あなたはだあれ?

宮比岩斗

第1話 あなたはだあれ?

 世の中にはとても科学では到底説明がつかないことがあるらしい。それは超常現象というものらしい。だが、高校一年生までの僕には縁がなかったものらしい。類は友を呼ぶみたいだが、残念なことに僕の周りにはそれらしい類がいなかったため、それは昨日までついに現れることはなかった。

 こんなことを考えてはいるが別に現実に辟易しているわけではない。ただ面白みというものを感じないのだ。ゆえに、いると考えた方が現実というものが少しぐらいは面白くなりそうだからだ。――例えるのなら、ありえもしない秘境を探す男のロマンに近い。

 もしも現実というタガが外れた世界というものがあるのならば一度ぐらい垣間見てみたいのが人情だ。たとえ一度足を踏み込んだら、なかなか元の『現実』に戻ることが許されないとしても、それはそれで面白みがあってよいと思う。

 なぜ僕がこんなにも『面白み』と忙しなく思い込んでいるのかというと、そう思わないと暴れまわる現実の手綱を離してしまいそうだからだ。

 何事も突然は駄目だ。予習復習がいかに大切なものだと思い知らされることになるとは誰が思っただろうか。いや、ただ単に日ごろの行いが悪いだけなんだろう。これを機に勉強に目覚めるのも悪くはないだろう。ただ慣れないことをしたら、それはそれで同じ結果が舞い降りそうな気がしてならないけれど。

 閑話休題。

 とにかく僕の目の前では、現実の物理現象を捻じ曲げることが起きている。

 目の前の鏡は普段、それはそれは極々平均的な男子高校生を映し出している。しいていうなら本日無事に高校二年生にしたことぐらいしか特筆すべき点はない。ところが今はどうだ。僕の目の前の鏡には、目をパチクリさせるブレザー姿の女子高生が映し出されていた。

 

 

 

 

 四月、それは出会いの季節だと人は言う。つまりは一期一会の季節だ。だが中学生まで『いっきいっかい』と読んでいたせいか、茶道の心が微塵も理解できないのか判別しかねるが、目の前に映る女性に最高のおもてなしなどできそうになかった。

 けれど、それは目の前にいる女子高生も同じようだった。僕みたいに小学生の頃『いっきいっかい』と読んでいたせいか、茶道の心が微塵も理解できないのか、最高のおもてなしなどできそうにもなかった。頭の良さそうな見た目だから、おそらく後者だろう。国語の時間に大きく「いっきいっかい」と読み上げて赤っ恥をかくのは僕だけで十分だ。そもそも鏡の中にいるというのにどうやっておもてなしをするつもりだったのやら。突然現れるのだから、引っ越しそばのように相手から差し出されるべきだ。

 周りを見渡してみる。

 周りはたしかに僕の部屋だった。ベットには母親が整えたフトンが敷かれ、その脇には読みかけの漫画が数冊置いてある。ベッドと僕を挟んで向かい側には学習机があり、その上には平積みされた教科書、勧めるやいなや友人全員・素直で優しい自慢の弟からも煙たがられただだ甘のチョコレートが置いてあった。

 どこをどう見ても僕の部屋である。無謀ともいえるメーカーの強気が凝縮されたチョコレートがあるのだから間違いようがない。

 鏡を見直す。鏡の中の女子高生も部屋の中を眺めていたのか、ほぼ同じタイミングでこちらを向き直した。

 今度は鏡に映る女子高生の部屋を覗いてみた。初めて見る女性の部屋はどこか質素だった。色気がないというか、可愛げがないというか。いわゆる女物特有の可愛らしい小物がなかった。シンプルイズベストといった整理整頓が行き届いた部屋だった。どこか女性というものに神秘性を感じていたのか僕は、ひどく落ち込んだ。夢を壊され、落ち込んでいると目の前の女子高生が「すみません」と話しかけてきた。

「あ、はい、なんでしょうか」

 僕らは互いに鏡を挟んで向かい合わせに正座する。

 向かい合った女性は艶やかな黒い長髪を携えている。現代の大和撫子と言ってもいいほどの容姿だ。髪にこだわる僕にとっては綺麗な黒髪は素晴らしいの一言に尽きる。本音を言うとどうしようもなくタイプだ。佇まいも垢抜けていて、清楚な印象を受ける。見事にストライク。ど真ん中だ。これならメジャーにいっても通用する快速球だ。増稠剤で無理矢理作り上げられたものでは決して辿り着けない境地だと評してもいい。

