人の心が読めたなら?

宮比岩斗

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 ピッ、ピッとバーコードを読み取る行為を繰り返す。それから社交辞令的な笑顔と言葉を表にする。このコンビニのバイトを始めた当初は、たどたどしかったこの一連の動作も、ほぼ毎日顔を出していたら不器用な自分でもすぐにものにすることができた。業務的に総額を伝え、機械的にお釣り受けに差額の小銭を置く。手渡さなければならない諭吉や野口と違って気が楽だった。

 早朝からのシフトで、もうそろそろ交代の時間だった。店内にお客が一人もいなくなったため、ちょっとした掃除を始める。この狭い店内で僕が知らないことは何もない。けれどこれからのことは知ることはできない。

 僕は今日、このバイトを辞めさせられる。

 高校在学時から続けていたこのバイトで僕は、まじめに働き、それなりに店長から信頼を勝ち得ているものだと思っていた。けれど数日前、その店長に突然解雇を宣言された。その理由は僕が生まれた瞬間から悩まされた先天性のあることが原因だった。そのことで同僚から苦情がやまなかったみたいだ。それのせいで何度も人生を狂わされていたので納得だけは早かった。いや、諦めが早かった。店長が申し訳無さそうにしていたのが唯一の救いだった。

 この掃除はお礼も兼ねた嫌味という意味合いがある。

 世界には二種類の人間がいる。それは人によって答えが違うものだろう。警察なら被害者と加害者だろうし、お医者さんなら健常者と病人だろう。男と女みたいな模範解答もある。ただ、僕の場合はそれが『一般人と超能力者』というだけだ。

 サイコメトリー。それが僕の超能力だ。

 手で触れたものの様々な情報を読み取ることができる。小学生の時、女性の担任がそう説明していた。級友らは、その声変わり前の甲高い声で口ぐちに「意味分からない」と口々に文句を訴えていた。けれど、その能力者である僕には十分納得のいく説明であった。物に触れれば誰が使用したとか、それの使用方法、使用した環境が読み取れる。人に触れれば、名前や普段の過ごし方、果てはその人の心までも読み取れてしまう。それらは流れこむ量は絞れても、頭に流れ込むことは拒めない。

 人の心など読めたところでどうしようもない。むしろ、脅威として扱われ、排除される方が圧倒的に多い。これは心が読める超能力者に対しての割合が顕著なだけで、超能力者全体の問題でもある。

 第一世代と呼ばれる超能力者が世界に生まれ始めた世代は、現在三十歳前後だ。今も相当酷い扱いだがその世代は世間から異端児、酷いところでは悪魔の子として扱われ、人間社会を潤滑に進めていくためには隔離もやむ無しであるという論争がニュース番組・インターネット上で毎日昼夜問わず盛り上がっていたらしい。どこかの国では、隔離、処刑したという実例があったみたいだ。その世代が社会に出る頃、世間では超能力者に対する厳しい論調がピークを迎えていた。それまでも超能力者の入学を認めない私立校などはあったが、とある大企業がそれを大々的に外部へアピールしたことにより超能力者らの社会への不満が爆発した。

 そして、一つの大事件が起きた。

 その事件は、一世紀近く昔の安田講堂立てこもり事件と似ていた。だが、立てこもった場所は大学ではなく国会議事堂だった。超能力者の多くがその当時高校生だったため、組織だった犯罪はほとんど起きていなかった。起きたとしても簡単な盗みや単純な強盗といった単純なものばかりだった。ゆえに超能力への対抗策は必要に迫られていたにも関わらず、現行の警察組織のみで対処可能だという机上の空論でしかなかった。

 それ故なのか、または未だ行方が知れない首謀者の計画が超能力を生かし切った結果なのか――そのことについて未だに議論が続いている――各種メディアは、色んな首謀者像を立てた。ジャンヌ・ダルクのような神の啓示を受け取り旗本となった革命家やヒトラーのような人心掌握術に長けた扇動家、より強力な超能力に目覚め圧倒的なカリスマ性で組織をまとめた武闘派、集団洗脳が可能な超能力を得た一般市民。色んな首謀者像を打ち立て続けても、想像を裏付けするような人物はついには現れなかった。想像を裏切り期待をも裏切るような目立ちたがりの偽物ばかりが表に出るような始末だった。

