第二章 私立池袋学園の怪談。書道部


 成海離子主演の「書道ガールズ」の人気のおかげだ。

 と……部員はみんな知っている。知らないのは顧問の平池春陽先生くらいだ。今朝もカンヌデビュー!  豪快な書道パフォーマンスに観光客がわく、とテレビのニュースでやっていた。はかま姿で豪快なパフォーマンスを成海離子がみせていた。


「春陽先生はテレビみないシ」

 三年生になって伝統ある書道部の部長となった鹿沼豊に川添涼子が応える。

「どうして書道部にこんなに大勢の新入生がはいったか先生はおわかりかな?」

 と豊がツブヤイタことに二年生の副部長、涼子がすばやく応えたのだ。

 苦労している。気配りはたいへんなものだ。新入部員激増の理由をしらない先生に代わって、豊はパフォーマンスをみせる。いまさら永字八法でもあるまい。横センと欲すれば縦セヨ。縦の線をひこうとおもったら横に打ちつけてから!! なのだよ!!! などと教えてもだれもよろこばない。


「半切に作品をかけるようになるまでぼくは十年かかりました」

 と説明する謹厳実直な先生に代わって豊は、マスコミでの人気に乗じて書道部を盛りたてようとしている。


「豊がイケメンだからよ」

 涼子はサラリと言う。豊は照れながら半紙に新幹線の先頭形状をイメージした線をひいてみせる。


「わぁダイナミック」

「線が生きてるわ」

 などという歓声が起こる。涼子はふと気づく。部員の上げる歓声の間にかすか音をきいた。なにかひっそりとした音。パラパラと本のページをめくるような音だ。辺りを見回す。ゴキブリでも這っているようにもきこえる。


 机にきちんと重ねられた半紙の角が動いていた。


 涼子は半紙の角が動くのを目撃した。だれも豊の筆の動きに見とれている。半紙の角が目にみえない指ではじかれているみたいだ。涼子は真っ青になった。

 

 部室は窓が閉まったままだ。風のいたずらではない。だれもその半紙の重ねられた机の隅にはいない。透明人間でもいるのか。それより騒がしい霊――ポルターガイストか。涼子は体ががくがくふるえだした。


 どうしょう。

 どうしょう。


 みんなに注意したほうがいいのかな。わたしだけにしか見えない超常現象なのかな。超常現象だなんておおげさすぎるシ。どこからか隙間風がふきこんでいるのよ。そうよ、風よ。ヤッパ、風でしょう。

 涼子はそっと音を立ててめくれている半紙の角に手を近づけた。風なんか当たっていない。指先までふるえだした。背筋を冷や汗がながれおちる。体が冷たくなる。

 豊のかたわらの半紙がまいあがった。ひらひらと蝶のように虚空にまいあがった。部員はこれも豊のパフォーマンスと思いこみいっせいに拍手をしている。


「すごい。すごい」

「紙が生きているみたいに飛んでいる」

「すごいわ」


 涼子が手をあてていた半紙も一斉に部室の天井に舞い上がった。

 豊が不審そうに四囲をみまわす。


「扇風機でももちこんで、だれかトリックをしかけているのかな」とこころのつぶやきを声にする。いちはやくそれを聞いた涼子が「センパイ。怪奇現象ですよ」とささやく。半紙の舞はいまや部室いっぱいにひろがっている。豊が筆をとり落とす。墨をたっぷりと含んだ筆が床に落ちる。墨があたりにとびちる。


「すばらしいわ」とびちった墨の跡にまで部員は感動している。


「キヤ!!!」と悲鳴があがった。豊が血をながしている。指先から真っ赤な血が流れていた。床に散らばった半紙のうえに鮮血がしたたっている。やっと、部員も異変におどろく。さらに、紙が部員を襲いだした。口にはりついた。それはいいほうだ。紙の縁で頬をきられる。額をきられる。血が白い半紙に滴り落ちる。首筋を切られて血が噴き出す。部室はパニック。

 

 悲鳴。

 

 逃げまどう部員。


「火災警報を鳴らすんだ!!!!!」


 廊下への最短距離にいる女子部員に豊が叫ぶ。

 

 その部員は引き戸をあけ廊下に走り出る。



 部員は引き戸をあけた。

 警報を鳴らさなければ。

 しかし、外には走り出られなかった。敷居をまたいだ。

 そこで、紙に追いつかれた。


 紙が、まるでトルネードのように渦巻き彼女に襲いかかった。

 彼女は紙でぐるぐるまきになった。ギャッと絶叫がした。

 

 紙の塔がジワッと紅色に染まっていく。

 カマイタチみたいだ。彼女の生足を血が滴りおちた。足は紙におおわれていない。部室の底部ではなにも起きていない。


「伏せるんだ」

 とっさに豊は叫んだ。

 紙の乱舞は天井にむかっている。

 その中になにか――いる。

 まさかイタチでも!!! 


