第4話 彼女の行方は?
鏡に彼女が映らなくなって一週間が経った。
最初はただ友人の家に泊まりにいったのだろう程度にしか考えていなかった。どこかおかしいと考え始めたのは三日ほど経ってから。しかし、たまたま巡り合わせが悪いのだろうと深く考えようとはしなかった。他の鏡と同じように彼女が映らない時は代わり映えのないただの鏡として機能するせいでハッキリと気付くのが遅れた。いや、薄々はそうなのだとと理解していた。けれど、向かい合いたくなかった。もし認めてしまえば、今までのことはただの妄想や空想の類にしかならないような気がした。そうこうしている間に僕らの鏡はいつのまにかどこにでもある平凡な鏡へと成り果てていた。
最後に会えたのは一週間前。これからも一緒にいると約束した日だ。
ようやく一歩を踏み出した。そう思ったら、その一歩先はとても大きな底の見えない深い穴だった。真っ逆さまに落ちた。気付いた時には焦燥感が暗闇と調和する世界だった。肌に冷気が張り付き、凍える。人肌が恋しくなった。光を求め見上げれば空はとても明るい。絶壁に手を掛けるも、土が湿り触れた先から崩れ出す。どうにもそこにはいけそうにない。あの懐かしい顔には会えそうにもない。あの約束は守れそうにない。
神社で聞いた言葉が思い出したように落ちてくる。
『禍福、門無し、唯、人の招く所』――幸運と不幸は、運命で決められてはいない。ただ、人自身によって招くもの。
だとするならば僕は一体何をしたというのだ。素直に彼女といたいと願った。行動も起こした。言葉にだってした。なのにどうしてこの帰結に収まるんだ。
変哲のないただの鏡に映る僕の姿はひどく情けなかった。彼女に拠り所を求め、一人じゃ何もできない見苦しい自分。弱い自分自身を守り、傷付かない選択肢をひたすら選び続け、人と争わないことを念頭に置いて自分を引っ込ませた。それは一見、綺麗なガラス細工。けれども落とせば傷付くだけでは済まない、脆いガラスの自分。
それが今、落ちて割れた。
彼女に会いたいのと、こんな姿は彼女には見られたくないのと背反する心が揺れる。揺れるほどにガラスの破片が傷口をえぐる。これで良かったのだと泣きわめく自分に何度も何度も言い聞かせる。けれど、収まりはしない。むしろ、言い聞かせれば言い聞かせるたびに彼女に会いたいという気持ちが一回り、二回りと大きくなっていく。
もうなにも見たくなくなり、ベッドに雪崩れ込む。枕に顔を埋め、視界を遮断する。
それがいけなかった。
頭に浮かぶこと、よぎることは彼女のことばかり。意識的に他のことを考えてはみても関連付けられて彼女へと辿り着いてしまう。考えることを止めてしまいたい。そんなことはできなかった。どこまでもどこまでも意識は追いついてくる。
耐えきれなくなり顔を上げ、座り直す。
顔を両手に埋める。
せめてきちんと別れを言いたかった。こんな別れ方をするぐらいならば喧嘩別れの方が跡の濁しは少なかった。こんなちっぽけな終わりならば、会いたくなどなかった。会ってしまったら、もう忘れられない。
小さなノックが聞こえる。
弟のものだろう。
一週間前のことが嘘のように全開した喉でか細く扉の前にいる弟に伝える。
「誰にも会いたくないんだ。一人にしてくれ」
小さな足音が遠ざかっていく。
安心した。
彼女には会いたい癖に、誰にも会わないことが心を落ち着かせる。嘲笑を一身に受けているような錯覚に陥り、気が滅入る。
一度は消えた足音が今度は大きくなってくる。どんどんと腹立ちを隠す気がない足音だ。それはプツンと振幅が最大になったと同時にプツンと音が消える。ノックもなしに扉が勢い強く開かれ、壁に思い切り叩き付けられる。
そこへ目を遣ると、般若の形相をした妹がそこにいた。
弟が呼んだのだろうか。
僕の前まで歩み、止まる。
目と目が合った。まばたきもする暇なく左頬に衝撃が走った。
平手打ちされた頬に手を添えて、抗議するため妹の方へ向き直す。
右頬に衝撃が走った。
「いいかげんにしろ。うだうだすんな。悩むぐらいなら動け!」
妹の言葉に誰にも迷惑をかけないよう無意識のうちに抑えてきたものが壊れた。まるで肉体と精神が乖離しているようだ。普段からすれば不条理極まりない。論理性も何もあったようなもんじゃない。ただただプツリと、別れた。
妹の両肩を掴み、詰め寄る。
「じゃあどうしろっていうんだよ! 動いてどうにかなるのならとっくに解決してる! 動いて解決するならやり方を教えてくれよ!」
僕の弱音が言葉が続けて漏らす。
「動いた結果がこれなんだよ。もうどうしようもないんだよ」
妹の肩から両手を離し、力なく項垂れた。
鏡に彼女が映らなくなってから五日後。これはどう考えてもおかしいと考えた僕はとにかく知識のある人物に意見を聞こうと神社へと向かった。
ここ二、三週間で自分の力で道は開けると、自分の人生はまだまだこれから開けていくのだと、今はその入り口にようやく立つことができたのだと、いずれは大物とまではいかないもののそれなりに満足できる人生を送ることができるのだと、そう思い込んでいた。現実は自分の力で道を切り開くどころか、誰かに寄り添って整地された道を歩くことしかできないのだと実感した。
神社に到着し、詩織さんを捜した。初対面の時と同じように詩織さんはお賽銭に背を預け、日向でうたた寝していたので容易に見つけることができた。肩を揺らして起こすと、詩織さんは「またやってしまった」とでも言いたげに額に手を当てた。それから、わざとらしく一本調子の「えー」で仕切り直される。
「またこんなとこ見られておいてながら言うのもなんなんだけどね、ストーカーじゃないわよねぇ?」
箒を胸に訝しげな顔をされた。
「違います」
詩織さんはその答えに納得した様子で頷く。僕の両肩に手を乗せ、気遣われる。
「アイツの嫌がらせに無理矢理付き合わされてるなら協力するわよ?」
「だから違いますって」
拍子抜けした顔で尋ねられる。
「じゃあ何しに来たの? あの子と別れさせに?」
首を振る。
「じゃあ何?」
「身勝手なお願いなことは重々承知しています。もう一度、恭子に会わせてください。お願いします」
深く頭を下げた。
詩織さんの顔がキュッと引き締まった。
「どういうこと。詳しく話してちょうだい」
これまでの経緯を述べる。
詩織さんは頷きながら耳を傾けていた。話が終えると客間に通さる。
「チビ助呼んでくるから待っててちょうだいね」