 国会議員数百名を人質に取った立てこもりはいつまで続くのか誰にも分からなかった。小学校から帰るとすでにトップとして流れていたニュースは床につくまでずっと流れていた。小学校でも登下校中でもその話題でもちきりだった。大半は超能力者は怖いというもの、ごく少数として迫害はやり過ぎたから復讐されてるといったほんの少しだけ踏み込んだものだった。

 その幕切れは呆気なかった。

 次の日の朝起きると自首という見出しで朝のニュースが盛り上がっていた。立てこもり時間にして一日にも満たない。最初は突発的に起こしたため、食料がなくなっただの、急病人が出ただの、政府との交渉が終わっただの身勝手な憶測が流れただのが後の調査でそんな問題は一切起きていなかった。

 そして自首したことにより国会議事堂内で何が起きていたのか鮮明になった。

 さぞや、恐ろしいことが起きていると各方面で言われていたこの事件だったが、内部はいたって穏やかだったらしい。警備員などは動きを封じられたようだが、基本的には誰も傷ついたりしていなかった。食料やトイレなどは我慢させることはなかったとのことだ。うるさすぎなければある程度の雑談は可能で、実行犯との雑談をしていた人もいたらしい。

 特筆してあったことといえばリーダー格の男性が、ちょっとした演説をしただけだったとのこと。噂になるが、隔離を前に出していた政治家は政治生命を終わらせられるようなスキャンダルのネタと証拠を出されたらしい。それは表にはなっていないが、その日を境に超能力廃絶運動は鳴りを潜めることになったので、多くの人は事実として受け取っている。

 こうして血の一滴も流さないまま事件は終わりを迎えた。

 だが、価値観を一変させた事件として世界中に知られた。

 小学生ながら「これで世界は変わる」と期待した。

 だがあんな事件があったあとでも、変わらないものは変わらなかった。十年経った今でも受験さえさせて貰えないところもあれば、義務教育期間での僕らに対するいじめは日常茶飯事だ。大きく変わったといえば、僕らの超能力が単なる見世物から凶器という認識になったということぐらいだ。

 だが、この凶器という認識は僕らの生活を守る上で大きな力を持つことになった。それが彼らの思惑だったとこの年になってようやく気づいた。もっとも、埋まらない溝を作ったともいえるが。その溝は対岸まで遠く、どこまでも深く互いに一歩を踏み込めない状況にしていた。交じり合わない溝を作ることが彼らの目的だったのだろう。

 けれど、それはミクロ的に見た観点での話だ。マクロ的に見た場合、超能力は超能力を持たない一般人と関わりあわねばならない。人間社会を形成する上で超能力と持たない一般人は社会的多数集団で、超能力は社会的少数集団ということは変わらない。特に日本という国は多数決の国だ。政治形態も人間の性質も。個人の意思よりもその場の空気がより重要視される。弱い立場を強いられるという点は全ての超能力者にとって変わることはなかった。

 今年二十歳になるというのに、僕は今日バイトを解雇される。定職にも就けず、進学もできなかった僕は明日からどうすればいいのだろう。親からの援助は望めない。なかば追い出されたような僕は来月からの家賃の支払いすら厳しかった。まだ、今年度が始まる月でバイトの募集が多く始まりそうな季節なだけまだマシなのだろう。僕の超能力がサイコキネシスだったのなら、強盗するための『凶器』になり得たのだが。サイコメトリーでは他人の秘密を知って脅迫するという金を得るまで踏む段階が多すぎて僕にはできそうもなかぅった。

 そのような邪な考えをしていると、時計の針が交代の時間を告げていたことに気づいた。

 制服から灰色のカーディガンと緑のカーゴパンツに着替える。

 同僚に「い、今までありがとう」とどもりながら伝え、店長にはそれを敬語に変えて別れた。

 あまりに呆気無い終わりだった。三年近く勤めたから少しは後ろ髪を引かれる思いがあるかと思えば、スッキリもアッサリもない、本当に何もない終わりだった。あるとすれば虚無感だった。

 午前中のシフトだったため、まだまだ日が高い。何もやる気が起きないが、このまま帰るのももったいないような気がする。スーパーにでも寄ろうかと思ったが自宅には買い置きの食料が残っており、改めて買うようなものはない。どこか遊びに行こうかと思ったが、友人はいない。知ってる娯楽は家で一人で遊ぶもののみ。それにバイトを辞めて、これから次のバイトが見つかるまで切り詰めなければならない。