「伏せるんだ」豊は匍匐した。

 はって、近寄った。

 血染めの半紙をとりのぞいた。

 新入部員。確か、みんながケイと呼んでいた。


「ケイ。ケイ。ケイ」

 ケガをしていた。太股から血を流していた。ぱっくり傷口が開いていた。廊下を通りかかった男子生徒が「どうした」と声をかける。


「報知機。警報を鳴らしてくれ」

 豊は彼女の傷口に涼子のハンカチをあてた。涼子と二人でケイを廊下に引きずる。紙につつまれて、白いオットセイのように部員がはってくる。なにか仮想現実の世界での出来事を見ているようだ。ガサゴソとオットセイは白い巨大な波頭のように豊と涼子めがけてうちよせてくる。聞こえてくるのは潮騒ではない。


 波の音ではない。

 悲鳴だ。

 苦鳴だ。

 ぜいぜいする呼吸音に、泣き声がまじっている。それは恐怖に泣く書道部員の声だ。豊もパニックを起こしていた。あまりの恐怖が怒りに変わった。


「なにものだ」


 たしかに感じられる。だれかいる。

「豊センパイ!!!!」

 涼子の叫びが後ろでする。豊は部室の中央にとってかえした。

「だれだ」

 紙が動きを止めた。動きの止まった一枚の半紙に血がにじんでいく。口でも拭いているようだ。半紙には一本の線が引かれていた。さきほど豊が書いた流線型の線だ。そのうえに赤い顔が浮きでた。顔の下に墨の黒い線。コルーマンひげのようだ。

 そして顔の魚拓。ああ、それは吸血鬼の顔だった。

 空に浮いた半紙の赤い顔がちかよってくる。フフフフフフと低い声がした。

 いた。

 確かにここにナニカいる。

 いる。いる。いる。

 それは人間の顔に似て、人間ではないものだ。顔は豊かに迫ってくる。半紙の中で赤い口が開いた。


 長い牙がみえる。

 あの牙で噛みつかれたら。

 迫ってくる。

 迫ってくる。

 豊は金縛り。

 動けない。

 だめだ。

 やられる!!


 そのとき足元に転がってた長い筆をだれか、ひろいあげた。墨をたっぷりとふくんだ筆が半紙の血染めの顔をよこにないだ。


「涼子、元気してた」

 警報で、かけつけたらしいそこには……翔子がいた。

 翔子は筆を剣のようにかまえていた。


「The pen is mightier than the sword」


 翔子の口からヨユウの掛け声がもれた。


「いくわよ。わたしの友だちになんてことするのよ」



 virtual realityの世界にとびこんだ感覚だ。VR(人工現実)のフイギァではない。アニメの中の美少女剣士ではない。翔子は口とは裏腹に、怯えていた。VRではない。夢の世界にいるようだ。恐れと、怯えと、畏怖に体がふるえている。


 火災報知機がまだ鳴っている。

「部活動室で火災が起きました。部活動室で火災が起きました」

 新しい報知機だ。場所を特定して避難をうながしている。翔子はクラスメイト、仲良しの涼子が副部長をつとめる書道部の部屋のあたりと知って駆けつけてきた。そこで、この災禍を目撃した。


 翔子が横にないだ筆先で、半紙の墨の線が二本になった。

「ナンダコムスメジャンカ……あんたが、翔子か。ニホンノショケイニン。タイシタコトナイワヨ」


 耳にだけ響いてくる声だ。翔子の心にだけ伝わってくる言葉だ。たどたどしい日本語を繋ぎ合わせると何とか理解できる。


「わたしルーマニアからきたね。芝原たちがお世話になったね」

「卓球選手なの」

 福原愛ちゃんと昨夜戦っているルーマニヤの選手をテレビで見た。そんな彼女をイメージしてみた。

「アラチガウザンス。オウエンダンニマジッテキタネ」

「もういいでしょう。悪さはよして退散しなさい」

「退散? 降参とちがうか」

 翔子のアタマのコトバを読み取っている。とんでもない敵だ。翔子は降参したら――とも思っていたのだ。


「敵はここにいる。吸血鬼だ―ヨン」

「ヨンさまのつもりなら、顔見せてよ」

 このジョークは通じなかった。

 なに言ってるの。わたし。本人にもわからないジョークだ。ヤッパわたし怯えている。翔子はじぶんのココロをフルイタタセテ、見えない吸血鬼――まちがいなく、女の胸のあたりに硯をなげつけた。

 バット全身墨に染られた吸血鬼の姿が浮かび上がった。そのもりあがった乳房に硯がめり込んでいる。おそるべし。翔子の膂力。ギャと絶叫が放たれた。真っ黒な巨大なコウモリに変身して開け放たれた引き戸から吸血鬼は廊下に逃げる。


「マテ!」

「まって!?。翔子なにしてるの?? 何いっているの???」

 ゲ。

 ゲ。

 涼子には何も見えなかったのだ。



 翔子はコウモリのあとを追いかけた。エレベーターで降りた。先回りは出来なかった。コウモリは黒い羽根を広げて校庭を滑空していた。

 追いつくことは出来た。

 

 ああ、だが! なんとしたことか!!

