第2話 その洋館の持ち主は?

 様々な意味で新生活を迎えた先週をなんとか終え、ようやく落ち着きを見せてきた四月の二週目。委員決めではチョキで難を逃れ、楽な委員になることができた。家庭内では彼女と互いに着替え等で事故が起きないようなルールを決め、それからは事故は未然に防いでいる。

 彼女の方も同じく落ち着いてきたらしい。無事に今回も満場一致で委員長に選抜されたと報告された。本人はいつものことなのか嬉しくも嫌そうでもなく、いたって平坦な声で話された。

 落ち着いてきたというのはとてもいいことだ。だが、いささか退屈だ。せっかく類を見つけたというのに友が寄って来ない。まあ、先週のように家族で大騒ぎになるぐらいなら何もないほうがいいのだろうけど。

 さて、今日は誰もが憂鬱になるであろう月曜日。僕も彼女も例に漏れず憂鬱になり、朝から愚痴をこぼし合ってから学校へと向かった。「朝から電話?」と弟に疑問を投げかけられたが、恵一が宿題を忘れて写させて欲しいということにしておいた。

 教室の席に着くと、宿題を忘れた設定の恵一が僕のもとへ押し掛けてきた。

「おはよう。今日は珍しく早いね」

 普段は遅い恵一がこんなに早いとは、嘘から出た真で本当に宿題を忘れたのだろうか。恵一は「ああ、おはよう」と僕の真後ろのまだ登校していない碧の席に座る。それから「色々としなければならないことがあるからな」と嘆声を漏らした。

「何するの?」

「それは追々話すとして――恭介、明日は暇か?」

「暇だけどどうして?」

「そうだな例えば、どんなに捜しても見つからないものがある場合どうする?」

 どんなに捜しても見つからないもの? それはテレビのリモコンだろうか。我が家でも度々紛失するので、妖怪リモコン隠しがいるのではないかと勘繰ってしまう。

「とりあえず捜してみて、見つからなかったら自然と出てくるのを待ってるかな」

「それが今どうしても必要な場合どうする?」

「総がかりで見つけるしかないんじゃないかな」

「そうだな。――そういうことだ」

 人出が足りないということだろうか。

「僕は何を捜せばいいのかな?」

 恵一の頬が緩む。

「さすが恭介。理解が早くて助かる」

 恵一の頼みごとは、それはもう回りくどい。長年つき合わないと「だからなんなんだ」と言いたくなってしまう。しかし、他人に必死な姿を見せないよう必死な姿が微笑ましく目に浮かぶので、おあいこということにしとこう。

「先週、ファミリーレストランで会話した内容を覚えているか?」

 彼女と妹のことを相談した日のことか。会話の中には他愛もない内容もあったが、大半は僕の相談に費やしたはずだ。

「まあ、一応は」

 所在不明な自信で恵一は不敵に笑う。

「なら、俺が何を言いたいのか分かるはずだ」

 所在不明な自信と不得要領な発言が相乗し、正しい解釈が明後日の方向に飛んでいくような気がした。おそらく飛んでいった解釈は、自由落下し、目の前にいる引き金の思惑とはかけ離れた場所に墜落するだろう。

「運命の赤い糸捜しなんてしないからね」

 恵一が机に肘付き、思い切り呆れ顔をする。

「違う。お前の妹は露ほども趣味じゃないし、横恋慕なんてするようなものの分からないやつではない」

 ものの分かりがいい人は朝から廊下のど真ん中で、愛に関しての御高説を垂れ流すようなことをしないはずだ。

「おい、その顔はなんだ?」

「いや、悩みなんてなさそうだなと思って」

 恵一が僕の額に人差し指を当てる。

「悩みがなかったら頼みごとなんてしない」

 続けて咳払いする。

「ともかく話を戻すぞ」

 さらに続ける。

「確かに相談もしたが、迷子になった話もしただろう?」

 そういえば、そういう話もしていたな。

 ようするに「迷子になるから人海戦術でお爺さんの用事を片付けよう」という高校生にしては、なんとも情けない頼みごとだった。

 先週、悩みを聞いてくれた礼も兼ねて、僕はそれを快諾した。その際、恵一は神妙な面持ちで「恩に着る」と礼を述べた。詳しい話を聞き終えるとほぼ同時に他のクラスメイトが登校してきた。恵一は彼らも誘うつもりなのだろう。彼らのもとへと向かっていった。

 本日はそれ以上の変則はなく学校を終えた。

 

 

 

 

 妹や弟、食べられないと拗ねるだろう母親にケーキを購入してから、家路についた。

 購入したケーキを渡し、部屋に入ると、布が自然に落ちていた鏡の中で恭子がくたびれたように僕を眺めていた。

「おっそーい」

「ごめんごめん。妹たちにケーキ買ってたからいつもより遅れちゃった」

 彼女は、ふーん、と口を尖らせながらも納得してくれた。

「恭子の方は、まっすぐ帰ったの?」

「うん。今日は委員会の仕事もなかったからね」

「やっぱり差はあるんだ」

「そうみたい」

 男女差はやはり大きいみたいだ。

「それじゃ、恵一のお爺さんの用事を手伝うことは訊いた?」

 彼女は、首を傾げた。

「なにそれ?」 

「……恵一は知ってるよね?」

 妙な間隔を開けて答える。

「まあ、なんでかずっと同じクラスだからね」

 どこかわずらわしそうに見えるのは気のせいだろうか。

「明日、そのお爺さんの家の裏山にある洋館に誰かが無断で住んでるらしいんだ。それを注意しに行くの」

「へー、そんなことあったんだ」

 どうやら彼女は誘われなかったらしい。もっともこういうことに誰よりも自信家で負けず嫌いな恵一が女子を誘うはずがないか。

「だから明日も遅くなるよ。まあ、その分、ケーキ代わりに土産話でもするから期待しといて」

「もう一人のあたしのことだから期待しないでおくね」

「うん。それは賢明な判断だと思うよ」

 

