第3話 その理由は?
僕は酷く呆れかえった。いつしか必ずかの邪智暴虐の師匠を改心させなければならぬと決意した。僕は魔法が分からぬ。僕はしがない高校生だった。よく遊び、ときたま思い出したように本分である勉学にも励んだ。けれども面倒事に対しては、人一倍に敏感であった。放課後、たびたび登山し、王との約束を頑なに守るメロスのように、ここまで来た。名ばかり師匠の顔を超常現象管理課室長に対して立てるためである。
だが、師匠は僕をお抱え使用人のようにこき使った。蜘蛛の巣撤去や炊事洗濯は当然のこととして、あげくは屋敷内外に敷き詰めた罠のメンテナンスなどもさせられた。それだけならまだいい。屋敷内の状態が日を追うごとに目を見張るほどに改善されてもなお、魔法を教える素振り一つさえ見せない。たまに「師匠なんですから今日は魔法でも鏡でも何でもいいので何かしら教えてください」と求めてみても「今日は忙しいから」と煙に巻かれた。それが何度か続いた。そんな日は決まって不満不平を胸に抱きながら使用人として与えられた仕事を完遂した。
今日も今日とて、師匠は窓際で椅子に座り、優雅に尊大にくつろぎながら紫煙をくゆらせている。
今日こそはといき込んで師匠もといご主人様の元へと向かう。不埒な悪行三昧に対する内部告発をする会社員のように職を辞する覚悟を持って。
「師匠、何も教えてくれないならもう来ませんよ」
「それは困るな」
困らないのだろう。師匠は朗らかに笑っていた。
「坂井さんによろしく言っといてください」
「まあ、まて」
翻した僕の体がふわりと宙に浮いた。勝手に師匠の方へと向き直され、下ろされる。
「お前はどうしたいんだ?」
「どうって、魔法についても、もう一人の自分との別れ方についても教えて貰いたいです」
「――分かった。初めてできた最愛の弟子が言うのだから師匠としてもないがしろにするわけにはいかないな」
ないがしろにされてきたから進言したのだが、この人には関係ないらしい。しかし、少しはやる気になったのなら細かい点は気にしない。この人に細かな点を言い出したらキリがない。それはもう将来的には円周率にも並ぶ勢いだ。
「それじゃ手っ取り早い鏡の件から片付けるとするか」
師匠は傍にあった椅子に座るように促した。僕が座ると、話し始める。
「現状整理だ。とりあえずあの鏡は間違いなく並行世界と繋がっているな」
浮いた灰皿に煙草を押し付け、続ける。
「何かの拍子に磁場の乱れが起きて、鏡同士が繋がったんだな。これをどうにかすることは業界の一般常識的には不可能に近い」
「常識的には?」
「磁場の乱れといっても局所的に、しかも世間一般で言われている電磁波とは類似しているが別物だ。つまるところ今話をしている電磁波は、実際の電磁波と似た概念だな。この電磁波によって鏡同士の回線が繋がったのだから、切りたいのなら単純にもう一度磁場を乱してやればいい。ただし、それはもう尋常ではないほどの力を行使する。一例を挙げるならば、人間の短い寿命で考えれば二度と魔法は使えなくなる」
「つまり、師匠でもどうしようもできないんですね?」
「お、我が弟子は師匠のことを人間だと見てくれるのか。それは嬉しい限りだな」
「え? 人間じゃないんですか?」
妖怪などがいてもおかしくないと思う程度までは常識を軌道修正したが、見分け方なんてさっぱりだ。
師匠は手の平を空に向け、とぼける。
「さあ、どうだろうな。人間かもしれないし、もしかしたらなまはげかもしれないぞ?」
師匠が自らの顎を摘まんで考える。
「もっとも自分なら最悪筋肉痛ぐらいだろうけど――正直面倒だな」
「最愛の弟子の頼みでも?」
「よし。ではこれを解決することを修行にしよう」
ああ、やっぱり駄目だ。この人は。
「まあ、安心しろ。ヒントをくれる人ぐらいは用意する」
師匠は僕に「紙とペンを」と言い、走らせる。師匠は二つを受け取ると、サラサラとペンを走らせた。そして、それを手渡される。
「そこに行けば。分かるから」
地図を見ると、えらく分かりやすい町並みのなかに一際目立つように矢印で示された神社があった。
「神社に行けばいいんですね?」
「そうだ。でも今から行けば遅くなるから、行くとするなら明日だな」
それと、と思いだしたように付け加える。
「手鏡を持って行くこと。恭子ちゃんにはそれを覗いておくことと伝えときなさい」
家路につく。その際、ブレザー姿の碧と出会った。僕と目が合うと、駆け足で近寄ってくる。
「珍しいね。こんなところで会うなんて」
「そうだね。でも家とは反対方向だよね、ここ?」
「お父さんに忘れ物届けに。それで今は任務終了して帰宅中」
ビシッと碧が敬礼を決める。
「せっかくだし途中まで送ろっか? 家帰っても夕食まで時間あるし」
「んーそうだね。せっかくだしお願いしちゃおうかな」
肩を並べて歩く。この光景は小学校以来だ。中学からは部活動や学校と自宅の位置関係で一緒に帰ることはなくなっていた。こうして久しぶりに並んで歩くと、改めて成長したことを実感する。あの頃は成長期の男女差があり、僕より背の高かった碧の歩幅が大きかった。そのため、ついていくだけでも相当な早足だった。時折、碧の妙に癖の強い髪が目に入ったりして痛い思いもした。それが今では同じ道を僕の方が歩幅を合わせながら歩いている。あの癖の強い髪が顔にかかることもなく、風に流れる様を眺めることができた。