 夢うつつな僕に彼女が尋ねる。

「あなたはだあれ?」

 それは今、僕も訊こうとしていたことだ。

「僕は芦屋恭介です。あなたは?」

 尋ねると彼女は何を驚いたのか目を広げ、口を押さえた。清楚という印象だった女性は一転、子供っぽい無邪気な雰囲気となった。

「あたしも名字、芦屋っていうんです」

 それは珍しい。ここら辺では我が家以外で『芦屋』などという名字は聞いたことがない。では、教室の右斜め前は年度初めの特等席だっただろう。

「びっくりですね。名前は?」

「ふふ、驚かないで聞いたくださいね」

 この状況以上に驚くことがあったら教えてほしい。

「あたしの名前にも『恭』がつくの。恭子」

 それは驚きだけど、この状況以上ではない。しかし、彼女の瞳は驚きを求めている。切望しているといってもいい。これは男として驚かないわけにはいかないだろう。

「え、嘘っ? それって凄い偶然じゃない?」

 慣れないことはするものではない。なんだか調子のいい男のような口調になってしまった。恥ずかしい。

「なんだか白々しい」

 彼女は目を細めた。

 白々しいとは何事だ。同意を求めるから驚いたというのに。これでは驚き損だ。手数料でも請求してやろうか。

「それより、これはどうなってるんだ」

 気を取り直し、もとい話題を逸らすため、そう言って鏡に触れる。

 もしかしたらそこから向こう側にすり抜けたりするのではないかと想像したものの、そんなことは起こらず、冷たい鏡面に手が触れただけだった。現実離れしているのだから、こういう細かな点でも現実離れしてほしいものだ。

 どうせヤルならテッテーてきに。

 彼女も鏡に触れる。

「んーどうなってるんだろ。別の場所映像に繋がってるとか」

「いや、君が本当はいないかもしれない」

 彼女は口角をあげる。楽しそうだ。

「だったらあたしは何? あなたの妄想が具現化でもしたというの?」

「いや、まだ具現化はしていないけどね」

 鏡の中から飛び出してこそ、具現化だ。

「そうね。どうせヤルならテッテーてきにやんないと」

 ああ、彼女とは驚きが多い関係だ。まさか今思ったことをそのまんま返されるとは。驚きの神というものがあるのなら気が合いそうだ。まさに『どうせヤルならテッテーてきに』という格言を有言実行している。有言しているかは確かめようがないけれど。

「それは置いといて、君は何処に住んでるの?」

 彼女が答える。

 その答えに僕は目を大きく見開き、口は開きっぱなしなる。つまりはアホ面になった。

「どうしたの?」

 彼女が訊く。

 どう答えようか迷った。

 すると彼女は「これ以上の驚きなんていらないから、ほら早く言ってよ」と僕を急かし始めた。先ほどまで驚きを求めていたというのに、どの口がそんなことを言うのか。だが、それはそれでその通りだと納得する。

「――住所同じだった」

 よくよく見ると部屋の間取りがまったく同じだ。初めて見る女性の部屋で舞いあがっていたらしい。しかも、よくよく見ると僕御用達のチョコレートまで机の上に置かれていた。

 彼女の目はまたもパチクリしている。なんとか理解しようと手をあたふたと宙で動かす。だが理解できなかったのか両手で頭を抱える形に落ち着いた。

「えーと、あなたストーカー?」

 もちろんストーカーの経験は、能動、受動、どちらもない。

「ずいぶん手の込んだストーカーだ。物理法則を捻じ曲げるなんて。よほど君のことを愛しているんだね」

 彼女が「あはは」と笑いながら言う。

「やっぱり違うよね」

「違います」

「ですよねー」

 彼女は鏡面をペタペタと触り始める。

「これってどういうことだと思う?」

 この状況において、ストーカーとかドッキリなどといった現実的なことは野暮だろう。情報から推測するならば並行世界、未来と過去の交信が妥当なところだ。後者だとするならば、この家は新築なので必然的に僕が過去ということになる。

「君はどう思う?」

 とりあえず人の答えを聞いておきたかった。自分の答えには自信はあるが、自分自身には自信がない。

「パラレルワールドとかが妥当なところかな」

「僕も同じ考えだ」

「ねえ、ちなみにそっちの西暦とか日付ってどうなってる?」

 部屋に壁掛け時計がない僕は携帯を開き、日付を確認する。一瞬、何年だか忘れかけたが、なんとか思い出し答える。

 先ほどの僕と鏡映しのように彼女は驚いた。

 その反応によって僕は彼女が何に対しそんなに驚くのかすぐさま理解出来た。

「同じ日付だった?」

「うん」

 これは並行世界――彼女の言葉ではパラレルワールド。どこでどう分岐したのか、どこまでが相反する世界なのか。それは分からないが、とにかく僕と彼女はxとy染色体の違いで分岐した存在だといえるだろう。

 彼女の顔、体つきを順に見る。眉目秀麗な顔立ち。胸は控えめだが、それはスレンダーと言い換えてもなんら問題ないように思われる。僕は頭を抱えたくなった。女性として生まれてきた方が遥かに幸せだと思える。少なくとも男らしくない容姿に悩まされることはないだろう。

「同一人物か」

 目の前の女性が僕と同一人物とは理解しづらいが、目の前でこれほどの現象が起きているのだから納得せざるを得ない。

「ねーこれからどうする?」

 彼女が気持ちフレンドリーに接してきた。

 好みの女性に親しげに話しかけられるのは悪い気はしないが、なんだかこそばゆい。さらに僕自身の好みと彼女自身の趣味までもが一致しているとなると、なんだか自分の欲望がイタズラしているような気がして素直に喜べない。