 

 

 

 翌日の放課後、僕らは恵一に連れ立ってお爺さんの裏山にやってきた。

 恵一のお爺さんは地元の有力者で様々な方面に顔が利くらしい。何回か恵一の自宅にお邪魔した際に顔を合わせたこともある。有力者だということで厳つそうな面持ちを想像していたが、蓋を開けてみればそれはもう人のよさそうなお爺さんだった。しかし、どうにも恵一はお爺さんのことが苦手らしい。

 僕は厚意でやって来たのだが、ノリで来た人は辟易しているのが顔から見て取れた。その気持ちは分からなくもない。誰もまさかこんなに傾斜がきつい山とは思わなかっただろう。

 息を切らしながら登り慣れている恵一に続く。

 ふと気がつくと、恵一の激励が消えていた。後ろを見ると、後悔を絶え間なく口にしていたクラスメイトたちもいなくなっていた。前をもう一度確認する。やっぱり恵一もいない。周りを見渡すが誰もいない。大声で呼ぶが誰からも返事が返って来なかった。

 とうてい信じたくはないが、どうやら迷子になったらしい。これは恵一のことを嘲笑った天の報いなのだろうか。むしろ、嘲笑われた恵一による報復だと考えるほうが納得がいく。これは天災などではない。人災だ。

 キツい傾斜があった山道も、いつの間にかだいぶ楽な傾斜に変わっていた。とりあえずそのまま頂点を目指すことにした。

 これが人災であるならば、人の手でどうにかなることだろう。ルービックキューブを乱すのが人の手によるものならば、それを元に戻すのも人の手によるものだ。元に戻されることなく放置されているものもしばしば見受けられるが、けっして気にしてはいけない。僕がルービックキューブを元に戻せたためしがないことを、けっして指摘してはいけない。

 頂点に着く一歩手前に平らな場所に出た。そこでは怪しげな洋館が妖しげな木々を従え、堂々と立地していた。いかにもな雰囲気を漂わせているそれは、僕を引き込んで食べてしまおうとしているように思える。しかし、食べられに行かねばならないのが僕の使命らしい。一度食べられなければ事態を把握することもできない。

 まあ、これが恵一の仕組んだことならば洋館に入った時点でクラッカーでも鳴らされて終いだろう。

 そんな軽い気持ちで洋館の扉を叩いた。

 重そうな大きな扉はギィと響きながら、ひとりでに扉が開く。扉をくぐると、大広間の中心にやたら長身の女性が立っていたのが視界に飛び込んできた。その女性がこちらへと歩いてくる。パンツスタイルだったおかげで一歩がやたら大きいことが見て取れた。さらに携えた長髪が左右に揺れるせいで、威圧感が増して見えた。目の前で腰を曲げ、僕の目の高さと合わせる。

 女性が咥えているいる煙草のせいで僕は軽く咳込んだ。

 女性はじろじろと僕を観察し終えると訊いてくる。

「誰?」

 それは僕の台詞だ。

「異警には見えないけど、その使いにも見えないな。でも入ってきてるし――迷子?」

 いけい? なんだそれは。

「……とりあえず、ここ私有地なんで立ち退いてもらってもいいですか?」

 女性が豪放磊落といった声の調子で喋る。

「もしかして――恵一か! おっきくなったなー。お姉さん見違えたよ」

 恵一と知り合いなのだろうか。だとするならば、おふざけ説が濃厚になる。久しぶりに会う風に聞こえるのは、そういうシチュエーションなのだろう。そうだろう。

「違います。恵一に頼まれて来たんです。早く立ち退いてくれますか?」

 女性は顎に人差し指を添え、考え込む。それから独り言のようにぼやいた。

「もしかして爺さん、ボケたか?」

「ボケているのはどっちでもいいです。どうでもいいです。とりあえず、おふざけもほどほどにして欲しいです」

 女性が僕の額に人差し指を当てる。

「名前は?」

 なんなんだと思いつつも答えれば出て行ってくれることを祈って答える。

「恭介です」

「最近、身の回りで変なこと起きなかった?」

 変なことなどという以前に、科学的に有り得もしないことが起きた。

「ええ、まあ、ありましたけど」

「とりあえずは放置してるけど、原因は知りたいって思ってる?」

 どこぞのインチキ占い師だろうか。変なことが起きたら原因を知りたいと思うのが人情だろう。

 女性が指を離し、腕を組む。

「今、疑ってるだろ。年上の言うことは黙って聞いとくもんだぞ」

「まあ、疑いますよ。僕から見れば、不審者なんですから」

「酷いなあ。邪魔にならないよう道行く人々に道を譲りに譲って、譲る道がなくなったら電柱に身を隠すほど善行を積んだこの私に不審者とは」

「それ、まさに不審者です」

「自分で言ってて思った」

 女性が大いに笑った。

 対する僕は、溜息すら出ないくらい呆れ果てていた。

 その様子に女性は僕を励ますように肩に手を置く。

「まー何でも相談乗るから言っちゃってくれ。亀の甲より年の功。大波をも苦としない私の黒船で襲来する気分でどうぞ」

 それはさぞかし気分がよかろう。だが、僕らの絵的にペリーに慌てふためく日本人というのが適役なのが情けない。時代が進んでハリスとの日米修好通商条約の時ならば平和的でいいのだが、どうにもそれでは絵にならない。僕にはどうにもハマらない。もっともこの女性と並びたてるのは男性でも女性でも日本では少数派になるだろう。断じて、僕の器が小さい訳ではない。この女性が世界的規模なだけだ。

