吸血鬼処刑人

麻屋与志夫

第一部 処刑人/翔子&小泉純  第一章 もどってきた純 数年前/早稲田

第一章 もどってきた純――数年前。東京西早稲田。



「吸血鬼出現。エクスキューターの帰りを待つ」


 たったそれだけのメールだった。エマージェンシーコールだ。「ムラカミ塾」からだ。翔子からだとわかる。高校二年生になっているはずだ。キレイになっているだろうな。翔子の苦境はひしひしと伝わってきた。翔子がおびえている。剣道で鍛えあげた翔子のこころがおびえている。本当は声を聞かせてほしかったが、はずかがりやの翔子だ。


 東北新幹線なのにそのスピードがもどかしかった。千歳空港から飛び立てばよかった。いまこの瞬間にも翔子が吸血鬼に襲われているかもしれないのだ。


 早稲田にはやはりトワイライト。夕暮れ時に着いた。小泉純にとっては5年ぶりの早稲田の街だった。

 東西線の地下鉄階段を上った。西早稲田の街にはもう街灯がともっていた。青春の街。鶴巻南公園のベンチには恋人たちが宵のひとときをたのしんでいる。複合遊具が夕日を浴びてどきっとするほど赤く光っていた。とくにスベリダイの赤が目にしみる。翔子ちゃん、お気に入りのスベリダイだ。



 池袋。翔子。純にメールをする前日。


 私立池袋女子学園をでた翔子は突然、頭上から黒い影に襲われた。

 池袋の街を照らしていた人工の光がさえぎられた。


 その前から、翔子は胸騒ぎがしていた。予感にはすなおに反応するように、しこまれていた。路上にころがって逃げた。影は翔子の脇を歩いていたサラリーマンの喉元にくらいついた。


 逃げだした翔子は不気味な音を聞いた。血を啜る音だ。ズルズルっというような不気味な聞きなれない音。翔子は死に物狂いで逃げた。剣がなかったらとても闘える相手ではない。そのことは、父からも純からも厳しく教えられていた。


「現われた。ジイチャン、あれは吸血鬼よ。お兄ちゃんにメール打った」


 今夜も、ジイチャンは黙って酒を飲んでいる。翔子の父が不在となってからは毎晩のように酒を飲んでいる。寂しいのだろうな。独りで盃を傾けている。ドブロク仕立ての「白川郷」という濁り酒が祖父のこのみだ。


「はい、どうぞ」

 翔子はお酌をする。いまでは盃から酒があふれることはない。なみなみと盃いぱいにそそげる。


「そうか、純がもどってくるか」

「お酒の相手ができてうれしいでしょう」

「うれしいのは翔子じゃないか」


 翔子はほほが赤らむ。母は流しで夕食の後片づけをしていた。水道水がはじける音がしている。カチカチと食器のこすれ、触れあう音。静かなキッチンで食器洗いの音がしていた。いつもの夜が始まろうとしていた。

 Gは寝床にごろりと横になった。父がいなくなってからめっきり老けこんだ祖父を翔子はGと呼ぶ。Gと呼びかけたほうが若わかしくひびく。祖父を励ましたかった。さきほど、ジイチャンと呼んだ。めったにないことだ。よほどコウフンしていたのだ。翔子はこれから勉強にとりかかろうとしていた。


 インターホンが鳴った。

「小泉さんだ」

 翔子はすばやく立ち上がった。ドアに走って、開いた。


「やめろ!!」


 背後にGの声を聞いたが、遅かった。


 見たこともない男が立っていた。夜なのに、黒メガネをかけている。そして黒のスーツ姿。メン・イン・ブラック。黒服の男。にんまりと笑っている。


「いちど嗅いだ臭いは忘れませんよ」


 翔子の体臭を追ってきたというのか。犬みたいに鼻のきくやつだ。


「訪問販売なら、おことわりよ」

「お嬢さんそんなこといわないで」

「あら、押し売りに化けるわけ」

「どうしたの……翔子」

 食器洗いをしていた母がキッチンからでてきた。翔子と男のやりとりの気配を感じたのだろう。


「翔子!! かがんで」


 母の手から皿がとんできた。翔子はリンボー・ダンスのように膝の高さまで上半身をのけぞらせた。ビューと風を切る音。翔子の体の上を皿がとんでいく。皿とともに投げられたベティナイフがドアにつきささった。柄がビィンとふるえている。翔子は両手で床をたたいて体を半回転させて母とGの間に立った。