 ただ、これは自分だ。

 頭の中を一新するため体を天井に伸ばしてから訊く。

「どうするも何も、君はどうしたいの?」

「面白そうだけど四六時中一緒っていうのも嫌だから、どうにかしたい」

 僕自身としては可愛い子と暮らしてみたいという純粋な不純はあったので、いささか残念だが無理強いをしても仕方がない。僕も健康な男子なのだから四六時中一緒の部屋に異性がいるというシチュエーションは婚前の間は御免被りたい。

 けれど、こうなってしまった理由も原因も不明なのだから手の打ちようがない。

 立ち上がり机の前へ向かう。

「とりあえずチョコレートでも食べながら考えてみる?」

 気持ちのいい返事が返ってきた。

 

 

 

 

 妹が一階から夕食の準備が出来たと僕を呼んだことで相談は一時中断した。

 僕が返事してから数秒後、扉が開く。こちら側の扉ではなく、鏡の向こう側の扉だ。

「お姉ー、ご飯の準備できたよー。早く食べよー」

 その姿は僕の知っている妹と瓜二つだった。僕らとは違い、性別的にも同一人物だといえた。けれど僕の知っている一つ下の妹ではないとだけは言える。なぜなら僕の妹は僕に抱きついたり、腕を組んだりしない。むしろ蹴り飛ばしてくる。それも勢いをつけて。それになんだその猫なで声は。

「ねえねえ、早くー。冷めきゃうよー」

 座布団を侵略された彼女は困ったように僕に視線を投げかける。妹がその視線の動きに気付き、鏡を凝視する。睨まれたように見えてしまった僕は必死で笑顔を作り、手を振って尋ねる。

「あーもしもし、聞こえますか?」

 目の前にいるのに『もしもし』とは、なんだか奇妙だ。だが、ここ数年まともに目を合わせていない妹相手だと考えると、それが正しいと思える。

 妹が彼女に抱き付き直し、上目遣いで尋ねる。

「お姉? 鏡になんか映ってるの?」

「え? ああ、あなたまた綺麗になったわね」

「まあね。お姉のようなクールビューティ目指して日々精進してますから」

 彼女が胸を張る妹を引き剥がし答える。

「ちょっとやることあるから先に食べてて。すぐ行くから」

「えーどうして?」

「美緒。いいからお姉さんの言うことは聞くものなの」

 妹は「はーい」と生返事し、ふてくされたように納得して、部屋から出て行った。

 妹を見送った彼女は座布団に座り直す。そうして再び顔を合わせた。

「いやーそろそろ姉離れしてくれても良い頃だよね」

 恥ずかしそうに笑う彼女に色々と訊きたかった。どうしたら妹がそんなふうに懐くのか。だが、幼少期にしか見たことない光景に頭がついていかなく、上手く言葉を紡げなかった。

「あーうん。そうだな。でも僕と違って妹と仲が良いのは素晴らしいことだ」

 そう告げると「食事を取ろう」と彼女に告げ、無愛想な妹と人見知りな弟と普段は優しい母が待つ居間へと向かった。

 先ほど目の前で一方的なバカップルぶりを見せられた僕は、鏡ごしにラブラブオ―ラというものにあてられたらしく妹がなんだか猫のように思えてきてしまう。

 居間では妹はすでに食べ始め、小四の弟は律義に待ち、母は食器を出していた。なんという自由な家だろうか。昭和のお父さんがこの居間にいたら大激怒間違いなしだろう。もっとも我が家の大黒柱は、海外赴任して滅多に帰って来ない。もはや、どっちに本当の家庭があってもおかしくない程度に。

 席に着く。

 やはり妹はもくもくと食べ続けている。

「何?」

 無愛想に訊いてくる。

「別に」

 無愛想に返す。

 ああ、鏡越しの姿を見せてやりたい。彼女とは同じだというのにこの塩対応は。何だ、性別か。俗にいう同性愛というやつなのか。

 僕も箸を取り、食べ始める。

「お前も食べ始めてもいいのに」

 弟は僕に遠慮しているのか、ただ単に律義なのか催促してもなかなか食べようとしない。無愛想な猫と違い、犬だ。忠犬だ。

「ううん。待ってるから、いい」

 母が席に着く。

 そこでようやく、全員が夕食を取り始めた。

 

 

 

 

 食事を終え、リビングにあるソファでくつろいでいると母が風呂に入るようにと口を尖らせた。いつもなら、何かしら理由をつけて夜遅くに入っているのだが、今日はなんだか気疲れをしていたので素直に言うことを聞くことにした。

 風呂に入ろうと、洗面所に入る。服を全て脱ぎ捨て、何気なく鏡を見た。そこには同様に服を脱ぎ捨て、鏡を見ている彼女がいた。

 彼女は身惚れてしまうような無駄な肉つきのない肢体をしていた。さらに艶やかな黒髪が彼女の白い軟肌を覆い、対比された色合いのそれらは相乗的に引き立たせていた。

 互いにただただ観察し合う。恥部を隠すことすら忘れ、好奇心が視線の手綱を引くがまま見入る。どちらかが叫び声をあげれば、すぐに見澄ますことを止めるだろう。だが、僕は本当に驚いた時、黙ってしまう性質らしい。どうやら、それは彼女も同じだったらしい。

 しばらくの間、ただただ向かい合っていた。

 

 

 

 