 コウモリは昇降口から校門に出るところだった。

 でも、おかしい。面妖だ。ここは東京は池袋にある学校だ。

 それもJR池袋駅はすぐそこだ。庭を広大にとることは出来ない。

 前庭がこんなに広いわけがない。コウモリは低空飛行。上空にはまだ陽が差している。光を避けているのだ。すごく距離があるようにみえる。でも目の前を飛んでいるにちがいない。まだVRの世界にいるのだ。翔子は何か手に提げている。文鎮だ。それも二個。水鳥を模した丸っこいほうを投げた。渡辺俊介投手のようにアンダースロー。


 コウモリは三階建ての校舎の影をゆうゆうと地上すれすれに飛んでいる。街に逃げる気だ。低く飛ぶコウモリめがけて、地上すれすれの位置から文鎮の水鳥を投げた。ゲギョっと不気味な鳴き声がした。昇降口にほとんど隣接して校門がある。そこに碧眼金髪の東欧の美女がうずくまっている。


 無意識につかんできたもうひとつの文鎮、条幅用の30センチもある――を構えて近寄る。青い目が赤く変わる。


「ひっかかったね。あんなもので、わたしが傷つくとオモツタカ」

 跳ね起きると襲ってきた。

「そんなこと想定内」

「ソウテイナイ。わかんない。わかることば使ってよ」

「これでどう」

 翔子は文鎮を剣として、彼女の胸につきだした。



 翌日、翔子は担任の黒田博美先生に職員室に呼びだされた。


「なんてことしたの。これはどういうこと」

 パソコンのモニターには演武が映っていた。

 翔子の右手から30センチほどあるアイアンの武器が出現する。

 それが突きだされた。条幅用の鉄製の文鎮には見えない。忍者の暗器に見える。

静止画面。翔子の伸びきった腕と両足の緊迫した静止には緊張感がはりつめている。美しい。よくできた彫刻のようだ。

 静止が解かれて動く! 

 動く!! 

 跳ねる!!! 

 回転する、翔子。

 二回転。脚がのびて回し蹴り。

 あの時の映像だ。そうか、校門の手前だった。それで……街をいくひとに目撃され携帯の動画で撮られた。それをyou tubeの動画サイトに投稿されたのだ。


「わかるでしょう。これがどんな重大な影響をわが校の評価におよぼすか」

「もうしわけありません」

「謝罪してすむことではないのよ。操作しだいではAugmented Reality、AR――拡張現実となるのよ。なんでこんな路上パフォーマンスを、それも校門の前でしたのよ。わが校のサイトを開くとこれからは、このあなたのパフォマンスがいつでも出てしまうのよ」

 翔子はまったく別のことをかんがえていた。

 現実の博美先生の声がとおのいていた。


 (吸血鬼は鏡に映らないとい。吸血鬼の鏡像はない。伝説は本当だったのね。ちかごろのアニメや日本製の吸血鬼小説に毒されて、デーウオーカー。太陽のもとでも歩きまわれる。鏡にも映る、なんて信じていた。ひょっとすると、あれは、わたしと純があった鬼、日本の吸血鬼のことなのかもしれない。東欧の正統派の吸血鬼は伝説のまま進化はしていない。そうだわ。それに違いない。マチガイナイ)


「翔子さん聞いているの? 退学処分になるかもしれないのよ。もっと真剣に聞きなさい」


 気がつけば博美先生は職員室で、ほかの先生の視線を浴びているのに、ヒスをおこしていた。


 (ホンバモンの吸血鬼は太陽の光には弱い。鏡には映らない。そのほか……何か弱点はあったかしら……)


「村上翔子さん」

 博美先生が大声を上げた。

「村上翔子。この子なの、問題の生徒は?」

 職員室にふいに現れた校長が翔子の顔を覗き込んでいた。



「あなたが西早稲田の村上先生の、お孫さんなの。おどろいたわ」

 翔子は校長室のソファに座っている。

「村上と聞いたときに、気づくべきだった。ごめんなさい」

 校長があやまっている。目は65インチのモニター画面をみている。翔子の体が宙に浮き回し蹴り、きれいに回転して大地に降り立つ。条幅用の文鎮を剣にみたてて空をきる。得意の逆袈裟がけだ。つく。なぐ。


