第六章 転機 

大気の成分のひとつひとつの中にまで、身の毛もよだつようなものがひそんでいる。きみは、透明な空気といっしょにそれを吸いこむ。  リルケ「マルテの手記」より。

 

1 不意の転機


 リーダ―にとって、メンバーを失うことほど悲しいことはない。

 伊賀の山里から共に上京した仲間。Vとの戦いが始まってから、その半数が黄泉の国に旅立った。春になったら遺骨を伊賀の里に埋めてやりたい。

 

 鹿沼の御成り忍群からも犠牲者が出た。杉子と人狼ケン。相思相愛だった彼女と彼。同じ墓標にその名を刻んであげたい。鹿沼に葬ってあげたい。それができない。東京を留守にするわけにはいかない。

 

 百子は悲しかった。あまりに犠牲がおお過ぎる。みんな健気に戦って死んでいった。なんの不満も不平ももらさず。潔く散って行った。


 百子はめずらしくブルー。

 中央指令室の隣の部屋から夕実を眺めていた。

 夕実は「BB刀剣エクササイズ」から抜擢した後輩の指導に当たっていた。

 これからは、忍びの心得のある――技をもった女の子は集まらないだろう。

「忍びは総合格闘技。修行が厳し過ぎる」と百子。

「こんなつらい修行いまどき、身につけたクノイチ仲間を探すのはキツイですね」

 シンミリと夕実。


 それで、忍びの技がなくてもコナセル部署は「BB刀エクササイズ」から人材登用をすることにした。とくに、剣の技に秀でているものは実戦に参加しているが。


 指令室のコンピーターを夕実は彼女たちに任せようとしている。

 どうしても、現場に立ちたい。Vと戦いたいという夕実のねがいを百子は聞き入れた。

 聞き入れないわけにはいかなかった。仲間が死んで行くのを指令室にいて見ているのは苦痛だったろう。共に戦いたいと夕実の気持ちはよくわかった。許可しないわけにはいかなかった。


 百子は執務机でPCを開いていた。日記を書いていた。ほんとうはブログとしておおぜいの人に読んでもらいたい。でも、公の場に公表するのがはばかられることばかりだ。


 ヒソカニ日記として書き連ねてきた。この変革の時代。どう生きていけばいいのだろう。


 人類が劣化してきている。良心回路が退化するという進化と直面している。

 それにVが一枚噛んでいる。Vに噛まれてRFにされたものたちの残虐行為。

 噛まれなくてもVの発する悪意の波動に影響されている者たち。テレビで富士五湖付近の洞窟でコウモリの異常発生がみられると報じている。


 コウモリの大量発生。Vが活発に動きだした。関連があるのだろう。

 テレビの画面では洞窟の中のコウモリの目が異様に光っていた。百子はじぶんがニラマレテいるように感じた。わたしたちが払った犠牲はあまりに多すぎる。百子はそう書いた。


 故郷伊賀を48人で後にした。

 観光資源の忍者屋敷でのパフォーマンスには飽き足らなかった。

 命がけで修業したクノイチ忍法。おもいきり首都東京で試したかった。

 だが、わたしたちを待ち受けていたのはV。人外魔境のもの。Vだった。


 戦いの中で多くの者を失った。だが、東京を侵食するVの暴挙。ただ座してみているわけにはいかなかった。これからどうすればいいのか。

 Vとの共存はなりたたないのだろうか。

 百子は不意にそう思った。

 百子はそう考えている。

 その自分に驚いた。


2 これでいいの?