一人きりになった客間。ここで見苦しい言い合いをしていたことさえ懐かしく思える。絶対に別れさせろと言っていた癖に、今は会わせてくださいと頭を下げにきている。なんとまあ迷惑な客だろうか。追い返されてもなんらおかしくない。
彼女は今何をしているのだろうか。いつもの僕みたいに危機に直面したら縦横無尽に全速力で右往左往しているのだろうか。それとも、逃げ場がなくなると固まる癖が出てしまっているか。神社の場所も教えていないから、どうしようもないと僕は予想する。師匠の家へ向かうにも、あちら側は恵一との交流がさほどなさそうだったから辿り着くことは難しいだろう。
「連れて来たわよ」
詩織さんが客間に入る。
「待たせたな」
そう言って身の丈の一回りも二回りも大きな威厳を携える少年が続いた。以前の余裕綽々といった装いは微塵もなく真剣な顔つきだった。椅子に腰掛け、何か考え込む。そのままチビ助は黙り込んだ。
隣に座る詩織さんもチビ助が切り出すのをじっと待っている。
いくら待っても切り出そうとしないチビ助に僕は業を煮やし尋ねる。
「詩織さんから話は聞いていますよね? どうなんですか?」
しばしの沈黙を続けた後、答えた。
「すまないが正直なところ、今の吾輩では間違いなく無理じゃの」
その受け答えに思わず「どうしてですか!」と噛み付いてしまった。
チビ助は片手で制止し、言い聞かせるように淡々と続ける。
「別れさせるだけなら力さえあればなんとでもできよう。まあ、向こう数十年は一切の魔法が使えない覚悟はいるがの。――だが、繋ぎ直すとなれば話は別じゃ。幾百幾千、いや幾億もの並行世界の中から針の穴を通すように目当ての一つと繋ぎ合わせるのは不可能ではないが可能性は極限的に零じゃ」
さらに紡ぐ。
「もう諦めろ。その方がお主にとって有益なはずじゃ」
そう簡単に諦めがつくものなら最初からここに来ていない。なあなあで生きてきた僕にとって初めてできた諦めがつかないもの。ただ彼女に会いたいという一心が僕を突き動かしているんだ。ここで「はいそうですか」と言って帰れる訳がない。
「何か方法はないんですか? なんでもしますから」
「無理じゃ」
「じゃあ、何が原因なんですか?」
「すまんが分からん」
「じゃあ師匠は? 坂井さんが弟子を取らせたがっていたところを見ると実力はあるんですよね?」
詩織さんが乾いた笑い声を洩らす。
「実力があるなんてもんじゃあないわよ、アレは。知名度、実力、人気どれを取っても世界で五本指は固いわよ。ファンクラブもあるしねえ」
あんなものにファンクラブがいたとは驚きだ。大多数は実態を知らないゆえのファンなのだろうが、夢を大切にこのまま交わることのないまま日々を過ごして欲しいと願う。偶像崇拝とは末恐ろしい。
それはそれとして、もし本当に詩織さんの言う通りならば彼女と再開できる可能性があるのではないだろうか。今初めて師匠に弟子入りしといて良かったと思える。あのつまらない使用人の日々も無駄ではなかった。
そんな僕の期待を読み取ったチビ助が強く短く言い放つ。
「香奈子でも無理だ」
「でも世界で五本指に入るんだから――」
「無理なものは無理なんじゃ。それにこの神社にしかない、祖先が異世界との繋がりについて詳しく記したものが紛失したんじゃ」
可能性が残る糸口を必死に模索する。だがそれらしい打開策は見つからなかった。何か思いついてはみても、すぐに否定が見つかる無意味なものだった。もう何をすればいいのか分からなくなる。
自分の鼓動が分かる。早い。
汗が頬を伝う。気持ち悪い。
目の前が淡くなる。熱い。
「ちょっと恭介。大丈夫なの?」
詩織さんが僕の肩に手を回す。
立ち上がる。足もとがおぼつかなかった。
「大丈夫です。帰ります」
外へ向かおうとする僕を詩織さんが追い越し、立ち塞がる。
「見るからにふらふらだし、どこが大丈夫なのよ。絶対に休んでいきなさい。いいわね、恭介?」
「外の空気吸えば大丈夫です」
振り切って外に向かおうとした。
「私悪くないからね」
詩織さんが僕の手を引き、向かい合う。視界を手の平で覆われた。
覆われた瞬間、平衡感覚が失われ、体の芯が抜かれたように踏ん張りが効かなくなる。前のめりに倒れ込みそうになったところを詩織さんに支えられた。
僕の記憶はそこで一度途切れた。
気が付くと僕は客間のソファの上で横になっていた。目覚めた僕の視界に飛び込んできたのは、詩織さんの顔だった。何が起きているか分からない僕に詩織さんは僕の髪を指でくるくると巻きながら不敵に口角を上げた。
「私も君の寝顔見ちゃった」
意地悪に笑いながら頭を撫でられた。
膝枕されているなあと思いながら「はあ」と相槌を打つ。そして、また撫でられた。なんだか楽しそうだった。
「ああ、アイツには勿体ないくらい素直な良い子だわ。気が向いたらいつでもウチに弟子入りに来てもいいわよ」
ぼうとした頭で尋ねる。
「僕寝ちゃったんですか?」
血が上りきっていないせいか、気を失う前よりも落ちついていた。
詩織さんは悪びれもせずに答える。
「うん。寝させた」
「魔法で?」
「そんなところね」
詩織さんの膝枕から頭を上げる。まだ頭に血が回りきっていなく、視界がぶれた。収まった視界で周りを見る。僕らしかいなかった。
「チビ助はどこですか?」
「チビ助なら、もう一度倉庫に行って紛失したもの探してるわ」
詩織さんの顔を見ずに尋ねる。
「彼女には会えそうにないんですか?」
詩織さんの声は淀む。
「ええ、そうね。期待は裏切られるものだから変に期待を持たないように言っとくわ」
詩織さんは僕の前まで回り込み、見据える。どこか憂いている表情だった。
「もうあの子のことは忘れなさい。綺麗さっぱりね。それが恭介、貴方の幸せになると私は考えるわ」
視線を伏せる。
忘れる。そんなことなどしたくない。
「忘れなきゃいけないんでしょうか?」
振り払われる結果しか待っていないのは理解している。それでも誰かに手を差し伸べて欲しかった。
「いつまでも囚われ続けるぐらいなら忘れた方が身のためよ」
詩織さんの憐れむ表情に何も言えなくなった。
立ち上がる。
「僕帰ります」
詩織さんが「そう」と返す。
帰る際の鳥居前で詩織さんに声を掛けられる。
「いつでも来ていいからね」
詩織さんにお辞儀し、帰路に着く。
神社へ向かった時と対照的に足は重く、もう何も考えられなかった。
そうだ。もう手はなにも残ってはいない。
悔しさが言葉となって再び溢れる。
「もうどうしようもないんだよ」
妹は無愛想な顔でまだ僕を睨み据えている。その口が開く。
「だから何?」