「言い終わったら出てってくださいね。あとお金は払いませんから」

「金はいらないけど、出てくのは問題を聞いてからだな」

 内心溜息をつきつつ、説明を始めた。

 説明が一段落すると、女性は僕に確かめる。

「それってシンデレラだか白雪姫に登場するような鏡か?」

「似てるといえば似てますが、違いますね。対等な関係ですし」

 信じられるわけがないと思いつつも、嘘偽りなく説明した。人の話を聞かない人なのだろうが、この人には何故か話してもいいやという気持ちに駆られた。どうでもいいやという気持ちに近いかと言われれば、きっとそうだ。

「まあ、超常現象なら自分に任せときなさい」

 どこから湧き立つ自信なのだろうか。しかし、僕はこの女性を完全には信用してはいない。恵一たちが仕組んだことかもしれないのも一因だが、超常現象を体験したからといって何から何までホイホイ信じていたら詐欺師たちの格好の獲物となる。家に怪しい壺が幾つも占拠するような光景には出くわしたくない。

 突如、女性がただでさえ大きな背をピンと張り詰める。バネのような伸びに呼応して驚いた僕から身を乗り出すように後ろの扉を見つめる。そして、僕の肩を掴み、突き放すように腕を伸ばす。

「頼まれてやくれないか?」

 思い切り前後に振られて脳が震盪でも起こしているやもしれない人物に頼みごととは、死者に鞭打つのと同義ではないだろうか。酷いことの例えだが、この人物ならば無理を通して矛盾をも誰もが頷きたくなるようなものに仕立て上げ、ネクロマンサーのごとく自然の摂理をも従えてこき使うことを叶えてしまいそうだ。それだけでも問題なのだが、百鬼夜行を作り上げたぬらりひょんを彷彿とさせる出所不明のカリスマ性を自然体で醸し出しているので、ついていきたくなる、働きたくなる。

「あ、はい」

 頷いてしまった。予報された後悔は横殴りの雨のように強く現れた。その肌を打つ痛さは、仕事を上書きしてしまったことに対する罪悪感が肌を貫通し、なんだか胸が痛む。

「じゃあ」と女性は懐から一枚の紙取り出し、僕に手渡した。

「困ったらこれ使ってどうにでもして。相談の件はこれが解決したら乗るから」

 女性は伝えるべきことは全部伝えたとばかりに大広間を囲う階段を上り、奥の部屋へと消えていった。

 残された僕はやはり途方に暮れていた。これはどういうことなのだろうかと。手渡された紙を眺める。それはタロットカードのように見えた。金枠の中には、水壺を掲げた瀟洒な女性が描かれていた。女性は、これで僕に一体どうしろというのだろうか。カードを見つめたまま途方にくれて、洋館らしく石像になっていると玄関からノックが聞こえた。

 これは恵一のものだろうか。家族のものならば全て熟知しているが、外出先では全くもって通用しない。そもそも外出先でノックを受けるという機会があること自体が奇怪だ。

 出てもいいものなのなのだろうか。脳内会議の結果、出ることにした。どうせ恵一が用意したドッキリならば、恵一の思うがまま踊るのも悪くは無い。ただ、踊りに不慣れな僕が何をしでかしても僕の知ったことではない。

 玄関の扉を開ける。

 そこにはクラッカーを持った恵一ではなく、『どっきり』と書かれたプラカードを持った級友でもなく、毛髪の森林伐採が激しい五十歳過ぎた中年男性がそこにいた。僕らは互いに珍しいものを見るように観察し合う。その寂しい頭もとい皺が深い顔を注視してしまう。また、どこかの会社員なのかくたびれた顔とは対照的なシワ一つないスーツを着ていた。

 前日も似たような対面をした覚えがあるが、今回のようなドキドキ感は相手の頭のように少ない。その種類も高揚感を含んだものではなく、コンビニのレジ打ちと必要最低限やり取りをする他人行儀の事務的なものだ。

「どちら様ですか?」

 前日の意気込みも空しく、先に訊いたのは中年男性の方だった。

「この家の持ち主の知り合いです」

 中年男性は、不審そうに洋館全体をキョロキョロと見渡す。

「本当?」

「一応」

 中年男性の黒ぶち眼鏡が光る。

「一応? それは嘘だろう?」

 なんだか悪いことしたような居心地の悪さだ。いや、悪いことをしているように思われてしまっているゆえの居心地の悪さだ。こういう自己完結した話してくる人は苦手だ。先ほどの女性も目上からだが、あとに残さない清々しさがある。対して、こちらは記憶に残る独特な粘っこさがあった。

「えーと、それじゃ僕そろそろ行きますね」

 そのまま出口から出ていけばいいものを僕は何を思ったか女性が消えた二回の奥へ競歩なみの速さで逃げていた。後ろから「おーい」と呼ぶ声が聞こえた気がしたが聞こえないフリだ。