「ひとくちでいい。ひとススリで、いいんだ……血を吸わせてください。ほんの朝露の一滴くらいでいい。それで――ぼくらは生きていける」


 美少年だ。哀願する眼差しからは逃れられない。

 ジッと見つめられると、いうことをきいてやらないのは罪だ。

 そんなことの出来るものは、冷血動物だと思ってしまう。

 親指のハラを小柄でプッンと切った。

 百子の血が少年の唇を赤く染めた。


「ほんとに、すこしだけよ」

「ありがとう」

 不吉な申し出でだった。 拒むことが出来ず、受けいれた。

 わたしは、この吸血鬼の少年を愛しているのかもしれない。

 初めて会った少年を愛するなんてことが、あるのだろうか。

 でも、ひとはいつでも、会うときは初めてなのだ。

 それで好きになっていくのだ。

 愛してしまっているから、血を求められても、拒む理由かみつからない。

 百子は冷や汗をかいていた。

 だめよ。百子。だめよ。


 リーダー。チーフ。頭領。ボス。キャップ。百ちゃん。

 それぞれ、好きな呼称で百子に呼びかけていたが。

 みんな――Vとの戦いで散っていった。仲間たちの顔が思い浮かぶ。

 クノイチ48。伊賀クノイチ忍群の精鋭だった。


「やめてぇ!!」彼女たちの声が夢の底からわきあがってきた。

 その声に救われた。そうだこれは夢だ。夢はつづいている。

 夢の中で切った親指が痛む。百子ははじめて吸血鬼に恐怖を感じだ。

 リアル世界でのVとの死闘。

 べつに。苦悩することはない。

 少女を襲うVの牙から、ひとりでもおおくの人命を救いたい。

 それを天職と思いつづけてきた戦いだ。

 リアル世界の悪と戦っている。

 そうした自負に疑いの影が忍びこんできた。

 光と闇の戦いだ。こちらは、絶対正義。


 わたしの考えには、まちがいはない。

 それが揺らいだ。戦うことだけが。正義なのか。

 Vを滅ぼすことが正義なのか。

 わからない。

 わからなくなった。


3 恋する百子。


 まだ夢の中だ。

 夢の世界に体がたゆたゆしている。

 すごく気持ちがいい。夢の中だから、初対面の吸血鬼の美少年を〈愛して〉しまったのかもしれない。


 などと時系列を無視して思いこんでしまうのだ。

 好きになった。というのならまだわかる。

 愛しているというのは、短絡的だ。

 それにしても、美形だ。この世のものとは思えない。

 それはそうだろう。

 Vだ。

 人外魔境に生息するVだ。

 金髪が――染めたのではないみたい。

 ――金髪の日本の少年……ありなのかな???

 ダメージジーンズの長い脚。

 胸に金の羊のロゴ。のポロシャツ。たくましい。

 寒いのに薄着過ぎない。夢の中には季節はない。

 ……のだろう。百子。やめて。麻子の声だ。

 百子。やめて。翔子の声だ。

 百子。やめて。美香と香世の声だ。

 百ちゃん。やめて。子どものころからずっと一緒の美咲の声だ。

 リーダー。やめて。クノイチの仲間の声だ。

 

 それでも、わたしは金髪の少年に引き寄せられていく。

「すこしだけよ。すこしだけよ」


4「臨兵闘者皆陣裂在前」


 百子は絶望した。だめなわたし。

 わたしは、クノイチ48の統領、百々百子。

 クノイチには〈恋〉はご法度。もちろん、昔からの言い伝えだ。

 罰則なんかない。でも、クノイチたちは、その禁止事項を重んじている。

 誇りにさえ思っている。恋に生きるのもよし。

 だが、技の習得に命をかけるのも青春。

 人のために尽くして。死ぬのが使命。

 その使命感に燃えたつクノイチ48――の統領たるわたしが。

 なんて、ザマダ。


「すこしだけよ……」


 なんていって。媚をみせて……金髪の少年にすりよっていく。

 いくら夢の中であっても。

 おぼろな夢の中でも――。

 ゆるせない。

 百子は絶望に苛まれていた。


 まだ夢の中だ。これは夢だ。

 夢の中だからといって、許される行為ではない。

 でもなんて甘美なおののき……。胸が高鳴っている。

 わたしおののいている。

 どうして。

 どうして。

 じりじり金髪の少年Vに引き寄せられていく。

 百子は必死で九字を切った。


 リンピヨウトウシャカイチンレッザイゼン。

 九字護身法に身をゆだねた。


「臨兵闘者皆陣裂在前」


 九字を切る、破魔の修法。

 九字を切る、煩悩を断ち切る。


「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」

「臨兵闘者皆陣裂在前」


 夢の中で百子の声が朗々と響いた。


5  やはり初恋だ


 九字を切る声で目が覚めた。

「わたしって……おかしい」

 自分の夢の中の声に驚いて。

 覚めた。目覚めた。

 目覚めようとしていた瞬時に。

 なにかひんやりとしたものが襟をかすめた。

 ひんやりとしているのに、温かな感触。

 快感。ブルットふるえた。

 あれは、少年Vの唇の感触。

 夢の中なのにすごくリアルだった。

 顔なんて、皮一枚。死ねばシャレコウベ。

 そんなことはわかっている。

 わかっているが、胸のときめきは止まらない。

 それにしても、アイツすごい美少年だった。 

 わたしって、ああいう男の子が好みだったの。

 遅すぎる初恋。はじめての胸のトキメキ。

 クノイチにはあるまじき出来事。

 

 相手は夢の中の少年Vだ。

「また会いましたね」

 ヴァイオリンのような旋律。

 澄んだボ―イソプラノのような声。

 金髪を風になびかせている。

 少年Vがにこやかにほほえみながら近寄ってくる。

 その邪気のない無垢な笑顔。

 ――まだ夢がつづいているみたい。

「ぼくは人工血液だけで生きている。月に一度くらい、ほんのすこし生の血をすすりたくなってしまう。それがぼくの罪ですか」

 せつせつと訴えかけるヴァイオリンの旋律。

 まったく予想もしていなかった。

 吸血鬼が節食しているなんて思ってもみなかった。

 Vは人の血を飲み放題飲んでRF(従者)を増やしている。

 人を殺戮することに、なんら憚ることはない。

 そうおもって、戦ってきた。

 でもこの少年Vのような吸血鬼もいるのだ。

 人の心を自在に操る術を持っているのか?