 しばし逡巡する。

 そして、バイト先近くの公園に行くことにした。公園に行きたいから行くと決めた訳ではない。ただ、答えの先延ばしをしただけだ。

 公園に近づくにつれて、年端もいかない子供らの甲高い遊び声が聞こえてきた。「どうしてこの時間に子供らがいるんだ」と疑問を持ったが、すぐに今日は休日だったということを思い出した。ただひたすら毎日同じ時間にバイトへ行くだけの生活で曜日感覚がずれていたらしい。

 公園に到着し、ベンチに腰掛ける。ベンチの向かい側では、ジャングルジムや滑り台などの一通りの遊具が揃っている場所であの遊び声の持ち主らがはつらつと楽しそうに走り回ったりしていた。それを遠目で母親であろう集団が子供そっちのけで井戸端会議に花を咲かせていた。

 そんな未来が眩しくて見えないような子供らを見ていると、あまりに先の見えない自分の人生がひどく惨めに思えてくる。

 ここにいても精神衛生上悪いだけだと思い立ち上がろうとした。それとほぼ同時に声をかけられる。

「隣に座ってもええですか?」

 立ち上がれないまま、声を掛けられた方へと顔を向けた。声を掛けてきたのはワインレッドのパーカーに灰色のハイネックカットソーを着た女性だった。年は僕と同じくハタチ前後に見え、高めに纏められたポニーテルが風に揺られていた。ぱっつん前髪の下には猫のようにぱっちりとした大きな瞳があった。その瞳は、まるで引力を持っているかのようだった。事実、僕の視線はその黒い瞳に釘付けになっていた。それは「あのう」と女性が困ったように言葉が繋がるまで続いた。

「え、あ、はい! 問題ないです」

 しばらく、女性なんて――いや人と話す事自体お客様としてでしか話していなかった後遺症のせいでえらく変な振る舞いになってしまった。挙動不審で通報されてもおかしくない。こんなに不幸続きなことを考えると、不当逮捕も大トリで待っていそうな気がしてならない。

 僕が真っ暗闇な先が見え隠れする未来に不安を抱いているのと対照的に、その女性は影のない柔和な微笑みをしていた。

 知らない人によく話しかけれるものだ。僕なら卒倒ものだ。

「それじゃ失礼しますぅ」

 女性はプリーツスカートの裾を抑えて隣に腰掛けた。

 ここで僕は誰でも気付くであろう違和感にようやくながら気付くことができた。女性の話す言葉のイントネーションが独特なのだ。今の言葉もアクセントが聞き慣れたものと違った。おそらく関西圏の方言や訛りなのだろう。けれど生まれも育ちも関東圏の僕には、その細かい違いはどうにも分からなかった。

 ここで「出身はどちらなんですか?」とでも聞ければ、少しはこの胸のもやもやも晴れ、この沈んだ気持ちも浮かぶだろう。だが、そんな綱渡りを容易にこなせるのならばバイトも首にならなかったはずだ。同僚たちとも仲良くやれていたはずだ。事実上手いことやっている超能力者は僅かだがいることはいる。

 ついさっきまでは笑い声を聞いても自分が惨めになるだけだったが、その笑い声は今や鬱積を他人にぶつけてしまいそうなほど憎たらしかった。

 今度こそ立ち去ろうと脚にグッと力を入れる。普段ならたいして気を使わない動作の一つだったが、そうしないと立った瞬間に足元から崩れ落ちそうだった。

 立ち上がる。

 少しぐらついた。四月初旬だというのに太陽がやけに眩しかった。

 おぼつかない足取りでその場を去ろうとすると、腕を誰かに掴まれた。視線を遣ると、またも女性が僕を止めていた。

「もう少し休んでいったほうがええんちゃいます? 今にも倒れてしまいそうやないの」

 大丈夫です、と答えたかった。どこにもそんな元気は残っておらず無理矢理ベンチにもう一度座らされた。どうにも今の僕は、傍目に見ても具合が悪そうに見えるらしい。他人に止められるなんて相当なものなのだろう。