「これはどえらい歓迎ですね」

 鼻筋がとおっているが、肉薄なので品がない顔立ちだ。肌は石膏のような白さだ。声までウスッペラに聞える。

 Gがふたりを庇うように進みでた。口に含んだ酒を男にふきかけた。ジイッと顔がとける。


「おれには命の水。神国日本の水でつくられた酒はおまえらには、死の水だ」

「なにをとぼけたことをいう。これは紙製の仮面だ」

 男はうれしそうに哄笑する。仮面をはずす。両の目が赤く光っている。

「やはり吸血鬼か!! おれの家から出でいけ。ここはおまえらのくるところではない。練馬夢道流の神聖な道場だ。武術を極める場所だ」 

 青白い顔がにたにた不気味にわらっている。乱杭歯の間からヨダレをたらし近寄ってくる。


「歯の矯正くらいしなさいよ」

 翔子は抜き身をきらめかせて切りつけた。

「ほう、感心した。いつでも武装しているんだ」

 さして感心しているようにはひびかない。むしろからかわれているようだ。老人と女、子どもと見てなめている。切りつけた翔子の白刃は吸血鬼のもつ皿ではじかれた。

 三人はじりじりっと流しのほうに追いつめられる。

 翔子は必死で二の太刀を逆袈裟がけに切りつける。

 吸血鬼がその剣をまたも皿ではじく。

 ずずっと青白い腕が翔子の喉元にのびる。

 一瞬その腕に三人の視線が集まった。そこで思いがけないことがおこった。

 のびてきた腕が肩からズバッと切断された。

 どんと腕は床に落ちた。

 翔子の首をつかもうとでもするように執念深くうごめいている。


「お兄ちゃん。来てくれたのね」


 吸血鬼の背後から待ちわびた小泉純が現れた。



「お兄ちゃん。待っていた。翔子、お兄ちゃんが講師をやめて、旅に出た日からずっとまっていたんだから……」

 

 純に抱きつくと翔子は泣きだした。

 

 吸血鬼は切り落とされた青い血だらけの腕をひろいあげた。切り口を長い舌をだしてベロリとなめる。うぅまずい。という顔になる。


「おじゃまのようだから、またくるわ」


 だれも、もちろんひきとめなかった。

 翔子はえりあしに純の息を感じた。

 息を感じたところがほんのりとあたたかくなった。

 しびれるような心地よさだ。


「噛まれていなかったようだ」


 それが純のはじめての言葉だった。旅からもどってきた。そして待っていた翔子にかけた言葉がそれだった。もう唐変朴。無粋。女心がわかんないのだから。

 でも……わたしお兄ちゃんの彼女でもないシ。わかれたときは、まだ小学生だったシ。わたしが吸血鬼に噛まれてしまったかと本気で心配してくれているのだから。ゆるしてあげる。でもそのつぎにでた言葉は……。


「翔子ちゃん、大人になったな。胸もふっくらとして」


 翔子は九十あるバストを純におしつけていた。あわてて離れようとすると「ただいま。よくがんばっていたようですね」


 やさしくハグしてくれた。翔子は涙がほろほろと落ちるままにしていた。

 感極まって泣いていた。

 会いたかった。あの日からずっと待ちつづけていた。雑踏の中を歩いていても、ふとお兄ちゃんに似た人がいると、後をつけたりした。



「いやにあっさり逃げたな」

 とG。翔子と純の再会のよろこびをうれしそうに眺めている。

 酒に酔っている。とろんとした目で翔子と純を見つめている。


「小泉さん、ようこそ。よく帰ってきてくれましたね」

 翔子の母、文枝が純の帰還を歓迎した。

「翔子さんとの約束ですから。翔子さんはいつごろから吸血鬼の存在に気づいたのかな」


 翔子はストーカーに狙らわれていた。そのストーカーは吸血鬼だった。


「わたしは父とお兄ちゃんが吸血鬼と遭遇したときは、まだ小学生だった。でも父がいつかは、どこからか帰ってくると思っている。そう信じて、Gと母と、三人でこの道場と「ムラカミ塾」は守ってきた。生徒だってあのころより増えている」