その癖の強い髪を手櫛でとかしながら訊いてくる。
「そういえばこの前話してた出会いって本当のところどういう関係なの?」
「えーと、親友みたいなもの?」
誰よりも自分のことを理解している人間という意味合いでは間違いではない。ただ、出会いについては恵一に言ってしまった手前、初めて会った又従姉で通すしかないだろう。前日に初めて会ったのにも関わらずこの短期間で親友という立ち位置まで昇りつめたことを言及されたら、あわあわして自分でも何言ってるか分からないまま弁明を並べ連ねるに違いない。訊かないでくれ。碧大明神。
「親友? この間初めて会ったって聞いたんだけど」
訊かれてしまった。この明神には慈悲の心はないのだろうか。
さあ、どうしてくれよう。いや、どうしよう。――ああ、どうしましょう。
「なんだろう一目見て通ずるものがあったんだよ。まるで格闘家同士が拳で分かり合うように。または、日本人が道を譲り合う時のフェイントの掛け合いのように通じ合っちゃったんだから仕方ないよ」
予想通り、口からデタラメを並べ立てた。口下手がよくもまあこれだけ並べたてられたものだ。自画自賛してもよい。
碧は納得したように、またはしていないように首を傾げる。
「でも相手女の子でしょ? それって一目惚れじゃないの?」
「なんていうか、なんていうんだろ。でも、違うんだよ」
『なんていうか』――実に便利な言葉だな。
「恋仲とか、そういうことではないんだね?」
「それはない」
まさにど真ん中な容姿だったが、自分に恋するほど自惚れてはいない。むしろ、自分自身が嫌いなのだから、それはない。それだけはない。
「まあ、それならいいんだけど」
碧が興味本位十割といった雰囲気で口角を上げる。
「また、妹さんと喧嘩したんだって? 今度はどういう理由で?」
誰だ、また吹き込んだのは。恵一しかいない。
「わざわざ人に言うような理由でもないほどのくだらない理由だよ」
「小学生の頃はいつも恭介くんの後ろをついて歩いてたのに。どこをどう間違えたらああもお兄さんだけに反抗的になったんだろうねー?」
「それは僕が知りたいよ」
恭子には、僕が幼稚園児の頃――弟がまだ胎児だった頃は同じように懐いてたな。近所では評判の仲良し兄妹だった。近所のおばさんによく言われていた記憶もある。どこに行くにも後ろからトコトコとついてきた。そんな妹が僕に対して無邪気な笑みを浮かべていた記憶はあの頃のものしかない。本当、どこでどう間違えたんだろうか。
碧の家の前に出る長い急な坂に差しかかった。自転車では登りきれそうにない傾斜のそれを登りきると、真っ赤な空が僕らを包みこんだ。夕焼けと夜空の境目にある大きな浮雲は茜色と夜色のコントラストでまるで人の手を形どり、僕らに手を振っているようだった。その手は時間が経つにつれ、どんどん崩れ、見えなくなるだろう。でもそれは「また明日」の別れであり寂しさはない。
碧が手を振った。
僕も振り返した。
母が整えたベッドの上に乱雑に制服を脱ぎ散らかす。部屋着のジャージへと着替え、いつものように布をかけた鏡にノックした。
鏡からすぐさま同じようにノックが帰ってきた。
布をめくり、手を振る。
「ただいま」
ベッド上で背を正し膝を揃えて座っている彼女は、珍しく手を振られたことに戸惑いながらも振り返してきた。僕と同じメーカーのサイズ以外はおそろいな紺に赤い線が入ったジャージを着ていた。先ほどまで食べていたのか傍らには僕ら以外には大不評の感想しか出てこないチョコレートの空き袋が置かれていた。ベッドの上には制服は脱ぎ散らかされていなかった。
「おかえりなさい。今日もまたお師匠さんのところに行ってきたの?」
「うん。また今日も何も教えて貰えなかった。でも鏡については明日教えてもらえるみたいらしい」
それも人任せだけど。
「お、ついに。魔法を披露を披露してくれるのも遠くないかもね」
「まあ、それは追々。披露できるレベルに達したら思う存分見せ――」
コンという消え入るような弟のノックが耳に入り、言い切る前に言葉を閉ざした。恭子に手の動きでノックの音が聞こえたことを伝え、扉を開ける。弟がいた。誰と会話していたのだろう、とでも思っているのか僕越しに部屋を見渡した。誰もいないことを確認したのか小さく首を傾げた。
「そろそろ夕食?」
弟は首を振る。
「お姉ちゃんがいちゃつくなら外でいちゃつけこんにゃろうって言ってこいだって」
妹との仲がケーキ効果で元鞘に収まったことを喜ぶべきか悲しむべきか。それでも裸の刀身のまま放置されているよりは幾分はマシだろう。我儘を言うのを許されるのなら、そのまま誰かに鞘ごと献上してしまいたい。鞘の持ち主である僕に弟を介して斬りかかる妖刀なんてまっぴらごめんだ。
「誰と話してたの?」
弟が恐る恐る部屋へと入り、尋ねる。怪訝そうに、釘を刺すように脱ぎ散らかした制服に目を遣った。
「電話は制服の中でしょ?」
先に釘を刺されてしまった。まったくもってできた弟だと思う。僕に見向きどころか、視界に少しでも入ったら流れるように視界から外す妹に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。しかし、できすぎであるのもまた問題だろう。まさか、弟に追求されるとは思いもしなかった。浮気の取り調べでも受けているような居心地の悪さだった。