「これが書道室のモニターの映像。校門前でのと、ふたつ重ねて……。こうすると」

 見えない対象物を、翔子の動きの先を点でむすぶ。

「こういう相手、だったのね」

 あの獣の牙をもった吸血鬼の存在はフッーのひとには見えないのだ。それがPCで点で描かれた形が、その点が結ばれていくと、まさに吸血鬼が描出されていく。

「こうすると」

 校長がキーボードを操作する。点が線となる。人の形。そして色がつき。

「やはりね。どうしてこのことを黒田さんにいわなかったの」

 翔子はだまってパソコンを見つめていた。

「校長先生。携帯使っていいですか」


 マナモードにしていた携帯がポケットでふるえている。

 純からだった。


「翔子。歌舞伎町でヤッラが不穏な動きをみせている。すぐきてくれ」

「わたしが、車で送ってあげる」


 校長が翔子にいう。



 コマ劇場からセントラルロード。

 人が群れていた。ゲームセンターの角を過ぎた。

 妖気が渦をまいていた。

 純だからキャッチできる険悪な渦だった。

 渦の中心には黒服がいた。客引きを装って、間隔を置いて並んでいた。

 客引きであるわけがない。純が見ればわかる。何か怪しい。

 だが今宵は少しちがっていた。動こうとはしない。なにかを待っているような、見守っているようなようすだ。だれも気づいてはいない。何か起きてしまってからでは、もう遅い。渦が静止した。何本もの線となって流れだした。標的を探し当てたようだ。


 若者がゲーセンからフラッとでてきた。負けたのだろう。肩をおとしている。不満のために落ち込んでいるのだ。

 そのとき、流れの先端が男の体にふれた。男のからだに邪悪な流れが沁み込んでいく。もぐりこんでいく。


「ぼくのなかに悪魔がいて、ヤレ。ヤレ。イマここでやれ!!!」と命令された。逮捕されてから男は自供している。


 数年前のアキバ通り魔事件の犯人も、同じようなことをいっていた。彼らは真実を告白していた。だがだれもまともには聞いてくれなかった。一笑にふされた。

 男はチノパンツのポケットから何か取り出した。ダガ―ナイフだ。秋葉原無差別殺傷事件いらい持ち歩き、所持禁止になっているはずの、モロ刃のナイフだ。

 男は奇怪な声に、体までも、のっとられている。支配されている。妖気はキーンという金属音をひびかせている。これも純にしかきこえない音なのだ。純は飛び出そうとした。男の行為を未然に止めることはできる。妖気の渦は、波となって男に流れ込んでいる。もぐりこんでいく――いま行動すればその流れの元には逃げられる。

 うかつに、男の凶行を止められない。

 

 純はここで翔子に携帯をいれた。翔子なら何かリードできるかもしれない。何か読み取ることができるかも。携帯を男にむけた。動画を翔子に転送した。


「マインドバンパイアだわ。わたし学校でやり合った。戦った。吸血鬼女がルーマニアの卓球のチームと一緒にかくれて来日しているの」

 いた! いた!! いたいたいた!!!

 女といわれたから発見できたのだ。金髪碧眼。トップモデルにでもなれる美女だ。テニス選手のシャラポワに似ている。

 純は動いた。彼女に向かって動いた。彼女も純に気づいた。ナイフ男が群衆ととすれちがった。ひとびとが倒れていく。刺されている。キザマレテいる。絶叫があがる。獣のような叫び声、悲鳴が歌舞伎町の虚空にひびく。


 どちらを制止すればいいのか。黒服か女か。純はためらった。どちらを止めればいいのだ。


 その間、ひとがばたばた倒れていく。黒服が待っていましたとばかり倒れたものたちを抱き起している。傷口から血を吸っている。でも純いがいのものには、負傷者を必死で介抱しているように見える。ただそれだけしか視認できないでいる。



 血まみれの絶叫!

 路上に倒れて痙攣している男!!

 だが。アア!

 傷口からながれる血が少なくはないか!!!