「翔子。泉さんはなぜおまえがストーカーに襲われるのかしりたいのよ」


「わたし吸血鬼なんて見たこともなかった。それが地下鉄の通路で見てしまった。壁がみように膨らんできた。アレっと柱の陰にかくれた。そしたら壁から吸血鬼が現れた。わたし夢中で逃げた。追いかけてきた。でも人が大勢やってきた。それで救われた。それからときどき、人がまばらなところで現れるようになったの」


「きのうは、翔子は池袋で襲われた。でも、家にまできたのは初めてなの」

 と、文枝。

「五年前と同じことが起きるのかしら」

 純がいるのでうれしそうではあるが、不安を隠しきれないで文枝がいう。

 つもる話しもある。長い夜になりそうだ。



 五年前。新宿。


「吸血鬼の気配だ。それもかなり強い」

 村上勝則が純にささやいた。ゴールデン街の片隅だった。

 雨は上がっていた。水溜りにネオンが映っていた。

 都会のホコリを溜めて濁っているはずなのに光っている。

「先生これは……」

 犯罪の痕跡現場にどす黒い悪意が渦をまいていた。

「感じるか」

「すこしだけ」

「微弱な反応でも体感できればすばらしい。やはり純には特殊能力がある」


 すすり泣くような音がしていた。その音を聞くと純はどっと汗が噴き出した。戦慄。とてつもない恐怖が純をとらえていた。どうして、こんなたわいもない音を怖がるのか。その実態をしりたくて、純は物陰からのぞいた。路上に女が倒れていた。なにをやっているんだ。あの男は。なにか怪しい。純はかけよろうとした。


「むだだ。もう死んでいる」


 勝則に止められた。


「見えるか。吸血鬼だ」

「あれが、吸血鬼? そんな――吸血鬼がいるなんて」

「そうだ。吸血鬼だ。やはり見えるか。そうか、おれが見込んだだけのことはある」


 男の口の端からは血がしたたっていた。


「ぼんやりとですが、吸血鬼に見えてきました」



 男は倒れた女を抱き起すふりおして、血を吸っていた。

 交通事故かもしれない。あるいは、女になんらかの傷をおわせた犯人は逃げてしまっている。たまたま通りかかったら女が倒れていた。女からは血が噴き出していた。その血の誘惑に負けて、吸血行為に至った。そんなこところだろう。


 足音がする。酔っぱらいだ。男もすばやくその気配を感じ、立ち上がるとこちらにやってくる。

 勝則と純の潜んでいたものかげに「見たな。みたな」と低く声をなげかけて通り過ぎる。


「つけるぞ」


 勝則が動いた。純は従った。大久保病院を通り越した。バッテングセンターの前を通り薬局の横を曲がるとラブホテルルのネオンがけばけばしくキラメイテいた。さらにそこをぬけると、また薄暗い場所にでた。舗道を雨水がぬらしている。