またえらく理不尽なものが出てきた。
「……だからもう打つ手が残ってないんだよ」
妹が頭をかき回す。
「あーイライラするなあもう」
胸倉を掴まれる。
「昔みたいにどんなことがあっても諦めない姿見せて。そんな腑抜けて後ろ向きのやめて、頼りになるカッコいい姿見せてみてよ!」
圧倒された。
僕は何も言い出せずにいる。
「もう覚えてないと思うけど私が幼稚園の時、初めてのおつかいで隣町まで行ったよね。それで迷子になった私をわざわざそこらじゅう駆け回って捜しに来てくれた」
あのときは、まだ単身赴任前の父親が警察に連絡しなければと一人で外にまで届きそうな声絵騒ぎ立てていた。母が諭している間、真に受けた小学一年生の僕は覚えたての自転車で捜しまわっていた。あの一件以来、父親とは絶対的にソリもノリも合わないことを幼いながらに認識した。
「あとでお父さんに聞いた話だけど犯罪に巻き込まれたとかいう話になってたんでしょ。昔は、ひいき目なしでカッコいい自慢のお兄ちゃんだった。でもそれからだんだん物事から逃げて回るようになった。――お兄ちゃんが会いたい人だって、今の姿見たら絶対に幻滅すると思うからね!」
今も昔もなんら変わらずに生きてきたと思ってきた。だけど違ったみたいだ。ゆえに物事に真正面から臨んだ恭子は妹にも好かれた。対して、向かい合うことをせずに逃げ回った僕は妹に嫌われた。小学生からの十年、いくら思い出しても特筆すべきことは何一つしていない。何もしていないから僕自身も変わっていないように錯覚していた。単に妹が僕を嫌いだしたと思った。
昔の僕ならどうしただろうか。諦めが悪く駄々っ子で妙に好奇心が強くて考えたら即行動だった昔の僕は。成長という名ばかりのものを食い潰してきた僕には、想像もつかないことをするはずだ。
「……とにかくやってみるよ。何年かかっても必ず再会してみせる」
妹は「ん」と相槌し、ふと何か悪戯を思いついた子供のように口角を上げる。
「未来のお姉ちゃんの為にも頑張ってね。お兄ちゃんっ」
末尾にハートマークでもつきそうな甘ったるい声色だった。面を喰らった僕を面白がりながら廊下へと去っていった。一応現在進行形で妹のお姉ちゃんでもあるが、言っても仕方ない。ここである疑問点に気がつく。
廊下に出た妹を追いかける。
「美緒、僕がある人に会いたがっているって誰から聞いたの?」
恭子のことは誰にも教えていない。ましてや、美緒が僕の行動から推察できるほどできた妹とは思えない。
「ん? 紘から」
できた弟からだった。
超常現象関係者ぐらいにしか恭子のことは話していない。間違っても弟が関係者ということはありえない。だとしたら弟は、鏡の向こう側を見えていたはずだ。見えていたから電話で話していないこともすぐに見透かした。詩織さんやチビ助にも鏡の向こう側が見えていたということを考えると、そのような力を弟は持っていることになる。
「それが何?」
「いや、なんでもない」
階段を降りて玄関へ向かう。
とにかく師匠に話を聞きに行こう。無理だと言われても面倒だと言われても、再開できるまでは面倒を見て貰おう。自力でも他力でも絶対に再会しよう。ただ心残りは自力で果たした場合、彼女に魔法を披露することができなくなってしまうことぐらいだ。
玄関で靴ひもを結んでいると弟がやってきた。弟は上手くいったことが分かっているのか、微笑を浮かべながら尋ねる。
「どう? お姉ちゃんと仲直りした?」
なんだか聡明過ぎるというかなんというか、僕をいいように手の平で動かしているな。もしも弟が女性だったら将来はきっと歴史に名だたる悪女になっていたと考えても、考え過ぎではないと思える。しかし、人のためにしているのということを考慮すると世界を救う英雄になってもおかしくないとも考えられる。なんだか今の僕は、子の将来を有望視する親バカみたいだ。親はいなくとも子は育つらしいがあれこれ気を回していたのに、いつのまにか背負っていた子に手を肩を貸されている。将来必要になるだろうと、自宅バリアフリー化の計画までしていそうだ。本当、今までの気苦労はなんだったんだとガッカリするぐらい杞憂だった。
「ああ、美緒、それに紘のおかげで助かったよ。ようやく前に進める」
立ち上がり弟の頭を撫でる。
髪をくしゃくしゃにされるのが嫌だったのか距離を取られてしまった。
まるで猫のような弟を見て思う。今ここで鏡のことを聞くのは野暮だろう。兄が鏡に映り込む女性と話し込んでいるなんて傍目から見れば黄色い救急車を呼ばれても仕方ない状況を誰にも言わないでいてくれた。それに機会さえあればあとでいくらでも尋ねることはできる。
「ありがとう」
そう言った。うん十回分をこの一回に込めて。
「あと、お母さんが今日は遅くなっても構わないって」
弟のこの聡明ぶりは間違いなく母親譲りだ。悲しいことに僕と妹には、父のどうでもいい部分しか遺伝されなかった。おそらく僕が父親を苦手としているのは同族嫌悪に似たものだ。本当に何故あのような父と母が結ばれたのか問いただしたい。聡明さと紙一重の悪女ぶりで手玉に取ったのだろうか。
「行ってくるよ」
「お兄ちゃん」と呼び止められる。
弟が日曜朝やっているような変身ポーズを真似る。
「このポーズしてたお姉ちゃんによろしくいって」
「絶対に言うよ。紹介するから期待して待ってて」
家を出て、自転車に跨る。ペダルを思い切りふんづける。最初は重かったペダルも回すたびに軽くなる。
詩織さんには期待を捨てろと言われた。だが僕は弟に期待をするように促した。僕はきっと、自分自身を追い込まなければいけない。そうしなければどこかに逃げ込む口実を作ることができてしまう。それじゃ駄目なんだ。誰かが許してくれる、皆「仕方なかった」と納得してくれる――こんななまけた考え方がいけないんだ。求めるものがあるならば、全身全霊で臨まなければ嘘だ。『金は天下の回り物』『果報は寝て待て』なんて『人事を尽くして天命を待つ』人間が作った言葉なんだ。だから僕は逃げ道を塞いだ。弟に『期待』なんて言葉を使った。予想はいくらでも裏切っていい。だが、期待だけは裏切っちゃいけない。
僕が期待に応えた彼女の顔を思い出す。
うんうんとなんども頷き、驚き、笑った。
彼女がもし、今、僕と同じように悲しみに打ちひしがれているなら、その会えない予想を裏切ってみせよう。それがどんなに汗臭くても泥臭くても、出会った当初にその「そのくさいのが良かった」と言われたんだ。なら貫き通してやる。
まだまだこんなもんじゃないだろ?