 入った部屋は衣装室のようだった。化粧台や大きな姿見などが置かれていた。ウォークインクローゼットもある。だが、最近まで誰も住んでいなかったのか何一つ化粧道具や衣装が置かれていなかった。そして、問題を一方的に交換した女性が部屋の何処を探しても見つからなかった。

 女性の居場所をせっせと探していると頭の寂しい中年男性が階段を上る音が聞こえた。咄嗟にウォークインクローゼットに入り、扉を閉める。

 中は扉からの木漏れ日は入るものの闇と言っても過言はない。だんだんと目が慣れ、闇が薄れてはいくものの、帰宅直後に電灯の紐を捜すように手探りで辺りを確かめなければならない程度にしか収まらなかった。

 小さいが、どこからか音が聞こえる。廊下側からではなくクローゼット最奥の向こう側から聞こえたような気がする。扉が開く音がした。そして、閉まる音もした。

 違う方向の音に気を取られていたため、心臓がキュッと掴まれるような心地がした。運が良ければそのまま帰るかと思ったが、そんなマリのように浮ついた考えは目の前の扉一枚越しの足音に一蹴された。

 別に逃げる必要性はどう見ても皆無なのだが本能的に逃げの姿勢をとってしまう。昔から委員会に参加している彼女なら場馴れしているだろうから、逃げられない状況というものに耐性があるだろう。しかし、僕は危機管理を徹底し過ぎ、危険を右から左へ受け流して生きてきた。それこそドッジボールで最後まで生き残ってしまうかのような勢いで紙一重に避け続けてきた。そして気がつけば、四面楚歌の状態になっていた。つまるところ、逃げ場がない。その生き方は実際のドッジボールにまで反映されてしまっているのでどうにも笑えない。

 藁にもすがりたい気分だが、すがる藁が手元にない。先があまりないと分かりつつも、中年男性の後退が著しい毛髪と同じように奥へと進む。

 外からの音は一定の間隔で聞こえてくる。

 おそらく、探して、考えてを何度も繰り返しているからだろう。

 音がだんだんと近づいてくる。

 どこからどこまで調べ終わり、あとどのくらいで僕のいるこのクローゼットまで辿り着くかは、耳だけを頼りにするだけではなかなか見当しづらい。

 数歩、止まる。

 今度はとても近かった。それも、かすかに見える木漏れ日の一部が遮られるほどに。

 壁に背が張り付ける。押し付ける。

 ガタッと手を掛ける音。

 光が大きく漏れ始めた。

 光から少しでも逃れるため、一段と壁を圧迫する。

 違和感が僕を包む。

 浮遊感が背中伝いに足まで届く。

 後ろ向きに慣性の法則が働く。

 空を蹴るかのように、細かく数歩、床を蹴る。

 背部ばかりが先走りし、しだいに平衡感覚が失われる。

 転ぶように尻餅をついた。

 尻を擦りながら顔を上げると、先ほどまでの光景とは全く違うものになっていた。

 八畳ほどの部屋には、天蓋付きのベッドが鎮座していた。脱ぎ捨てられた寝巻とともに、ぐちゃぐちゃになっている布団の脇には上に押し上げるタイプの窓があり、そこでは小鳥がさえずりをしている。逆方向には小さな机がちょこんとある。その上にはガラス製の灰皿が置いてあった。廊下側に扉が常識的に設置されていた。

 一度瞳を閉じ、情報を整理する。

 背中伝いに覚えた違和感は、おそらく壁が壁としての機能だけではなく、余計な付加機能が付けられていたために感じたのだろう。まことに信じられないが、この壁は隠し扉だ。隣の部屋と繋がっている。今は再び壁に従事しているがそうだ。そうでなければ、上手く説明がつかない。

 灰皿をよくよく見てみると、吸殻が一つだけ残っていた。まだ、熱を持っているのか、煙草独特の鼻に付く匂いがした。

 これはあの押しの強い女性が吸っていたものだろう。まだ匂いが強いということは、一度この部屋に戻り、捨てていったということだ。

 僕の見間違いでなければわざわざ隣の部屋に入り、僕と同じ経路を経て、やって来たのだろう。例の音も立てたのはあの女性だろう。まっすぐこの部屋に入ればいいのに、何を考えているのだろうか。おかしな人だ。

 煙草の匂いで不快感を感じ、換気するため窓を開けた。すると森の中に小さな人影が見えた。目を凝らして眺める。それは恵一たちだった。

 やはり恵一たちの仕業だったのかと思ったが、何やら様子がおかしい。こちら側からはバードウォッチングでもするような見え方だが、あちら側からは観光地に象徴として建てられた大きな構造物の見え方のはず。そのはずなのだが恵一たちはまるで、そんなものなどどこにもないかのような動き方だった。

 もしも僕をはめているのなら洋館を見ているはず。仮にあれが演技だったとしても、どこか白々しいものになるはずだ。あちら側からも僕自身は豆みたいな見え方なのだから、いきなり窓から見られたら対応しきれるはずがない。

 だんだんきなくさくなってきた。先ほどの逃走は正解だった。これも日々たゆまぬ危機意識の修養の結果だろう。――これは戦略的撤退であり、けっしてただ怖かったわけではない。

 そうと分かれば、どうやって逃げようか。

 隣の部屋には、中年男性がいる。今は、クローゼットの中にいるだろう。僕みたいに何時こちら側へ転がり込んでもおかしくない。クローゼットを探索しているうちに玄関へ走って逃げるのが得策だろう。そうと決まれば善は急げだ。