 うなだれながら答える。

「お気遣いありがとうございます。でも、これから用事あるんで行かせてください」

 もちろん予定など白紙だ。未来さえもまっさらだ。今日一日ならまだしも、しばらく何をすればいいのかさえも分からない。罪悪感から――いや、羞恥心からを目を背けて言葉にした。

 女性は、立ち上がろうとした僕の手首をまたも掴む。

「嘘、ちゃいますか?」

 どうして分かったんだと視線を向ける。この女性はテレパシーなのだろうかという予想を立てる。

 手首を掴んだままの手に気付く。もしかすると僕と同類――サイコメトラーなのではないのかと予想し、希望を持った。

 女性はパッとその手を離す。僕が女性を超能力者だと訝しんでいるとでも思って急いで離したのだろう。それから急いで体の前で両の手の平を振る。

「あ、私超能力者ちゃいます。一般人です。そないな洒落たもん持ってないです」

 女性は軽い調子で笑う。口元から覗かせた歯が白かったのが印象的だった。

 超能力を洒落たものと言われたのは初めての経験だった。普段なら一般人が『理解者』顔で同じ事を口にしたら嫌悪感が生まれるはずだ。だが、どん底な気分だったためか拍子が抜けて笑みが溢れてしまった。決して笑い声が出ない口端が上げる程度のものだったが。

「初めて見たよ。超能力を洒落たものっていう人」

 このご時世ではテレビで超能力を擁護する人だって、腫れ物に触るように言葉を選んでいる。一般人も超能力に悪い印象を持ってなくても、ご世論様に合わせて批判をするというのに。そのなかで超能力を俗物のように扱うのは、なかなか痛快だった。

「何を言うてはるんですか。超能力って格好いいやないですか」

 女性はちょっと怒ったように、拗ねたように口を尖らせた。

「ごく少数派だけだよ。格好良いなんて言うのは」

「その少数派ですから、私」

「信じられないな」

「まあ、この現代日本で超能力を擁護するようなこと言うてはったら、村八分になるかもしれへんからね」

「なら、話は早いや。君って、サイコメトリーだったりする?」

 触られた手首をもう片方の手で軽く擦る。心を読んだのではないかという意思表示だ。

 もしも、女性が本当に超能力者だとしたら僕は今最低のことをしている。恫喝まがいのことをしているんだ。自分も幾度となく、されたことをしている。もちろん自分がされたように金品まで取るつもりはないが、女性がどういう立場の人間で本心からの言葉なのかどうか確かめたかった。

 それを見た女性は、怯むどころか勝ち誇った顔をする。

「ほら、図星やないの。気分悪いんやろ?」

 サイコメトリーと疑ったということは、その通りだったということ。それを見越しての言葉だったのか。

 女性は、何かに気付いたように言葉を続ける。

「でも超能力についての言葉は本心やからね」

 敵わない。それが女性に対した感想だった。今まで多くの人と望む望まない関係なしに対してきたが、まるで敵わないと思わされたのは初めてだった。

「うん、気分は悪いよ」

 認めても一度崩れた体の調子はなかなか元には戻りそうになかった。けれど、子供らの声に怯える必要はなくなっていた。座り続けていたら、じきに体の調子も元に戻るだろう。

 椅子に再び腰掛け、一息ついた。

 女性がプリーツスカートをはたいて埃を宙空に回せていた。それから自身のふとももを指差す。

「使いますか?」

 それは膝枕をするのかどうかを訊いているのだろうか。いくらなんでもそれはないだろう。そんなことをやってしまえば、子供らの声で参っていたのが今度はお母様方の怪訝な視線で胃が参ってしまうことになる。第一、女性と話すだけでもいつも異常にどもっているのに触れたりしたらどうにかなってしまう。間違いない。

「そそ、それは膝枕ってことかな?」

 冗談に聞こえるよう笑みを無理矢理作って尋ねてみた。緊張で上手く作れている気がしない。

 女性はさも当然のような顔で「それ以外に何かあるん?」と小首を傾げた。

「いやいや、こんな往来で膝枕する勇気はないよ」

 断食系男子を舐めるな。幼稚園のお遊戯ですら超能力のせいで手さえ握らせてもらえなかったんだ。生まれてこの方、女性の手を握る行為をしたことがないんだぞ。最近では間違って断食を『男色だんしょく』と読んでしまって、けっこう凹んだ僕を舐めるな。

