのとき君のおじいちゃんに捕まらなかったら、石をひっくり返せたかな?」

 「無理だよ、子供の力じゃ、こんな大岩」

 「できたような気がする。だって、少し動いたよ」

 僕が目覚めたせいで、サチコが眠りに落ちていく。

 「そうしたら、どうなっていたかな」


 オタマジャクシたちは際限なく食べて育ち、やがて手のひらにどべんと乗るようなサイズになった。小さいころはかわいげもあったが、このぐらいになると目や口がはっきりしてきて気味が悪い。ふいに、そのぬるぬるした生物が僕の夢から抜け出してきたように思えて、身震いする。

 「これって、いつごろカエルになるの?」

 「来年だよ。ウシガエルはおたまじゃくしで冬を越して、春にカエルになる」

 「じゃあ、ずっとオタマジャクシのお守りするわけなの」

 「冬眠するから大丈夫さ、ほら、餌を食べる勢いが最近落ちてきただろ?」

 水が冷たくなるにつれて、オタマジャクシたちは水槽のそこでじっとしているようになった。


 「あんたこれからどうする気だ!」

 仁王が怒鳴る。

 「ああ、うん。もうちょっと」

 「早くどうするか決める! よろしいか」

 冬の足音がひびいてくる頃になると、両親の風当たりも強くなってきた。

 両親は僕を邪険にするとともに、サチコに妙に優しくしだした。

 サチコは毎日のように僕の家にきた。両親は彼女を歓迎し、しょっちゅうケーキなどを出してやった。そのうちサチコは夕飯もうちで食べていくようになった。

 冬が深まるほど、僕とサチコはお互い無口になっていった。仲が悪いわけではない、ずっと一緒にいるから話すことがなくなってきただけだ。黙ってみかんを食べたり、マリオカートをして過ごした。サチコはよくこたつでよだれをたらして寝た。

 退屈がある点に達すると、僕らはオタマジャクシたちの様子を見に行った。

 「ほらほら、ぼくらの子だ」

 サチコは水槽を指してけらけら笑う。冗談じゃない。

 冬の水は澄んでいて、底までよく見えた。枯れた水草をかき分けると、そのオタマジャクシたちが水槽の底で重なって、じっと眠っているのが見えた。

 僕は何か恐ろしいものを見た気になって、そっと水草を戻すのだった。

 寒さがピークを抜けるまで、僕らはそんな毎日を繰り返した。

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