 扉に歩み寄り、静かに扉を開けた。先ほども目にした廊下には、誰もいない。隣にいる男性に気取られないように廊下に出た。

 それと同時、男性のいる部屋からガンッと扉が閉まった音が響いた。

 悲しきかな、僕の心臓は過敏症な自意識を発症した。もし見るものがいたとしたら間違いなく竦み上がるほど、僕は竦み上がった。

 何処でもいいと逃げ場所を求め、最初にいた部屋の二つ隣に無我夢中でお邪魔した。

 その部屋は書斎だった。だいぶ昔から人が足を踏み入れていなかったのか、そこら中に埃が溜まっていた。それだけでは飽き足らず蜘蛛の巣がまき散らされていた。何世代もこの部屋で交代を繰り返していたのか大きいのから小さいのまで様々だ。時々、足もとにネズミが我が物顔で往来している。

 ここは人がいても良い空間ではない。だが、ここで出ていくわけにはいかない。出ていったら面倒なことに巻き込まれる。いや、もう巻き込まれているのだが。とにかく、しばらくはここで息を潜めているしかない。

 この部屋は一体何なんだろうか。寝室は人が住めるように清掃されていた。だというのに、この部屋だけはまるで放置だ。何か理由でもあるのだろうか。超常現象的な関わりだとするならば――関わりたい。

 僕に被害が及ばない限りは。

 僕の身の丈よりも大きな本棚には日焼けした本が隙間なく並べられている。ふと、その中から一冊の本を無性に手に取りたくなった。背表紙で何か面白そうなものを捜そうにも、どれも日焼けしていて区別がつけようがなかった。無造作に一冊取りだす。表紙には『第一陣』とだけ書いてあった。

 本を開く。

 開いた瞬間、まるで宙に浮いたような感覚に襲われた。

 いや、浮いていたのだ。

 いや、正確には落ちていた。

 自由落下した体は、床に衝突した。

 衝撃が痛みとなって全身を伝わる。

 上を見ると、先ほどまでいた床が開いていた。そして、見ているそばから閉まった。

 この屋敷は、何なんだ。忍者屋敷なのか。

 隠し扉に落とし穴。洋風な外観の癖に、やることなすこと全て純和風な発想とはいかがなものか。持ち主は何処へ。――お爺さんなら今頃、縁側で茶をしばいているだろうな。

 ならば、あの女性は何者だ? お爺さんとは、知り合いそうだったから不審者ではないのだろう。真偽のほどは後に審議する必要があるが。ならば、あの中年男性はどうだろう? 理由は分からないが家の持ち主を探していた。

 天井からの光が遮られた空間で辺りを手探りで調べる。なにかが手のひらに当たる。辞書ほどを大きさのそれを持ちあげる。それは、先ほど本棚から取り出したものだと思われた。

 僕と一緒に落ちたのだろう。

 本を脇に抱え、立ちあがる。

 よくよく目を凝らすと、どこからか光が漏れているのかボンヤリと影が見えた。薄明かりの出所を探るため周囲を凝らしながら見渡す。それは薄い板と板の間からだった。そこを覗きこむと大広間と中年男性が見えた。

 中年男性はスーツの内ポケットからホテルなどに隠されて張られているような紙の束を取り出した。なにやらブツブツと呟いている。言い終えると、真上に勢いよくそれを投げ放った。放たれた束は空気抵抗を受け、ひらひらと辺り一面に分散する。一枚が地面に落ちるかどうかの境、札に青白い炎が灯った。それは他の紙にも伝染するように現象は広がっていく。数秒もする頃には、大広間は鬼火のようなゆらゆら宙を動く火球が占拠していた。その中で屹立する中年男性は片手を上げ、振り下ろす。すると百近くもの炎は、まるで意思が与えられたように洋館内に散っていった。

 隙間から目を離す。

 おもむろに後ろのポケットにしまい込んだカードを取り出す。それは何一つ折れ曲がっていなかった。大きな衝撃を幾度も与えたのにも関わらず。

 その場に座り込み、前髪を掻き上げる。

 これで分かった。間違いなく超常現象だ。それにしても、またも厄介なことまで呼んできてくれた。面倒事と超常現象は恋人なのだろうか。だとしなければこの仕打ちは起き得なかったはずだ。毎回付き合わされている立場から一つだけ言わせてもらうとすれば「さっさと別れてしまえ」。これに尽きる。

 もう一度、覗いてみる。

 もう大広間には、あの中年男性はいなくなっていた。いるとすれば所在なさげに大広間をふらふら、ゆらゆらと浮かんでいる三つの炎の塊くらいなものだった。

 背後からガタッという物音が耳に届いた。

 後ろを向くが、背後は光が届かないため目視できないほど暗く、何が物音を立てたのか把握することはできなかった。

 後ろへ進んでみよう。先ほどから度々聞こえる音の正体が気になる。それに、いつ、あの得体のしれない火がこの落とし穴に入ってくるかも分からない。ゆっくり、手探りで先に進んでいく。すると、だんだん円錐のように先が細くなっていくのが分かった。気にせずそのまま進んでいくと、最終的には腰の辺りほどの高さで壁とつき当った。四つん這いで壁をペタペタと触る。壁に仕組みがあることを確認し、腕に思い切り力を込めた。

