第三章 都市伝説 人狼

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 コンビニでミルクパックを買ってもどった。

 子犬は段ボールの箱の中でふるえていた。紙トレーも買ってくればよかった。翔子は手のひらに牛乳をすこしあけた。手を差し出した。子犬はためらうこともなくピチャピチャと翔子の手からミルクを飲みだした。


 よほど、お腹が空いていたのだろう。一パックの牛乳を全部飲んでしまった。といっても小型パックだ。まだものたりないのか、短い尻尾をはげしくふっている。


「そこでなにしてるの」


 子犬がとても可愛かった。つい、かがんで、見とれていた。翔子にしてはめずらしく油断していた。ひとの近ずく気配に気づかなかった。

 ひくい唸り声がした。唸り声がするまで気づかなかった。

 子犬のほうがさきに気配を嗅ぎとった。


 まったく無防備だった。薄闇のなかで何かが動いている。近寄ってきた。鶴巻南公園の片隅だった。もっと注意を払うべきだった。翔子は恐怖にふるえていた。いま襲われたらチョウヤバイ。

 相手を刺激しないようにゆっくりと振りかえった。



 そこには紅子が立っていた。翔子はとっさに身構えて二三歩後ずさった。


「わたしの後をつけまわしているわけ」

「ちがう。翔子、女同士で争うことはない。わたし翔子の実力はわかったシ」

「どちらが勝ってもよろこぶのは男たちよ」

「そんなこと、あれだけ戦ったの――。信じるわけにはいかない」

「おたがい、傷つけ合うことはない」


 子犬が翔子の足もとで唸っている。


「わたしのこと、こんな小さいうちからわかるみたいね」

「なにいってるの」


 翔子が声を低くして紅子の顔を見ている。


「何いっているのか、わたしにもわかるように説明して」


 翔子は注意しながら、それでも一歩だけ紅子に近寄った。

「わからない? その子犬は人狼の〈影〉に育っていくのよ」

 紅子にいわれていることは、ますますわからなくなった。

「忍者のこと翔子くわしいの? ナルトみてる??」

「なにいいだすの」

「影分身の技に似てる」


 そこで、翔子は思いだした。取調室を模した部屋に黒犬が現れたのは先週のことだ。あれから各地でナイフによる傷害事件が突発した。犯人は「人を殺してみたかった」なんて、同じようなことをウソブイテいる。


 どれも、吸血鬼がらみの事件ではないかと、百目鬼刑事と純がこだわっていた。

翔子はパソコンで調べられるだけの情報を集めた。


 いそがしかった。やっとこうして、近所の公園まで散歩に出られた。純は塾で万葉集の講義を大学受験コースでしている。


「犬の姿を見せておいて、本人はほかの場所に穏業する。忍法の基本中の基本じゃないの」

「ここにこの犬を育てている人狼がいるってことなの。鬼がいるの?」

「だから、わたしはハッテいたのよ」


 見張っていた。とはいわないで、ハツテいたなんて、今は、刑事ドラマまでも見て日本語の勉強をしているらしい。


「そこへ、翔子があらわれたのよ」

 紅子の長い説明が終わった。



 遠吠えがする。


 子犬がせわしなく砂場を走り回っている。

 遠吠えはゾクッとするような野性味があった。

 子犬が成犬並の低い唸り声をあげている。公園の外の暗がり、弁天町の方角から、なにか近づいてくる気配がする。獣の臭気。唸り声。そして黒犬が現れた。


「あれは黒犬なんかじゃない。狼よ」

 紅子がむぞうさに翔子から離れていく。行く先には、狼と男。

「あんたらドイツの黒い森からさ迷いでたの? それとも、日本狼なの」

「シュヴァルッヴァルト(黒い森)はカルパチア山脈にもあるだろうが」

「東京へヤバイやっらが侵攻してきたときいたわ。それあんたたちのこと?? そうよね。日本の鬼と手を組んだってホントかよ」

「なにいっている。おれたちのほうが先だった」

「どう、住み安いみたいね。この日本が気に入っているみたいね」

「そちらの翔子ちゃんとは二度目だな」


 いわれなくても翔子にはわかっていた。あの黒犬だ。この男だったのか。あの薄暗いコスプレイ店の鉄格子の影に隠れていたのは。


「翔子。逃げなさい」


 遅かった。男はひとりではなかった。

 数人の男たちに取囲まれた。


「翔子。刀をぬいて」

「置いてきたの。近所の散歩だったから」

「ばか。こんなときに、素手なの」

「ごめん」


 わたし吸血鬼にあやまっている。わたし紅子に守られている。バカみたい。



 宇都宮JR駅。

 東口から歩いて5分。

 ピンクのビルが右手に見えてくる。宇都宮餃子館だ。

 この街は餃子の消費量は日本一だ。餃子で町おこしをしている。どの店も盛っている。行列のできる店が多い。


「アサヤ塾」の塾長、自称GGが「ニンニク餃子」をオーダーした。


「今日はお一人ですか」


 店の女の子に声を掛けられる。中年のおばさんだが、GGからみればみんな若くてきれいだ。


「もしかして愛人?」とか。 

「二度目のカアチャンけ」

「いまはやりの歳の差婚」


 などと興味本意の声をかけられる美智子ことミイマは東京にもどっている。彼女の父主催の『神代寺バラ展』の準備があった。

 GGはめずらしく入塾申し込みの大学浪人生が来たのでミイマに同伴して上京出来なかった。

 

 胸のポケットで携帯が震えた。小泉純からだ。GGは店内から外のテラスにでた。宵の口でテラスにはまだ客はいない。

「翔子がもどってこない? ……おちついて、話すんだ」

 孫娘、翔子の行方不明。驚くべきこを純から知らされた。



 翔子の母の文枝がGGの娘だ。

 その縁故で純が東北から北海道へのさすらいの旅にでて、最初に投宿したのが「アサヤ塾」だった。塾で万葉集の特別授業をしながら半年ほど鹿沼で過ごした。よほど居心地がよかったのだろう。