 僕らは互いに、鏡に布をかけることを同意した。どちらから言うまでも無く、暗黙の了解のように布をかけた。同意というのは、事後承諾だ。

 僕らは布がかかった鏡の前に腰を下ろした。

 気まずい。ただ、その一言に尽きた。

 どちらも悪くないことは分かっている。だからこそ気まずい。どちらかに一方的な過失さえあれば、どなり散らすこともできたというのに。ヒーロー物のような勧善懲悪のような環境が欲しい。この際、役に贅沢はいわない。

「あのー」

 布が被っていても彼女の声は聞こえてくる。

「……なんかみすぼらしいもの見せてすみません」

「いえいえ、こちらこそ粗末なものを……」

「いえいえ、そんなことありませんでしたよ」

「いえいえ、そちらこそ」

 一段と気まずい空気が漂う。むしろ、僕らが流している。

 枕を胸に抱き、恥ずかしさを閉じ込めるように力を入れる。

「僕は気にしないから、君も気にしないで、ね?」

 彼女も枕を胸に抱いて、必死で声を出しているのだろうか。「うん」という声が微かに鏡から聞こえた。

 僕らはこの話題を転換するために必死に何かしら話題を見つけ、話し続けた。中には無理矢理な話題転換や鏡に関することもあったが、互いに腫れものを触れるような話し方だったため口走った内容は無視し、された。

 そうして互いに話すことが見つからなくなった頃、一日を終えた。

 

 

 

 

 自転車で二年目の学校に向かう。

 いつもなら通学路の違いから友人と会うこともない道のりなため、漕ぐことに集中してしまう。そのため、いつもすぐに着いてしまう。そのうえ、日本教育の賜物である五分前行動が刷り込まれているため、クラスでは必ず一番目に到着し手持ち無沙汰になってしまっていた。

 その心配も本日は無用だった。

 家に他人がいると、何やら気を使い、自分の準備を怠ってしまう。それが鏡に映る女性となると、身支度やらなんだりでいつもより遅れてしまった。不幸中の幸いと言うべきか、互いに同じ鏡に映らなければ自分の姿が視認できることを昨日の事件の後、互いに実験して確認し合った。

 同居人が自分自身だというのはまだ救いがある。話の分かる人物だというのはとにかくありがたい。変にいちゃもんつけられては四六時中一緒にいるこっちの身がもたない。けれど、それでは何の解決にもなっていない。根本的な解決法を捜す必要ある。問題が問題のため、その手段の手段辺りから捜さなければならないのが頭痛の種だけど。

 自転車置き場に自転車を停め、教室へと向かう。

 僕の学校は県内でも有数のマンモス校だ。少子化が躍進し、廃校や統合が絶えない時代だというのに我が校は時代に真っ向から逆行し、これでもかというくらい広い。グラウンドは全ての運動部が使用しても余りある。さらに野球部とサッカー部には専用の芝生が整備された運動場が用意されている。また、二年になった今でも何に使うのか分からない部屋がごまんと所かしこに点在している。

 その分からない部屋の数々を縫うように歩く。長い階段を上り、教室のある四階に到着すると誰かに肩をポンポンと二回叩かれた。

 振り向くと、線が細い優男がいた。幼馴染の徳井恵一だ。

「おはよう、恭介。待ち望んでいたとかいう新しい出会いはあったか?」

 出会いはあった。とんでもなく唐突で拒否権もないまま出会ってしまった。挙句の果てに半同棲する羽目になってしまった。押し掛け女房顔負けだ。

「あったにはあったよ。お世辞にしても良い出会い方ではなかったけど。ケイはどうなの?」

「出会いがあるだけまだマシじゃないか。どこかに瀟洒な――見目麗しい女性は落ちていないものかな」

 恵一は片手でスクールバッグを持ち上げながら背筋を伸ばす。そのついでと言わんばかりに弱いあくびもついて出た。

「ヒモ願望なら余所でどうぞ」

「断じて違う」

 大げさに両手を大きく広げる。

「俺は愛しい者には最大限の努力で愛でる。愛しい者に、決して苦労はさせない。災禍に八方全てから襲われたとするならば、俺は八面六臂の大活躍をご覧差し上げてみせようではないか。――それが俺の愛の形だ」

 愛に関する所信演説は大いにけっこうだが場所をわきまえるべきだ。廊下を塞いでしまったせいで、立ち止まった教師生徒共々から奇異な視線を投げつけられている。一番の問題は、秘書のように近くで佇んでいる僕にまで被害が及んでいるということだ。まったく、その一身に全て浴びればいいものを。

 恵一の首根っこを捕まえて引っ張る。

「おい、俺の話はまだ終わっていない」

 愛の言葉は赤い糸で結ばれた相手と二人きりの睦まじい空間で囁き合えばいい。

「俺は恥ずべきことは何も言ってはいないぞ」

 恥じるべきはその臆面もない行動だ。

「……まあ、半ば諦めているけどな。だから夢ぐらいは自由に見させて欲しいものだな」

 口では色々と欲を言ってはいるが、別段急いでいるわけでもなさそうだ。

「ケイは理想が高すぎるんだよ。選り好みしなきゃ、引く手数多なのに」

「妥協しないからこそ意味があるんだ」

 教室に到着すると、僕は右斜め前の指定席に座った。

 黒板に新しい席順が張り出されているが、見るまでもない。小学一年生の頃から毎年シーズン開幕はここだと相場が決まっている。天の采配で不動の一番バッターだ。一度でいいから二番というものになってみたい。