将来に夢抱いていた幼い僕に言われた気がした。
洋館がある山の目の前まで着くと同時に自転車を乗り捨て、山道を駆ける。急な傾斜と休みなしで走り通してきたせいで洋館に着いた頃には息はきれぎれ、足は言うことを上手く聞かなくなっていた。
師匠は大広間に何時の間にどこから持ってきたのか分からないソファの上で携帯ゲームをピコピコと操作していた。中世ヨーロッパを題材にした物語と調和する洋館にはそぐわない光景だった。もっとも忍者屋敷に改造している洋館の持ち主に雰囲気を大事にしようなんて感性があるとは思えないので納得はいく光景ではあった。また、そのソファの置き場所も部屋まで持っていくのが面倒だからという理由で大広間に置かれたのだと容易に想像がついてしまった。
なんだか拍子も毒気も抜かれて、ぼさっと立ち尽くす。
すると師匠が携帯ゲーム機から視線を離さず僕に訊いてきた。
「どうした我が弟子? とりあえず整理は一通り済んだから頼むことはもうないぞ」
そう言われて、意気を巻き返す。
「今回は僕が頼みにきました」
「例のお嬢ちゃんといつのまにかお別れしちゃったのか? それとも、もう一度お嬢ちゃんに会いたいのか?」
ソファの前まで詰め寄る。
「知ってたんですか?」
師匠が間の抜けた声で答える。
「なんとなく。ただ来る間隔が長いなーって思っただけ」
この人にはなんでもお見通しか。
「なら無理を承知でお願いしたいことがあります」
その場で両膝を折りたたみ、両手を床につけ、頭を床につける。
「もう一度彼女に会わせてください! なんでもします! どんな方法でも構いませんっ!」
師匠はゲームをしている手を止め、天井を仰ぐ。
「なら今ここで死ねって言われたら死ぬか? 十億持ってこいって言ったら銀行強盗でもするか?」
「え?」
淡々とした口調で言う。
「案外死ねばあの世で会えるかもしれないぞ? 一生遊んで暮らせる金払えば魔法なんていらないっていう輩、間違いなくすぐに現れるぞ」
息を飲むしかなかった。
「どうした? 黙ってるってことは死にたいのか?」
いつか見たカードをどこからか取り出し、人差し指と中指で挟んで突きつける。口元を歪ませながら。
それは弟子入りしてから初めて見る師匠の顔だった。普段おちゃらけている様子からはとても想像できなかった。まるで普段は明るい能面で素顔を隠していたようだった。そして、今初めてその下にあるおぞましい素顔を垣間見た気がした。自分と同じ人間とは思えない。この世界とは別のどこかから来た何かにさえ思える。ただ怖いんじゃない、体中を舐めまわされ品定めされている独特のおぞましさ。本能が警笛が鳴るのと同時に全身の毛穴から怖気が噴き出す。心臓にもまるで手が届いている感覚を覚える。今は優しく撫でまわしているが、ちょっと気分が変われば、なにか拍子に『つい』潰してしまいそうな危うさがあった。
「僕は――」
声が震える。
怯えているんだ。分かる。考えばかりが頭を駆け回る。
随分と昔から冒険させずに子飼いにしてきたんだ、僕はただの大人しい従順な羊だ。周りは断崖絶壁。この一歩で全てが変わる。また奈落に落とされるか、目の前の谷を跳び越えるか。だが、ただ跳ぶだけでもいけない。霧に包まれた何かが向こう側で今か今かと跳ぶことを待ち侘びている。それへの答えを捜すんだ。
恐ろしい。心が悲鳴にならない声を上げている。全身が総毛立つ。留まれば一旦は無事に終わる。だが、それだけだ。向こう側への意思を持たない限り腐っていくだけだ。
留まらない。落ちない。戦う。
今まで通り従順に従う方が楽だ。でもそれじゃいけない。目的のためと自分に言い訳したって、それじゃ意味がないことは一番自分が分かっている。前提条件から逸脱しているのだからそれじゃ果たせたとしても嬉しくもない。僕は彼女に会わなければならない。けれども後ろめたくては意味がない。会わせる顔がない。
「僕は――」
途切れ途切れの拙い言葉で紡ぐ。
「や、やりません。恭子に会いたいですがそんなことをしてから会いたくない」
跳んだ。
師匠は待ち疲れたように立ち上がる。立ち上がることで威圧感は階乗的に大きくなる。しゃがみ、両膝を折った僕に手を伸ばす。
やってしまったとは思ったが、不思議と行動直後に湧き上がる間欠泉の如き後悔も反省も今はなかった。
伸ばした手は、僕の肩に手を置く。
「よくいった。さすが私が弟子にしただけのことはある」
何かを包み隠していたものはどこかへ雲散霧消した。
「試してたんですか?」
師匠は白い歯を見せる。
「ああ。でも不正解だったら致し方ないと思ってはいたけどな」
包まれていたものは狼だった。
その狼は嬉しそうに肩に手を回す。
「いやーでも愛弟子がこっち側に来れてよかった。それに化けの皮が剥がれて良かったじゃないか」
師匠の言葉を意訳すると、自分と同じ立場に立たせるために僕を引き込んだということらしい。そして、僕は羊の皮を被った狼らしい。
いつもの豪放磊落な師匠の顔を見たら、強張っていた体の力が抜けた。あまりにも抜けて両膝を折ったままえ前のめりになる。師匠が僕の肩を掴み支え、左右に揺する。「おい、起きろー。会える方法知りたくないのか?」
跳び起きる。
「本当に会えるんですか?」
詩織さんやチビ助も無理だと言っていた。いつもの調子の良いことを思いつくまま出しているかもしれない。
「昔どっかでそんなこと書いてあるやつを見たことがあるようなないような気がする。なんとかなるだろ」
「それ信用できるんですか?」
「さあ?」
この狼は一匹狼だ。それも闘争の果てに追い出されたものではない。群れから自分で好き勝手動いてはぐれたやつだ。
「それに詩織さんやチビ助が師匠でも無理だって言ってたんですけどできるんですか?」
師匠が煙草を咥える。ニッと白い歯を見せた。
「お前の師匠を誰だと思ってるんだ? 世界を、世間様をひざまずかせる悪名高き天才魔女須磨香奈子様だぞ」
それから師匠は僕に、並行世界同士を繋ぎ合わせるための儀式に使う道具を集めに行かせた。一つ目は、僕と恭子を繋いだ鏡。二つ目は、大量の蝋燭。三つ目は、僕らの共通の持ち物。他にも細かい道具が必要らしいが、それは師匠が洋館にあるもので代用するから大丈夫だそうだ。