「そうですか。でも具合が悪いんでっしゃろ?」

「大丈夫。このまま座ってればそのうち良くなるよ」

 お願いだからそのままでいて欲しい。下手なことすると既にパニック気味な頭が輪にかけて大変なことになってしまう。最悪、機能停止してしまう。

 女性は、唇に人差し指を当ててどこか明後日の方向を向く。何かを考えているのだろう。数秒の後、女性は指を唇から離して僕に顔を向ける。

「ならお話ぐらいしませんか?」

「話ぐらいなら喜んで」

 話だけでも心臓がドギマギするが、話だけで済むならまだマシだ。

 女性が膝もこちらへと向ける。

「とりあえず自己紹介しましょか。あたし、榊美雲って言います。あなたの名前はなんて言わはるんですか?」

「僕は、八月一日秋穂。八月一日でほずみ。秋穂って女っぽい名前だから疑問に思うだろうけど気にしないで」

 美雲さんが嘆声を漏らす。

「八月一日でほずみ言うんですか。初めて知りました」

「なかなかそんな名字の人いないから仕方ないよ」

「それにしても男性で秋穂なんて名前の方もいらっしゃるもんなんやね」

「あまり秋穂って呼ばないでくれないかな。あまり自分の名前好きじゃないからさ」

 美雲さんは、またも小首を傾げる。

「普通にええ名前やない? たしかに女性にしかいなさそうな名前ではあるけど、綺麗で可愛いらしい羨ましい名前やん」

 それは自身の性別に見合った名前を与えられていればそう思うだろう。

 名前は一生物。

 それが違和感があるものならば、名前を呼ばれる度にうんざりしなければならない。慣れはあっても、違和感があることには変わらない。それでも今世間を騒がしている妙ちくりんな名前よりかは幾分マシではあるのだろう。名前に自信がない一人として同情はする。心の底から。

「僕が女の子だったら自慢の名前だったんだろうけどね」

 姉が僕は本当は妹になるはずだったはずだと言っていたことを思い出した。未だに理由は分からないが、おそらく家族が妹が欲しかった反動なのだろう。えらくこき使われたのもそういうことなのだろう。もしも超能力がなかったら、名前と姉が一番の悩みの種になっていたはずだ。不幸ではあるが、超能力という代物のおかげで名前のことでそこまで悩む暇はなかった。

 僕は苦笑した。

 美雲さんが風に揺れるポニーテールを抑え、僕に合わせて笑った。

「でもその名前、うちは好きやけどな。そこまで嫌やなら……アッキーって呼んでかまへんか?」

 それが僕へのあだ名と理解するまでしばらくかかった。保護者らが子供らを呼び寄せる声が耳にすんなりと飛び込んだ。そしてそのまま右から左へ飛び出した。

「美雲さん、それは僕のあだ名ですか?」

 それ以外の答えがないと知りつつ確認した。友人も片手――それも半分未満の本数で事が足りる程度かつ浅い関係のものしか今までいなかった僕にとってあだ名というのは未知の体験だった。どこか背中がむず痒い。

「せや。男の子でも問題ないやろ」

 やはり背中がむず痒い。反面、あだ名なんて初めての経験でちょっぴり嬉しかったりもする。

「あだ名なんて初めての経験ですからなんとも言えないです。それにしても初対面の人にあだ名つけられるなんて夢にも思わなかったですよ。美雲さんはあだ名とかあるんですか?」

 美雲さんは、体の前に指を重ねてバツを作る。

「美雲さんなんて他人行儀や。美雲って呼び捨てでええよ。見たところウチら歳近いやろ」

「あ、僕は今年で十九になるよ。そ、その美雲は?」

 初めて女性を呼び捨てで呼んでしまった。悪いことをしてしまったかのように居心地が悪い。具合の悪さがぶり返してしまいそうだ。

 美雲は、僕のそんなバツの悪さを吹き飛ばすように顔を輝かせる。

「なんや、同い年やないの! 仲良うしたってなー」

 美雲が僕の片手を取ってしまった。

 いきなりのことだったため僕は手を引く暇すらなかった。マズい、と頭が認識すると同時に意識の奔流が続けざまに頭に流れ込んできた。奔流に流され意識を現実に保てなくなる。上下さえも分からなくなった。勢いに抗えずされるがままに流された。次第に体が浮かぶような感覚を覚えた。

