第16話 最後の出演作を妖精に託して

 駅からサキコの家まではものの5分で着いてしまう。オレは次第に激しくなる動悸を抑えるため、そして伝えることを整理するために少しの回り道をして真っ暗な公園のベンチに腰かけた。

 本当のことを言ったら君はきっと大粒の涙を流すだろう。殴った以上に悲しませ傷つけてしまうかもしれない。オレは絶対に死なないと約束する。絶対に死ねないし、死にたくないんだ。それには理由がある。

 

愛しいサキコ、

君に嘘をつくことだけはしたくないんだ。それは君も一緒でオレが聞くことには何でも素直に答えてくれた。愛を貪り合い、ベッドを出て、君を殴り、リビングでビールを飲んでる時、意を徹して告白しようとしたんだ。妻がいるんだ、そして愛する妻はオレの子を身籠っているんだ。君はきっと泣きながらおめでとうと言ってくれるだろう。誰よりも祝福してくれるだろう。でもせっかく誕生日を祝ってくれて、その当日にもう会えなくなるよねと悲しみの果てに追いやるのが怖かったんだ。もう何も言わないで。もう何も言わなくていい。オレ達はお互いのパートナーも愛すると言ったがやっぱり心のどこかではすべてを捨て去ってどこか遠くへ、記憶の彼方へ消え去りたい気持ちでいっぱいだった。オレは君に嘘をつき続けていくことはできない。いずれは分かってしまう嘘をつき続けることはできないんだ。オレは妻がいるとは言えなかった。君の内部に入り込んだくせに自分の内部に入り込まれることが怖かった。それは妻がこの精神障害者のオレの面倒を見続けてくれる事実を見つめ直さなければいけないことだったし、苦労をこれ以上かけさせたくなくて、解放してやりたくて、でもオレは一人では何もできない現実が現実であることの恐怖を少しでも遠ざけたかったんだ。しかし子供を置き去りにはできないオレの性格を誰よりもわかってくれているのはサキコ、君だよね。君は、目に涙を浮かべるだろう。浮かべるなんてもんじゃないかもしれない。どんな水晶よりも透き通っている綺麗な瞳を、血が出るくらい真っ赤にするだろう。真っ赤な血の涙を止めどなく流すだろう。拭っても拭っても、拭いきることはできないだろう。オレは最低だと思ったよ。心から愛してくれる君をこんなにも傷つけているなんて。暴力が愛なんていう言い訳は成立しない。傷つける愛なんて存在しない。殴られても君は涙を拭いて笑顔を作った。頭がイカれたオレは君の涙で精神が崩壊し、心臓が止まるほど泣くかと思った。だってこんな精神病のオレを心から愛してくれてるんだもんな。オレなんか不定形型精神病だぜ、何だよそれ、一生治らないんだぜ、医者は病気とうまく付き合っていくことを考えましょうって、それって死ねって言ってるのと同じだよ。だからやっぱりオレは田舎に帰ってダウン症の姉さんと父とひっそりと暮らしたい。でもそれも違うんだ。今オレは、生まれてくる子供のために立ち直らなければならないんだ。病気を治せる自信はないけれど生活保護なんてもう嫌だ。自分自身で汗水流して働きたいんだ。そしてもう一つ言わなきゃいけないことがある、宿っているのは双子なんだ、検査をしたら、はじめ双子のうちの一人の子の心拍がずっとなくて、いても立ってもいられない気持ちだったんだ、心臓が動いていなくてオレは代わりにオレが死ぬからこの子だけは生かしてくれとオレの行動にさんざん矛盾する祈りを捧げていて、この心臓を差し出したいと思ったんだ。4度目か5度目か忘れたけどその後の検査で心拍が回復して双子は順調と分かってオレの病気も同時に少し良くなって、でもオレは子供ができたことにより君が離れていくのが恐かったんだ、醜いよ、一層のことこんなオレを殺してくれ、自分で死ぬ気力もないオレを殺してくれないか、でも超音波検査で2cmにも満たない胎児の姿を見てオレは立ち直らなきゃいけないと思った、宇宙人みたいな顔がこっちを向いて必死に身体を動かしているんだ、小さい体はまるですべてが心臓のようにドクドクと動いているんだ。こっちを向いて暴れ出しそうだったんだ。いつかの物語、キクとハシがこっちを向いて、お前の元に生まれてやるから待ってろよって言っているように見えたんだ、子は親を選べないなんて嘘だ、本当は選んで生まれてきてるのさ、俺たちはお前を選んだんだ、お前の元に生まれたいんだ、俺たちを傷付けるようなマネをしてみろ、俺たちを殺せるものなら殺してみろ、この腹を突き破ってすべてを焼き尽くしてやる、そう言われている気がしたんだ、受精した瞬間からそのエネルギーは小さな爆発を繰り返しているんだ、キクとハシよ、生きることは破壊することか、破壊することは生きることか、もしそうならば生きることは死ぬことか、死ぬことは生きることか、オレが死にたいと思えるのも生きているからか、そうだよな、死にたいと思う度に本当は生を実感しているんだよな、間違ってないだろ、時間は過去から流れているのか、本当は未来から流れてきてるんじゃないか、キクとハシが生を授かりすべてを破壊するという決められた未来があって、そのためにオレは死ぬことを許されず、生かされてたんじゃないか、なあサキコ、超音波検査って、エコー検査ってどういう風にするか知っているか? 診察台に乗ってズボンを下ろして股を開いて裸の下半身はカーテンの向こう側で、カーテンの向こう側に医者がいて、顔や姿は見せずに声だけが聞こえてくるんだ、『すくすく育ってますね、まだ小さいですが順調ですよ、パパも頑張らなきゃいけませんね』ってさ、でも精神がイカれたオレは、その時思い出したくないことを思い出してしまったんだ、それは昔女をはらませてしまって、女はオレに内緒で堕ろしたんだ、それから結局別れるはめになって、泣き付くオレが最後に言われた言葉があるんだ、『あんたに診察台に乗る女の気持ちがわかるの? 麻酔を打たれ股を開いて眠る女の気持ちがわかるの?』って、弱いオレはそれから病気が悪化したんだ、鬱病の魔のスパイラルから抜け出せなくなってしまったんだ、まったく馬鹿げてるよ、しかもその後に母さんやらばあさんやらおじさんやらおばさんやらの死が相次いでさ、でもそれらを全部含めて、死を考える度にそこからは逃げられない、逃げてはいけない、戦わなければいけない、そんな当たり前のことがやっとわかったんだ、生きるんだよ、生きていかなきゃいけないんだよ、これが生なんだよ、心臓が叫んでるんだよ。