「そうだね。よく分かったね」
ははは、と乾いた笑いでやり過ごそうと模索してはみるものの弟の目からは放たれ続ける疑惑の眼差しからはやはり逃げ切れそうにない。
「それで誰と話してたの?」
視線を泳がす。乱雑に脱ぎ捨てた服、癖になるほど壮絶に甘ったらしいチョコレート、鏡の向こう側から心配半分興味半分で眺めている彼女の姿。
弟が僕の視線を追い、鏡に追いつく。じっと目を細める。
彼女は自分自身が見えていないことをいいことに、手を振ったり、さながら日曜朝やっていそうな戦隊物の変身ポーズをしたりしていた。
弟が怪訝な顔のまま僕に目を遣る。再び鏡に戻す。それを何度か繰り返す。それを止め、しばし神妙な顔をすると、踵を返した。ドアノブに手を掛け、扉を閉める前に言い残す。
「……人に言えない仲なら、あんまり仲良くしないほうがいいと思う」
返事をする前に扉が閉まる。
なんだか弟らしからぬ、えらく達観した意見だった。いや、もともと口数が少ないだけで達観していたのかもしれない。それに『男子三日会わざれば刮目して見よ』とも言う。僕の価値観も先週から一変しまくっていることだし。
「ねえ、紘と仲良いの?」
彼女に期待を含んだ声で尋ねられる。
「まあ、それなりに」
声が響いているというので声量を下げて答えた。
対照的に彼女の声はだんだんと大きくなっていく。
「羨ましいなもうっ。あたしがいくら仲良くしようとしても、いっつも逃げられて話どころじゃないんだから」
続けざまに願望を口にする。
「頃愛を見て、話しかけるんだけどあたしのこと嫌いなのかぱぱっと逃げられるんだよね。いつか逃げ道塞いで話し倒してやりろうかな。それで構い倒してやろうかな」
兄として説く。
「それをやったら弟は間違いなく倒れるから絶対にやめときなさい。それとそれは嫌われる父や祖父、ペットの飼い主のやり方だ」」
「でもそれじゃいつまでたっても仲良くなれないよ?」
「機会さえあれば大丈夫。僕と妹みたいな険悪な雰囲気になったことが一度もないなら」
彼女が小首をかしげる。
「え? あの子と仲悪いの?」
「うん。そっちみたいにえらく懐かれたのは幼少期の頃しか記憶にないよ」
男と女でこんなにも身近な人の扱いは変わるものだろうか。人は中身だと偉い誰かさんが偉そうに講釈を垂れていたような気がするけれど、それは真っ赤な嘘だったわけだ。朱に交われば赤というのだから、真っ赤な嘘が口からポンと出てきたその御方はえらい真っ赤っかな嘘吐きなのだろうな。
「あたし、ある程度の差はあると思ってた。けど、身内からここまで露骨な差があるとなんだろう、変な気分」
身内でここまで差があるのだから、他人なら予想だにできない変化が起きるのではないのだろうか。例えば――師匠が手取り足取り懇切丁寧に魔法を教えるような、同一人物とは思えないぐらいの素晴らしい師匠になるとか。
ためしに考えてはみたが、それはないだろう。誰にも媚びず、常に津波のように他人を巻き込みながら生きている人が、性別が変わったぐらいのことで扱いに差が出るわけがない。
「まあ――」
鏡の中に見える彼女をじっと眺める。頭のてっぺんからつま先まで、どこをどう切り取っても可愛げがポロポロとこぼれ落ち、辺り一面にそれが溢れ返る容姿なのだから仕方ない。
「恭子は完璧な優等生に見えるから仕方ないんじゃない?」
女性に向かって可愛いなんて僕の口からは出てこない。口にしてしまったら間違いなく顔は真っ赤に燃え上がる。真っ赤に染まるということは、これも嘘に入るのだろうか。こんなことを思うのは自分ではないと思い込むための自分に対する嘘だろうか。
「なら――もっと隙を見せれば弟に好かれるのかなぁ?」
顎に手を当てて考えているのはいいが、それだと僕が隙だらけの人間だと聞こえるのは気のせいだろうか。あえて否定する気も起きないのが少々痛い。手を伸ばせば、脱ぎ散らかした衣類に十分に届いてしまうので都合が悪い。
「いっそ隙だらけになって、皆から一目を置かれる優等生キャラから皆から生暖かく見守られるイジられキャラにチェンジしてみようかな。そうすれば弟にも好かれそうだし」
やはり、僕のことを隙だらけだと思っていたらしい。まあ。それはそうだろう。あちら側は脱ぎ散らされていない。そして、自分に正直だ。
「変身願望を持つのは大いに結構だけど、この時期に変身するのは正直難しいと思うよ」
彼女が前のめりに項垂れる。
「そうだよね。今更感があるよね」
「仲が悪いわけじゃないんだから今のままでいいんじゃないの?」
「駄目」
彼女が力強く言い切る。顔を上げ、そして握り拳を作る。
「せっかくの姉弟なんだから仲良くなりたいのが人情じゃない?」
「……良い心がけだと思うよ」
この力強さは、どう足掻いてもイジられキャラが醸し出せるものではない。意識しないで出せているのだから、一目置かれる存在になったのは極めて自然なことだったのだろうな。
「恭介は妹と仲良くしようとは思わないの?」
「思わないかな。長年築いてきた関係性を崩すのって良くも悪くも大変だしね」
「そんなもんなの?」
「そんなもんだよ」
妹だってこの関係におんぶにだっこが一番楽だと思っているはずだ。
翌日、彼女に手鏡を近くに置いておくように言っておいて、コチラ側の手鏡を鞄へとしまい神社へと出かけた。