――翔子が散歩に出た鶴巻南公園には子犬が遊んでいた。

 そして、砂場には争った気配の足跡がいりみだれていた。さらに!! 人狼と指で書いた文字がのこされていた。純は思いだした。GGが、鹿沼の犬飼地区にからんだ「人狼伝説」を書いていた。

 人狼の知識をもったひとが身近にいた。

 角川のBOOK WALKER 惑惑星文庫に載っているGGの『夏の日の水神の森』をスマートホーンで読みかえしながら電話してきたのだった。


「腹が減っては戦は出来ぬ」とGGも餃子をぱくつきながら聞いていた。話が進むにしたがって、ことの重大さが認識できた。GGは財布から千円札をとりだしだ。レシートにはさむと隣の席にオーダーを取りに来たウエトレスに渡す。

 釣りはいらない。言い残して、駅に走った。新幹線に乗れば宇都宮―上野間は45分だ。


 日ごろの鍛錬のたまものか、息切れはしなかった。純が東京にもどってからの経緯を話している。これはたいへんなことが起きている。GGは席にはつかなかった。連結で話しつづけた。


 純は早稲田の街を探している。

 

 翔子はどこにいったかわからない。焦燥にかられているようすが、携帯から伝わってくる。純の焦燥がGGをおびえさせた。


 吸血鬼ならいい。

 

 いちどや二度血を吸われたからといって生命には別状はない。ところが人狼は肉食だ。もし翔子が飢えた狼に捕獲されたとしたら。そうおもうと恐怖でGGの額から脂汗がふきだしていた。


「先生の書く小説では、人狼の巣窟は地下になっていますね」


 純の声がとぎれとぎれにする。電波のとどかないところにいるのだろうか。


 雑司ヶ谷霊園。ふいにそのことばがGGの脳裏にうかびあがった。


「もうじき上野につく。そのまえに護国寺の墓地を調べてくれ――」


 上野まではあと10分くらいだ。

 上野からタクシーをとばせばあと30分はかかかるまい。


 護国寺の墓地が西早稲田からはいちばん近い。そこに異常がなければ、次は、雑司ヶ谷霊園だ。人狼吸血鬼は墓地の地下に巣窟をつくる習性があるから。講談社の前で落ち合うことにした。タクシーがとまった。


「護国寺の墓地は?」


 タクシーの後部座席でGGが声をとばした。

 純は首を横にふった。人狼の気配はなかったのだ。純は悄然としてGGの隣に乗りこんできた。

 あとは、雑司ヶ谷霊園だ。



 雑司ヶ谷霊園。その墓地の付近は昔と、さほどの変化はない。

 街並みが変わっていない。さらに行くと、霊園を囲む有刺鉄線の外側。といっても鉄線の塀に接した場所。樫の木がこんもりと茂っている。街灯の光も届かない薄闇にその場所はあった。

 

 倒れかけた小屋。なぜそこに朽ちかけた小屋があるのか。存在していることそのものがあいまいな小屋。


 それでも入口の木製の扉には鍵がかかっていた。真っ赤にさびついている。早稲田から池袋までよく歩いた。いつも、この辺りのことは気になっていた。いまで言えば、ミステリースポットだ。


 扉をあけて探検したい誘惑にかられた場所だ。その扉の前に立っている。いまならわかる。人狼の臭いのするミステリースポットだ。純に人狼といわれて、直に思いだした場所だ。


 この小屋が、この扉そのものがGGの思い出の中では象徴的存在だった。

 結婚するまではなんとか文学賞をもらい、小説家として一本立ちしたかった。

 

 雑誌の仕事はときおりあった。じぶんひとりが生活していくのがやっとだった。

 (あのまま、都落ちをしないで、小説を書き続けていたら……どんな作品を書きあげていたろうか)

 

 回想から覚め、あのときできなかった探索に身に課した。小屋の地下からは墓地に向かう穴があいていた。まるで犬が掘ったような粗雑なトンネルからぬけだした。洞穴の内部にはなにもなかった。


 ただ街の歩道から墓地にぬける穴だった。だが、月光に照らしだされた墓地にはただならぬ凶悪なモノが待っていた。



 おどろおどろした凶悪な殺気が夜の底からわきでている。

 青白い月が照らす墓標の群立をぬってまちがいなくこちらにやってくる。


「きますね……」


 純は鬼切丸をはやくも抜き放った。


「アサヤ先生もこれを。翔子さんが置いていったものと、村上道場には鬼切丸三振りありましたから……」

「いや、おれも鬼切丸がある」

「ごめんなさい。先生のところは、鹿沼夢道流の分家でしたね」

「だから鬼切丸をいつも持参しているわけではないのだが。このところナイフによる殺傷事件がおおいから。いつなんどきこちらに突発しないとはかぎらない。黒磯の英語女教師がバタフライナイフでさされた事件もあったからな。まさか――東京で鬼切丸を抜くとはな」

「栃木県の黒磯の事件以来すね。ナイフによる傷害事件が全国で多発するようになったのは」

「ああ、毎日のようにいやな事件が起きている」


 ひとびとは、いますぐそこにある危険に、無頓着だ。じぶんの周りに――。凶悪な魔物が――。ナイフをもってうろついているのに気づいていない。


 墓地の果てで遠吠えがする。おたがいに獲物の侵入に奮い立っている遠吠えだ。気づかれた。翔子、いまいくから。無事でいてくれ。神にも祈る気持ちの純だ。もし翔子がけがしていたらと不安はつのるばかりだ。