 すると、その小さな正方形の壁は、パタンと倒れた。

 暗闇に慣れた僕の目に光が差し込み、視界が奪われる。だんだんと光に慣れさせながら瞼を開いていく。そこには洋館の外の風景が広がっていた。穴から出て、周りを見渡す。

 見えたのは森と洋館だけだった。

 どうやら、あの中年男性が出した火の塊は洋館の外には出てきていないらしい。

 色々なことに好奇心が忙しなく疼いているが、せっかく外に出れたのだからさっさと逃げ出してしまおう。見つかって火ダルマになるのはさすがにご免被りたい。

 一抹の後ろ髪が引かれる思いを引き戻し、洋館から離れようと歩き出す。

 安堵感が心象風景を満たしていた。だが、オセロのようにそれはひっくり返された。

 小さな炎の塊が目の前に落ちてきたのだ。

 その一つが左右に揺れて、まるで僕を見つけたような仕草を始めた。すると、洋館から寄り集まりだした。数秒もすると、僕を囲んでそこら一帯は炎の塊だらけになった。それから遅れること数分、あの中年男性が現れる。全力疾走したのか息切れが激しかった。

 僕は逃げられないというのに、走ってくる必要があったのだろうか。もしもあるのならば、僕の押し込め損ねた後ろ髪にとてもとても惹かれる思いがあるのだろう。あの反射する頭皮が暗にそれを語っている気がした。

 中年男性が青いハンカチで汗を拭う。

「まったく、世話が焼けますね」

 ハンカチをしまい、溜息を吐く。

「それで君は、何をしていたんですか?」

 周りの炎が一瞬大きく燃え上がり、うだるような熱が辺りに広がった。

 百近くの炎全てが同時に燃え上がるのに対し、僕の闘争心は反比例するように冷え込んだ。冷え込んだ心は氷点下まで下がったと思う。そこまで冷えたというのに僕の額には汗が流れ始めた。

「なにもしていないです」

 立ち退き要求をしに来たら、容疑者であると思われる女性にこの場を任されてしまった。何も進展してはいない。むしろ、被害者は僕だ。

 しかし、聞き入れられない。

 黙り合い、睨み合う。

 中年男性が眉をひそめ、人差し指をつき出す。

「では、その脇に抱えてるものはなんなんですか?」

 自身の脇に目を遣る。あの古ぼけた本を抱えていた。

 中年男性が語気を強める。

「その本は私たちにとって、とても価値のあるものです。それを後生大事に抱えている貴方は、盗人に違いない」

 ……この本は、本当に大事なものなのだろうか。本当に大事なものなら、丁寧に管理されているはずだ。少なくともネズミが我が物顔で動き回ることを許された空間に放置されているわけがない。

 中年男性はさらに続ける。

「君はここまで幾百もの追手から逃げ延びた。それが可能なのは、我々の業界関係者のみ。一般人では有り得ない」

 普通じゃありえないことが起きたのだから仕方ない。誰がこの洋館が忍者屋敷になっていると思うのだろう。いや、思わない。

 こちらの反論を待たずに中年男性は言い切る。

「さあ、どこの輩か知りませんが、観念してお縄について貰いましょう」

 中年男性がゆっくり、二つの炎を新たに引きつれ歩を進める。

 なんだか不思議と恐怖心はめっきり減りつつあった。極寒冬空の下で薄着で居続けたためか、背水の陣を薄氷の上で敷いたためか、またはその両方か。一歩踏み出すのも辛い状況だというのに一周回って駆けだしたい衝動に駆られている。ランナーズハイのごとく、脳内でモルヒネだかエンドルフィンが過剰分泌されていそうだ。

 目の前の人物がどういう立場の人間なのかサッパリだが、間違っても冤罪で捕まるなんて御免被る。

 ――さて、どうしてくれようか。この状況を。

 目の前には、中年男性が。僕ら二人を取り囲むように幾百もの炎がいる。背を向けだして逃げることはできない。中年男性を気絶させる正面突破の方が可能性は高そうだ。

 まっすぐ見据える。

 中年男性は僕の視線から何かを読み取ったのか、引き連れた二つの炎を体の正面へと動かす。

 やはり、素人の浅知恵では到底通用しそうにない。

「何を考えているのか知りませんが、太刀打ちできると思わないことですね」

 本当、どうしてくれようか。屋外であることから、忍者屋敷に頼ることもできない。落とし穴でもあれば話は別だが。存在すら分からないのだから期待できない。なんでもいいとにかく何か手を捜すんだ。こんなの恭子みたいに体育館の壇上に立つことと比べたら屁でもない。

 そういえば、と右後ろのポケットに仕舞っていたタロットカードのようなものを取りだした。

 取りだしたそれを見た中年男性はあからさまに動揺した。歩を進めるのを止め、十ほどの炎を盾にする。その一つ一つが先ほどまでと比べて倍ほど大きさに膨らんだ。

「君、それは一体どこで拾ったのですか?」

「ちょっと貸していただいたんです」

「嘘をつきなさい。あの馬鹿がそんな殊勝なことをするはずがない」

 なんだろうか。日本語で話しているはずなのに、日本語が通じない。初対面の外国人とのボディランゲージの方が意思疎通が図れそうだ。

「ともかく、それは貴方が持っていても仕方がないものです。早く返した方が身のためですよ」

「嫌です」

 返すのならば、あの女性に返す。面識のない人に返す訳にはいかない。あの女性も面識ないのは気にしてはいけない。

「なら仕方がないですね」

 片手を挙げ、振り下ろす。

 振り下ろされた瞬間、一つの炎がパッと前方からと飛んできた。

 僕は体を右に逸らし、避け切った。

 今度は三個。

 右前方に体を開き、一つ。体を思い切り捻り、二つ。小さく屈んで前方に飛び、三つ目も避け切る。

 伊達にドッジボールで十年間避けに徹してきていない。取るという選択肢を早々と諦め、一意専心で身についた実力がこれだ。『石の上にも三年』というが、苔の生えた石に十年間噛り付いてきた力がまさか、こんな形で活かされるとは夢にも思わなかった。