認めたくはないものの、師匠が書いた地図はとても分かりやすかった。一度も迷うことなく神社へと到着することができてしまった。石段を登り、木々の中にある鳥居をくぐると珍しい狼の狛犬が僕を出迎た。さらに進むと大きすぎず古すぎない趣のある本殿が立地していた。心地のよい温かみを帯びた春風が木々を揺らす。その情緒ある風景は来たことあるような懐かしさを感じさせた。
誰か関係者はいないだろうかと神社内をうろついていると、箒を胸に抱いて賽銭箱にありったけの力を抜いてもたれかかっている巫女さんを見つけた。口を半開きにして寝息を立てていた巫女さんは、僕の気配に気付いたのか半分ほど瞳を開く。
目が合った。
巫女さんの瞼は大きく見開き、慌てて体を正し、箒を身に寄せて赤く染め上げた顔を隠すように小さく礼をした。
お辞儀を返す。僕が顔を上げても巫女さんはまだ顔を下げたままだった。話しかけづらいなぁと思いつつも歩み寄り、話しかける。
「あの、すみません」
「あ、はいっ、なんでしょうか?」
顔を上げた拍子に巫女さんの肩辺りまで伸ばした髪が揺れる。揺れが収まると、毛先が軽やかに動いているボブの中に端正な顔立ちの女性が見えた。頬はまだほんのりと赤みを帯びていた。
「須磨香奈子さんからこの神社なら霊的なことは分かると勧められたのですが、ここで大丈夫ですか?」
そう尋ねると巫女さんの恥じらいは雲散霧消し、不快感がむき出しになった。その顔は苦虫を奥歯で噛む潰したような苦り切った様だった。
「……あなた、アイツの知り合いかしら?」
「はい。芦屋恭介といって、一応形式上は弟子という形になってます」
弟子と言ってしまっても大丈夫だっただろうか。坂井さんと同じように不快感を隠そうとしない辺りから察するに深い付き合いなのだろうから、おそらく大丈夫だろう。全くもってその気はしないが、そういうことにしておこう。
巫女さんが驚き、呆れ、関心がぐちゃぐちゃに混ざり合った表情をする。割合としては五対三対二ぐらいだと見て取れる。
「……あのアイツがねぇ。今なら日本が沈没する天変地異が起こっても素直に受け入れられそうな気がするわぁ」
そんなに酷いのだろうか。いや、僕と香奈子さんの出会いからして少なくとも良い出会いとは言い難いのだから、古くから付き合わされてる坂井さんや巫女さんからしてみれば散々迷惑を被らされてるのだろう。
巫女さんが再び本殿の階段に腰掛け尋ねる。
「それじゃ、せっかくだから何か見せてくれないかしら。専門は何? 頑固なまでに弟子を取らなかったアイツが取ったのだから実力は折り紙つきなんでしょう? もしかすると得手不得手ないのかしらねぇ」
巫女さんが期待を込めたような言葉ともに意地悪な視線を僕に送る。
それに対し、僕ははにかむしかなかった。
「えと、使えません」
巫女さんが目を二度三度パチクリさせる。
「アイツの弟子なんでしょう?」
「一応は」
「それじゃあ使えるでしょう? 魔法でもなんでもいいから」
巫女さんは困った顔をしていた。
「一切習ってないので使えないんです」
額に手を当て深く溜息をつかれる。
「さすがはバ香奈子。まともに期待した私がバカだったわね」
巫女さんが言うように師匠にまともな期待をするのは金輪際止めとこう。師匠は『予想を裏切り、期待に応える』のあべこべを地で行っている。あの師匠に期待する方がバカだ。どこか騙される方が悪い論理と似たような感覚を覚えた。
しかし、この巫女さんは師匠と一体どのような関係なのだろうか。少なくとも師匠に好感は持たない人物の一人であることは間違いない。なんだか巫女さんとは仲良くなれそうな気がしてやまない。
「お姉さんは師匠とはどんな関係なんですか?」
「良くも悪くも腐れ縁。個人的にはさっさと断ち切りたいけどねえ」
それはもう大変だったろう。師匠の、蜘蛛の糸のような縁で巻き付けられて逃れられないのは。それはもう。本当にもう。
巫女さんが身を乗り出し、手首のゆったりとした動きをつけて人差し指で僕を指す。
「縁があったから警告しとくわ。アイツとは浅い関係のうちに縁切っといた方がいいわよ。下手にこの世界に浸かってみなさい。切っても切れない関係になるから」
この巫女さんが言っているのはおそらく間違っていないし、好意で言ってくれているのだろう。師匠が社会的に問題児で近くにいたら迷惑を被ることは分かっている。現にもうすでに殺されかかっている。だが蜘蛛の糸はなかなか切りにくい。
「それでも今はまだ切るわけにはいかないんです」
巫女さんがつまらなそうに頬杖を突く。
「――訳ありなら仕方ない、か。でもその用事が済んだらさっさとおさらばしなさい。アイツの悔しがる顔を見るためなら尽力は惜しまないから」
僕の両手を包んだ巫女さんの後ろに人影が現れた。現れた人影は僕が存在をしっかりと確認する前に巫女さんの頭頂部に思い切った手刀を食らわした。両の手で頭を押さえる巫女さんの後ろでそれは胸張り偉そうに腕を組む。
「詩織っ。人様のお弟子さんに何吹き込んでおるんじゃ!」
姿を見ると、小学校低学年辺りの、弟よりもさらに背丈の小さい男の子だった。高価そうな朱色の着物を纏っている。高級感が漂う織物を着こなし、さらに小さい身ながらも衣服のものだけでは説明することができない威厳を周囲に大判振る舞いしていた。