それから家に一時帰宅した。空が暮れ始め、いつもなら明りがついていて夕食の匂いが立ち込めている。そこは明りも匂いもなく、もぬけの殻だった。おそらく、僕がどこかで食べてくると考えたのであろう。こういう時ばかり行動的な母親のことだ、夕食の準備を面倒くさがりどこかに外食に行こうと妹と弟を連れ立って出かけたに違いない。今頃はどこかのファミレスでハンバーグでも頬張っているだろう。僕はこの味覚障害者の烙印を押される原因となったチョコレートを全てが終わったら師匠宅で頬張ろう。彼女と一緒に。
鏡を担いで外へ出る。
いつもなら多少外食を羨ましがっただろうが、今この時はありがたい。鏡を担いで、再び外出するなんて不自然極まりない。周りに気を配りながら師匠の家へと戻っている。まるで夜逃げでもしている気分だ。警察に職務質問を受けても仕方ないと思える。現にすれちがった会社員に変な目で見られた。堺さんに遭遇したら、またも実力を行使されてしまいそうだ。
彼女と再開を果たし、魔法を覚える余力が残っていたら箒で空を飛べるようになろう。いつまた師匠に言いつけられてこんな目に遭っても大丈夫ように。人目には決してついてしまわぬように。
ふと、思いだす。チビ助が詩織さんのアロマキャンドルを大量に余らせていると言っていたことを。だいぶ遠回りになるが先に神社に向かおう。しかし、なんと言ってアロマキャンドルを譲ってもらおうか。本来ならばただ低身長に理由を述べて譲ってもらえばいいのだろう。だが友人がいないことを紛らわすために購入したと聞いてしまっている手前、なかなか話を切り出しにくい。とにかく譲ってもらわなければなければいけないのだから、無礼を承知で切り出さなければ。とても胃が痛む。まるでなんらかの発表会前日のようだ。――彼女はこのような発表をいくつもこなしてきたと思うと頭が下がる。
あれこれ考えているうちに神社の階段前まで到着してしまった。すっかり夜風が冷たくなっていた。もうすぐ五月になるといっても東北の春先ということもあり、まだまだ寒さが堪えた。参拝時期ではない夜の神社は昼来たものと違い木々のざわめきが不気味に思えた。長い石段の天辺に目を遣るが、深い闇に隠され、眼を必死に凝らしても先が一向に見渡せなかった。光の類が一切ない石段は危険極まりなかった。腕と体の間に担いでいた鏡を幾度も前後の石段にぶつける。しかし長い階段を登りきるまでの時間は、半ばどうにでもなれという玉砕かつ犬死の腹構えを決めるのにちょうど良かった。
三度目の鳥居前。一度目は別れるため。二度目は再会するため。どちらも大した成果を挙げることなくとぼとぼ帰ることになった。三度目の正直でもある今回もまた、大した成果を挙げられそうにない。それどころか親身になってくれた詩織さんの機嫌を損ね、追い返されてしまわれそうだ。
神社の近くにある倉掛家から漏れる明りがぼうと神社全体を薄く照らす。二対の狼の狛犬がまるで帰れとも言っているように見据えられる。神社を守るために置かれたというのもあながちバカにできない。魔法が存在したのだから、妖怪から身を守る存在というのも嘘ではないと考えられる。こんなものに睨みをきかされたら、襲う気なんてなくなってしまう。
例のごとく詩織さんがいるのではと試しに賽銭箱裏を覗いてみたが、さすがにこの時間帯ではうたた寝している姿を見ることはできなかった。少し「もしかしたら」と思ってしまっていたので、小さく肩を落とした。
後ろから声がかかる。
「こんな時間にどうしたのぉ?」
肩が飛び上がった。振り向くと寝巻なのか白地に黒のラインが入ったジャージ姿の詩織さんがいた。
「そうしてると不審者みたいよ?」
詩織さんがカラカラと笑う。軽い毛先がふわふわと揺れた。
「不審者扱いだけはやめてください」
巫女である詩織さんが不審者扱いしたら後ろの狛犬が飛びかかってきそうだ。
「どうしてこの時間帯にこんなとこにいるんですか?」
こんな時間帯に神社の境内にいる僕が訊くことではないが。
「弱めだけど人払いの結界に引っかかったからよ」
「どうしてそんなものを?」
「ここら辺一帯、夜は暗闇でしょう? どうしても階段から転げ落ちて大怪我する人が出てくるのよ。それでこの時間帯は、大した用事がない人は追い払えるように張ってあるの」
詩織さんが視線を落とす。
「それでそれなんなの?」
詩織さんが抱えた鏡を指差した。
「ああ、これは例の鏡の本体です。いや、大本と言った方がいいのかな」
鏡を玉砂利の敷き詰めた地面に置く。
「ふうん。それでどうして持ってきたの?」
「師匠が戻し方が分かるらしいので。今は持っていく最中です」
詩織さんが腰に手を当て、訊く。
「それで? わざわざ来たんだから用事あったんでしょう?」
「はい」
今度は下から声がかかった。
「なんじゃ面白そうなこと話しとるな。吾輩も混ぜろ」
下に目を遣るとチビ助がいた。こちらも寝巻で、水色のパジャマを着ていた。昼間と違い、こちらの姿は年相応のやんちゃな男の子にしか見えない。
「夜は着物とかじゃないんですね」
チビ助は、両手を天に仰ぎガッカリ顔をする。
「着物は洗濯が面倒だと言われて、せめて夜だけはと言われてるじゃ」
詩織さんがチビ助の頭を両手で押すように抑える。
「できることならお昼もシャツだとお姉さん嬉しいんだけどなあ」
チビ助が必死に抵抗する。
「誰がお姉さんじゃ、吾輩から見れば幼子とさして変わりはせん」
詩織さんに視線を送られる。
「こんななりで言われても説得力に欠けると思わないのかしらねえ?」
水色のパジャマが妙に小さな体に馴染んで見えた。
「――まあ、ないよね」
詩織さんへの御機嫌取りも兼ねてはいるが、今のその格好で言われても説得力はまったくない。それにどの角度から色んな解釈を考えてみても年の離れた姉にいじられる弟にしか見えない。ああいったやりとりはなぜだかどこか懐かしく思える。僕の弟と妹ではありえない関係なのだが。
チビ助が身をよじり詩織さんを振りほどく。
「ええい、さっさと話を進めんか!」
「そうそう、どうしてアイツが戻し方なんて知ってるわけ? いくらなんでもアイツん家にもないとは思うんだけど」
どうしてと言われても僕にもサッパリだ。
「僕にはちょっと……」