 墓石の影から黒犬がとびかかってきた。

 吠え声もあげず、闇からとびだした。

 この犬は気配を絶つことができる。

 ふいに闇から襲いかかりその鋭い牙で敵を倒す。

 まさに、犬というより狼に近い。腰がくびれている。狼の姿態をしている。純は鬼切丸を一振りした。黒犬はかわす。


「翔子をかえせ!!!」

「翔子はどこだ!!!」


 GGも怒り心頭に発していた。

 忿怒形。

 逆立つ髪。

 焔髪。

 といってもGGには逆立つほどの頭髪のない悲しさ。絵にはならない。黒犬がGGを襲った。できるだけ引きつけた。犬は身をかわすことができなかった。ぎりぎりまで迫った。


 瞬時GGの突きがノドを貫いた。吠えもしない。ばたりと地面に倒れ落ちた。


「くるぞ」


 GGの声がまだ消えやらぬ間に――。黒装束の男たちに取り囲まれていた。


「望み通り、翔子をつれてきたぞ」



 ウエストサイド物語の指パッチンではないが――。バタフライナイフでチャカチャカと威嚇音をあげる。迫ってくる。黒装束の中央に。いた。翔子だ。左肩から血が流れた跡がある。


「翔子」


 純が叫んだ。悲痛な声だ。取り乱している。翔子を捕獲している男にむかって突き進んだ。前進を阻まれる。幾重にも男たちが立ちはだかる。男たちの必殺の怒号と純の叫びが翔子を気づかせる。失神から目覚めた翔子が「純」と一声呼びかける。男たちは堅牢な遮断機のように純の前進を拒んでいる。


「刀をすてろ。小泉純」


 翔子を抱え込んでいる男がいう。静かな声だ。


「すてるんだ」


「そっちのジジイも」


 ナイフの音にあざ笑われているようだ。チャカチャカチャカ。このとき、その金属音にほかの音がひびいた。キーンというような超音波? らしき音。人狼があわてて耳をふさぐ。

 ナイフを取り落とす。いつのまに忍び寄ったのか紅子が翔子の脇に立っていた。紅子は翔子を突きとばす。翔子と入れ替わった。


「逃げたんじゃなかったの、翔子。敵が人狼とわかったので仲間を呼びにいって、手間取った。でも、みんな人狼が相手となると、しりごみして。スケットはたった二人。情けないよ」


 芝原と柴山が紅子を守っている。


「なにをグチグチ言っている。おまえだっていい。切り裂くぞ」

「わたしは紅子。吸血鬼よ。あんたらと同じで簡単には死なないから」


 紅子がさらに金属音を発した。キーン。キーン。キーン。



「鹿沼のGちゃん」


 わたしのためにかけつけてくれた。鹿沼のGちゃん。翔子はなつかしい眼差しでみつめる。でも、どうして? 鹿沼から来たの。純。純に元気で会えてうれしい。そして、敵であるはずの紅子まで。ありがとう、ありがとう。翔子は心の底からみんなに感謝した。ほんとうにうれしい。ありがとう。

 翔子は生きていることが信じられない。あのまま人狼に食われてしまうと覚悟していた。

 Gちゃんが鬼切丸を振るっている。みんなが、わたしのために命がけで戦っている。わたしのために駆けつけてくれた。

 鹿沼のGちゃん。純。そして、敵であるはずの紅子まで。


 ありがとう、ありがとう。

 翔子と紅子のあいだには――。

 敵としての関係を超えた女同士の友情が芽生えている。パーフェクトな男性社会の人狼には、翔子も紅子も憎悪の対象だ。女性蔑視の群れなのだ。そして貪欲な肉食系、の人狼は――。翔子や紅子から見れば、凶暴な人狼は純と翔子、紅子からは憎悪の対象だ。おたがいに、軽蔑し合い、憎しみ合っている。


 純が翔子にかけよる。


「純!! あいたかった」

 気丈な翔子が涙をこぼしている。よほど悔しかったのだ。

「純。鬼切丸を貸して」

「翔子の鬼切丸はこれだ」

「アイツラ、わたしの左腕の肉を味みしたの。食べたのよ。ゆるせない。くちゃ、くちゃ噛みながら、うまいなんて評価していたの。許せない」


 GGは翔子が助けられたのを見た。翔子は元気だ。左の上腕から血を流してはいるが。安心して、翔子たちを囲んだ人狼の群れに切りこんだ。なんとかしてこの囲みをやぶって街にでなければ。あの抜け穴までは50メートルはゆうにある。


 人狼はいくら切り立てても減らない。街に補食にでていたものが、変異に気づきもどってきている。頭数はふえるばかりだ。墓地で狩ができる。このほうが、街で狩りをするより容易だ。そうヤッラは思っている。


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 翔子の左肩の傷口がさらに開いてしまった。血がさらに噴き出す。目ざとくそれを見て純が「引こう」と翔子にささやく。離れているので声はとどかない。大声をだすわけにはいかない。黒装束も黒犬も黙々と迫ってくる。数がおおすぎる。


 紅子。芝原と柴山。

 GG。純と翔子。

 敵のナイフと牙は増えつづける。切り倒す数より、街からもどってくる員数のほうが多いのだから始末に悪い。そして多勢に無勢のこちらは疲労が加速する。やがて、動けなくなるだろう。抜け穴の入り口に向かって後退する純はハッと固まった。敵は街から抜け穴を使って戻ってきていた。あたりまえだ。そのために、街と墓地をつなぐためにある抜け穴だ。純は味方を穴の入口に誘導できなくなった。翔子ともまた離れてしまった。


「翔子。どこだ?! 翔子」


 純の声をきいてGGが敵を切りたてながら必死でこちらによってくる。


「ここよ」


 おもわぬところで翔子の声がした。遠くばかり見ていた。翔子は意外と近くで戦っていた。背中あわせになった。


「純こそダイジョウブ」

「いっしょに戦えてたのしいよ」

「わたしも。うれしい。このまま死んでもいい」

「なにを不吉なこと」とGG。


 しぜんと紅子たちも寄ってきた。サークルをつくって敵に対した。

 紅子が超音波をさきほどから発しつづけている。だがすこしさらにパワーアップしている。なにものかに呼びかけている。

 すると、このとき――薄闇の空が月光をはばまれたのでほとんどまっくらになった。コウモリの大群だった。


「もう、おそいよ。はやく、人狼を空からおそって」


 コウモリの大群に紅子が叫び上げる。


「助かりそうだな」

 芝原と柴山がつぶやく。

 コウモリは急降下して敵を襲う。

 紅子を守るように重なりあって飛び交っている。


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 コウモリに目や耳や顔を攻撃された。犬の吠え声と人狼忍者の怒号や悲鳴が墓地の中空にこだまする。その一瞬のスキに六人はひと塊りになって走りだした。