「いったいわねー。何するのよチビ助」
「人様のお弟子さんに辞めるようけしかけるからじゃ。それに吾輩はチビじゃない」
「どう見てもチビじゃない」
詩織と呼ばれた巫女さんは、チビ助の頭にポンと手を置いた。
チビ助はそれを払いのける。
「本来なら吾輩は偉大な姿なんじゃぞ!」
「だったら好きな姿に化けられるんだから少しはその偉大なお姿に近づけるように化ければいいんじゃないの」
チビ助は片腕を思い切り突き出すが、詩織さんに片手で軽々と受け止められる。それを何度も繰り返す。
「あのーいいですか?」
終わる気配のない二人の間に割り込む。二人は誰かが止めるのを待っていたのかすんなりと離れてくれた。詩織さんが溜息をつき、仕切りなおす。
「それでアイツは私に何をさせるために呼びだしたのよ」
簡単に説明し、師匠に持つように言われていた手鏡を見せた。すると、半信半疑に頷いていた詩織さんの顔が引き締まった。
詩織さんは立ち上がり、僕を本殿脇に建造されお守りなどを販売している建物内の客間へと案内した。二人掛けソファに座るように促される。僕が座ると、二人も向かい合わせのソファに腰かけた。
詩織さんが預かっていた手鏡を机に置いた。
「これはまたおかしなもの持ってきたわね」
おかしなもの呼ばわりされた鏡の向こう側にいる恭子が苦笑いを浮かべる。
チビ助が口を挟む。
「詩織、おかしなものとはなんだ」
「別に悪い意味合いはないわよ。ただ、アイツが興味引きそうなものではあると思うけど」
「まあいい。それで……何と言ったかなお主さんは?」
「あ、恭介です。芦屋恭介」
「では恭介とやら、私たちはこれを映らなくすればいいのだな?」
約三週間弱の付き合いだが一つ屋根の下で暮らしていると、いざ別れがくるのが名残惜しくなる。出会うまではどこか流されるがまま生き、充実感なんてほとんど覚えたことはなかった。この三週間、毎週何かあり、毎晩二人で鏡の前で騒いでいた。毎晩騒いでいるものだから妹や弟、滅多に友人関係に首を突っ込まない母まで何事だと騒ぎたてた。親友二人も詮索をかけてきた。気恥ずかしかったが不思議と嫌な気はしなかった。先週は殺されかかったが話を咲かせることもできた上に、一応は高名らしい魔女の弟子になることもできた。その魔女のもとでは「何をしてるんだ」と毎回思ったが本気で辞めようとは思わなかった。
それもこれも彼女――恭子が現れたおかげで僕の人生観が変わり始めたからだ。そして、自分から動き出せば全てが回りだす。彼女のおかげで変わったのだから、できるなら別れたくない。ただ――僕の我儘を通すわけにはいかない。彼女のためを思えば、ここで別れた方がいい。妹と同じように惰性の関係を築くべきではない。
「はい、お願いします」
手鏡に向けて言う。
「これでようやく別れられるね」
張り上げられた声が室内に響く。
「――ちょっと待ってください!」
その声の持ち主は、毎晩遅くまで騒ぎあった彼女のものだった。
「恭子? どうしたの?」
手鏡を覗くと、恭子の顔が鏡一面に移り込んでいた。
「まだ別れなくてもいいんじゃないかなーって」
いきなり何を言っているんだ。せっかく今まで捜していた別れ方が見つかったというのに。これじゃ徒労じゃないか。
「せっかく今まで捜してたのにどうして?」
「別にいいじゃない。特別、害なんてないんだしさ。ね、ね?」
彼女が作り出す薄っぺらい愛想笑みが気に障る。
「いや、よくないよ」
彼女の額にしわが寄せる。
「……どうして?」
「どうしても」
「わからずや」
「そっちこそ」
「なにも考えてないのね」
こっちだって考えた。その結果がこれなんだ。
「もういいよ」
僕は言った。
「勝手にすればいいよもう」
彼女が答えた。
僕は詩織さんとチビ助に頭を下げる。
「改めてお願いします」
応えたのはチビ助の方だった。
「あい分かった。だが、もう知らんぞ」
チビ助が指先で手鏡へと視線を促す。向こうで鏡を伏せたのか、鏡面には何も映り込んでいなかった。
心内で自らを奮い立てる。
「――構いません」
決めていたことなのに、胸が痛む。言ってしまったことはもう取り戻しようがないというのに、必死で取り戻しがっている自分がいる。叶うことなら時が遡ればと願っている。まるで悟されて表面上は我慢している子供みたいだ。けれどもう子供みたいな本音をさらけ出して許される年でもない。
あちらからは何一つ反応が帰ってこない。
まるで大雪が降った翌朝のようなしんと静まり返る。じかに芯まで冷えた心地がした。
チビ助が服の裾を掴む。
「ついてまいれ」
再び境内まで僕は連れてこられた。詩織さんはどうやら部屋に残ったらしく姿は見えない。チビ助は掴んでいた服の裾を離すと鳥居にもたれかかった。
「まったく、甲斐性がないというか。同じような奴らばかりこの現象にかかりおって」
こぼした事実をすかざず尋ねる。
「僕以外にも同じ現象が起きている人がいるんですか?」
そっけなく言われる。
「大昔の話だ。とうの昔に二人ともおっ死んだよ」
溜息をつき、続ける。
「どちらともな」
「その二人は別れたんですか?」
二人はどうなったのだろうか。別れたのだろうか。ともに居続けたのだろうか。別れたのならその方法をチビ助は知っているはずだ。
「別れた。今の御主たちのように喧嘩別れじゃ」