詩織さんがチビ助の頭にポンと手を乗せる。
「ちょちょいと訊いてきなさい。変化すれば朝飯前でしょ?」
「断る。今はもうしんどいんじゃぞ、あれは。それに自分で行けばいいじゃろ」
「嫌よ。できれば会いたくない奴なんだもの」
詩織さんがこれはまた闇夜の中でも映える影のある顔をする。月明かりに照らされ、吐き出されることのないまま募りに募った嫌悪という感情が垣間見えた。
「ごめんなさいねえ恭介くん。この子聞き分け悪くて」
「だから、子供扱いするなと言っておるだろう」
喚き立てるチビ助を頭に乗せた手で制御しながら、詩織さんは僕に尋ねる。あの影は消えていた。
「それで私の家に何の用事で来たの?」
逃げの単語が頭の中にある小さな小部屋に次々と生まれ、それがいくつか集まり形成され世迷い言になり堂々巡りとなる。求めるものは分かっている。そこへの向かい方も知っている。しかし、断続的に生まれ繋がるものに埋め尽くされてしまう。目的地が見えなくなり、次第に方向さえも分からなくなる。求めていた答えを闇雲に捜し回る。だが、どれも捜していたそれとは違った。
もう見つからない。
僕はそう思うはずだ。違う。無意識のうちに視界から外しているだけだ。だから紛れていると思い込んでるだけだ。ごった煮の中を見回す。一際異彩を放っているものを早々に見つけ出した。
なんだ――目を背けなければいいだけのことだったんだ。
見つけ出した言葉を紡ぐ。
「前、大量にアロマキャンドル余らせてるって言ってましたよね? 恭子と再会するために必要なので、譲ってはくれませんか」
体中が強張る。
詩織さんの顔も強張っていた。切れ長の目が僕から視線を逸らす。
口の中が渇いていく。胃が締め付けられる。どくんどくんと脈が大きく打つ。
互いに困り果てた僕らの間でチビ助が口元を押さえていた。
それが癪に障ったのか、詩織さんがチビ助を羽交い締める。詩織さんがチビ助を盾にし、その後ろに隠れる。恐る恐る話しかける。
「……友達くらいいるんだからね」
チビ助で隠しきれなかった詩織さんの耳は、もう本人でもどうしようもないくらい真っ赤になっていた。
「はい、分かってますよ。詩織さんほど優しくて魅力的な方はなかなかいませんから」
真っ赤な詩織さんはチビ助の後ろでもう一回り縮こまって見えなくなってしまった。
小さくなっているのをいいことにチビ助が図に乗り始める。
「よく言うわい。友人らしい友人といえば、お前さんが嫌っている香奈子ぐらいなもんじゃろ」
詩織さんは黙っている。
チビ助は図に拍車をかける。
「あの匂い付きの蝋燭が必要なんじゃろ? 処分に困ってたんじゃ、丁度いいわい。全部持って行け。ただ代わりといってはなんだが、こやつの友人になってはくれぬか?」
それはもちろん構わない。友人になれるのならなりたい。むしろ、何故このような人が友人がいないのか理解に苦しむ。
返事をしようと思った。それと同時に詩織さんが動き出したのが見えた。流れるように、または蛇の如くチビ助の首を締め上げ、自分の頭を押しつけ頸動脈を圧迫する。それは思わず嘆声を上げてしまう見ていて惚れ惚れするような手際の良さだった。
「調子に乗ってんじゃあないわよ」
手加減無しなのか、チビ助が詩織さんの腕を叩きっぱなしだ。ほのかに顔から血の気が引き始め青ざめていた。真っ赤な詩織さんの額には青筋が浮かんでいた。
詩織さんが僕に目を遣る。
「勘違いしないでちょうだい。そりゃ世間一般よりは――まあ、かなり少ないかもしれなけどいるにはいるんだから。そこら辺は分かっといてちょうだい」
「大丈夫ですよ」
詮索はしない。これ以上何か尋ねたら、もはや虫の息の小さなお子様が息絶えてしまいそうだ。
「分かればよろしい」
「ところで――そろそろ止めないと人間じゃなくても死にそうなんですけど」
パッと手を離されると、チビ助は膝から倒れ込み激しく咳込む。僕は背中を擦ったが、息遣いが激しくなかなか安定しない。
「大丈夫ですか?」
そう尋ねると、片手を振って答えられる。
「詩織さん、ちょっとやり過ぎですよ」
詩織さんは不味そうな顔を浮かべた。
「そうね、やりすぎちゃったわ」
詩織さんが膝を折り、背中を擦るのに加わる。
ようやく呼吸が収まる。
「お主、こんな調子じゃいつかの男児に再会したときなんて言われるか分かったもんじゃないのう?」
詩織さんはすっと立ち上がる。
「それじゃ私アロマキャンドル持ってくるから」
そう言い残すと、早足で去って行った。
チビ助が口を尖らせる。
「残念。怒ると踏んでおったが耐え追ったわ」
わざと怒らせるような真似をしていたのか。自業自得というかなんというか。
「そういう趣味ですか?」
「違うわい」
「じゃあなんでわざわざ怒らせる真似を?」
チビ助が考える素振りをする。すぐに放棄した。賽銭箱に腰掛け、口にする。
「まあ、お主なら間違いはないだろう。――吾輩は産土神だ」
産土神――その土地を守護する神。目の前のパジャマ姿のお子様がそれとは到底思えなかった。ただ本人も以前に述べた通り、力を失い本来の姿からかけ離れたものになっているのだろう。本来の姿は一体どのような姿なのだろうか。だがとても偉そうな姿だけは、ぼやけた輪郭の中でも想像がついた。
「吾輩にとってはこの土地で暮らす全ての者は、子供のようなものじゃ。その中でも可愛がっているのはあ奴じゃ」
「どうして詩織さんを? この神社の巫女だからですか?」
「それもあるが、見ていて不憫で仕方なかったからじゃ」
「不憫?」
師匠を除けば、誰にでも人当たりが良さそうでそんな風には見えない。不憫だとすれば師匠が関係するしか思えない。
「詳しく言うことは詩織の沽券に関わるので言えぬが、香奈子が表舞台に立つようになってから、詩織を取り巻く環境全てが変わったとでも言っとこう。限りなく無意識の問題児じゃからの、あ奴は」
「そうなんですか?」
「それが何に対して訊いているのか分からんが、言ったことに嘘偽りはないぞ」
僕は詩織さんの事に対し訊いたのだが。詩織さんは、僕みたいに取り巻く環境が変わったのにも関わらず、僕みたいに卑屈にならず前を向いている。師匠が何をしたかは僕には分からない。それでも、詩織さんに訪れることになった苦境は染み入るように分かった。