「墓地を抜けよう」


 GGにいわれて、純は翔子を抱え込むようにして走りだした。

 都営荒川線の通っている通りにでた。街灯が灯り、信じられないほど平凡な街がそこにはあった。あれだけの戦いをしてきたのがウソのような静けさだ。翔子が、純の腕の中でぐったりとしている。


 ダランと両手がたれたままだ。左肩からはまだ血がにじみでている。

 純が当てたバンダナが真っ赤に染まっている。しぼれば血がしたたりそうだ。ボッテリとぬれている。翔子がぐったりとしてしまった。


「翔子。翔子。目をさませ」

「女子医大に連絡だ」とGG。

「救急車をよぶよりタクシーのほうが早い」

 緊迫した声でGGがさらにいう。

 

 翔子が意識をとりもどしたのは病院の処置室からもどってからだ。

 病室。

 明け方になっていた。

 翔子の指がピクっとかすかに動いた。指先がピクっとはねた。

 なにか、つかもうとしている。小刻みに痙攣した。


「翔子。翔子」


 ナースコールを押しながら、純は翔子の手をにぎった。翔子が反応した。


「気がついたとき、純がそばにいてくれた。すごくうれしかったよ。これからはどこにもいかないで」

「ずっといっしょにいられるから。どこにもいかない。そのつもりで帰ってきた。これからはずっと、ずっといっしょにいられるから」

「わたしたちは、なぜか邪悪なモノが許せない。ひとに害意をもつモノが許せない。損な、性質よね」

「先祖から受け継いだ〈性(さが)〉なのだろう。いつの時代でも、世間に悪をなす〈業(ごう)〉の深いモノに対抗する存在が必要なのだ」

「わたしたち似ていたのね。小学生のころからずっと純のこと想いつづけてきた。うれしい。……うれしい、だから……いまだけ、泣かせて。こうしていっしょにいられるなんて夢みたい」 

 

 そこまでいうと、翔子はまた眠りこんでしまった。よほど疲れているのだ。涙がほほにこぼれていた。


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 陳腐な表現しかできないのがもどかしかった。

 ありきたりの言葉でしか、じぶんの心を表せないのがものたりなかった。そんな翔子だった。もっとロマンチックに愛の告白ができたらいいのに。


「わたし……早稲田の街歩いていて……この街に純がいてくれたらどんなにうれしいだろう……そんなこと、いつも想っていた。純に万葉集の相聞、恋歌の話を聞けたらいいなぁとねがっていた」


 ドクターが診察にきたので、純は外に出た。すれちがうとき女医さんが「直ぐ元気になるわよ」と声をかけてくれた。「Gチャン先生によろしく」女医さんはGGの「アサヤ塾」の教え子だった。


 完全看護だから付き添いは不要とナースにいわれたが、純が残った。翔子の枕元で一夜を過ごした。それで、翔子が意識をとりもどしたときに、そばにいてやれた。よかった。純はうれしかった。

 喜びの知らせを翔子の母に携帯で電話しておいた。


「翔子。野犬があんなにいるとは、おどろいたよ。想定外だった。今回は紅子さんに助けられたが、いつも彼女の助けを期待するわけにはいかない」

「わたし、鶴巻南公園で犬に襲われたときは、抵抗できなかった。犬と黒装束の忍者みたいな連中にふいをつかれて……拉致されたの」

「人狼がいるなんて、いまでも信じられない。おどろいたよ。アサヤ先生に人狼の話を聞いていてよかった。」

「鹿沼のGちゃんは? 早稲田に泊ったの」

「深大寺の奥さんの実家にいった。ミイマさんの知恵をかりることがあるから……といっていた」


 ミイマはマインドバンパイア、とはいわなかったが、翔子には以心伝心、純のいいたいことは、伝わっていた。


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「しばらく夜の街を歩いていなかったから。あまりの変わりように、おどろきました」


 GGは妻と向かい合っていた。ミイマの隣には義父が座っている。


「わしだって夜の新宿や池袋のようすはわからない。おどろくべき変化だ」

「外人のほうが肩で風切っている。ルーマニアの吸血鬼や人狼が跋扈していました」

「殺伐とした世の中になったな」


 マインドバンパイアの総帥も老いた。吸血鬼でもさすがに老いる。寂しそだ。


「長生きし過ぎたようだな」


 雑司ヶ谷の霊園での出来事をGGが説明したところだ。


「このままほうっておくわけにはいかないわね」

「翔子を守らないと。さいわい紅子さんが味方してくれた。コウモリを呼び集めて人狼を攻撃させた」

「おとうさん。どうする」

「戦争は起こらないだろうとおもってきた。平和ボケしていたのだ」


 GGとミイマは連れ立って外にでた。バラ園は濃い霧がおおっていた。


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「平和ボケしていたのよ。でも、ナイフによる殺人が増えていた。だれでもいいから殺したかった。そんなことをシラッと言い切るシリアスキラーが現れるようになった。それもつぎつぎと――。子どもをガムテープで目張りした部屋に閉じこめて殺す。洗たく機に放り込んで殺す。そんな母親がいる。吸血鬼や人狼の狂気がひとびとに伝播しているのよ」


 GGはひさしぶりで会ったカミサンの言葉に耳を傾けていた。バラ園はいつしか霧雨となっていた。視界が狭まった。バラの匂いは一層強くなった。


「ミイマと知り合ってから何年になるのだろう。おかげで目にミエナイモノが見えるようになった。邪悪なものと戦ってきた」


 吸血鬼という言葉は使えなかった。

 吸血鬼と一言で括(くく)れない。彼女だって吸血鬼の特性を幾つも備えている。彼女の一族はながい鬼との確執のなかで、いつの時代か、誰かわからないが敵と契ってしまった。