「どのやって別れたんですか?」
「本当、似てるのう。まんま今の御主と一緒じゃ。自分の考えが見境なく正しいと思いこんどるところが特に」
それは僕が間違っていると言いたいのだろうか。これが一番正しい答えだとは決して思ってはいない。だが、決して間違ってはいないと信じている。全てが綺麗に結末を迎えるなんてありえない。
「だったら僕はどうしたらいいんですか? 教えてくださいよ。チビ助さん」
胸中を散らさないために、極力懇切丁寧に努める。
ぶっきらぼうに返される。
「吾輩が知るわけなかろうに」
「だったらほっとい――」
チビ助が僕の言葉を遮る。
「それでまた勝手に自殺を企てられたらこっちも夢見が悪いからな」
言葉に詰まる僕をしり目にチビ助は知ったような口ぶりで続ける。
「勝手に別れて、勝手に悲しんで、振り回す方は自分のことのみを考える。だが振り回される方はいい迷惑なんじゃ。それに今回ばかりは余力がないから助けられんからの。一度よく、本当に別れなければならないか考えてみい。二人の意見が固まったら無理してでも別れさせてやろうではないか」
詩織さんがつかつかと歩み寄る。
「話は終わったぁ?」
「ああ。手鏡を返して、家に帰しなさい」
「納得いきません」
差しだされた手鏡を受け取らず目に力を込める。
「僕は、半ば強制的とはいえ別れるために弟子入りまでしたんです。なのにこの仕打ちはあんまりです」
やらなければならないんだ。僕と彼女は鏡のように相反する存在なら向こうができない決断も僕なら下せる。だからこそ下さなければならないんだ。僕がやらなければ、もう他にやる人がいないんだ。
しだいにチビ助の口調が荒くなる。
「冷静になれ。誰もやらないとは言っていない。よくよく考えろと言っているだけじゃ」
不穏な空気が僕らの間に漂う。けれどそれは僕からの一方的なものだった。チビ助からは特に何も発していない。しいて挙げるとするならば、達観した立場からくる『あきれ』を感じた。
詩織さんがずんと僕らの間に入る。間髪入れずにチビ助の頭にお返しとばかりに手刀を叩き込んだ。うずくまるチビ助には目もくれず、こちらへ目を遣る。その切れ長の目からは、不思議と何も感じなかった。『あきれ』も『敵意』も『恐怖』も何もかも。その目に映る僕自身は、酷く滑稽な姿だろう。ただただありのままを映しだされている。そう思うと、自分が裸の王様のような気がして止まらなくなる。
「失礼します」
そう言って逃げようとした。最後に――とチビ助が低い声で呟く。
「禍福、門無し、唯、人の招く所。まあ、幸も不幸も人の行いにのみ振り分けられるとういうことだ。よくよく刻み込んでおくことだ」
バツが悪くなり、その場を去ろうと踵を返す。一歩を踏み出す前に「ちょっと待ちなさい」と詩織さんに呼び止められた。
「少しそこで待ってなさい」
そう僕に告げると、詩織さんは競歩ほどの速さで駆けだした。
チビ助と二人きりだったのでこの居づらい空間をどうしようかと悩んだが、そう時間も経たないうちに詩織さんは戻ってきた。その手に緑色をした円柱の何かが握られていたことに気付く。
「はい、アロマキャンドル。これで少しは落ち着いてみたら?」
アロマキャンドルを受け取り、「ありがとうございます」と頭を下げた。それに茶々を入れるようにチビ助が小突いてきた。
「友達がいない自分を慰めるために買って、文字通り山になってるのだから礼なんていらん。むしろ貰ってくれて有難い位じゃ」
詩織さんがチビ助の首根っこを掴み、奥へと引きずっていく。詩織さんは俯いて顔を隠しながら、空いているもう片方の手で小さく手を振っていた。
家に帰ったはいいものの、部屋に入る気がせずにリビングのソファで横になっていた。何をするわけでもなく、ただごろごろと無為に時間を潰していた。
母から勉強しろと言われても、妹の口から次々と飛び出る罵倒を一通り受けても、何もする気にも起こる気にもなれなかった。なんだかふわふわとアテのないまま風に吹かれている風船に似ている。手から離れたそれは、もう誰にも届かないとこまで飛ばされている。その手から逃れた自分ですらどうすればいいのか分かりもしないのに、遠く下方から手を必死に伸ばされてもあぐねるだけ。いずれは破裂して散りじりになった落ちゆく破片か、何か大きなものに引っかかるかしない限り手元に届くことはない。
枕にしていたクッションを顔の上に覆い被せ、視界を塞ぐ。
どうあっても上手くいかないものならば最初から諦めてた方がいいに決まっている。過程がどうあれ結末が悲惨な終わりに違わないのなら早々に幕を閉じるべきだ。弟だって、隠すような関係なら深めないほうがいいと言っていた。関係が深まる前に、僕らの関係は切り上げるべきなんだ。そうしなければ妹とのような惰性で築き上げた関係性になってしまう。
それでなくとも彼女は僕と違って上手く日々を送れている。妹とも仲が良い。弟ともいずれ仲を深めることができるだろう。彼女は日常を「こんなものか」と思っているらしいが、僕に言わせればそれは間違っている。隣の芝は青いと言われればそれまでだが、対照的な僕だからこそ分かることがある。彼女は輝いている。彼女は将来一角の人物になるはずだ。僕が下方気味なのは言わずもがな。
このまま喧嘩別れみたいなのはしたくない。だが仕方がない。