しかし、それがどうして怒らせることに繋がるのだろうか。
「どうして怒らせるんですか?」
「常に笑顔で生き続けるのは辛いからかのう」
チビ助が賽銭箱からぶらぶらした足を前へ動かした反動で跳ぶ。両手を掲げて着地し、振り返る。
「もっとも吾輩がやれておるのは日ごろのストレス発散が関の山じゃ。いつかの求婚まがいのことを言いおった男児が名乗り挙げてくれれば吾輩の肩の荷も下りて楽になるのじゃがのう。それはもう親が子を嫁へ送り出すが如く」
その男児というのは、何者だろうか。求婚なんて恐れ多くてできやしない。いやはや、突如失踪した許嫁か何かだろう。そうでなければ小学生が求婚なんて、夢物語なことできるわけがない。
「すごい小学生がいたもんですね」
「吾輩も立ち会ってしまった際、目を丸くして驚いたのを覚えておる」
それから他愛のない談笑をする暇なく詩織さんが帰ってきた。
詩織さんは、僕に目を合わさずぶっきらぼうにアロマキャンドルが入った袋を渡される。
僕はそれを受け取り、礼を述べ、神社に背を向けた。
その間、詩織さんは一度も目を合わせてくれなかった。
深い闇へと続く長い階段を下る直前に足を止める。
振り返り、お礼とばかりに声を張り上げる。
「早く求婚された男の子に会えるといいですねー」
素早く踵を返し、階段を下る。
背後から詩織さんのチビ助に対する心地よい怒声が聞こえてきた。
山に到着する頃には高校生が出歩いては補導される時間帯になっていた。師匠宅が立地している山に立ち入るまで、いつ警察に見つかるかびくびく怯えていた。
深夜の山には澄み切った冷気と植物独特の鼻につく匂いが籠っていた。木々のざわめきが漏れる月明かりを背景にして頭上に広がってゆく。木々の間隔は狭く、月明かりしか頼るものがなく、この慣れた道のりでさえも気付けば木々に道を幾度も遮られ自分が今何処にいるのかさえ分からなくなった。ただ、坂を登っていればいつか辿り着くという考えのもとに登ってゆく。歩みを進めると湿り気が溜まった地面がぬかるみ、一歩ごとに転倒してしまわぬよう余計な力が入った。両脇に抱えた鏡と袋が僕を支えに安定しない天秤のように揺れる。突風が吹き荒び、姿見が煽られつり合いが取れなくなる。思い切り転倒した。木の幹に肩を強くぶつけた。不幸中の幸い、必死に鏡を抱きかかえ背から倒れ込んだおかげで鏡面には傷一つなく月明かりを反射していた。
立ち上がる。体中に纏わりついた泥を払う。肩が痛んだ。樹木にもたれかかり、周りを目を遣る。どこもかしこも闇に囲まれ何も分からない。素直に山を下りれば必ず町に辿り着くだろうが、日が変わる前には師匠に会っておきたい。夕食を抜かしてしまったせいか、腹が鳴きだした。上着のポケットに入れておいたチョコレートは、転んだ衝撃でものの見事に粉々になっているのが包み紙の上からでも触っただけで分かった。それでも腹の足しになればと封を破ろうとした時、遠くにぼんやりと赤い灯火が見えた。
目を凝らす。
その灯火は、何かにその身を宿してはおらず、それ単体が動き回っていた。そして、視界に多く現れ始めた。
それはいつか洋館でかくれんぼした際、大火傷を負われそうになった火球だった。反射的に隠れたが、よくよく考えればあの時とは状況がまるで違う。すでに坂井さんとはお互いに面識を持っている。あの火の前に姿を現しても問題はないはずだ。
火球の前まで走り寄る。
相手方も僕の存在に気付いたらしく、様々な所から僕の元へ火球が飛んでくる。
その光景はまるであのかくれんぼの再現のように思えてあまり良い気はしなかった。集まった火球は僕を取り囲んだかと思えば、一列に並びだす。迷わないように落としてきた飴を遡れと案内しているように。
火球を辿る。かれこれ十分ほど歩いた。冬場の冷気が色濃く残る山において火球で暖をとれるのは素直にありがたかった。赤く揺れる列を目印にさらに進む。辿るうちに火球の列が途切れた。最後に見えた火球の隣に誰かが手を振っているのが見えた。その輪郭は、陽炎によく似た何かに包まれぼんやりとしていた。その陽炎から五メートルほど前に踏み入れた際、パチンと耳元で弾けた音がした。
途端にしつこく纏わりついた陽炎が雲散霧消する。輪郭がはっきりする。同時に声も聞こえてきた。それは男性の声だった。それを発するのは心労が寄り集まったシワやそろそろ始まっていると思われる老眼が入った眼鏡、そして枯れ木さえも残り少ない頭皮。見間違いようがない。坂井さんだ。
「坂井さん。助かりました。迷っちゃって」
坂井さんは溜息をつく。
「ええ、知っています。つい先ほど君の大馬鹿師匠が夜中に強力な人避けや魔除けを張っていることを教えてないことも知りましたから」
思考が一時停止する。
よく師匠が夜遅くなるから帰らされた理由は、それだったのか。弟子入りしたのだから、それぐらい教えてくれてもいいのではないか。
「でもどうして坂井さんがここに?」
坂井さんが一段と毛が薄くなりそうな顔をする。
「あの馬鹿、自分は自分でやることあるからと突然呼び出しを喰らったからです」
悔しそうに「久しぶりに娘と夕食ができる予定だったのに」と付け加えた。
師匠が言っていたというのは、儀式関連のことだろうか。そうだと嬉しいのだが、途中で手を休めたゲームの続きというのも考えられる。また、運良く儀式関連だとしても坂井さんへの言い訳に体よく使われてしまいそうだ。それもないことをあるとされて言いくるめそうだ。
「坂井さん、わざわざありがとうございます」
頭を下げる。
師匠が礼を述べることはないだろう。師匠の不始末の後始末は、これから僕がすることになるだろう。恒久的にと思えば気持ちは萎えるが、彼女に会えるのと引き換えならば仕方ない。恒久的に事後処理係などまっぴらごめんだと師匠の実態を知る多くの人は口を揃えるだろうが、人情なのだから仕方ない。それに僕が引き金となって娘さんとの夕食を邪魔してしまったのだから、謝らないといけない気がした。
坂井さんが顔を上げた僕の肩を叩く。
「君は実に良い若者ですね。私にも娘がいるのですが君みたいな好青年に出会ってほしいですね。――弟子入りして喜んだのは私ですが、あの馬鹿に潰されるのを見たくないですね。今なら私のツテを使えば鞍替えもできます。どんな種類の術者でも、あの須磨香奈子に一度でも弟子入りを果たしたとすれば世界中どこでも通用する免罪符になります。それでも、あの馬鹿に弟子入りするのですか?」