 正直に言う、病気のオレの世話をして、支えてくれて、こうしてなんとか死なずに来れたのは妻のおかげだ、そしてこれから生まれてくる二人の子供はオレに生きる希望を与えるだろう。しかし君からの愛は特別なんだ、こんなオレに死なない希望、自殺しない希望をくれて、こんなくそみたいな小説を書くオレのわずかな可能性を昇華してくれるんだ。昇華という言葉の重さはわかっているつもりだ。君といると感じるんだ。それは真実だ。妻からも愛を感じるがそれとは違う、自殺を食い止める昇華された希望という名の愛なんだ。待てよ・・・。なあサキコ、ひとつだけ教えてくれ、君は本当にサキコだよな? オレの死んだ母さんと同じ名前のサキコだよな、本当に実在しているよな、さっきどうしてあたしは透明なんて言ったんだ、オレに色を付けてほしいなんて言ったんだ、オレが作り上げたフィクションの中の登場人物じゃないよな、オレが創り上げた架空の人物じゃないよな、待ってくれサキコ、もう一度会ってくれるよな、声を聞かせてくれるよな、こんなオレを抱きしめてくれるよな、待て、まてまてまて、待ってくれ、お前はオレの妻じゃないよな? 本当はオレの妻のトシエじゃないよな? オレの世話に明け暮れるトシエじゃないよな? なあ、そうなのか? 本当はそうなのか? お前はトシエだったのか? トシエはサキコだったのか? サキコはトシエだったのか? お前がサキコという記憶の中の人物になりきり、オレに不倫させたのか? オレの可能性を導き出すために幼馴染のサキコに化けてオレと寝て、この物語を書かせたのか? オレが何か突き抜けたものを生み出すと信じてその扉を開けさせるために仕組んだことなのか? わずかな可能性を昇華させて書かせたものなのか? 「愛する人の愛する人までを愛する」って言ったのは実はお前だったんだな。愛する人の愛する人・・・オレの本当に愛する人はただ一人、やっぱりトシエ、お前だ。だからオレにとって愛する人はトシエでトシエの愛する人はオレ、それを愛するってことは、そうか、オレ自身、つまりオレはオレ自身を愛さなければいけなかったんだな。そういうことだったのか。となるとお前にとっての愛する人の愛する人はお前自身だ。わかった、やっとわかったよ、自分自身をもっと愛さなきゃいけないってことだろ。自分を愛して人を愛するってことじゃないのか。それはどっちが先であれば可能なんだ? 鬱だのなんのって逃げてばかりで、いつもうまくいかないことがあると破滅へ向かい、オレはオレ自身を大切にしようとしなかった。大切にするという概念を間違っていたんだ。大切にし過ぎた結果、ナルシズムは行く末を見失い、君を傷つける行為を選んだ。お前が愛してくれるオレ自身、自分自身を本当の意味で大切にしていなかった。やっぱりそうだったのか。サキコも言っていたな、自伝にも書いてあったもんな、自分を愛せれば人を愛せる…そうではなくて、人を愛して初めて自分を愛することを知るって、人を愛さないと自分すら認識できないもんな、それは依存と紙一重かもしれない、でも人を愛さないと見えてこないものが大事だって言いたいんだろ、トシエ、お前には負けたよ。まるでお前がプロデュースした世にも奇妙な何とかみたいじゃないか。サキコなんて人物は元からいなかったのかもしれない。幻だ。幻だったんだ。薬の後遺症だったのかもしれないな。いや、それよりもお前の愛の仕業だったのかもしれないな。オレからも屈折しているかもしれないが愛を捧げるよ。ずっと履いてくれなかったTバックを履いてオレは遥かなる白い肌の聖なる大地へ射精し、お前はどこまでも広がる海のように濡れる。それこそ本物の愛だ。一体何なのかもうよくわからないよ。でもいんだ。そんなことは問題じゃない。もはやどっちであろうと答えは一つなんだ。すべては一つなんだ。相反する二つのものは実は一つなんだ。サキコはトシエで鬱は躁でキクはハシで生きることは死ぬことで死ぬことは生きることなんだ。たとえサキコが実在してもしなくてもオレはこの気持ちをちゃんと君に伝えなければいけない。サキコに伝えることはトシエに伝えることだからな。君に分かってもらえるかな。君に信じてもらえるかな。それ以前にオレは精神障害者の身分で父親になる資格があるのか。人を愛し愛される資格があるのか。このままだったらないよな。でも戦うと決めたんだ。病気の自分と。自分の病気と。明日を生き抜くために戦うんだ。自分自身の弱さと戦うんだ。


