第17話 15年前の朝陽に焼かれて

 オレはドアを閉め階段を降り、再び歩き出した。快楽の錠剤、エクスタシーを口に含み、スイカの種を噴き出すように近くのドブ川に吐き出した。悔いはない。もったいなくもない。これでいいんだ。終わったんだ。サキコとも終わったんだ。お別れだ。でも終わりは始まりなんだ。もう一度歩こう。最終電車はとうに行ってしまった。246号線に出ると頭上を首都高速3号渋谷線が走っている。行きかう車は勢いよく夜の街を飛ばす。この道をどこまでも南へ行こう。クラプトンでもエアロスミスでもない、Theory Of A Deadman / セオリー・オブ・ア・デッドマンのHate My Life / ヘイトマイライフを聴きながら。死人の理論か。なんてカッコイイバンド名なんだろう。人生なんかくそくらえ、か。でもそいつを高らかに叫ぶヤツらは十分にカッコイイ青春ロッカーだ。ギラつく商業主義復興のHinder / ヒンダーより地味だけど、よっぽどロックをこの手に取り戻しているよ。アメリカの片田舎からLAを目指すなんてシンプルなカッコよさがオレは大好きだ。

 愛する妻の待つ家までは、約42kmだ。まるで走ることが出来ないマラソンランナーのようさ。そこに妻はいないかもしれない。二人の子供もいないかもしれない。でも眠らない夜の街をただひたすら歩き続けて行こう。きっとあと3時間ほどで朝陽が顔を出すだろう。それは15年前の朝陽だ。壊すことも探すことも失うことも知らない無垢な朝陽だ。星は何万光年もかけてこの地球に光を届ける。朝陽もそうなんだ。15年前に輝いたはずのあの朝陽が時を越えてようやくこの瞳孔を開かせたんだ。あの頃はこうして自分と対話した。何度話しかけても誰も答えてはくれなかった。自分の存在が何なのかさえよくわからなかった。透明になっても無になっても、人は皆、また必ず他の何かによって色を付けられる。それが愛する者の色であることを願うだけだ。

 オレはいつも夕陽を見つめ夜の闇に怯えた。しかし柔らかな朝陽の、あの淡い優しさに気付くことはできなかった。夜の虹、その七色には気付いていたのに、朝陽の色、八つ目の色、この新しい色に気付くことはできなかった。でも、やっと気付いたんだ。これがオレにとってのヒステリアシベリアカなのだと。シベリアの農夫は夕陽の美しさに取りつかれ、荷物も持たず家族も捨てて、どこまでも歩き続けた。そして息絶えた。オレは沈む夕陽ではなく、あの崇高な朝陽を求めよう。朝陽を目指そう、朝陽を追いかけよう。これから昇ろうとする朝陽だ。この汚れた都会を焼き尽くすような真昼の太陽へと変わる、あの朝陽だ。そうだ、いつかその黒点になりたい。何億光年離れたところからでもはっきりと見える黒点になるんだ。そこには浄化しかない。 その浄化の証が黒点だったんだ。

 すべての始まりを生み出す朝陽に向かって歩き出した。

辿り着けるかどうかは分からない。朝陽を見る前に息絶えてしまうかもしれない。

オレは、妻と二人の子供の元にも帰れなければ、サキコの元にも戻れないだろう。



 ビールを顔面にぶっかけられ、妻に泣きついてから7年、あんな別れ方だったが、いつか必ず推敲した処女作をもう一度読んでもらおうと心に誓ってから7年が経っていた。処女作は冬眠させてしまったが、AV女優『も〇した・く〇み』の透明な存在に色を付け、この物語を書き上げた。必死に書き上げた今のすべてをぶつけたい。今なら冷静に大人としての話ができると思い、再びS氏に連絡を取ったのだった。まだ在籍していることを願い、出版社に電話すると部署が変わっていることを知らされた。「そうですか・・・。では、Y編集長はいらっしゃいますか? 以前お世話になりまして」と尋ねると、電話に出た女性は、言葉を詰まらせた。

 S氏に電話がつながると、Y編集長が自殺したことを知らされた。

 7年前、オレが彼に会ってから、半年後の出来事だったそうだ。

 彼が中央線に飛び込んだのかどうかはわからない。

Yは自分の命と引き換えに作家『た〇もと・の〇ら』を創り上げた。オレは自殺した彼の最後の心情風景を代わりに描いてやろうと思ったが、すぐにその考えは中央線の急ブレーキの音をかき消され消えて行った。

 今でも商品は何とやらという話は大嫌いだが、「クリトリスにバターを」というタイトルでは世に出せない理由が、Yのおかげで分かったような気がする。

 しかし妻と二人の子供をおいて自殺という行為を選んだYを心から軽蔑していた。Yの墓にビールをかけてやりたい気持ちだった。Yは成功者であり金もあり愛人の一人や二人もいただろう。自殺以上に魅力的なものはなかったのか。自殺は快楽だったのか。それはセックスでは得られない快楽だったのか。なぜあれだけの大物作家を世に送り出した人物が、幸せを手に入れることができなかったのだろう。なぜ死の誘惑に取りつかれてしまったのだろう。なぜ彼にとってはセックスよりも自殺だったのだろう。そんなことよりも深い悩みがあったなどとは言わせない。愛する人を置き去りにして死んでしまったのだから。

 自殺という行為そのものを憎んで彼を憎みたくなかったが、それができる心の広さはこの物語を書いても得られなかった。

 自殺を選んだ彼を、止まらない涙の中、心の底から軽蔑した。

 Y編集長が死んだため、オレは処女作を封印した。

 Yが自殺した後、S氏は制作の仕事から退いている。

 オレはYにもらったN・Tの小説を未だに読んでいない。

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