突然腹に重みがかかった。クッションを顔からよけると、妹が座っていた。
「疲れたから寝たい。邪魔どいて」
喉元過ぎれば熱さ忘れるのか、つい先日争ったばかりの妹はいけしゃあしゃあと立ち退き要求を申し立てた。
「美緒、お前凄いな。まったく反省の色が見えない」
けろっと妹が言う。
「いちいち反省なんかしてたらキリがないじゃん。必要最低限のことだけ注意してたらそれで十分。色々気にし過ぎて身動きがとれなくなるより全然マシ」
「そんな性格でよく敵を作らないな」
「こー見えても外では優等生やってるもんで」
ふーん、と適当に相槌を打つ。妹に腹からどいてもらい、ソファから立ち上がった。
妹は僕が立ち上がった瞬間、流れ込むようにソファに寝そべった。
「あとさ」と妹が部屋へと向かう僕を呼びとめる。
「紘が心配してたから。あんまり心配かけるもんじゃないよ」
「いつも心配かけさせる原因つくってる人に言われたくないんだけど」
「それはそれ、これはこれ。それに今回は私関係ないし」
「……悩んでるって分かる?」
「紘に言われなきゃ気付かない程度。ま、興味ないけどね」
「分かった。紘には心配かけさせないようにするよ」
部屋へ向かおうと、踵を返す。けれど、「おい」と妹に呼びとめられる。振り向くと、妹が詩織さんにいただいたアロマキャンドル投げて渡してきた。
「忘れ物。んじゃ夕食まで寝るから起こさないでね」
西日は沈み、部屋は夜陰に呑み込まれていた。普段は、隣家からの明り以外は何一つ確認できないが、鏡から明りが洩れていたことに気付いた。向こう側の鏡に布を掛けているのだろう。遮光しきれなかった電灯の光が布の赤みを交えて漏れていた。カーテンを閉める。明りを点ける気になれず、明りの漏れる鏡の前に足を抱くように座った。
暗闇のせいか僕はなんだか彼女に済まないことをしている気がして、苛まれる。
そうしているうちに気と同調して頭が重くなる。立てた膝に頭を乗せる。項垂れた頭には、彼女の言った「なにも考えてないのね」が反響していた。
彼女は部屋の中にいるのだろうか。このまま喧嘩別れだけはしたくない。彼女もそう思っていると思いたい。もし、そう思っていたとしても僕自身の踏ん切りがつかない。神社で言いあったのに、ほとぼりも冷めないうちに話しかける勇気は僕にはなかった。その一歩が重かった。
アロマキャンドルに明りを灯す。締めきった部屋に果物のような甘酸っぱいみずみずしい香りが広がった。鼻腔から入った香りは、体に染み渡り、荒れた気分を癒していった。目の前で左右にゆらゆらと揺れる灯火も気分を落ち着かせるのを手伝った。
一つ。大きく息を吐く。そして大きく吸いこむ。
話し合おう。
そう決意した。
結果がどうあれ永遠の別れになるのかもしれないのだから話し合おう。別れが辛くなるだけなのだから会わない方がいいのだろう。だが――たまにはわがままぐらい言わせてもらおう。あんな師匠だが、その点だけは見習ってみようと思う。
一言。「恭子」と声を掛ける。
返事はない。
もう返事は帰ってこないのかもしれない。
もしかしたら聞く耳を持っていないのかもしれない。
とっくに愛想を尽かされたとみなした方が正解なのかもしれない。
それでも名前を呼び続ける。
出会う前の僕なら既に諦めているはずだ。
なぜ、自分でも未だに諦めていないのか分からない。
彼女と出会って、日常に彩りが加わった。退屈でどうしようもない、無為に食い潰すだけの日々にメリハリが生まれた。
だがそれだけでは説明がつかない。
何度も何度も呼びかける。必死に。
ろうそくの膨張した光が声に呼応して揺れる。
影が揺らめき、まるで部屋全体が揺れているようだった。
細くて脆い僕は、その大きな揺れが自責の念だと感じ、ますます塞ぎ込みたくなる悪循環に苛まれる。
声が震えた。
体に寒気を感じた。
目頭が熱くなった。
これは仕方のないことだ。自業自得だ。それだけの仕打ちを彼女にしてしまった。今更だが彼女はただ別れを惜しんでいただけということに気付いた。だが、自分が正しいと頑なになり耳を塞いだ僕はそれを突き放した。そして、中途半端な社会性を学んだ駄々っ子のように、手遅れな後悔をしている。
「恭子」と呼び続ける。
もほや言葉の体をなしていない。それらしい角ばった言葉の塊を何度も投げかける。
もう何度呼びかけただろうか。喉は燃えるように熱く、締め付けるように痛む。声を絞り出すたびにその熱が一段とまた帯びてくるのが分かる。
机に置いたろうそくの火は、根元まで辿り着こうとしていた。
返答は今もまだこない。
呼び続ける。
幾重に絞り続けた喉は引きちぎれそうになった。限界を超えようとしている体からの警笛だということなのだろう。これを無視すれば喉は壊れるということは容易に想像がついた。だが止めるわけにはいかなかった。こんなものではない。彼女への感謝と謝罪はこんなものではない。
彼女は真っ平らな灰色の世界から僕を救い上げてくれた。風もなく延々と停滞し続る曇り空の中から突如現れた天使の梯子。その中からふわりと現れた彼女は、まさしく天使のようだった。――まあ、その天使自身も雲の隙間に突如現れた天使の梯子のせいで落っこちてしまったようだったが。それでも僕にとっては彼女は、まぎれもない天使だった。感謝してもしつくせぬ程に。
あまりの痛みに喉元に手を当て俯く。呼びかけは続けた。