「ここでいいだろう」


 前を行く男が立ち止まった。男は知っていた。ふたりが後をつけてきたことを。


「見られる者は、見る者のことを鋭敏に感じるものだ。見られるのは、いやなんだよな」


 いがいと若い声だった。でも訛りがある。


「外来種か」

「おう、ルーマニアの生まれよ」

「なら、遠慮はいらないな。純。闘ってみろ」


 勝則が想定外のことを純に命令した。


「このために、純に吸血鬼との戦い方を実戦で教えようと、今夜は連れだしたのだ。これで、やってみろ!!」

 黒さやの脇差を投げてよこした。吸血鬼がぎょっとした。


「エクスキューターか。日本にエクスキューターがいるなんて聞いていない」



 吸血鬼がさっと右手をふった。

 鉤爪が倍近くのびた。

 まるで特殊警棒だ。あれで襲ってくる。

 雲の間から、月光がもれた。爪が月に光っている。あれで闘う気だ。体が武器で出来ている。乱杭歯のなかで犬歯が伸びた。金属的な光沢を放っている。


 ストレートに爪が突き出された。純は十分に見切った。

 鹿沼夢道流の居合。裂帛の気合とともに脇差をぬいた。

 チヤリンと低いがたしかな手ごたえがあった。

 鉤爪が虚空にきらめいた。だが一本だけだった。


「小指の爪だけだ。でもこれでは耳かきに不便だ」


 吸血鬼がたどたどしい日本語で、負け惜しみをつぶやく。


「どうしてひとを襲う」


 純は幼稚で素朴な、だがどうしても聞きたい質問をした。

 律儀な返事がもどってきた。


「血を吸わないと生きていけない。おれたちは亜人間なのだ。どうして血を吸うか?  だから、そう生まれついているのだ」

「悪いことをしているとは思わないのか」

「ひとがひとをナイフで襲う。あの娘だっておれがやったのではない。血をすこし飲ませてもらっただけだ」

「失血死だったろう。おまえが血を吸わなければ助かった」


 何をいっても世界観がちがう。理解し合うことは出来ない。ならば、成敗する。純はあらためて片手正眼の構えをとった。吸血鬼の目が赤光を帯びた。



 それからのことは、翔子には話さないほうがいい。


 純は死に物狂いで戦った。敵を倒したが、吸血鬼のことだ。いつのまにか現われた仲間に運び去られたが――。どこかで再生している、と純は思っている。さきほど腕を切り落としたヤツだってもう腕はくっついている。そう思うべきだ。始末に悪いヤッラなのだ。あのときだってそうだ。どうにか、敵を倒した。辺りを見たが先生がいない。勝則がいない。うめき声がする。路地の奥だ。


「先生。お怪我を!!」

「外来種が、もうこの歌舞伎町に群れをなして定住している。知らなかった」

「ぼくのために。ぼくにこれを渡したので、先生は武器がなくて」

「そんなことはない」


 お礼をいって、純は勝則に渡そうとした。青い血をぬぐって黒さやに納めた剣を返そうとした。


「とっておけ。エクスキューターとして卒業した記念だ」

「これは……この闘いは卒業のための試練だったのですか」

「まさか、外来種の吸血鬼と遭遇するとは思わなかった。不覚をとった」


 先生の肩口から血がながれていた。


「心配するな。かすり傷だ。その剣は「鬼切丸」と名づけられている鹿沼は細川稲葉鍛冶の鍛えた名刀の一振りだ。大切にしてくれ」

「おれは姿を消す。おまえも純、そうしろ。道場へはもどるな」

 不可解な命令だった。

「塾は。翔子さんは」

「オヤジがいる。なんとかするだろう」

「文枝にはなにもいわないでおこう。おれはここから旅に出る。純もそうしたほうがいい。あんな奴らと戦ったのでは二人だけでは勝ち目がない。ヤッラの狙いはおれと純だ。おれたちさえいなくなれば、家族には手を出さないはずだ」


 さきほど翔子が手にして吸血鬼と戦った小太刀も鬼切丸だ。純が背後から吸血鬼に近づいたとき、純の鬼切丸はひとりでに鞘ばしった。純が翔子に会えて懐かしくおもうより早く、翔子の鬼切丸と呼応して鞘ばしったのだ。


「翔子さん。大人になったな。ただいま」



「わたしお兄ちゃんのこと好きかも」

 小学生のわたしはませたことをいった。

 でも、好きだといって、断られたらという恐怖があいまいなことばを口にさせた。いまだったら、好きですと正直に告白することができる。


 でも、ひさしぶりであったお兄ちゃんにわたしの気持ちを伝えることはしなかった。だって……わたしのメールで北海道の果ての街にいたのに、すばやく反応して帰ってきてくれた。それだけでうれしい。だきしめられた。胸がどきどきしてしまった。わたしの胸の鼓動はお兄ちゃんに伝わったはずだ。うれしいけど、なにか恥ずかしい。