 荷物を自分の席に置いた恵一が近づいてくる。

「羨ましいな。指定席が与えられるなんて」

 ないものねだりだ。なにかしら用事を言いつけられる役割なんだぞ。この席次は。

「なら変わってみる? 責任感だけはつくと間違いなく言えるよ」

 恵一は両手を挙げる。

「俺は無責任に無制限に色々と物言える立場が割に合っている」

 それから特に盛り上がりもしない世間話を続けた。新しく級友となった人たちが教室内に集まりだしてきた頃、ウェーブのかかった髪を揺らした女学生が僕らの会話に入ってきた。

「おはよ。今日は珍しく遅かったね」

 彼女は碧。恵一と同じく小学生の頃からの級友だ。腐れ縁といってもいいくらい同じ時を過ごしてきた。互いに勝手を知っているので、お構いなしな物言いだ。

 恵一が思いだしたように言う。

「そういえばそうだな。いつもは必要以上に早く来るというのに」

「今日は色々と立て込んでね」

 碧が僕の机に腰掛ける。

「また妹ちゃんと喧嘩したの?」

「いや、別件で」

 恵一と碧が連なるように言う。

「恭介の自分ルールを破る程の別件だと?」

「いつもは強迫観念に駆られているかのごとく早く来る癖にね」

 自分ルールを立てた覚えもないし、強迫観念に駆られた覚えもない。だが気心の知れた友人にこう思われているというのは、なかなか胸に刺さるものがある。

「僕だって遅れることはあるよ」

 ため息混じりに言い返した。

 恵一が何かを思いついたのか、したり顔を見せる。

「そういえば何か新しい出会いあったんだろ。なんだ、彼女と同伴出勤か?」

 僕が呆れて言葉が出ないでいると、碧が身を乗り出してきた。その目は悪魔にでも取り憑かれているような据わり方だった。何が碧をそこまで至らしめるのか分からない。幼馴染の恋愛沙汰は面白いに決まっているが、その瞳には楽しむ余裕というものが微塵も感じられない。むしろ、何かに切迫したかのような目だ。

「その話、ちょーと、詳しく聞かせて貰おうかな」

『ちょーと』の語気がそれはもう強かった。

 これは『ちょーと』では済まない。過分な洗剤に過分な漂白剤を入れられた洗濯機に放り込まれた一枚のシャツのように、過剰な脱色してしまいそうだ。――碧たちが信じてくれるのなら洗いざらい話しても構わない。だが強迫観念云々言われている僕が超常現象なんてことを口走ったら精神衰弱とレッテルを張られてもなんらおかしくない。真っ白のシャツに油性マジックでの落書きは、それはそれは映えるだろう。

 どうにかこうにか逃げ口上を述べ、時間を稼ぐ。

 余鈴が鳴り渡り、先生が入ってくる。

 なんとか逃げ切ることができた。そう思った。

 碧が僕の後ろの席を陣取る。

 碧の名字が『大河内』だということをすっかり忘れていた。思えば昨日、振り向いて話していた。

 その日はずっと後ろから念が籠った視線を浴び続けた。

 

 

 

 

 家に着く頃には、精神的に疲れ果てていた。

 部屋に着いた僕は、倒れるようにベッドになだれ込んだ。それとなく鏡に目を遣る。まだ布がかかったままだった。

 女性の僕はどのような生活を送っているのだろうか。同じように気疲れしたのだろうか。それとも妹が憧れるような順風満帆な生活を送っているのだろうか。そもそも友人関係はどうなっているのだろうか。

「恭子、いる?」

 鏡に向かって呼ぶ。

 返事はすぐに帰って来た。

「何?」

「学校どうだった?」

 彼女は少し間を空けて答える。

「いつもどおり充実した一日だったよ」

 どうしてそんなに簡単に充実していると言えるのだろうか。根本は僕と同じでも、僕とは違う人生を歩んでいるということか。嫉妬とまではいかないが、正直羨ましい。こっちはというと不満はないが、たいして面白くも楽しくもない。こんなことを思うと不幸な誰かしらに説教を受けそうだが、欲をかくぐらいは見逃してもらいたい。

「羨ましいな」

「……ねー布取って」

 僕は言われるがまま鏡にかかっていた布を取った。

 一日ぶりの対面となる恭子がいた。僕と同じくまだ制服姿だった。

「学校楽しくないの?」

 昨日までの無邪気な雰囲気とは違う。初見と同じ、垢抜けた大人の女性だった。

 その変容に動揺しつつ答える。

「可も無く不可も無く。平平凡凡、凹凸無し。現状に不満は無いよ」

「じゃあ、どうしてそんなこと言うの?」

 どうしてそんなことを訊くんだ? 彼女は本当に僕自身なのか?