 それで一族は鬼の血を受けいれた。彼女はマインドバンパイァなのだ。まず歳をとらない。いや時の流れの中に生きているのは確かなのだが、彼女の周囲では時はゆったりとながれているのだ。それであまり同じ所には住めない。ふたりは愛し合っているのに別居を考えてといるところだった。いつになっても、歳をとらない彼女を街のひとびとが不審に思いだしていた。彼女は実家にもどろうとしている。そのやさきの、この吸血鬼さわぎだ。


「おれに死に場所を用意してくれたような気がする。いつかはこういう事態になるとは覚悟していた」

「どうしてそんなに弱気になったの。いつものあなたらしくない」

「翔子が傷つくのを阻止することができなかった」


 あるかないかの雨音を藤棚の下できいていた。


「長いお別れになるかもしれない」


 ――おれは歳を取り過ぎた。


「わたしにさよならを言うために来たの。わたしたち夜の種族があなたをこのままルーマニアの吸血鬼や人狼と戦う場に独りいかせるとおもうの」

「だが、これはわれわれ人間を狩る悪意あるモノとの戦いだ。マインドバンパイアのミイマたちを巻きこむわけにはいかない」

「なにをいまさら、ずいぶんと他人行儀なのね。翔子はわたしの孫娘よ」

「そういうことだ。そしてわたしの曾孫(ひいまご)でもある」

 姿は見えないが義父の声がひびいた。

「バラ造りをしながら歳をとる……わが一族には平和がつづきすぎた。みんな血がさわいでいる」


 血が騒ぐ。吸血鬼の血が騒ぐとはどういうことなのだろう。ジョークともとれる義父の言葉が新たなる戦いの宣言となった。


「ありがとう」


 GGは涙声になっていた。


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「噛まれてはいないよ」


 見舞いに来てくれた紅子が翔子の首筋、耳の下あたりを気にしている。


「腕の肉はごっそりもっていかれたけど、首筋は噛まれてないシ」

「よかった。はやく元気になってね」

「うれしいこと、いってくれるのね」

「何度か会って、戦ったりもしたけど、いや……戦ったからわかったのよ。翔子はわたしたちの敵ではない。それをオトコたにも納得させた。芝原も柴山も味方だから。ほかの男たちだって心配ない。いずれわかってくれる。かれらは、ガラにもなくびびっている。この東京にきてあまりに日本原産の吸血鬼――鬼がおおいので、恐れている。わたしと翔子の敵は、墓地で戦ったアイツらにキマリよ」

「GGにきいたの。奈良は平城京遷都1300年祭りでいま賑わっているの。そして、平城京を荒らした鬼も復活したの。鬼を召喚してしまったの。だから日本全土で鬼のような行為をする人がふえているんだって。鬼母の幼児虐待がひろがっている。鬼子母神症候群が発生しているのよ。それを世間の人が起想しなければいけないんだって。子どもすら食べた鬼母がいた平安の昔がこの平成によみがえってしまったらしいの」

「戦わなければ!! 翔子はやく良くなって」

「いまだって闘える。右手だけでも剣は使える」


 翔子の左肩の傷は、人狼の噛み傷だ。治りが遅い。

 病室のテレビは、100歳以上の老人の行方不明者について報じていた。報じているだけで、その根底にある家族の愛の欠落にたいしては、沈黙を守っている。


16


 翔子のモノローグ。


 ゆらゆらと意識が戻り始め……なにかにすがるような気持ちで現実の世界に戻ったとき、そこに純がいた。純がわたしに話しかけていた。その声をたよりにわたしは目覚めたらしい。ゆらゆらと海藻のようにゆらぎながら暗い海の底から浮かびあがったようだ。白いシーツに横たわっていた。ベッドの脇に、そこに純がいた。ながいこと暗闇で純のことを想っていた。純に手をひかれていた。鶴巻南公園でよく遊んだ。砂場で砂のお城でもつくっていたのかしら。


「このお城でお兄ちゃんとケッコンスル。翔子、いつまでもお兄ちゃんといたいもん。この砂の城の、翔子、お姫さまなのよ」

「ああいいよ。お兄ちゃんも、翔子のこと好きだよ」


 約束したのに、わたしが年頃になったとき、いなかった。

 約束したのに、わたしが愛することが、どういうことか。

 わかりかけてきたとき、純はわたしのそばにいなかった。


 病室なので、見舞いに訪れるひとがいないときは、呆然とするほど孤独な時間が流れる。その独りぼっちの時間に、純のことを想った。家族の絆について考えた。特に、必ずどこかで生きているはずの父について……。純と二人で、悪霊と闘える。うれしい。


 戦いに勝利してはやく純といっしょになりたい。結婚したい。子どもを産みたい。純、愛している。


17


 看護師が検温にきた。夕暮れの光が窓から射しこんでいた。いつもの彼女とちがった。ネームを翔子はみた。百々。

「何て読むの? 珍しい名前ですね」

「百々百子。名前まで入れてこう書くのよ。珍しいことは確かね。いままでに読めた人いないの」

 メモに書いた名前にふりがなをふってくれた。ドドモモコ。

「それより、翔子さん。村上翔子。都市伝説になっている悪霊ハンター。吸血鬼ハンター。吸血鬼エクスキューター、鬼殺し。何とでも呼べる、あの伝説の……」

「わたしそんな有名じゃないシ」

「百子、全国高校剣道大会で翔子に会っているの」


 記憶があいまいだ。思いだせない。それに試合ではお面をかぶっている。素顔がみえない。翔子がテレル。そんな翔子の手をとった。百子に引き起こされた。看護師がなにするの。シッーと唇に人差し指をあてている。百子をフォローする。薄暗い廊下にでた。もう病室は両脇にない。何かブキミ。何か出そう。何かでるとすれば、妖怪、お化け、悪霊、だろう。病院から出た。