 このころになって。ひとびとは。気づく。歌舞伎町のこの宵の人ゴミに――。通り魔が凶器をふるっていることに。刺殺魔の犠牲となったものは十名近くいる。

 一瞬の出来事だ。路上に冷凍マグロのように転がっている。解体を前にした俎上のマグロのようだ。でもここは日本一の繁華街、歌舞伎町の路上だ。

 

 犠牲者を中心にしてヒトの波がさっと引いていく。波紋が広がるようだ。付近をパトロールしていた警官が駆け付けた。


 ひとびとが、携帯をかまえている。立ちあがったレッサパンダ。直立パンダが携帯をかまえている。刺殺魔VS警官のこれから起こる格闘――逮捕劇を知り合いに発信している。さらなる、血の祝祭を期待している。


 断末魔の苦しみに痙攣する犠牲者のことなど考えてはいない。いかに刺激的な動画を友だちに生撮りしおくろうかと息をつめている。    


 期待している。さらに異常なことが起きることを。すでに予想をはるかに超えた異常事態なのにわかっていない。


 純は吸血鬼女の背後に迫った。女は超音波を発信している。

 超音波の定義は?

 忘れた。理系音痴の純だ。

 20kHzを超える音域??

 まさに彼女からでているのはその超音波だった???


「だれかわたしが見えるものがいる。近寄ってくる。わたしはコレでバイバイするね。たっぷり食事を楽しんで」

 刺された傷のわりに出血がすくなかった。吸血鬼が血をススッテいたのだ。

「なんてことをする。ここはおまえらの猟場か」

 女がふり返った。にこやかに笑っている。

 女は美しい顔はそのまま牙をむき、鉤爪をのばして襲いかかってきた。

 その刹那、虚空に羽ばたきをきいた。黒い影が上空からおおいかぶさるように襲ってきた。

「仲間の食事のじゃますることは、許しませんよ」

 これはコウモリの羽ばたきだ。女の実体は路上にあった? はずだ――。

 偽りの影を投影していたのだ。

 純はいつの間にか抜いた鬼切丸を影に向かって突き立てた。

 路上で一回転した。

 前に転がりコウモリからの攻撃をさけた。

 背後でバサッとコウモリの着地する音。


「純。おまたせ」


 前に翔子が立っていた。


「早かったな」

「校長先生が車で連れてきてくれたの」

「あら、翔子。この若者、翔子のカレシなのね」 



 純と翔子はルー・紅子をつけていた。


「翔子また会ったね。わたしは、紅子。ルー・紅子。そう覚えておいてクンナマシィ」

 逃げ際にそう名のった。日本語の学び方がまちがっている。なにから、学んでいるのだろう。テレビで江戸の遊郭ものでも見たのだろう。いや、アニメで吉原がでるものがあった。『銀魂』だ。

 紅子と翔子に切りこまれて「サテイシェクス逃げるね」といわれて理解するのに少し手間取った。『三十六計逃げるにしかず』の省略だった。

 純と翔子が、考えている、そのまに、紅子は暗闇にまぎれてしまった。


 西武新宿線を左手にみながら、新大久保方面に向かって純と翔子は歩いていた。

「見失ったわね」

「いや、まだなにか異様な気配はのこっている」

 もう百人町に入っている。都知事のいった「第三国人」が急に増えて来た。あの言葉にはさまざまな批判があった。差別用語にも指定されていると思う。なぜ、外人と簡潔にいわないのだろう。だいたい日本なんて、どこにあるのだ。日本の株式の70%は外人買いだといわれている。昨日の政局の混乱は……と純はめずらしく日本の現状に想いを馳せながら歩きつづける。


 どこの言葉かわからない。何か喚いている。宵の口なのに泥酔した男たち。

 追跡をあきらめかけた。せまい飲み屋街だ。両脇に屋台店ていどの店がうねうねとつづいている。


「スゲエ、金髪美人だったな」

「ああ。シャラポワにそっくりだった」

 耳ざとく純が酔漢の会話をとらえた。

「そのシャラポワはどっちに行きましたか」

 飲み屋街をぬけるとコンクリートの塀がつづく一角にでた。福沢効果で、酔漢の指さした方角だった。広い屋敷だ。


10


「どうして踏み込まないの」

「紅子は夜の一族だ。いまが彼女の能力がいちばん強い。わざわざそんなときに戦いを挑むことはない」


 そういわれても、翔子は不満だった。

 蒼然とした古屋敷だった。翔子はすたすたと門をはいる。門の瓦はずれていた。いまにも落ちてきそうな瓦屋根の門をくぐった。庭には日本式庭園には珍しく真紅のバラが一面に咲き誇っていた。玄関には堂々と板看板。墨痕鮮やかに『在京ルーマニア人協会』。


「あら、よくわかったね」

 紅子がにこやかに出迎えてくれた。翔子と純が来るのを予知していたのか――。 おかしな雰囲気だ。いままでの兇暴な態度はどうしたのだ。

 背後から芝原と柴山たち黒服がドカドカとあらわれる。翔子と純に歯をむく。

「あなたたちだれのおかげで鯨飲馬食できるの。今日だって飲み過ぎよ」

 芝原たちはだまってしまった。紅子はとんでもない四字熟語をしっている。

 翔子は純と共闘できることがうれしくてしょうがなかった。だか、この激しい疲労感はどこから来るのだ。純のいうことをきいて引き返したほうがよかった。だがもう遅い。乞われるままに、座敷に上がりこむ。何も紅子のいうことには逆らえない感じだ。純にいわれたように、あのままひきかえせばよかった。危険だ。このままではヤバイ、と頭の中で警鐘がなりひびいている。