「どうしても何も理由なんてない。単純にそう思っただけ」

 鏡越しに見つめ合う。

 相手は美少女。多少の障害があっても、超えるべき壁なら二人は燃え上がるものだろう。だが事例が全く異なる。僕らはそんな間柄ではないし、一方的に相談に乗らされているのだ。

「……本当?」

「あーはいはい。本当ですとも。自分自身に嘘付かないって」

 投げやりな態度に彼女は、青筋を立てた。

「もういい。もういいよ」

 彼女はそう言うと、力強く鏡に布をかけた。

 無言の「顔も見たくもない」という自己主張に僕は弱り果てた。僕が一体何をしたと言うんだ。勝手に心配して勝手に怒って、全くもって訳が分からない。彼女は何を考えているんだ。仮定では僕と同じだというのに、性別の違いでここまで差が出るものなのか。妹にも嫌われ、碧も不機嫌になった。今占いをしたら女難の相だと言われるに違いない。

 あちら側からは布をかけたおかげで、こちら側から布をかける必要性がなくなった。だが腹の虫がおさまらない僕は布を投げつけるように鏡にかけた。

 再びベッドになだれ込む。うつ伏せになって、枕に顔をうずめる。

 部屋が痛いほど静かになる。

 耳が空間に慣れると、気に掛けないと聞こえない様々な音を拾うようになった。妹が隣の部屋で作業をする音、母と弟がキッチンで夕食作りをする音。そして、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。

「なんなんだよ」

 逃げるようにして一階へと下りる。かといって特にやることもない。弟が親の手伝いをしているのだから自分も手伝えばいいのだろうが、いつもやっていないことをやる気になんてなりはしない。ましてや、このぐるぐる回るような精神状態で手伝いなんてやってられない。

 ソファに横になり、テレビを眺める。たいして頭にも入らず、ボーッとしていると妹が階段を降りてくる音が聞こえた。

 妹がソファの前に立つ。

「邪魔」

 いきなりやってきて「邪魔」とはどういう了見だろう。それはお前に恋して盲目になっている奴にしか通用しない。

「早くどいて」

「いやだ」

「邪魔」

「だから?」

 妹が怒気を強める。

「どけつってんの」

「少しは兄に敬意を払え」

 それはもう向こう側の妹が猫なで声で甘えるように。そうしたら気恥ずかしさから逃げ出すぞ。北風と太陽みたいなものだ。

「敬意払えるような兄になれ」

 妹はそう言うと、僕をソファから落とそうと何度も前蹴りを繰り出してきた。普段から同じことを繰り返しているので、母も弟も見慣れてしまって何も言わない。迷惑なことに妹も一種のコミュニケーションの一種だと思っているのか、迷いがない。僕自身も慣れているため、普段ならまともに取り合わない。それが一番だと妹が生まれてから十数年の経験で学んだ。だが、一人にして欲しい時にふてぶてしく足を踏み入れてくる相手にまで経験を生かせるほど、僕は経験を積んではいなかった。

 僕は枕として使っていたクッションを妹の顔面に思い切り投げ付けた。

 妹は尻餅をつく。何が起こったのか分からないのか僕の顔にただただ目を向けていた。

 弟は異変に気付き慌てていた。傍らの母親に何かを伝えようとそわそわするが、気付かずに料理を続けていた。

 まるで何人もの自分がいるかのように、雑多な思惟が浮かび上がる。そのほとんどはグツグツと煮え渡る心中に迎合するように罵詈雑言を喚いていた。どうにか火が通りが甘く理性を保てている要所は、いくぶん前者よりもマシな妥協案を提供した。

 その採決された妥協案に従い玄関に向かう。

 弟が心配したのか玄関まで追いかけてきた。

 弟の髪をわしゃわしゃとしながら撫でつつ言い聞かせる。

「ちょっとコンビニ行ってくるから」

 まるで妻と喧嘩をした夫が居所は悪くなり、さながらパチンコに逃げるかのようだった。

 外の空気はひどく冷たかった。風が頬を撫でるたび自然と凛然とした。それと同じく煮え立っていた頭の中が粛然となる。それから現状把握に勤め始める。

 アテも無く歩きながら、大きな溜息をつく。

 やってしまった。

 怒るなんて柄でもない。帰るに帰れない。とりあえず今日は、外で食べて帰ろう。幸い部屋着に着替えなかったため、財布はポケットに入れっぱなしだ。――あとで母に怒られることは覚悟しなければならないだろうが。

 コンビニに行くと言った手前もあり、アテも無いため僕はコンビニへと歩き出す。目的地に着くまで、考えたくもないのに次々と思い浮かんでしまう。

 鏡のこと。

 恭子のこと。

 碧のこと。

 妹のこと。

 新年度迎えて二日目だというのに、なんだというのだ。この問題の数々は。

 誰に対して文句を言えばいいのだろうか。問題の起こりが分からないため、誰にこの不満をぶつければいいのか見当もつかない。

 まるで不満をぶつけるように早足になる。前を見据え、目的地に向かって突き進む。あと少しで着くというところで、コンビニから恵一が出てきたのが見えた。恵一も僕を確認し、小走りでこちらに向かってきた。

