第五話

「はぁ、楽しかったなー」


 お茶会の後、一人浮かれ気分で教室へと向かう。

 色々と質問攻めにあったけど、誰一人として僕を偏見の目で見るようなことはなかった。むしろ良い意味で興味を持ってくれたみたい。こんな風に自分をありのままに伝えられるっていうのは、本当に幸せなこと。しかも初日からそれが出来て、更に更にみんながそれを受け入れてくれるなんて。


(この学園に入れてもらえて良かった!)


 幸先のいいスタートにテンションが上がってしまう。そして前の学校のことをふと思い出した。


(あそこでは色んなことがあったなぁ……)


 楽しい思い出だってあるし、辛い思い出だってある。その環境の中だけで、何度も何度も自問自答を繰り返したこともある。正直、あの時の世界は僕にとって色彩を失っていたかもしれない。そしてそれが世界の全てだと思っていたかもしれない。


(だけど……例え同じ世界だとしても、視点を一つ変えるだけで、こんなに鮮やかな気持ちになれるなんて)


 これは気づきだ。

 ちょうど、いつもは下から見上げていた高速道路を、今、こうやって窓越しに上から見下ろしているのと同じように。

 世界には二面性……いやもっと多くの多面性があって、その一つ一つが全く別の顔をしているわけで。それを全てひっくるめて『世界』なんだとは思うけど、僕を含め、人間はみんな、世界のうちの幾つかの側面しか見ていないんだってこと。それに気づけば……そしてもっと自分を受け入れてくれる側面に目を向けることが出来れば……この世界だって、意外と寛容だと思うんだ。


(嫌な側面からは目を背けたっていいんだし)


 やっぱりどこか浮かれている僕は、そんなことを考えてしまう。

 もうすぐ終わろうとしている春の中、僕を育ててくれたこの街で新しいスタートを切ることが出来る。そしてまた新しい世界を知ることが出来る。こんなに素敵な日が訪れたことに感謝することが出来る。

 こんな僕にでも出来ることがたくさんあって、それが幸せで。だからこそ、また足取りも軽くなって。


「これからしっかり頑張ろう」


 土曜の放課後、生徒のいなくなった廊下でそんな独り言を呟いた。葉月が待つ教室へと早歩きで向かいながら、階段を上るために廊下の角へと差し掛かる。


「初日だし、マンガなんかだと、この角を曲がる辺りで衝撃的な出会いがあったりするんだよねー」


 浮かれきっているせいか、そんなことまで呟いてしまう。全く、僕はすぐ調子に乗るんだから……。そう自分を戒めつつ、角を曲がろうとした瞬間、


「おっと……」

「わわっ!」


 突然現れた人影に危うくぶつかりそうになる。相手が身軽によけてくれたおかげで、間一髪、衝突は避けることが出来た。


「失礼、急いでいたもので。大丈夫ですか?」

「あ、はい。すみません。僕も早歩きしてて」


 中分けのさらりとした黒髪越しに、切れ長の瞳が向けられる。年齢は恐らく僕と同じくらい。一目で几帳面だと分かるほど、しっかりとプレスされたスーツ。それ以上に整った綺麗な顔。小脇に抱えているプリントの束へ何気なく目を向けると、左手首でウブロが時を刻んでいた。

 どこから見ても隙の無い人。つい見惚れてしまった僕へ、彼が心配そうに声をかける。


「どこか打たれたりしましたか?」

「いえ! 大丈夫です、すみません!」


 慌てる僕を見ても表情を崩さず、


「確か、本日付けで入られた方でしたね。急いでいるもので申し訳ない。これからよろしく」

「あ……こちらこそよろしくお願いします」


 僕の返事を聞いて、頷く程度におじぎをする。

 軽やかに身を翻して、今、僕が歩いてきた方向へと立ち去っていった。


(はぁぁ……)


 その後ろ姿を見送りながら、心の中で思わずため息。彼が残した香水の香りが、微かに甘く僕を包んだ。


(格好良い人だなぁ)


 隙が無いだけじゃなくて、教師然とした威厳もあって。その点、僕も見習わなきゃ。


「……と、葉月が待ってるんだった」


 次に会った時は直接名前を聞こうと心に決めて、急いで階段を上った。

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