「どう、バラの花きれいでしょう」


 庭に面した部屋に通された。畳の部屋だ。座布団がだされた。芝原がお盆にお茶をいれてくる。そして、隣の部屋にひかえている。何からなにまで、日本式だ。でも、翔子からみれば、外国映画のなかのひとコマみたいで、背筋がむずむずする。

何か、やはりオカシイ。何か、どこかに狂いがある。逃げたほうがいいかも。怒ることができない。闘うことができない。闘争心がまつたくわかないのだ。無気力になっている。


「平和に話し合いましょう」余裕の声で紅子がいった。


11


 純ごめんね。あのまま引き返すべきだったのだ。

 純ごめんね。わたしミスったかも。

 翔子は必死の思いで純を見つめる。すぐ側にいる純。

 なぜか、遠くにいるような感じ。


「わたしたちの当面の敵は、ご当地、日本産の吸血鬼〈鬼〉なのだわさ」


 紅子の言葉がまた怪しくなる。

 紅子は言葉の乱れには気づいていない。日本語で話せるのが楽しそうだ。


「平安時代の鬼がいまこの平成の帝都に来てのるヨ。まさかトウキョウで鬼合戦するとはソウテイガイょ。わたしたちイソガシイノョ。放っておいてくれルカナ」

「そちらで仕掛けて来たのだろう。翔子を池袋でストーカーしたから、彼女が怯えて……ぼくのところへメールをくれた。それが始まりだろうが」


 よかった。純は紅子の思念の支配下にはないみたいだ。すごく頼りになる。そしてわたしのことを心配してくれているのだ。うれしい。純がすぐ隣にいる。わたしの……手をにぎってくれた。そうこの手だ。小学生のわたしを鶴巻南公園の砂場で思いっきり遊ばせてくれた。あのころよく手をつないで歌を歌いながら道場にもどった。夜には塾の教室で勉強をみてくれた。たよりになる、なつかしいお兄ちゃん。こころがほんわかと温かくなる。お兄ちゃん。お兄ちゃん。純。純。純。と唱えていると体に精気がみなぎってくる。   


 こんどは紅子が遠のく。小さくみえる。吸血鬼の呪縛から翔子も解放された。


12


 翔子は純としっかりと手を握りあって紅子とにらみあっていた。


「鬼はあんたらをわたしたちにけしかける作戦に出た。あんたらが鬼と密談したの知ってるぞよ。あんたらはあいつらの味方。わたしたち、ツライネ。鬼とあんたら。両方から攻められて、サンドイッチみたいだわさ。このへんで休戦にしませんかよ」


 だめ。だまされる。翔子はギュッと純の手を握り返した。純の手がそんな翔子の緊迫したこころを和らげるように優しくつつみこんでくれた。あせることはない。あせらず紅子のいいぶんを聞いてやろう。翔子はおおきく深呼吸をした。


「翔子さんは若くて、これから青春だなんてうらやましいわ」


 紅子はまるでふたりを相手に世間話をしているようだ。


「芝原も柴山も、男たちは歌舞伎町の制覇だとか、鬼を滅ぼして、日本を牛耳るなんてタワゴト並べたてる。わたしは女だから、正直あまりそういうことには興味ない」


 あれほどの戦いを翔子たちと演じたにしては、シオラシイ、いいぐさだ。それに綺麗なひとだから、言っていることに説得力がある。


「翔子さんは、純ちゃんとラブラブ。いいな。いいな。うらやましいぞよ」

「ぼくらだって、こちらからすすんで吸血鬼掃討はしたくない。静かに生きていきたい。ただひとが吸血鬼に襲われているとわかれば出動する。ひとが血を吸われていれば助ける。ただそれだけのことだ」

「それができないのよね。わたしたちは捕食動物の本能を残している。弥生式へと進化した人間とはちがう道を選んだの。人工血液で生きられないことはないのだけど……ひとの血を吸うことに罪の意識はないわ。ひとが動物の肉を食べるのになんのためらいもないのと同じよ。でも、日本に出稼ぎに来て天敵、あんたらみたいなひとに会うとは思わなかった。はるか東方のジパング、わたしたちの楽園だと思って来たのにね……」