「翔子さんに、見てもらいたいものがあるの」


 病院から少し離れた廃ビルに連れていかれた。旧病棟だ。いまは使われていない。

 ときおり扉はあるのだが、何のための部屋か表示がない。物置? 空き室? 扉が開く。妖気が流れ出る。煙のようだ。そして廊下の隅まで流れていきそこで煙が立ち上がり、人型になる。吸血鬼らしい後ろ姿だ。アイツラはわたしたちの敵。平安の昔から日本では鬼と呼ばれていた。何代にもわたってわたし達の家系の者は、鬼と戦いつづけてきたの。


 歩み去っていく後ろ姿が異様だ。鬼だ。悪霊だ。腰のあたりが何かすごく不潔な感じがする。老人なのか。腰が曲がっている感じ。

 まちがいなく鬼だ。吸血鬼だ。


「つけてみよう。百子さん」

「わたしは初めからその気だった。ひとりでは不安だったの。わたしはクノイチ。伊賀忍者の百地三太夫の末裔」


 百子がそっと翔子にいう。


18


 翔子と百子は赤十字のロゴのハデナ移動献血車の窓からなかを覗いた。

 場所は新宿。

 車の前方の街角公園のテント。白衣の看護師がいる。献血をする長蛇の列が出来ている。

 そして車の中では。そんな。現実に見たものを信じられない。

 後部座席で利き酒でもするように――病院からぬけだしてきた者たちが、

 カップいっぱいの血? を飲んでいる。翔子と百子がつけてきたものたちだ。

 その不気味なところは。極あたりまえな――日常茶飯事として。

 ――それこそ文字通りお茶しているように。

 血を飲んでいることだ!


 翔子は、すわこそ、鬼切丸を抜こうとした。あれいらい、肌身離さず隠しもっている。


「だめよ。何人いると思っているの」

「だって……こんなの見過ごせないシ」

「わたし、翔子に見せたかったの。そして無暗に刀を抜いて戦うより、このことをしっかりと見てもらいたかったの」

「それでは問題解決にはならないわ」


 百子に促されて、献血車から離れた。


「病院にもどりましょう。あの車ってギミック? あの吸血鬼だってギミックだよね」

「だったら……どんなに幸せか――。鬼がおおすぎるわ……」

「赤十字社の人ってどこにいるの」

「テントで働いていたひとたちは本物よ。車の中の人だけ入れ替わっているのよ。だれもそれに気づいていない」

「だったらどうしても、助けださないと」

「鬼のヒト睨みで、催眠にかかっているのよ。じぶんの隣に鬼がいるのがわからないの。鬼が去れば、正気にもどるわ」


 百子はなんども目撃しているのだ。翔子には初めての体験だった。


「カンヅカレタミタイ。つけられている」

「わたしにもわかる」と翔子。

 百子はさすがクノイチ。薄暗がりを病院に向かって走りだす。気配を消している。夜風のように街を通り抜けていく。いつしか、翔子は百子にはぐれてしまった。病院にいたからだろう。体力が落ちていた。いや、百子は敵を独りで引き受け、翔子から引き離したのだ。翔子はナースセンターに寄った。


「百々さんいます」

「……?……」

「このセンターはドドという看護師はいませんよ」

「ほかの病棟には」

 翔子があまり執拗にきくのでPCで看護師名簿を調べてくれた。

 ドドモモコは、どの病棟のナースセンターにもいなかった。

 PCから離れた看護師に「さあ、村上さんヤスミマショウ」といわれてしまった。

 わたし宵の口から、ネボケタ、と……思われている。


19


「そんなことはない。味方がいるのだ。ぼくと翔子は、ふたりだけではない」

 赤いバラをもって見舞いに来てくれた。純とGG。ミイマもいる。

「そうよ。純のいうとおりよ。わたしたちもついているから……」

 とミイマにも励まされた。

「平安時代の鬼が現世に出現したのはまちがいない。『宇治拾遺物語』巻第十三の十。慈覚大師、纐纈城に入り行く事――にでてくる血ぞめの赤い布をつくっていた吸血鬼が大師の一行にまぎれて日本に渡来した。あるいは吉備真備だったかな? ともかくあの時代に鬼が渡来したことにはまちがいない。それを封じ込めた阿倍晴明の陰陽師としての力も――千年以上も経ったので薄れてきたのだろう。たいへんなことになったな。慈覚大師は下野(栃木)の人。だから、中国から伝来した鬼が居ついたのは下野の国だった。それでわたしたち純もそうだが、下野、鹿沼夢道流には鬼と闘う術があるのだ。ヤッラは鬼と呼ばれる存在だ。大きな壺に人の血をしぼってため、それで布を染めたと書いてあるのだから、いまでいう吸血鬼だ」

「百子さんも吸血鬼の出現に気づいている。確かにわたしたちは二人だけではない。ありがとう、ミイマ」


 幸い、翔子の噛まれた傷口からは吸血鬼ウイルスは検出されなかった。もっとも翔子はミイマの孫。微弱ながらマインドバンパイアの血を受け継いでいる。抗体があるのかもしれない。噛まれた傷だけだったのであすは退院ということになった。


20


 GGは大森でとんでもないことを始めた。


『BB刀エクササイズ』という看板のジムを開いた。こうすれば、東京で自活できる。孫の翔子のそばにいられる。――むろん娘の文枝のそばにも。

 刀エクササイズのことは、テレビでちらっと見た。そのパクリだ。フィットネスをかねた剣道場だ。

 刀エクササイズのほうはイケメン。

 こちらは、GG(じじぃ)面(づら)。

 BBはbeautiful body。ノッペリトシタイカメンGGの指導では生徒は来ないだろう。

 特殊ウレタン製の刀だけ用意した。チンドン屋でも頼んで『道場開き』の宣伝をしょうかとあいかわらず古風なことを考えた。ところが、ところが。さすがはトウキョウ。即、道場をイツパイにする申し込み。それもうら若き女性ばかり。どうなっているんだ。この世の中は。なんて、バチアタリなことは思わなかった。


