第4話 脳内のヒダを揺らして
離婚届を一緒に出しに行ったのは関係の始まりから1カ月後だった。
「オレがついてってやるから心配するな」
少しでも彼女の心の支えになりたかった。しかしそこからは誰も台本を書いてはくれない。旦那との折り合いは前々からついていたようだが、本物の離婚届を目にすると感じたことのない緊張が走った。一緒に区役所まで行ったが、オレは外で煙草を吸っていた。30分後妻は清々しい顔で区役所から出てきた。
離婚は成立したが、そのデザイナーズマンションを手放すのは惜しかった。嫌がる妻をオレの経済状況を理由に説得し、それから約5年間旦那名義のまま暮らした。最初の3年間は慰謝料と妻の給料で家賃がまかなわれる形になり、オレはほとんど働かずして好きな小説を書き続けた。彼女が仕事に行っている昼間、暇を持て余すとギターを弾いたりして優雅な毎日を過ごした。
偶然にも死んだ母の誕生日に離婚届を提出するとは思ってもいなかった。
妻はオレが小説家を目指していると知り、なんとか旦那のコネを利用してまでも世に出るルートを見つけ出そうとしてくれた。妻は旦那にオレの小説を手渡してしまうと、さすがに何か勘付かれるだろうと、ごまかして、「知り合いに紹介された若い子が作家を目指しているから送らせるね、私も直接受け取る時間ないし」と言って出版社に直接送らせたのだ。
オレの執筆への熱意や持久力にも限界が来ていた。5年間同棲を続けた旦那名義の川崎のマンションから、入籍を機に妻が見つけてきた千葉のアパートに引っ越した。その頃からオレは小説家の夢を諦め始めていた。30を目前にするプレッシャーから、そろそろ定職に就かなければという焦りが募った。そう考えると人生は恐ろしい。好きな事を仕事にできなければ、会社の奴隷として死ぬまで金に苦しみ続けるのだ。そんな中、わずかな希望だけが心の片隅にこびりついていた。少なくとも堕落した人生を抜け出そうと、すべてを振り絞るように書いたのが、勝負すべき最後の小説だった。何のスキルもないオレであったが、小説を上手に書こう、などという講座を受けるバカにはなりたくなかった。習って書けるなら誰もが作家だ。そうじゃない。制御できない何かとてつもないエネルギーを感じさせるのが本当の作家だと思う。オレは10年かけてそのエネルギーが溜め込まれているタンクのありかを発見した。それは一番近くて絶対に見ることのできないオレ自身の脳内にあった。それが右脳の奥底だったんだ。いつも誰かがオレに囁いているようだった。その固く閉ざされたタンクの蓋を開けてしまったら、何かとてつもないことが起きるのじゃないかって、いつも怯えていた。手を触れることさえ恐くてできなかった。一緒に開けてくれる人をずっと探し続けてきたのかもしれない。妻の優しさは、それをオレのためにと「開けさせない力」だ。しかしオレはサキコの自伝を読み、カメラに向かって股を開く痛々しさをもろともしない彼女のような禁断の扉を突き破るエネルギーを求めていたのだ。
その想いは彼女自身と交わりたいというエネルギーだったのかもしれない。
一通のファンレターだった。正確にはファンメールと言えよう。彼女の自伝を読みブログやHP等の存在を知った。ブログのコメント欄にはあまりに卑猥な書き込みが多く、削除したり制限をかけたりする手間がかかり過ぎるということで、ファンからの個人的なメールを受け付けるホットメールのアドレスが設けられたのだ。彼女の自伝によるオレの勝手な解釈は、そこにメールを送るやつらはほとんどが変態だ。みんなが閲覧できるコメント欄が個人的に送信できるメールアドレスに変わったとて、その卑猥さはエスカレートするばかりだ。自分のモノをどアップで写した画像を添付する者、殺すぞと繰り返し送りつけてくる者、事務所には「これを履いて送り返してください」とパンストが入った封筒も送られてくる。もちろん自伝からファンになった女性からの純粋な感動が伝わる手紙やメールもある。かと思えば「どうしてAVなんかに出るのですか? 私はAV女優なんて大嫌いです、あなたを精神鑑定したいです」などというメールを送ってくる精神科医もいて、お前の精神鑑定が必要だろ! と思ったりする。サキコはAV女優たるもの、誹謗中傷に耐えるのも仕事のうちと割り切る。そんなたくさんの屈折しつつも純粋で、時に返信に困るファンレターやファンメールに交じって、このオレも一通のメールを出したのだ。