 なれてきたのか、紅子の言葉はまともになってきた。


「こんど会うときは、また敵同士ですね」

「悲しいことだけど、そういうことになるわね」


 翔子は純と紅子の対話に聞き入っていた。手にグッショリと汗をかいている。


「このまま帰すんですか」


 芝原が柴山たちをひきつれて隣の部屋からなだれこんできた。


「おだまり。このひとたちは、わたしの客人よ」


13


 なにかヤバイ雰囲気がもどってきた。紅子は敵。芝原も柴山も敵。かれらはみんな険悪な吸血鬼なのだ。

 あれほど勢いこんで、勇躍のりこんだのに。翔子の戦意はすっかり失せていた。闘志がわかないのはオカシイ。紅子の術中にまたはまっているのだ。キーンと金属音がかすかにする。かすかに耳の奥にひびいている。緊張と恐怖がよみがえってくる。純に手をひかれるままにその場を後にする。胸の動悸が高まる。それを知られまいと純の手を離そうとした。いっそう強く握られる。


「いそごう」


 純が翔子の耳元で吐息をもらすような声をだす。


「そのほうがいいね。わたしにも芝原をこれ以上とめておく力はないから。ゴメンナサイ」


 こころにひびいてきた。いまどき、日本の女の子からはなかなかきかれない、スナオナ謝罪のことばだった。


「話あえて、うれしかったよ」


 こんどは純が紅子のこころに応えている。耳では聞きとれない声で。なにかすこしジラシー。


「翔子、もっとロマンチックな気分になって……手をつなぎたかったな。ともかくここを出よう」

「月が出てるよ。獣心をよみがえらせているものは、わたし達のほかにもいる。日本の鬼、夜の一族が徘徊しているからね。気をつけてお帰りください」


 新宿の大ガードまでもどっていた。薄汚れたコンクリートの壁面から、夜のものたちが産出されている。ぐぐっと浮彫のように盛り上がる。平らなわけの壁面なのに。人の形が完成する。盛り上がり分娩されたものは平然と歩きだす。この壁の奥にもヤッラの隠れ家がある。アジトがあるのだ。かれらは日本古来の鬼。JVだ。


「わたしたちは、JVと外来種の吸血鬼のエジキにされている。早くそのことにみんなが気づいてくれないかな」

「翔子。ラーメンでも食べていこうか」

「いいわよ。でも、まだ胸がどきどきしている」

「東京の夜が、こんなに危険なところになっているなんて、北海道のほうにいたからわからなかった」


 ラーメンは後にして、翔子の希望をいれてふたりは、地元早稲田の喫茶店「街角」の新宿店に入った。

テレビはさきほどの通り魔事件を報道していた。

 客の目はテレビに惹きつけられていた。


「わたし、純と、こういうお店、はじめてだね」

「翔子。なにが起きても翔子のことは守るから」


 翔子はモンブランをたいらげていた。


「もう一つくらいたべられそうだ」

「わたし興奮すると甘いものが食べたくなるの」

「でも、翔子は強くなった。守られているのは、ぼくほうかもしれない」

 ほめられているのが、無性に照れくさかった。


14


「また通り魔事件だ」


 携帯が振動した。純か開く。ふたりは、まだ新宿にいた。


「関西にいる友達からだ」


 愛知県の一宮市の公園で女子高生が刺された。と川久保が知らせてきた。

「塾の講師をして全国をさすらったから、友だちの数は100人を超す。みんなそれぞれ日本の若者の未来について真剣に考えている仲間だ。ただ彼らには、吸血鬼は見ることはできない。だからこちらからも吸血鬼が事件にからんでいることを知らせることはできない。残念だよ」


 ナイフによる通り魔。その背後に吸血鬼の策謀がある。それも、犯行は外来種だけではない。日本古来の鬼――吸血鬼、JVも暗躍している。はっきりとした確信はもてない。でも、全国でナイフによる刺殺事件が起きている。全国的に外来種がはびこっているわけはないのだ。やはり犯人は鬼か。


 必ずとは言えないだろうが。確信はないが。

 ひとのこころに潜み、あやつるのは鬼の特技だ。


「頭の中で奇怪な声がした」


 と逮捕された犯人は同じことをいっている。


「東京だけではなかったのね」


 喫茶店でふたりだけで話し合うにはロマンチックな雰囲気からは、ほど遠い話題だった。

 