「よう、恭介。こんなところで何をやっているんだ?」

 なんて言おうかこまねいていると、冗談めいた声で言われる。

「なんだ、妹とついに喧嘩したか? それとも例の女性との間で何かいざこざでも起きたのか?」

 何一つ違わない追求に僕はただただ視線を逸らす。

 そんな僕を見て、恵一は視線を逸らす。

「まあなんだ、どこか食べに行くか? どうせアテなんてないんだろ?」

 さすが長年連れ添った親友だ。阿吽の呼吸ができている。もし、これが女性だったり、僕に特殊な性癖があったならば完全に惚れていただろう。

 僕が「うん」と頷くと、近場にあるファミレスへと歩き出した。

 ファミレスの席についた僕はおもいきり机に頭を乗せ、項垂れた。

 改めて自分のやってしまったことの重大さに青くなる。ただでさえ険悪な仲だったというのに、防波堤を決壊さしてしまった。いやむしろ、花火でも打ち上げるテンションでダイナマイトをダムで発破した。気分は高揚したが、すぐにその波は引き、次いで自責の念が打ち寄せた。

 僕の注文も済ませた恵一が肩を叩く。

「まあ、なってしまったものはどうしようもない。問題はこれからだろ?」

 突っ伏したまま答える。

「それはそうだけど、一体どうするの?」

「そうだな――そういえば原因は妹か例の女性どっちなんだ?」

「どっちも」

 そう答えると恵一が言葉に詰まっていた。

 僕は机に突っ伏しているため恵一の表情は伺えないが、おそらく困ったようにはにかんでいるだろう。顔を上げると、その通りの表情が見れた。

「まあなんだ。とにかくそうなった状況を教えろ。親戚の女たちに徒党を組まれて虐げられて育ってきたこの俺が対処法を伝授してやる」

 自信満々で言うことではないだろう。

 妹の状況を簡単に話す。恭子の方は初めて会った又従姉ということにして経緯を話した。

「あーそれはお前が悪い」

 恵一が聞き終えるやいなや、結論を出した。

「どうして?」

「まー妹に手出したのはいただけないな。まあ、気持ちは分からなくないけどな」

「従姉妹の方も?」

 水の入ったコップに口をつけ、一呼吸置く。そして、話し始める。

「そうだな。本当に心配してくれてるのに無下に扱ったからな。お前はもっと女心を察するべきだ」

「女心と真面目な空気が苦手な僕には難しい課題だね」

「双方報われないな」

 僕のことを気に懸ける女性なんて、母親と恭子以外見たことがない。もっとも、どちらも報われてはいないだろうけど。

「大丈夫。灰色の青春が人生設計図に書き込まれているのは、覚悟済みだから」

「その設計図に俺を巻き込むなよ?」

「それは難しいね」

「おい。ただでさえ出会いがないというのに。今も爺様の用事で暇無しなんだぞ。赤い糸ぐらい捜す暇をくれてもいいだろう」

 それからはファミレスで他愛も無い話を続けた。恵一が迷子になって、用事を守れなかったことに対する愚痴が大半を占めた。店側からすれば注文も少なく何時間も居座る迷惑な客だっただろう。

 

 

 

 

 女心と秋の空。

 女心は秋の空のように変わりやすいことものの例え。玄関に立つ僕の目の前には、般若の顔をした女性が立っている。母は強し。いや、恐ろしい。いつもの慈悲深い菩薩のような姿形は雲散霧消し、仁王立ちする姿はまさに不動明王を彷彿とさせる。後ろには申し訳なさそうに、母に寄りそう弟がいた。

 妹に手を出した件で怒っているのだろうか。それとも夕食に参加しなかったことで怒っているのだろうか。どちらにしてもこっぴどく絞られるのは確定事項だろう。出て行った時から分かっていたことだったが、。覚悟を決めよう。切腹を宣告された侍というのは、諦めと古傷が疼くような感覚が混ざり合う心境だったのだろう。

「ごめん」

 何が悪いのか、綺麗サッパリ理解していないが謝っておこう。日本人の悪い癖だと考えてはいるが、僕も例に漏れず日本人だったみたいだ。

 母が僕に背を向ける。

「あとで、ちゃんと妹に謝りなさい。あと今もだけど謝る気があるのなら頭を下げること」

 そう言うと、母は台所へと向かった。

 後ろをついて歩く弟はこちらを振り向きつつ小さく親指を立てていた。

 弟が母に口添えしてくれたのだろうか。――あとで何か礼をしようと決めて部屋に戻る。

 恭子は今もまだ部屋にいるのだろうか。布で覆われた鏡の向こうからは何の音沙汰も聞こえない。

 ベッドに腰掛け、どのように仲を戻すかを脳内で反復思考する。だが恵一が言うように女心に疎い僕は、どうしても怒らせてしまう結果に辿り着いてしまう。

 ノックする音が聞こえる。母の綺麗な二回の調でもなければ、妹の粗暴な響きでもない。この弱々しく遠慮しがちなノックは、弟のものだ。

 腰を上げ、扉を開く。目線を下げると、弟の姿が視界に入った。

「どうした? 部屋に来るなんて珍しいな」

 弟が手を差し伸べる。その手には紙が一枚握られていた。

「これ、お姉ちゃんからの手紙」

 紙を受け取り、確かめる。中身は手紙とは思えない文量だった。ただ『ごめん』とだけ書かれていた。

 弟を小間使いにするのは納得いかないが反省しているのなら、よしとしよう。さて、お詫びのしるしに後日甘いものでも買って帰ろう。弟の分も合わさって、出費がとても痛い。お金がいつのまにか増えているという超常現象はないものか。