 このとき。

 百子の脳裏に。

 共存。

 という二文字が唐突に浮かんだ。

 血液の研究をすることは、吸血鬼の研究をすることにつながる。

 吸血鬼が人の血を吸わずに生きられる。

〈共存〉

 百子は少年Vをみつめた。

 少年Vも百子をみつめている。

「クノイチのボスなんでしょう」

「そういうことにはいまは応えたくない」

 ひとりの女でいたい。

「ぼくしってる。みんなが百子のこと狙っている」

「でしょうね」

「注意してね。それだけいいたくて……もどってきたんだ」

「また――会いたいわ」


 ――ああ、いってはいけない言葉。

 会ってはいけない少年Vにいってしまった。


「いつだって会えるよ。百子がそう願いさえすれば」

「ほんと。ほんとなの」


 旋律がとだえる。うれしくて、涙がこぼれた。

 いつでも、こんなどきどきした胸の高鳴りを感じられる。

 ステキ。


 百子は悲しみ、仲間を大勢喪った究極の絶望のなかで〈愛〉にめざめた。

 だがそれが、吸血鬼の少年だった。


6 現場復帰はする夕実


 百子は指令室に入っていく。

「チーフ。今日から現場配属、おねがいします」

 夕実が決意を秘めた声でいう。

「そうね。第一班百子組のハル子の代わりを任せるわ」

「しばらく現場をふんでいないのに、いきなり、班長ですか。それも百子組の――」

「夕実ならやれるわ。ずっとこの指令室でみんなの動きを見ていたのだから。仲間全体を把握できるのは美咲と夕実だけだの」

「それにハル子の無念がいちばんわかっているのは夕実よ」

「最重要エリアを任せてもらえるなんて、感激です」

「そうだ……」


 なにか思いだしたように百子が夕実のやる気十分の顔にいう。


「ここでのしごとの仕上げに、いままでVのストーカーや、わたしたちがアイツラと衝突した地域を時系列にそって見せてくれない」

 大型モニターに赤い点がつぎつぎと出る。

「わあ、スゴイ数」

 夕実の後をまかされた桃加が感嘆の声をあげる。

「BB刀エクササイズ」から抜擢された桃加だ。

「やっぱり、ハル子のコトバは正しかった。ハル子の勘は当たっていた。見てごらん、確実に永田町に向かって移動している」


 夕実が赤い点を矢印に変えた。

 矢の進む直線は首相官邸に集まっていた。

 ――Vはなにを目論んでいるのだろう? 

 あのとき、少年Xは官邸の地下で消えた。

「夕実の仕事はキツクナリソウネ」

「がんばります」

 夕実は決意をしめしガツッポーズできめた。


7 美少年Vのささやき


「夕実さん!!」

 指令室をまかされた桃加が切羽詰まった声をあげる。

 百子と夕実にモニターを見るようにうながしている。

「第五班のひとたちが……」

 白昼だというのに、Vの動きが活発だ。

「日枝神社のあたりだわ」

 百子はハル子を失った悲しみからまだ癒えていない。

 ハル子を日枝神社の境内で抱きしめた。

 あそこになにかある。

『敵が霞が関に集まってきている』

 そう警告を発したのは瀕死のハル子だった。

 ハル子は百子の腕の中で冷たくなっていった。

 そしてハル子を襲撃したのはVだけではなかった。

 拳銃を撃つVなんて、いままでいなかった。

 あれは鬼沢組のヤクザ。あるいは新たなテロリスト? Vだけではなかった。

 敵は大勢いる。多様化しているのだ。多くの仲間を死なせてしまった。

 どうしても、Vを許せない。そして……ストーカーから婦女子をまもるという段階ではなくなっている。Vはなにか目的をもって動きだしている。

 赤いマークのうごきがおかしい。


「戦っているのよ。ハル子の班が」

 百子の声を背に夕実は指令室をとびだした。

 わたしの班。

 わたしが班長となった第一班の仲間が、五班のみんなが戦っている。

 モニターから赤いマークが消えるのを。

 その都度。

 じぶんが殺されるような戦慄を覚えながら見てきた。

 もうあんな悲しみとは、おさらばだ。

 わたしは戦う。みんなの無念をはらす。

 もっと早く現場にでることをリーダーに頼めばよかった。

 いや、いまからでも遅くはない。

 ハル子。あなたの班のみんなを守るからね。

 いっしょにVをつぶすから。


「わたしも、いってみる」

 ひさしく現場を踏んでいない夕実のことが気がかりだ。

 百子も指令室をとびだした。

「百子。気をつけて……」

 耳もとに、いや、頭の奥にひびいてきた。

 夢の中の金髪の美少年Vの声――。

「夢ではなかったのね。あなたは、わたしに、なにか用なの?」

 いつも、わたしの行動を見守っていてくれるのね。


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