 視界が晴れ渡った。

 見えたのは、人の群れに囲まれて同じ方向へ進んでいるところだった。周囲は祭りでもしているのか騒がしい。ここがどこなのか、何をしているのか知るために視点を動かそうとしたが自分の意思では動かせなかった。それにも関わらず体はその群れの動きと合わせて前に進んでいった。おそらく僕は今、美雲の記憶の中に潜っているのだろう。この視点も美雲が体験したことを美雲を通して僕が再体験しているということだ。

 見える範囲で情報を集めようと気を配る。まだまだ日は落ちそうにないぐらいに明るかった。周囲の人の数のせいで足元が見えない。多少遠くの建物が見えるぐらいだった。幸いにもその見えた建物には見覚えがあった。大きなビルがいくつも屹立する東京においても、そのビルはあまりにも特徴的だった。巨大街頭ビジョンが軒を連ねる中でも一回りも二回りも大きな街頭ビジョンだった。十数年前に一番の大きさを誇っていた街頭ビジョンも霞む程の大きさだ。

 それがあったため、ここがどこなのかすぐに分かった。ここは渋谷だ。今歩いている道もきっとスクランブル交差点なのだろう。大勢の人に囲まれてイマイチ正確な場所は分からないけれど。

 今度は騒いでいる周りの声に耳を傾けることにした。

 その瞬間、視界が歪んだ。魚眼レンズをぼやけたように視界が崩れだし、しばらくすると暗転した。一転、世界が色を帯びる。

 今度はどこかの建物の中だった。くすんだ白の壁紙に木目調の床だった。近くには、学習机と本棚、二段ベッドがあった。視界が揺れる。すると、視線の高さが変わった。立ち上がった体はどこかに歩き出した。少し廊下を歩くと、この建物の広さに疑問を持った。この建物は、普通の家だと考えたがどうにも普通の枠には入りそうになかった。

 ただの家にしては広すぎる、ただそれに尽きた。豪邸なのでは、とも考えたがそれにしては内装が特に華やかというわけではない。むしろ、質素ともいえる。子供らが描いた絵が壁一面に飾ってあった。美雲の体は、足は止めないものの目線は絵一枚一枚に向けられた。

 胸の中にぽわんとした温かみを感じた。

 長い廊下を突き当たり右の部屋に入る。そこには十人前後の子供たちがいた。年齢に幅があった。中学生くらいの子もいれば、中には未就学児と思われる子もいた。未就学児を見た時、幼稚園かと考えたが大きな子もいるのでどうやら違ったらしい。

「美雲お姉ちゃん、遊んでー」

 未就学児の中から女の子が一人、僕――いや、美雲の足にヨタヨタと歩いて抱きついてきた。

「もう少し待ってね」と美雲の口からお願いすると、女の子は物分りよく「うん!」と頷いてみせた。

 ――早くこのことを伝えて遊ぼう。この子らの前では落ち込んだ顔は見せられへんからな。

 お姉ちゃんと呼んだところからすると、やはり家なのだろうか。だとすると取材されてもなんらおかしくない大家族だ。

 またも視界が歪んだ。

 そして、暗転する。

 数秒もしないうちに新しい世界が開いた。

 今度はどこかの事務所のようだった。局所的に散らかり放題だが、全体的に見ればスッキリしていた。大量の書類でできた山が事務机の上で崩れていた。それと同じ状況の事務机が三つずつ向かい合わせで並んでいる。すべての業務を机の上でしているのか机以外の大きな事務用品はコピー機ぐらいしか見える範囲になかった。目の前には、初老の男性が申し訳なさそうに佇んでいた。

 その男性は、美雲の肩に手を置く。その手は、初老とはいえやけに力が入っていなかった。

「すまんねえ。まだ一週間も経ってないのに……」

 男性はそのままうつむき、黙りこんでしまった。肩を震わしていた。

 その場面の展開ぶりに頭がついていけなかった。

 美雲の唇が動く。

「気にしないでください。うち頑張りますから、社長も頑張ってください」

 美雲が関西の訛りを持った敬語を口にしながら笑みを作る。上手くできたかどうかは鏡がないため分からない。だが感覚では作り慣れているように感じた。

「……ありがとう」

 ――謝りも感謝もしないでくれへんかな。どないな顔したらええか分からへん。

 胸の中に痛みを感じた。

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