 オレはポケットにあったイミプラミンを2錠口に入れ、公園の水道水で飲み込んだ。サキコの部屋へと向かうため、薄暗い夜の道を歩き出した。ひどい片頭痛が頭部左側を襲う。トラックのヘッドライトが目に入り視界が半分になる。例え視界が奪われようとも君のもとへ行きたい。もう一度君に会って話がしたい。ゆっくりだが確かな足取りでサキコのマンションへ向かった。

 階段で3階へ上る。302号室のサキコの部屋はインターホンが壊れている。ドアのノブにそっと手をかける。金属の冷たい感覚が指先に走る。カギを閉め忘れたのだろうか。一度開けた宝の箱をもう一度開けることはできるのだろうか。宝を取り出した後の箱の中には何が入っているのだろうか。もう一度開けてもいいのだろうか。不安が心臓を襲う。心臓に痛みが走る。ノブが右に回るとその不安はサキコの部屋をパンドラの箱に変えてしまった。

 ドアを開けると暗い部屋の奥には、重なり合う二人の妖精が月明かりに照らされていた。サキコが上になり下から突き上げるように揺れる妖精もまた優雅な白い肌だ。二つの絡まる長い髪の毛がシックスナインとなり揺れている。サキコの快楽に歪んだ顔と一瞬目が合った。それはオレには見せない安らかな表情だった。ベッドの下にはバーキンのバッグが無造作に置かれている。聖なる天使のいたずらのように見えて不思議とオレは驚かなかった。部屋の隅には関取の彼がいる。おかげで部屋は窒息しそうだ。葉巻をくわえ、大きな腹を邪魔そうにしながら、自分のものに必死に手を伸ばそうとしている。腹が邪魔で自分のものに手が届かないなんて大変だな。醜いぞ、そんなことオレに言う資格はないか。葉巻かぁ、デカイ身体にタバコは細すぎるもんな。なあ、八百長よりも楽しいか? 野球賭博よりも刺激的か? カメラを回しているんだろ? そうか、ヤツが監督ってわけか。最後の出演作はレズものってことか。オレという男優は必要ないのだな。