 中年男性に目を配る。両手を挙げていたのが見えた。

 視界に入る全ての炎が一直線に僕に飛んでくる。

 避ける場所が見つからない。

 反射的に目を強く閉じ、右手は炎を振り払うように動かした。

 だいぶ時間が経った。いつまで経っても炎は当たらない。それどころか、恒常的に伝わっていた熱が止み、そよ風に乗って冷たい水滴が頬に触れた。

 恐る恐る瞳を開ける。

 少し前まで辺りを支配していた幾百もの炎は胡散霧消し、僕の傍らには水壺を持ち露出の高い白い絹を纏った長髪の女性が佇んでいた。

「あなたは誰?」

 僕は訊いた。

 女性は指差す。

「あたしはそれ」

 指差した先にあるのは、あのタロットカードだった。

 全身に水を被った中年男性がよろめきながら悪態を混ぜ込んで訊いてくる。

「君は一体何なんですか? どうして、あの馬鹿しか使えないじゃじゃ馬精霊をどうして呼び出せるのですか?」

 じゃじゃ馬精霊と呼ばれた女性は、青筋を立てる。

「誰がじゃじゃ馬じゃ。誰が」

 精霊が水壷を高く掲げる。

 水壷から水がとめどなく宙に流される。宙で集められた水は、大男数人を並べたほどの水滴となった。

 精霊は水壷を脇に抱え、パチンと指を鳴らす。

 その水滴らしからぬ水滴は指で弾かれたビー玉のように勢いよく中年男へと飛びだした。中年男性はそれに正面からまともにぶつかる。吹っ飛び、地面を転がり、そして動かなくなった。

 のんきに背を伸ばす精霊。

 地面に伸びる中年男性。

 あわあわする僕。

 この状況下でどうするべきなのだろうか。そこに横たわっている中年男性は勘違いだというのに僕目掛けて火球を打ち出してきた。それも当たらないとみるやいなや、全身に大火傷を負うかもしれないほどの量を打ち出した。そんな人を襲われた僕自身が介抱するほどの価値があるのだろうか。

 精霊を横目で見る。

 片手ほどの水滴を作って遊んでいた。

 価値はあった。このまま放置していくのもなんだか夢見が悪い。このまま恭子に今日あったことを話すのは気が引ける。

 中年男性のもとへ駆け寄り、屈む。試しに揺すってみたが、まるで全身骨抜きにされているようだった。

「どうだ? やっぱり死んでしまったか?」

 後ろからの声に反応し、振り向くと大広間で出会った女性がそこにいた。

「それともしぶとく生きているか?」

「……さすがに死んではないと思います」

 色々と聞きたいことや言いたいは間欠泉のように湧き出てはくるものの、どれもが口内で我先にとせめぎ合い上手く出てこない。ポロリと出たのは返答だけだった。

 女性が屈み、人差し指でツンツンと中年男性を押す。

「綺麗に伸びてるな。これは面白い」

 なんてろくでもない女性なんだ。

 女性が一通り中年男性をおもちゃにし終えると、僕に手を上向きで差しだす。

「そのカード返してくれないか?」

 右手に持っていたそれを見る。描かれていたはずの精霊の絵が消えていた。よく分からないまま女性に手渡す。

 女性が精霊に言う。

「うん。助かったぞ」

 女性は、カードを精霊に向ける。すると精霊の体は太陽の光を反射する煌びやかな粒子となりカードの中へと吸い込まれていった。吸い込まれたカードには再び精霊の絵が描かれていた。

 女性が僕の方を向く。

「さて、問題は過ぎ去ったことだし鏡の話でも始めようか」

 今まで問題が伸び伸びになってきたが、今現在そこで伸びている中年男性は放置でいいのだろうか。

「あの、いいんですか? これ」

 あっけらかんと答えられる。

「いつものことだ。気にするな」

 この人は、毎回洋館を訪れるたび気絶させられているのか。女性が馬鹿呼ばわりされても仕方ない。そう呼ぶ資格は十二分にある。ただ、権利を上手く行使できず、責任だけを取らされる中間管理職の見本のような方だ。

「――まあ、そこまで気になるというなら」

 女性が指を軽く振る。

 中年男性はふわりと春風に持ちあげられるように宙に浮かんだ。吹かれるように洋館へと送られる。

「中で話そうじゃないか」

 

 

 

 

 女性に連れられて洋館に入る。大広間で立ち止まると、どこからともなく机と二組の椅子がふわふわと運ばれてきた。女性が先に腰掛ける。僕はそれに続く。いまだ目覚めぬ中年男性は、女性の腰掛けた椅子の足に背を預けられた。

 僕が机に本を置くと、女性が詫びる。

「お茶でも出せればいいんだが、あいにく先日帰ってきたばかりで買い出しやら掃除やら終わっていなくて出そうにも出せないんだ」

「いえいえ、気を使わないでけっこうですから」

「そうか? なら、本題に入ろうとしよう。例の鏡についてだが――」

 本題に入ろうとする女性に口を挟む。

「その前にいいですか。あなたの持っているタロットカードはなんなんですか? それに僕はそこの人に襲われるだけのことをしたんですか?」

 女性は懐からカードを取り出す。

「坂井がどうして君――ええっと名前はなんていうんだ?」

「芦屋恭介です」

「恭介を襲った理由は本人に訊かないと分からないが、このカードについては分かるぞ」

 女性は、休みなく続ける。

「これはタロットカードじゃない。これは――まあ、精霊召喚のための魔法陣みたいなものだな」

 魔法の類だとは十二分に理解していたが初めてこうも面と向かって言われてみると、やはり実感が湧かない。彼女との顔合わせがあってから一週間が経ったが、類はたくさんの友人がいたらしい。その友人から会うやいきなり「親友になろう」と誘われているぐらいの実感の無さだ。