 僕は弟の頭を撫でる。

「何から何までありがとう。助かった」

 弟は小さく「うん」と頷くと、小走りで自分の部屋に去って行った。

 部屋に戻り、ベッドに仰向けに横になる。妹からの手紙を眺めた。

 妹は行動した。問題から逃げずに、顔も背けずに向かい合った。

 僕はどうだ? 背けるどころか、問題から背を向けて逃げ出してばっかじゃないか。向かい合わなければどのような結果にしろ終わりを迎えることはできない。終わりが迎えられないからこそ、後悔も際限なく続く。

 鏡に向かい合う。深呼吸。

「恭子、いる?」

 返事は無い。

 もしかしたら部屋にいないのかもしれない。それでも頭で反芻した言葉を口にする。

「さっきはごめん。僕が悪かった」

 まだ返事は無い。

「学校が楽しくないわけじゃない。それは本当」

 一呼吸。

「ただ、充実感が無いんだ」

 部屋の中が森閑とする。

「ねえ」

 彼女の声が聞こえた。

「これ、布取って」

 コンコンと僕を鏡へと促す。

 僕は言われるがまま、布を取る。

 すると前日と同じように目を見張ってしまう女性がそこにいた。

「それ、本当?」

 ラフなシャツの部屋着姿で正座をして訊く彼女。

 その誠意に応えるべく、正座をして答える。

「ああ、本当だ」

「どうして充実感がないのか分かる?」

 改めて聞かれると分からない。約十七年、可もなく不可もない人生を送ってきている。つまらないこと、それなりに楽しいことをどちらも多く経験はしてきた。

 浮かんだ率直な考えを言う。

「しいて言うなら、あってもなくてもいいような人生だから――かな?」

「――あたしも同じ」

 正座したまま項垂れる彼女。

 こちらがどうするべきかこまねいていると、弱々しく微笑みかけられる。それは触れれば壊れてしまいそうなガラス細工のようだった。

「こんなこと普段言ったらひんしゅく買うんだろうけど、なんか満たされない」

 彼女はそれから語り続けた。自分がクラスや学年のまとめ役を担っていること。勉強では不可はないが、ただそれだけ。趣味を持とうとしても好きの程度が低くて趣味の範疇から抜け出すことはできない。学校でも自宅でも誰かの『できる』という視線を浴び続ける毎日だということ。

「まったく気が休まらないわけじゃない。けど、ただ私の人生が『こんなもん』だって思いたくない」

 彼女が部屋着の裾を強く握る。

 僕とは違う生活を送っている。まさに才色兼備といえる。彼女の周りからすれば贅沢な悩みとしか見られないだろう。だが、僕には切実な悩みだと感じることができた。

 僕がクラスや学年のまとめ役になんて立候補したって周りに諭されて終わるだけだ。それは僕と彼女の性別の壁が大きいのだろう。だが、根本は同じだ。彼女の悩みが手に取るように分かる。僕だって少しでも生活が面白くなればと、超常現象を望んだ。普通に生活するだけでは経験し得ないことを経験したかった。

 機会は訪れた。ならば、少しでも活かすことができたのなら万々歳じゃないか。

「こんなもんじゃない」

 彼女が顔を上げ、僕の言葉に耳を傾ける。

「まだ高校生だし、これからどうにでもなる。――僕らが出会えたことだって、こんなもんじゃないって証拠だろ?」

 彼女と視線が合う。僕らは、黙って見つめ合う。

 彼女の瞳には熱いものが溜まっていた。それはビードロのように光を乱反射し、見る者を見とれさす程の魅力があった。彼女の顔が破顔すると同時にそのビードロは、はじけた。前触れも無く笑った彼女は、その破片を拭う。

「……ごめん。なんだか、おかしくって」

「僕、くさかった?」

「ううん。そのくさいのが良かった」

 頭上に疑問符が浮かぶ僕に彼女が説明を始める。

「あたしが言って欲しかった言葉、言ってくれた。さっすが、あたし」

 茶化すような口調で言う。

「あたしじゃない、僕です」

「うん。そうだね。あたしたちは同じで違う。鏡みたいなもの」

 

 

 

 

 僕らは同じ。でも違う人生。

 双子。クローン。ドッペルゲンガ―。僕らを表わそうとする言葉は、探せば色々ある。けれども、どれもピンとこない。そもそも、これを表す言葉はあるのだろうか。一つだけあるとすれば、それは鏡だろう。

 元は同じ。だが左右非対称。それが僕と彼女の関係性。

 僕が望み、彼女とともに臨んだ超常現象。

 この件については、うまく着陸できた。けど、この超常現象に関しては着陸までまだまだかかりそうだ。

 長い歳月を経てようやく得た機会だ。惰眠をもさぼったりするのはもったいない。超常現象はあると証明されたのだ。だとしたら色々な場所へ行き、様々な超常現象、妖怪や精霊に会おうではないか。

 そして、言うんだ。

 あなたは誰? と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る