きっと同級生で同じことをしたやつは多いと思う。先に書いたように純粋に応援するやつもいるだろうが、下心を丸出しにしたアホな同級生も多いだろう。オレは部屋に閉じこもってよくわからないものを書き続ける日常を壊したかったのだろうか。あまりにも変化なくあっという間に過ぎ去ろうとしている20代が怖かったのだろうか。それともやっぱりコンペのネタのためか、いや、ただ幼馴染にメールするだけだ、そんなややこしい話ではない。『ただ、メールする』だけじゃないか。浮気の一つもする勇気さえなくなっていたオレが妻の目を盗みサキコにメールを出したのは、禁止されていたギャンブルをする感覚と一緒だった。当たるわけがないだろう、返事が来るわけないだろう、もしかしたらそのホットメールのアドレスは事務所の担当が、それもバックについているヤクザのような連中が目を通してから本人が見るのかもしれない。
幼馴染に『元気にしてますか? ご活躍拝見してます』そう送るだけだ、幼馴染がたまたまAV女優になっただけだ、オレは自分に様々な言い訳をしながら、自己完結型メールを送信していた。
確かなスリルを感じながらも、返信が来ることを期待していなかったわけではない。
送信ボタンを押す瞬間、オレは目を閉じて心の中で「えいっ」と叫んでいた。
オレは朝陽が顔を出す頃に倒れるように眠り、昼過ぎに目を覚ます。煩わしい目覚ましを止めるより早く、真っ先に枕元に置いてある携帯電話に手を伸ばす日々が始まった。顔も洗わず一番にサキコからのメールをチェックするためだ。数える程しか食べたことのないオレのために、妻は毎朝朝食の用意をテーブルに残してくれる。その朝食が昼食のオレは、食べながらも携帯を気にしていた。
一週間が経っても返信はなかった。送信して10日間は毎日欠かさずチェックしていたが、次第にバカらしくなった。それもそのはずだ。芸能人にファンレターを出しても返信が来るのは一通か二通しか来ない無名時代だけであって、期待するだけバカなのだ。ファンはあれこれ想像して手紙を書く行為そのものが楽しみなのだ。
しかし、コンペの締め切りまで残り20日、また気ままに小説を書く日々に戻るわけにはいかなかった。本気でストーリーを詰めていかなくてはいけない。想像でサキコのことを書き進めようと何度も試みたがやはりだめだった。
今から1年ほど前、勝負短編を書いていた時はそれなりに執筆にも集中していた。夜型の生活のオレに付き合わせていたら妻は肌がボロボロになる、自然と別々に寝る機会が増えていた。自分のことばかりに夢中で見向きもしない夫に妻は愛想を尽かしたのだろう、オレは彼女に不満があるわけではないが、はたから見れば家庭内別居状態だった。
妻は日付が変わる時間にベッドに入り、少しの読書を睡眠薬として眠る。そんな彼女の寝顔をしばらく見ていない。
前の旦那と同じように、明け方、妻の寝室に着替えを取りにそっと入ろうとした。妻がこちらに向かって寝返りを打ち、起こしてしまったかな、とあせったが、彼女は寝ぼけながら薄目を開け口をパクパクさせただけで起きはしなかった。金縛りにでもあって苦しそうだったが、そっとしておいた。そんな寝顔を見ながらオレはある光景を思い出していた。
あれは小学4年生の時だった。
オレは『自家中毒』という聞きなれない病気にかかることが多かった。聞きなれないといってもオレはその病気の常連なわけで、「ヒデキが自家中毒を起こしましたので学校を休ませます」、と父が学校に電話しても「何の病気ですか?」といちいち説明を求められ、本当に面倒だった。「先生のくせにそれも知らないのか! 三島由紀夫の小説を読め」と父と共に言ってやりたかったが無理もない。そんなデリケートで繊細でいかにも知的な優等生しかかからないような病気を、庶民やアホの先公どもが知るはずがない。その病気にサキコもよくかかっていたのだ。
オレは小学生時代、計3回その病気で入院した。激しく嘔吐し、痙攣を起こしたこともある。いずれも一日か二日で退院できたのだが、オレがバス通りにある久保田内科に入院していた時、なんと隣の部屋にサキコも入院していたのだ。「お宅のお子さんは甘えん坊ですね、隣の部屋の女の子を見習いましょう」と何度も見舞いに来る父が看護婦に叱られ、サキコも入院していることを知ったのだ。点滴を打ちベッドで横になるだけの治療に、過保護なオレの両親は一日に何度も交互に見舞いに来た。一方サキコはたったの一回、お母さんが嘔吐する病気なのにおやつを持って様子を見に来ただけだった。町医者の個室などいつもガラ空きで、オレの退院が先に決まり、こっそりサキコの部屋を覗きに行った。幼稚園の頃一緒に素っ裸で水風呂に入ったサキコに確かな変化と成長を感じ、そんなサキコの寝顔に子供ながらに妙な色気を感じて興奮していたのだ。点滴を打ちながらピンクのパジャマが少しはだけている。オレはそんなサキコに近づこうとした。ドキドキしていると、1階からミシ、ミシと足音を立てて上がってくる医者の足音に気付き、慌てて自分の部屋に戻り布団を被ったのだった。明け方、妻の寝顔を見ながらそんな思い出を重ねていた。