「あの精霊はそれで呼び出したんですか?」

 少しでもお近づきに鳴るために尋ねる。

 環境が目まぐるしく変わりゆくのに対し、自分がいつまでもそこでポツンと立ち止まっている――そんな自分になりたくなかった。巡り得た機会の先端を引かなければ、それに連なる好機はいつまでたってもやって来ない。

「そうだな。そんなところだ。まあ、本当に呼び出せるとは思わなかったが。ものは試してみるものだな」

 女性が腕を組み、一人で洋館がどっと沸くほどの声量で笑った。

 その声量を間近で味わった坂井という中年男性は、文字通り飛び上がった。驚いた坂井さんが僕らを一瞥すると、とたんに落ち着き払った様子で溜息をついた。

「須磨香奈子さん、まったく私は馬鹿にされたものですな」

 目の前にいる女性が返す。

「馬鹿にされても笑って切り返す余裕がないから、妻にも子供にも逃げられるんだぞ」

 殺されかかった相手だが、なんとも可哀想に思えた。一つ屋根の下で過ごした人と離れるのはとても辛かっただろうに。自分で言うのもなんだが、僕らに付き合わせられるなんて、なんとも不運な方だ。

「それは今は関係ないでしょう。まったく先日に起こった磁場の乱れについて、意見を訊きに来たらこれですよ」

 香奈子さんがどうにも気まずそうな顔をする。

「てっきり、また弟子取れとか言いに来たのかと思った」

「ところでその方は誰でしょうか?」

 互いに目が合い、敵意が無いのを確認すると「先ほどは失礼しました」「こちらこそ」と頭を下げ合った。そんな最中、香奈子さんが唐突に言う。

「あー弟子と言ったら喜ぶか?」

 坂井さんは間髪を入れずに「もちろんですとも」と答えた。

「ということだから」

「はい?」

 言う香奈子さんも香奈子さんだが、納得してしまう坂井さんも坂井さんだ。迷子がどうして忍者屋敷で鬼ごっこした挙句、魔女に弟子入りすることになっているんだ。第一、僕に魔法が使えるとは思えない。

「坂井さんも納得してないで何か言って下さいよ」

「いや、君ならこのじゃじゃ馬娘についていけそうですし、問題はないでしょう」

 魔法が使えるかどうかは問題ではなく、この自由な人に付き合いきれるかどうかが問題なのか。

「あ、ちなみに私はこういうものです」

 坂井さんが内ポケットから取り出す。それは符ではなく、名刺入れだった。そこから差し出された名刺には『超常現象管理課 室長 坂井昭文』と書かれていた。

 

 

 

 

 坂井さんが帰った後、香奈子さんに尋ねる。

「弟子って、何するんですか?」

「なんだろうな。ランニングでもするか?」

「魔法使いの弟子が?」

 香奈子さんが腕を組み、考えるそぶりする。

「自分は、他人に弟子入りなんてしなかったからさっぱりだからな」

「……それは追々話すとして、この家は香奈子さんのものなんですね?」

 埒が明かないと思い、ここへやって来た目的を果たすことにした。

「そうだ。恵一のお爺さんにこの洋館を預かってもらっていたんだ。――そういえば挨拶まだだったな」

 香奈子さんの手を取る。

「挨拶しに行きますよ。香奈子さん」

「香奈子さんじゃない。これからは師匠と呼びなさい」

「はいはい。師匠行きますよ」

 手を引き、洋館を出て、森をしばらく歩くと恵一と再開した。

 僕らを見つけた恵一は、やれやれ、といった表情で歩みよって来た。

「どこ行ってたなんて訊かないからな。お前の傍らにいる女性はそれはもう昔から物事をそれはもう厄介にするだけして本人はトンズラするような輩だからな」

「それを解決していった恵一の手法には親戚の一人として惚れ惚れしたぞ」

「それは間違いなくお前が言う台詞じゃない。それに親戚っていってもとんでもなく遠縁だろうに。――山を降りよう。他の皆は既に下山させてある」

 うんざりした感情を持て余す恵一に続いて下山していると、師匠が耳打ちしてきた。

「恵一には魔法のことは秘密だ。いいな」

 魔法のことは一応は秘密なのか。その割には、いい加減にカードとかを渡していたがそれでいいのだろうか。それとも公然の秘密という解釈でいいのだろうか。

 

 

 

 

 さて、洋館に忍者屋敷、火の玉に精霊、果ては魔女に超常現象管理課ときたもんだ。どうやって話をまとめ、どのように話を盛ろうか。いや、こんなあるはずがない体験談を盛る必要はないだろう。

 山から臨む陽は、いつのまにか山吹色から深い茜色へと温かみを増していた。その温かみは、胸をほんのりポカポカさせた。でも、どこか人恋しさも感じさせた。

 少しばかり早く歩いて帰ろう。

 僕の土産話を期待しないで待っている恭子に、予想を裏切り期待に応える土産話をしてやろうではないか。

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