 ロックのリズムにのせて袈裟がけ、逆袈裟、胴ギリ、真っ向から竹割り。と調子に乗っての演武。そして喉への突き。これが結構受けた。


「神に代わって、お仕置きよ」


 叫ぶ練習生もいる。職場でのウップンを晴らしている感じだ。

 そして、まちがいなくヤセル。と、あっては、生徒が増えるのはあたりまえだ。

「こんなことなら、はやくトウキョウへくればよかったわ」

 ミイマもよろこんでいる。

「いや、田舎暮らしも、けっこうたのしかった」

 と、GG。

「鹿沼のバラ園は玲加ちゃんにまかせてあるし。心おきなく戦えるわね」

 刀エクササイズを始めたのもそのためだ。

 人知れず命がけで戦う。夜の闇でいかに鬼を倒しても、収入にはならない。

平安の御代の鬼キラーは侍だった。


 陰陽師にしても帝おかかえの人材がほとんどだ。この平成の世に生きるGGたちは、鬼退治をしても、まったく無収入だ。イイ仕事を始めたものだ。

 ふいに道場にいるGGの携帯がなった。翔子からだった。

「GG、献血車がやけにおおいのよ」

「それはおかしいな」

「すぐ来てくれない」

「あと一マス授業がある」

「わたしが、先に駆けつける」とミイマ。

「場所は?」


21


 ミイマは採血室にはいった。

 医療品の臭いにガソリンの臭いが混ざっていた。ミイマの腕が駆血用のゴムで縛られる。採血用の注射針が刺される。真空採血管をつなぐ。セットされた採血用真空試験管に蘇芳色のミイマの血がどくどくと吸いこまれていく。血をみるとミイマは胸が熱くなった。嫌悪感から吐き気がする。

「大丈夫ですか? 中止します?」

 と看護師がやさしく労わりの言葉をかけてくれる。血を抜かれるのはこの歳? になって初体験だ。「歳よりずっとお若いですね」と看護師はさらにやさしく言う。献血者カードに記入した年齢もウソだ。わたしがその年齢よりも、若く見えるどころか、なんと平安の鬼が跋扈したころから生きていると知ったら、この看護師どんな顔をするだろうか。


「ミイマ。なにも献血しなくても……」

「心配ないから。それに白衣の看護師たちはフツウの人だわ。あの献血車の秘密をあばくにはこれしかないでしょう」


 といって入室した車の中だ。看護師さんも親切。なにもやましいことはない顔。裏がある。表で働いている従業員にはなにも知らされていないのだ。


「どうだった。なにかヤバイことあった」


 いま輝きだした風林会館のあたりのギラツク原色のネオンが見える。夜間になっても献血車は動きださない。次々と献血する人が入っていく。

 車の後部扉が開いた。人がなだれるように下りてくる。鋪道に吐いている。喉をかきむしって苦しんでいる。その数、五名ほど。アイツラ、わたしの血を飲んだのだわ。


「いまよ、翔子。とどめを刺すのよ」


 翔子には何が起きたのか分からない。それでも、鬼切丸を抜くと彼らに向かって走りだした。


「わたしたち夜の種族は、同族の血を飲むとああなるのよ。それを確かめたかった。あいつらまちがいなく、吸血鬼。わたしの血を飲んだのよ。遠慮はいらないわ」

 ミイマも翔子と並走している。サスガはマインドバンパイャ。仲間内のことには明るい。


「捕食もせずに、血を飲む。セコイ手を思いついたものね」


 ミイマのバラの鞭が吸血鬼の心臓に突きたつ。ジュと音を立てて吸血鬼は溶けていく。


「すごい。すごいよ、ミイマすごい」


 翔子も鬼切丸をふるいながら感動している。

 ミイマは残忍な害意を感じてふり返る。


「おまえ、だれだ」


22


 暑いのに黒服の男。


 いまどきあまり見かけない酒焼けした赤ら顔。いやそれはとんでもない誤解だ。あれは血の飲み過ぎね。男がニヤニヤしながらさらに近寄ってくる。


「同族の血の臭いに疎い奴らだ。みずから墓穴をほったようなものだ」


 どこかで会った記憶がある。たしかに会っている。この声は――。確かに聞いたことがある。昔会っている。「遠い未来のなかで、この男にはまた会うことになるだろう」とそのとき思った。その思いだけは忘れない。でも、これは誰だ。誰なのかしら。


 それはいつの時代だったろうか。いつの時代にこの男と会って、今のこの現実の世界で――再会することを、想像したのだろう。――ミイマは必死で思いだそうとした。


 歓楽街の嬌声が潮騒のようにきこえている。


「ねえっ、あれいこう」

「うん、あれいい。いこう。いこう」


 キャッチの少女が今宵はじめての客をゲットしたらしい。


 獲物の中年、スケベエジジイに向かっていく。魔界の領域にあるボッタクリバーに連れ込まれ、生き血を吸われるとは気づいていない。哀れな男。

 ホステスたちはオウナーに過酷なノルマで生き血をすわれている。

 不法滞在の女。東アジア諸国からの出稼ぎ。少女が黄色い声をハデニはりあげ、客をエッセ、ワッセといった感じでバーに連れ込む。

 ひさしぶりの歌舞伎町はミイマには刺激的な風景ばかりだ。

 ……この男、だれだ。

 電子音がミイマのジーンズのピストルポケットで着メロを奏でる。ハナミズキだ。すばやく携帯をとりだし耳にあてる。君と好きな人が百年続きますように。という一青窈の歌からスピンオフした映画。気にいったGGが、着メロをこのメロデーにしたものだ。


 わたしは何千年でもいっしょにいられるのに。人間であるかぎりGGには、それはムリ。身を引く男の哀れさが、せつせつと歌いあげられている歌詞が、GGを惹きつけたのだろう。わたしが長く生きるという事実が、GGには悲しい現実なのだろう。

 わたしは長く生きつづけられるが、GGにはそれが出来ない。GGはピアーな人間なのだから。いつかは別れが来る。若いままで年を取らず生き続けるわたしを思慕している。


 出会ったときは、ふたりとも、いやGGのほうが若く見えたくらいだった。いつかは、別れが来る。未来の彼と末長く生きたい。――それが出来ないから、悲しいのよ。GGのわたしへの想い。わかりすぎるから……悲しい。