サキコの股の間から太股を両腕で握りしめる見えない天使の顔を妻に重ね合わせた。妻とサキコが絡み合っている姿を重ね合わせた。腹に宿った双子が互いの生存を確かめ合う姿を重ね合わせた。そこには男の匂いがない。透き通るような二つの白い肌とラベンダーの汗と若鳥を浸した甘いソースのような愛液、そして神聖なる快楽だけがそこにある。

 二人の天使のために、残り2錠のピンクの錠剤を玄関の靴棚の上に置こうとして、止めた。オレにはもう必要ないがここに置いて行く義理もない。そしてこの快楽の悪魔を捨て去る時が来た。あの場所に行けば手に入るが、それは簡単なことではなかった。渋谷のセンター街のど真ん中にあるマクドナルドの向かいのコンドーム屋の入り口のすぐ左手に地下に降りる小さな階段があって、いつもチェーンが掛かっているんだ。でもそこに鍵は掛かっていなくて、人一人がやっと降りていける螺旋階段なんだ。その地獄への螺旋階段を下りると、一人の男がいるんだ。二畳ほどしかない真っ暗で狭い部屋にお香が黙々と煙って、ギラギラにデコレーションした壁とショーケースに実に多種多様の薬が飾ってある。初めて店に入った時は、もうここから二度と地上に這い上がれないと思ったよ。何かに導かれてチェーンを外しオレは螺旋階段を下りた。鼓膜が破れるほどのウーハーの騒音に導かれたのかもしれない。男は「何しに来た」って叫ぶんだ。オレは「売ってくれないか」と負けじと叫んだんだ。初めて来た者に、簡単には売ってくれない。何度も何度も通ってやっと認められて、そしてようやく売ってもらえるんだ。何度目かは忘れたが、いつものように螺旋階段を降りようとすると、「くるな!」と男が叫んだんだ。それでもオレはモノが欲しくて階段を降りようとすると、「来るな、あっち行け、お前も殺すぞ」って叫んだんだ。きっと誰か死んでいたのだろう。オレはモノが手に入らなかった悶々とした気分を酒で紛らわせてセンター街で朝を迎えた。目覚めると大勢の人が行きかい、あまりにも熱くて汗だくで、本当にバカらしく思ったよ。何もかもがチープに思えたよ。すっげぇチープだって、全てがチープだって。恐がらなくていい、ただちょっと死ぬほど気持ち良くなるだけさ、から始まってどっぷり漬かっていたけど、あの頃の仲間たちは今頃どうしてるかな、薬に溺れ、酒や煙草や女や喧嘩の毎日で、タトゥーを入れ、ピアスをして、クラブで踊りまくって、セックスしてさ。それが生きがいで、それがすべてだった。エネルギーがあったんだろうな、きっと。そいつの使い道がわかんなかったんだろうな。オレが30になったってことはあいつらも30。生きていてくれることを願うよ。同窓会でもしたいな。案外一番荒れてたあいつが真面目なサラリーマンとかになっているかもしれないな。ひょっとしたらこんなオレが一番抜け出すのに時間がかかったのかもしれないな。おいてきぼりか。それも切ないが、自分で克服して這い上がるしかないからな。

 ここは救急病院の真裏のマンションだ。病院は目の前じゃないか。彼女たちに何かあっても大丈夫だな。いや、違う。もう止めよう。もういい加減にしよう。オレはごめんだ。もう快楽と死の誘惑には負けない。そんな悪魔のささやきも父親になるオレには通用しない。もういらないんだ。ポケットに忍ばせたイミプラミンもMDMAもマジックマッシュルームもラッシュもドローランも必要ない。そんなものは薬じゃない、単なるおもちゃだ。おもちゃだったんだ。おもちゃは卒業するものだ。薬とはおさらばさ。こいつと別れる時が来たんだ。

 オレが憧れた映画の主人公たちはいつまでも色褪せない。ストーリーの中ではいつまでも年を取らないし、永遠に破滅を繰り返す。でもヤツらの10年後ってどうなっているんだ。オレはその続きを知りたい。続きを描きたい。きっとヤツらはつるむのをやめ、バラバラになって、それぞれの生きる道を見つけているだろう。そしてあだ名しか知らない仲間の将来など考えもしないだろう。

オレは破滅こそ浄化だと信じてきたが、サキコの存在が違うと教えてくれた。今ここに確かに動いている心臓を裏切ることはもうしない。

 何かを壊したかった十代。

 何かを探し続けた二十代。

 何かを捨てていく三十代。

 それでも残るものが希望だと信じたい。

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