声はいうよりもはや嗚咽に近い。
弱い赤みを帯びた光が白色へと変わる。
「もうやめてっ!」
目の前から聞き覚えのある声が耳に入り込んできた。
「……きょうこ?}
顔を上げる。
まるで命でも縮んだかのような顔で胸に手を当てている彼女がようやくおいでになっていた。
「どうしてそこまでするのよ……」
そんなの決まっている。話し合うためだ。
そう言いたいが、声を発することができない。ただでさえそうなのに一目会えたことに感極まり涙と鼻水が止まらなかった。
「ちょっ、今まで無視してたのは悪かったけど泣かないでよ。それより喉大丈夫なの? 今水持ってくるから――ああ、そうだ手渡せないんだった。ええと、どうしよどうしよ」
目の前であわあわしながら右往左往している彼女の姿は、とても微笑ましい。喉の痛みは引かないが、なんだか和らいだ気がした。
「とにかく何でもいいから何か飲んだ方がいいって」
乱れながらの彼女に勧められるがまま、たまたま近くに置いてあったペットボトルのお茶を口に含む。喉が切れていたらしく、お茶が傷口に染み込み、体が飛び上がった。ただでさえ声が出ないというのに声にならない痛みに襲われ、僕はもうのたうち回るしかなかった。
放り投げたい程の衝撃が体に走ったというのに、こんな時でも噴き出さず、なおかつペットボトルを律義に机に置いてからのたうち回った僕は損な気質に違いない。のたうち回りながらそんなことが頭をよぎった。
「大丈夫だから」
なんてことはないただの強がりをガラガラ声で口にする。
「もう喋っちゃだめ。――ほら、そこのキャンパスノートで筆談しよ?」
僕はキャンパスノートを手に取り、大きく「うまく声は出ないけど大丈夫だと思う」と走らせた。
それを見た彼女に「声出ないのにどうして大丈夫って分かるの」と青筋が浮かびそうな迫力で怒られてしまった。
「えっとえっと、とにかく悪化しないうちに病院行った方がいいって」
ノートの新しいページに「もう近場の病院は閉まってる時間帯」と書き込み胸辺りの高さで掲げた。
「じゃあ、大学病院とかおっきい病院での急患で行こうよ」
『迷わく』と漢字がパッと思いだせなかったので半分ひらがなで書いた。
「じゃあじゃあ……」
最初に書いたノートのページへ飛び、「大丈夫」というところを下線を太くなるまで何度も引く。あわせてノートを叩いて、宙をおろおろと縦横無尽に安定しない恭子の視線をこちらへ向かせる。そして、下線を引いた単語を指差した。
彼女は申し訳無さそうに俯きながら尋ねる。
「本当に大丈夫? 前みたいな投げやりな受け答えじゃない?」
前みたいな投げやりな態度をとるのならば、こんなにまで喉を自ら痛めるわけがない。この喉が証拠だ。――とでも愛の伝道師恵一よろしく言いたいのだが、生憎その喉を見事に潰してしまっている。言えれば楽なのだが、文章に起こすとやや面倒な文字量になる。なので喉に指を当てて示した。
首を捻られた。
まあ、当然だろう。僕だってキョトンとする。
仕方なくノートに書き起こして見せる。
すると「ああ」と納得してくれた。
その顔を見た僕は、続けて書く。「ごめん」と。
「……本当だよ。まったく」
彼女の顔に怒気や軽蔑の色はなく「やれやれ」といった小さな男の子をたしなめるような優しい色だった。そして、微笑みかける。
「喉が痛んでるだろうから何も言わなくてもいい。ただ頷くか振って」
頷く。
「こうして呼んでくれたってことは、私が言いたかったこと分かってくれたんだよね?」
頷く。
彼女が胸を撫で下ろす。
「良かった。それじゃ――私たちはまだ別れなくていいんだよね。喧嘩別れなんてしなくてもいいんだよね?」
頷く。
彼女が瞳に溜まったものを指先で拭う。
「こんな別れなんてしたくなかった本当に嬉しい。いつも自分が正しいと思い込んで、周りに耳を貸さないから。いつもそれで後悔するから……」
「また同じようなことを言い出すかもしれない僕となんて早く別れた方が良かったんじゃないの?」とノートに綴る。
意地が悪い質問だ。別れたくないのが本心だということが身に染みて分かったというのに。
彼女と出会って見える世界は広がった。けど肝心の一歩を踏み出していない。誰かが見せていた世界だった。妹との関係性しかり、ただ続けるだけでは何も始まらない。または始まったと勘違いするだけだ。一度「初めから」にしなければならない。前へ進むための後戻りは僕みたいな失うことに慣れていない人には必要なことなのだろう。
彼女が「もう」とちょっぴりふくれる。
「私は一緒にいたいの。……ダメ?」
小首を傾げる動作がいちいち可愛らしい。すっかり忘れていたが、彼女が僕にとっての天使でもあるが女神さまでもあった。世が世なら騎士の忠誠でも、塀越しに恋文をしたためる日々でもなんでもしていただろう。そんな魅力に溢れ返り、いたる所に魅力のおすそ分けしても追いつかない女神の要求をどうして断れるだろうか。
言葉が出なくて助かった。もしも出ていたら裏返ってしまう自信がある。伊達に回避精神を精進してはいない。
僕はただにっこりと微笑む。
ゆっくりと首を振った。
この日、これが僕らの最後の受け答えだった。
翌日、僕らは会えなくなっていた。
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