「おい、真面目に、おれの相手をしろ」

 目の前の男が威厳をみせ、ミイマをにらみつけた。目をつりあげた。鬼面になった。ジレテ、おこりだす。

「あら、おまたせ。ダーリンからの電話だったのよ」

「そんなもの、出なくていい」


23


 男は胸にヒスイの勾玉をさげている。

 かなり大ぶりなモノだ。深緑色で半透明な宝石は男にとってパワーストンなのだろう。男が話すたびに胸元で揺れている。左右に揺れる勾玉がミイマに催眠効果をもたらした。

……どこかで会っている。……まちがいない。……デジャブ―なんかではない。確かに会ったことがある男。おなじ、夜の種族。男の胸元のヒスイの揺れに集中しているうちに頭がくらくらしてきた。いけない。眠りに誘いこまれる。男の勾玉が平べったく伸びる。平面となり男の顔に仮面となってはりついた。

ヒスイの面をかぶった鬼――吸血鬼。ヒスイが黄金のように溶けて、仮面になることなどない。これは、幻覚を見させられている。ヒスイの面の男が一歩ふみだした。

「ミイマ。あぶない」

 翔子の声がひびいてくる。

「ミイマ。敵は右横。献血車のノウズのほうよ」

 目の前に見える男は、幻なのだ。やはり幻を見ていたのだ。翔子の指示に従って、バラの鞭で右横を薙ぐ。ゲェっと苦鳴が鞭の先で起きた。なにかを叩いた手ごたえがあった。

「ミイマ。すごい。気配をたよりに斬ったのに、敵の顔にヒットしたよ」

 ヒスイの勾玉の男が悔しそうに翔子をにらんでいる。あの勾玉の揺れを見ている間に、瞬間催眠にかかってしまったのだ。しばらく平和だった。戦いの勘がにぶっていた。

 わたしが、心理を操作されるなんて。お恥ずかしい。でも、敵はまちがいなく、わたしが、マインドバンパイアだと認識した。これからは厳しい戦いになるだろう。

「ミイマ、コイツはどうして、健康体なの」

「それはな、オジョウチャンおれが血を飲まなかったからさ。いまどきの若いもんは、仲間の血の臭いもわからない、クズだ」

「わたしは同族の者とは戦いたくないの」

 男の頬にバラの鞭でたたかれた擦過傷ができている。


24


「痛いではないか。おれのほうからはまだしかけてない。玉藻さまを救えなかった恨みか!! それならおれは関係ない。おまえが、犬飼の連中の幻術にかかったのだ。あの犬どもの始祖は……、慈覚大師をあの中国の吸血鬼の城――纐纈城から救いだした大きな犬だ。いかにおまえが九尾族のマインドバンパイアでも敵う相手ではなかった。そんなことも忘れてしまったのか」

 男はむろんヒスイの仮面などつけてはいなかった。それどころか、酒焼けした赤ら顔でもない。ノッペリシタ公家面、長い眉毛。赤いくちびる。

「信行」

「そうだ。藤原信行だ」

「あの西行とよく京の街を遊び歩いていた、優男」

「そして、美魔、おまえの元彼だ」

 元彼などという、今風な言葉を使われているうちに、記憶がよみがえってきた。悲しい別れの涙まで。思いだした。

「おれは、あれからずっと眠りつづけた。奈良の遷都1300祭で呼び覚まされた。美魔とこの東の都であうとは……。どうだ、いまからでも、やり直さないか」

 ミイマは応えられなかった。


25


 携帯がなった。幻覚から再び覚めたような感覚。通知着信。GG。

「はい、わたし」

「よかった。すぐそばまできている。だれもいないのに、目の前に誰かいるように話しているから」

「ミイマ!! しっかりして?!」

 翔子とGGが心配そうに、わたしをみている。わたしどうかしている。あまり長く生きすぎているので、時系列に沿って過去を思い出すことができない。想い出の中の信行は後に西行と呼ばれるようになる男とよくわたしのところに遊びに来た。でも、あれは平安時代の末期のはずだ? わたしは、あれは、信行とのことは奈良時代のことだったといまこの平成の時代に思っている。まあ、いいわよね。長く生きているのだから少しぐらいの時代の錯誤は鹿沼に残してきた歴女の玲加チャンでも許してくれるだろう。

「だいじょうぶか。ミイマ」

「ふふふふ。美魔。いまの彼はやさしそうだな」

「みえる。おれにも、見える。これは……」

「GG。奈良時代の元彼よ」

「ゲッ。ミイマ、ほんとなの」

 翔子にも目前の男が吸血鬼に見えたらしい。


26


「おれたち――人間はたかだか一緒にいられるのは、半世紀。長生きしても70年。だから50年で金婚式なんていって祝う。悲しいではないか。愛し合うものにとってはあまりにも短い。……短すぎる。だが……ミイマは不死の種族。死なない。もしも、肉体に損傷をうけても、それを脱ぎ捨てることができる。新たな肉体に長年の記憶の蓄積をもちこむことができる。あまりに現実を生きるのに辛ければ、棺の中で冬眠だってできる。そんな種族のミイマを、わたしは……わたしは独り占めにしておく権利はない」


「GG。不死の種族だの。権利はないだの。GG――らしくない」


「もっと長く、永遠の愛を誓いあえる彼に、ミイマを戻してあげるほうが、ミイマのためになるような気がして。これから千年でも、万年でも生きられる彼に……」


「なにハナミズキしょうとしているの。愛には……長いとか短いなんてことはないの。愛しているのよGG。あなたは余計な心配はいらないの。ソンナ心配するひまがあったら。……さあ、『BB刀エクササイズ』で稼ぎましょう」


「そうだよ。GG。わたしも今日から手伝うから。元気出して」


「だが……ショックだったな。この歳になって恋仇があらわれるとは……」


 エクササイズのジムは満席御礼。GGのアシスタントに翔子と百子の美女が2人も参加したのだから。それはあたりまえのことだ。そこになんと水嶋ヒロ似の純まで加わったのだから……。

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