「遠慮いらないわよ。二階の角部屋を使って」

 ということで、わが家に同居することになった。お兄ちゃんと毎日顔をあわせられるなんて、想像もしていなかった。ビッグサプライズ。うれしい。


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 お兄ちゃんにはもう会えない。

 そんなことは、翔子にとって有ってはならないことだった。

 お兄ちゃんにはまた会える。そう信じて、そう願って翔子は成長してきた。小学生から中学、そしていま私立池袋学園高等学校の二年生。人生においてもっともロマンチックになれる。そして……夢にまで見ていたお兄ちゃんが現れた。


「もう翔子も大人なのだから、小泉さんとか、純ちゃんと呼びかけたら」

 と母に注意された。でも心の中では小泉さんはいつでもお兄ちゃんだ。チャンはおかしいのかしら。

「純とよびかけていいかしら」

「アアそれがいいね」

「キマリね」

「ぼくは、翔子でいかな」

「いいわ。さん、なんてつけたらオコルカラネ」


 純にメールを思い切って打たせた吸血鬼の出現に感謝。だって、あのとき地下鉄の通路の壁が吸血鬼を分娩するのを目撃しなかったら……。

 そして、学校の帰りに襲われなかったら……純との再会はもっとさきに延びていたはずだ。

 

 愛ってなんだろう?

 

 ひとを愛するって、どういうこと??


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 ひとを愛するってどういうことなのかしら?

 この問いに関してかんがえるには十分な時間があった。

 純がわたしたちのもとを去った五年の間に、わたしは成長した。

 もう大人だ。愛し合うということがどういうことか、わかっているつもりだ。それはエロスとしての愛もプラトニックな愛も。両方ともわかっている。

 メンタルな愛。とは……?

 わたしは純を愛している。

 それは確かだ。

 でも愛とは?


 一二世紀? の「アベラールとエロイーズ」の愛の物語が好きだ。


『貧しい者よりは富んだ者に喜んで嫁ぎ、結婚において相手の人格よりはその所有物を望む女は、みずからを売る者と申さなくてはなりません。こんな女は、相手の人間をではなくて事物自身を求めるのであり……』


 わたしってすごく古い女だとおもう。

 わたしは純粋に小泉純、そのひとがすきだ。

 純と話していたさきほどまでの、わたしの心の高鳴り。

 これだけでもう、待っていただけのことはあった。

 しまいに話つかれてふたりはおたがいに顔をみあって、沈黙した。

 なんと豊かな沈黙だったろう。


「おやすみ、純。明日は学校は休み。吸血鬼がでてきた地下鉄の通路。都市伝説。ミステリースポットを案内するわ」


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 地下通路。

 前をいく人が急に増えたと、感じたことはありませんか。

 周囲に気をくばっていれば、なにかオカシイと……隣を歩く人に、問いかけたくなる。前との距離、先行者とは六メートルは離れている。その間に急に人が割りこんでくる。いままでだれもいなかったのに。つまり、彼らは不意に出現したのだ。見ることのできる能力があれば話はべつだ。壁に漆喰画(フレスコ)のように人体が盛り上がり……壁から抜け出る。そしらぬ顔で黒背広が雑踏に紛れこむ。