僕は答える。
「あの師匠だからこそです」
坂井さんが踵を返す。
「若いのですし、これも経験ですかね。では離れずついてきてください。もう人避けがないと言っても夜中の山ですから」
明りとするもの以外の火球を全て消し去り、坂井さんは歩き出す。
僕はそれに続いた。
予想通り。
そう思ってしまうのは、とても悲しい。けれども、そう思わざるを得ない光景が目の前に広がっていた。ソファに寝そべる師匠は大音量を大広間に響かせながら携帯機でゲームの真っ最中だった。
「何やってるんですか?」
僕がそう尋ねると、ゲームをする手を休めた。寝そべったまま大きく伸びる。その長身が一段と伸びたため、ソファから手足が飛び出した。立ち上がり僕の他に坂井さんもいることを確認すると「よっ」と片手を挙げて挨拶した。
坂井さんはため息混じりに尋ねる。
「いきなり呼び出した癖にゲームをしているとはいい御身分ですね。それで私を呼び出してまですることはなんだっのですか? まさかゲームなわけではないですよね?」
大広間の見渡しても儀式らしい準備は何一つなされてなかった。
僕の怪訝な顔に気付いた師匠は近寄りバンバンと強く肩を叩く。
「安心しろ。やることちゃんとやってあるから」
そう言って僕が持っていた鏡と蝋燭が入った袋を軽々しく持ち上げる。
「とりあえず上に行くぞ」
師匠が僕に促す。
坂井さんが納得いかない様子で尋ねる。
「私はまだ納得いってないのですが」
坂井さんにはまだ説明の一つもしていないのだろうか。していないだろうな。師匠のことだからな。
「あー」とどこまでも面倒そうな師匠に代わり、これまでの経緯を掻い摘んで説明した。説明しているうちに、坂井さんの目の色が変わり始めるのに気付く。途中怒気にも似た何かが混じり始める。終わる頃には鬱憤が顔から漏れ出していた。
師匠に坂井さんが酷い形相で詰め寄る。
「異世界と繋がるなんて世界的に見てもなかなかないんですよ。どうして一言教えないんですか! 貴重なサンプルだというのに!」
師匠が面倒そうに明後日の方向を見る。
「あーだから言いたくなかったんだ。めんどくさい」
「名ばかりですが、一応地区長でしょう!」
「だからシオリンを地区長すればいいって何度も提言してるだろう」
「しょうがないでしょう。上が有名人がやることを望んでいて、本人も貴女の代役なんてまっぴらごめんだと述べているのだから」
坂井さんが悩める中間管理職ということは納得したが、シオリンとは一体なんだ。
師匠が階段に足を掛ける。
「そんな些細なことはどうでもいい。さっさと儀式やるぞ」
階段を上ってゆく師匠を追いかける。坂井さんも仕方なく続いた。
行き着いた部屋はあの床が抜けた部屋だった。その床の抜けた所に目を遣ると、人が二人入るかどうかの円によく分からない紋様がチョークで描かれていた。
師匠は円の中心に鏡を置き、円の外周に沿うように蝋燭を並べる。師匠が今まで見てきた中で一番てきぱき動いている。手伝うべきなんだろうが、珍しく働いているのを邪魔しちゃいけないような気がして僕と坂井さんはただただ傍観していた。
師匠が坂井さんにライターを借り、並べた蝋燭全てに火をつける。
「それで共通の持ち物は?」
すっかり忘れていた。鏡の重さと蝋燭の調達方法ばかりに気を取られていた。
「ええと」とごまねいていると師匠が口元をそれはもう楽しそうに歪ませる。
「まさか忘れたのか? いくらなんでもそれはないよな? あれだけお嬢ちゃんに会いたいと頼み込んできたのだから。なあ?」
ヘラヘラと良いおもちゃを見つけたように顔を傾けながら近づけられる。
顔を背け、何かなかったかと必死で模索する。ぱっとあるものを持っていたことを思い出す。
ポケットに入れていたチョコレートを渡した。
師匠が残念そうにそれを鏡の傍らに置く。ライターを坂井さんに投げて返すと、両腕を腰に当て「よし、やるか」と意気込んだ。
師匠が本棚から一冊の本を取りだす。
そこは、くしくも僕が以前引き当てたものと同じ個所だった。一瞬落ちるのはないかとヒヤリとしたがそんなことはなかった。
師匠が本を開く。お目当てのページを見つけると、両足を肩幅ほどに開く。息をスウと吸い込み、何かを唱え始める。
呪文なのだろう。外国語は英語ぐらいしかまともにヒヤリングしたことがない僕にとって、この呪文は初めて聞く言語だった。チンプンカンプンな音の集まりに必死に耳を傾けていると毛先が遊ぶような風に気付く。次第に風は乾燥した冷気を纏う。加えて、風を感じる度に一段と強くなってゆく。数十秒もすると師匠の声は風に掻き消され、目も開けてられないぐらいになった。
瞼を手で半分覆い、薄目を開く。
嵐が巻き起こる室内で蝋燭の火は勢いを増し、真っ直ぐ天井に向けて伸びていた。円の前に立つ師匠も携えた長髪が風になびく程度にしか影響を受けていなかった。風に拍車がかかり、今まで耐えていた本棚が傾いたのが見えた。
僕が薄目を開けていたのはそれまでだった。
猛威を振るった暴風は、回転が弱まるコマのように強弱を繰り返しながら、だんだんと弱まっていった。
瞼を開く。
師匠が倒れかかった本棚を蹴ったのか、片足を宙に浮かせていた。その足もとの蝋燭の火は全て煙を漂わせていた。嵐の余韻が部屋に物音として響く。本が落ち、部屋は軋む。されどある種の静けさが部屋に飽和していた。
期待と不安が額を伝わる。高鳴る胸の鼓動が張り詰めた緊張を伝い全身にくまなく行き渡る。師匠が足を床につける、その一挙手一投足を目が追ってしまう。本を閉じる仕草。風に弄ばれた乱れ髪を手櫛で整える振る舞い。それらの動きから、かすかでも成功という反応を得たかった。はやる気持ちを抑えることはできなかった。どうしても駄目だった時のことが脳裏にチラつくけれども、彼女に会えるという期待の方が大きかった。
師匠が振り向く。
淡々と言った。
「無理だった」
期待は裏切られた。
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