サキコのブログやHPを毎日のように見るようになって、オレは勝手に頭の中でサキコと妻との共通点を見つけたりする一人遊びに耽っていた。サキコは中1の終わりくらいにすでに170cmを越えており、プロフィールを見ると174センチまで伸びたようだ。妻も同じく長身で、オレまで全く一緒の174センチ。言うまでもなく2人は美人だ。妻は高校入学と同時に読者モデルをきっかけにデビューし、数々の雑誌に出ていたがもちろんAVとは無縁だ。秘書の専門学校に通う頃から活動のペースを落とし、自動車会社への就職を機にモデル業界からは早々と引退した。
妻と今のサキコのどちらが美人なのかなどと比べたことはない。どちらもオレにとってはため息が出るくらいの美人だからだ。どのくらいの美人かというと、気易く声をかけるのが恐れ多いような男を黙らせ緊張させるオーラを放っている。背が高いというのもあるが、2人がドレスでも着ればスレンダーな叶姉妹になりえるだろう。
そして2人はとてもよく似ている部分がある。顔が小さく脚が長いだけでなく、母性本能が顔に滲み出ているのだ。出ているオーラが似ているのかもしれない。それは好きな人の前でしか見せないもので、小悪魔的な部分がなく、笑顔に人を安心させる何かがある。メイクを互いに真似れば二卵性の双子だと言っても騙せるかもしれない。
自己満足だが、妻が最後の恋人だとすると、オレの女性遍歴は恵まれている。初恋と結婚相手がこうして美人だからだ。他人を見ているとわかるが、人は結局同じ系統の人間をパートナーとして選ぶものだ。一目惚れや一時の恋の迷いは、正反対のタイプを選んだりもするが、付き合おうと思ったら、知らず知らずのうちに自分に似た人を選んでいる。オレは以前付き合っていた女も長身で、周りからは「そこだけはブレないねぇ」とからかわれる。
周りの人間から見れば決して手の届かない、値段が付かない宝石のような二人。どこの国のどこの洞窟を掘り当てても見付けられないような宝石のように輝く二人。モデルをしていたからと言って気の強い我儘な性格とは対照的で、二人の共通点はどちらもマメで気立てが良く優しい。そして面倒見がいい。こんなオレを甘えさせてくれるし甘えてもくれる。二人はオレが今まで出会ってきた女性の中で最高の二人だ…という出だしでストーリーを書こうと思ったが、それも後が続かなかった。
人生のパートナーとしてこんなオレの世話をして、安らぎを与えてくれるのは妻だ。良い女はいても良い男は絶対的に不足していて、パートナーが見つからない惨めなモテない男より何倍もマシな人生だと思う。それは紛れもない事実で否定のしようがない。しかし、サキコという記憶の中に眠っていた存在が確かに動き始めていた…まだこちらの方が書いて行けそうだ。
くだらないことばかり考える自分に嫌気がさしながらも、なんとなく妻とサキコを頭の中で混同させてしまっていた。ストーリーであろうとなかろうと、もし自分の恋人がAV女優だったら、どんな気持ちなのだろう。やはり広い心で許してあげなければいけないのだろうか。それとも狂うことが要求されるのだろうか。もし本当に愛してしまったら結婚する勇気はどこから湧いてくるのだろうか。もしAV女優だと知らずに付き合っていたら、真実を知ってすぐに嫌いになれるのだろうか?
幼い頃のサキコを知っていて、変貌を遂げた今のAV女優という姿を見ている、この現実にオレは動揺しているだけなんだ、そう言い聞かせても心は波打つばかり。そんな正直な心情を描こうと思ったが、やはり何かが足りない。屈折しつつも純愛、エロスを越えたカタルシスか…、だめだ、うまくいかない、オレにはそこを覆すものは生み出せない。
二人がハイヒールを履いたら180センチを越えて、オレは見下ろされるんだろうなぁ、そんなバカげたワンシーンを妄想していた。
締め切りまであと20日。書く手は止まった。
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