「ね、怪奇現象でしょう」

「おどろいたな」


 純はさしておどろいてはいない口調で翔子に応える。

 仮想現実の世界に生息する闇の生き物がこちら側に容易に入り込む。PCの電脳空間、ゲーム、テレビで日常的に現われていた者が現実の世界でも生きられるようになったのだ。

 前をいくブラックスーツの二人連れが振り返った。純と翔子は無視した。何も知らない。見ていない。素知らぬ顔で地下道からTデパートに入った。


「ついてくるわ」

「ぼくらが気づいていることを、アイツラも察知したのだろう」

「やっかいなことになったわ」

「あいつらと戦うことがぼくらの運命かもしれない。覚悟はできているか、翔子」

「いつでもいいわ、純」


 自動ドアが動かない。キーンと金属音がみみの奥でひびく。ザワッと殺気が前方から襲ってくる。いつのまに先に廻ったのか。


「来るぞ!! 挟まれた」


 翔子は階段の踊り場に走った。そこには人影がない。

 あそこでなら戦える。人目に触れずに戦える。


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 敵も二人だった。純ははやくも「鬼切丸」抜き放った。


「まて。それは」


 後ろから迫ってきた男が手を上げた。何も持っていない。手を開いた。

 なにも武器は持っていないと表示している。

 前を遮った男が並ぶ。二人とも同じような顔色だ。形も似ている。顔の肉が落ち、頬骨が高い。ガラスの玉をはめ込んだような眼球は薄赤く、それでいて金色に光っている。


「あんたら、夢道流の使い手か!?」

「それがどうしたの。わたしは練馬夢道流の村上翔子」

「ぼくは練馬と鹿沼夢道流。小泉純」

「ならば、われらは争いあう敵ではない」

「なにものだ」

「われらは鬼。日本古来の鬼族。村上さん。小泉さん。あなたたちを襲っているのはルーマニヤの吸血鬼だ」


 純は刀をさやに納めた。

 鬼はほっとしたように踊り場のベンチに腰を落とした。

 目の前にトイレの入り口がみえている。

「ここで話し合っていても、人目には触れない」

 二人はおおきな溜息をついた。

「おれたちはついていた。おふたりにこうして会えるとは思わなかった。おれたちは宇都宮は大谷の一族。もちろん夜の一族、吸血鬼と呼ぶ者もいますが。ルーマニヤの吸血鬼が片腕を斬りおとされたときいて、こうしてその凄腕のエクスキューターを探していたのです。ついていたな、直人。おれは兄の直也です」


 ふたりはごくあたりまえの人間になっている。


「くわしいことを知りたい」

 純がいった。

「歌舞伎町のマンモス交番に百目鬼という刑事がいます。そのひとも処刑人です。その刑事に訊いてください」


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 百目鬼を交番に訪ねた。

「百目鬼さんは、はパトロールにでかけている」

 という交番勤務の巡査の返事だった。名前を訊かれた。

「ぼくたち百目鬼さんとは面識はないから」

 名乗らないで、また来ます。と立ち去る。

 二人をあやしむ巡査の視線を無視した。

 

 純は翔子を案内した。翔子の父、勝則と別れた場所に。


「ここではじめて戦った。先生はぼくに、この鬼切丸をわたした。素手で戦って先生は傷ついた。でも家に帰ればその場所を吸血鬼に知られてしまう。それでここで別れた」

「その後はだな」


 おどろいて、二人はふりかえった。


「わるい。わるい。百目鬼だ。わたしを訪ねてきた若者がいるというので追いかけてきた」

「村上翔子です」

「小泉純です」

「翔子ちゃんか。赤ちゃんのときいちど、ダッコしたことがある」

「父とはどこで」

「夢道流の練馬道場で互いに鍛錬した同門だ」


 そば屋の二階に案内された。そこで百目鬼刑事が話しだした。


「ルーマニアの吸血鬼がこの歌舞伎町をうろつきだした。さらに、日本古来の鬼も出没している。いままででは、考えられないような凶悪な事件が起きるようになった。おれたちは外来種の吸血鬼と昔ながらの鬼と戦うことになった。そのための夢道流だ。夢道流は人外の者と戦うための剣だ。そのための技がある」

「父はいまどこに」


 百目鬼は返事をするかわりに、二階の障子を細めにあけた。


「ふたりとも見てくれ。バングラディッシュ、パキスタンの西南アジア系。イランなどのアラブ系。イスラエル、フィリピン、タイ、台湾、コーリアン、コロンビア、ブラジル。いまやここは人種のルツボだ。そしてルーマニアから吸血鬼まで渡来してきた」


 たしかに吸血鬼が平然と人ゴミにまぎれている。


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「すごいですね」

「ああ、とんでもないヤッラが、平気で街を歩いている。ひとはじぶんに害をあたえるものが、すぐ隣にいても何も気づかないから、のんびりと生きていられるのだ。人間に害意を持ったヤッラを排除するわたしたちに、だから反感をいだく。悲しいことだ」