 百目鬼刑事の携帯が鳴った。

「お客があばれだして……」

 店内のチャチナトラブルでいちいち電話するな。といいたいところだが、公僕だからと……がまんした。時おり、貴重な裏ネタを知らせてくれる店長だ。店名は「ぺろぺろ」

 西武新宿駅前からエビ通りにはいるとその店はあった。コスプレがウリのいかがわしい風俗店だ。婦人警官の服装をしたホステスのメグの目前で客が変化した。


「タイホシチャウゾ!!」


 彼女がお客の男に迫った。プラスチックの手錠をバストから取り出した。むろん、疑似逮捕劇をやろうというのだ。お客の興奮をもりあげようとした。

手錠はすぐに外せるしかけだ。その彼女のキメ台詞と手錠に、客が過敏に反応をした。客は遊びと現実を混同している。ほんとうに逮捕されると思ってしまったようだ。


 客の肌にふいに黒い獣毛が生じた。

 彼女はあわてなかった。

 これは漫画よ。

 彼女の好きな松元力の脚本によるアニメ「バンパイア戦争」によくこういうシーンがでてくる。まさかとは思ったが、メグは取調室を模したブースから飛び出した。取調室なのに施錠できる鉄格子。カギをかけるとメグは店の外に逃げだした。――りは、しなかった。

 店長に連絡した。その場に残った。

 これは雑誌の漫画の一こまではない。

 アニメでもない。liveだわ。

 彼女は勇敢にも動画にして携帯を向けた。夢中で、携帯を檻のなかにむけつづけた。


 百目鬼刑事と純、翔子がほとんど同時にかけつけた。

「翔子ちゃんと純がまだ歌舞伎町にいてよかった。吸血鬼がらみの事件らしいのでな」

 純に百目鬼が連絡した理由をいいながら店の奥にとびこむ。

 疑似取調室の中のモノは唇が裂けていた。鋭い犬歯がナイフのように白く光っていた。

 四足となって月のように丸い天井の照明にむかって吠えていた。長く伸びた口を上にむけていた。犬の遠吠えをあげていた。


「黒犬に変身するヤツははじめてだな」

「日本原産の鬼――よ」


15


「ね、なんの話しているの」


 婦警のコスチューム。メグが三人の会話に割って入る。


「わたしは吸血鬼になるところを見たわ。黒犬だなんて!!」

「吸血鬼? なにねぼけたことをいっている。黒犬だろうが!!!」


 百目鬼が負けずに声をはりあげている。刑事にドウカツサレテひるむようなメグではなかった。婦警の制服が彼女を勇敢にしていた。


「これ見てよ。ちゃんと動画で記録したんだから……」

「なにも……映っていないわよ」

 翔子がのぞく。


「そんなバカな」

「疑うのだったら、じぶんの目で確かめたら」

 と翔子に詰め寄られて、携帯を眺めるメグ。婦警になりきったメグが絶句した。

「いま何が見える? よく見て」

 婦警は絶句した表情のまま首を大きく左右にふる。

「ただの男だぁ。わたしどうかしていたの?」

 タダのお客。すこし毛深いだけの男。

 だが百目鬼、翔子、純の三人には黒犬に見える。

 

16


「どういうことなの」

 メグが店長に呼ばれて席をはずす。翔子は純に小声で訊ねた。メグはさりぎわまで「わたし吸血鬼をまちがいなく見たよ。携帯がどうかしているのよ」と主張した。


「吸血鬼には変化しなかった。この黒犬の姿だって見えない彼女には吸血鬼なんて見えるはずがない。思い込みからくる、幻覚だろう。彼女は疲れていた。日常の覚醒しているときでも、疲労がたまり極度のストレスにおちいるとウトウトすることがある。そのときに、仮性のレム睡眠状態になることがある」

 と純が説明した。

「そこへきて、テレビドラマも吸血鬼ブームだから」

「ストレスのせいだというのか?」百目鬼が真面目な顔で訊く。

「おれみたいなノンキャリアにもわかるように説明してくれ」

「むかし、第二次大戦のころ、戦場行軍で疲労困憊して、隊列から脱落しそうになる。でも隊列から離脱することは、死を意味していた。なにがなんでも、歩きつづけなければならない。そこで、歩きながら仮レム睡眠状態におちいった。それでも歩行はつづけていた。こうしたときに、ひとはすごくリアルな夢をみたという。故郷の山河であったり、懐かしい母親があらわれたりと――。ほんとうの母に会った。母がここにいた。兵士はそう主張した。母に乳をあたえてもらい、それで元気になって脱落をまぬがれたという記録がのこっている」

 大学時代の恩師から純がきいたエピソードだった。


「なるほど。なんとなくわかったような気がする」

「ほら、もっとシンプルな言葉かあります。夢か、うつつか、幻か。ニセ婦警さんは営業が忙しくて睡眠不足で幻覚をみたのでしょう」

 翔子は納得したわけではなかった。


「そういうことに、しておいたほうがいいだろう」と百目鬼。

「ではこの黒犬はどう説明してくれるの」

 納得できない翔子だった。

 ようやく、百目鬼は純の考えに同調してくれた。吸血鬼。キュウケツキと一般の人を恐怖に落とし込むことはない。

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