「わたしたちが、ここからのぞいているのに気づかれたみたい」


 翔子が不安げな声でささやく。

 たしかに、ヤッラの何人かが群衆の中からこちらを見あげている。

 目が街灯に反射して赤くひかっている。

 視線まで赤い。赤い光を放っている。障子が赤く染まる。


「ヤバイな。そば屋のオヤジに迷惑はかけられない。店をでよう」

「あっ、お会計はわたしが」

「その財布を持っているんだ。その四つ目の紋所は、夢道流のものの見印。大切にな」

「わたしそんなことも知らなかった」

「裏口から出よう」


 これも古風な木の引き戸をあける。

 路地だ。路地の出口に赤い目の、黒のスーツ姿がたむろしている。

 とてつもない悪意をただよわせていた。全身が総毛立つような恐怖。

 ひとの心を腐らせて抵抗できなくしてしまうような悪意だ。

 待ち伏せされていた。ついてこい。というように振り返りながら歩きだす。

 いや、ふりかえっているわけではない。首が百八十度回転している。

 さきほど翔子と純が百目鬼と会った場所まで誘いこまれた。


「ルー・芝原だ。昨夜はお世話になったな」


 えっ、この男が。すっかり変わっている。


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 ちょっと目には人とまったく区別がつかない。だがやはりというべきか。昨夜純が切りおとした腕はもとにもどっている。

 それより純は「おかしい」と気づいた。この場所に立つのは三度目だ。空間がゆがんでいるではないか。どうしていままで感知できなかったのか。この暗がりは、おかしい。そして腐臭。百目鬼がふたりをかばうように前に出た。


「ルーはルーマニアのルーというわけか」

「ルー・柴山だ」


 彼らは楽しそうにつぎつぎと名乗りを上げる。

 この場所は、ほかならぬ、勝則と純がはじめて吸血鬼と遭遇したところだ。だからこそ、翔子をさきほど連れてきたのだ。純は翔子が静かなのにおどろいた。小太刀を左手にさげて芝原をにらんでいる。祖父と父からたたきこまれた剣の技がそうさせているのか。自信にみちた凛々しい立ち姿だ。ラストブラッドの「サヤ」のようだ。

 百目鬼が二人をかばって前にでた。彼らの赤い目が光っている。ここは〈異界〉につながっている。いや、この場所が異界なのだ。そして、いまや、異界が歌舞伎町にひろがっている。


「どうして、ぼくらを襲う!!」

「それは反対だな。仕掛けたのはおまえらだ。小泉」

「?????…………」

「まだわからないのか。五年前に小泉、あんたに切られたのは、この芝原だ。そして昨夜も……」

「やはり死ななかったのか」

「でも切られれば痛い。痛みの恨みで、東京じゅう探した。それがいまごろになって池袋で同じような臭いを嗅いだ」

「あら」


 と翔子がとまどった。


「わたし純に借りた本を持ち歩いていたの」


 翔子は恥ずかしそうだ。それは小佐井伸二の『婚約』だった。『アベラールとエロイーズ』愛の道しるべともなる小説だ。その本についていた純の残り香を敏感な吸血鬼の鼻が嗅ぎつけたのだ。


「そういうことだ。やれ」

 芝原が黒服の仲間に命じた。いつのまにか、黒服は増えたいた。


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 黒服の男たちが兇暴な顔でみがまえた。

 両眼が赤くさらに光りだした。こいつらには人間らしさはない。ひとの生き血を吸っている怪物だ。


「おれたちがこの歌舞伎町を、新宿を日本を制覇するには夢道流のものが邪魔だとわかったのだ。おれたちを群衆の中から識別できる。おれたちの悪行を世間に知らせる。おれたちに反抗して、おれたちを滅ぼそうとする。そういうことはしてもらいたくない」


 芝原がせせら笑う。

 影からひときわ体格のきわだった巨漢がすすみでた。目だけではない。肌も爬虫類のようにぬめり、青黒くなっている。分厚い唇からはヨダレをたらしている。乱杭歯をむいてニタニタわらっている。どうしてこいつらの笑い顔はみにくいのだ。

隠している獣の飢えが、むきだしになっている。おそつてくるな。翔子をかばった。純は後手必勝の夢道流の掟をやぶった。


「愛する者を守るためです。流派の始祖。夢道斉さま。ゆるしてください」


 とこころで叫んだ。純が巨漢の脇をはしりぬけた。なにが起きたかわからなかったろう。脇差は鞘におさまったままだ。巨漢の胴から緑の血がふきあがった。

 鬼切丸が音もなくぬかれた。そしてさやに納められた。一瞬の技だった。


「まだ、まだ……」


 巨漢がまだニタニタ笑っている。さっと傷口を手でなであげた。青い血の奔流はたちどころに止まっている。止血テープでもはったようだ。その回復力の敏速性におどろいた。

 とんでもないヤッラを敵にまわしている。クッククク。くっくくく。巨漢がたからかに哄笑している。


「こちらからいくぞ」


 巨漢が動いた。


18


 兇暴な爪がじわじわと迫ってくる。一気に間合いを詰めてこない。そのほうが恐怖心をあおることをよく知っている。


「純。心臓よ。夢道流、胸突きの剣」


 翔子は声をだすことで、愛する純に声をかけることで、恐怖がやわらいだ。

戦っているのはわたしひとりではない。これからはいつも純がわたしのそばにいる。


「一点に集中し敵の胸を抉る。敵をたおすには最高の技なり」


 純が小声で翔子の忠告のつづき、夢道流の奥義のくだりを朗唱する。

 翔子も剣をぬいて戦っていた。


 百目鬼も特殊警棒で敵の喉笛をねらっている。

 翔子と百目鬼、吸血鬼、それらのすべての動きを全体として純は一瞬にとらえた。

 巨漢は目前に迫っていた。巨漢の腕がヌウッと純の首筋にのびた。かまわず、純は鬼切丸を真っ直ぐに突き出した。ぶすぶすと肉に食い込む手ごたえがあった。心臓をえぐった。


 巨漢がたたらを踏む。

 ジワッと巨漢が縮んでいく。

 見るまに、空気を抜かれたプラスチックの人形のように舗道に皮だけがわだかまる。そしてチリとなり、風にふかれて新宿の夜の中に散っていった。

 ヘッドライトを光らせて車がくる。パトカーだった。


「今夜は、ここまでだ。引くぞ」


 チリとなって消えた仲間。芝原と柴山は茫然とチリの行方を見ていた。

芝原と柴山の怨嗟をこめた低い声がひびく。


「また、会うことになるぞ」


19


 いまわたしは、吸血鬼がチリとなって散っていった地面を踏んでいる。

 彼らはパトカーの光におびえて暗闇に逃げこんだ。わたしはその暗闇を見ている。そうだ。彼らは、伝説通り光に弱いのだ。胸に杭をさされれば、もちろん金属の剣であっても効果は同じだ。消えていく。消去することができる。

 そして、わたしは、純といっしょに戦えたよろこびにひたっている。もうわたしは孤独な少女ではない。

 これからは、いつも純がそばにいる。わたしは、不安におびえる少女ではない。

純とともに吸血鬼と闘える。闘う少女だ。わたしのいままでの剣の修業は吸血鬼と戦うためだった。それがわたしの宿命。ひとの生き血を吸う吸血鬼を滅ぼす。わたしの剣がひとさまの役に立っている。


「翔子、すごくたくましくなったな」


 純がほめてくれた。

 うれしかった。でも、女の子がきれいになった、ではなく!! たくましくなったなんてほめられて、複雑なよろこび、だ。

 純のことはずっと好きだった。

 小学生のわたしは、はやく大人になりたかった。そして高校生になったときには、もう純はいなかった。なにか複雑な事件にまきこまれたらしいとしかわからなかった。

 純に会いたかった。

 純の声がききたかった。携帯でメールを打てば返事が来るだろう。でも耐えた。なにか緊急でないかぎり連絡したら純に迷惑がかかる。Gのところには今いる場所の連絡だけはあった。

 ああ、こうして純と同じ場所で吸血鬼と戦えるなんて夢みたいだ。

 ああ純といっしょだ。

 胸がキュンと熱くなった。動悸がはげしくなっている。

 それを純にしられまいとして、かけつけてくれたパトカーのお巡りさんに深々と頭をさげた。


「ありがとうございました」


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