第15話 透明な七色の浄化

 リビングでグラスに残ったビールを飲み干し、服を着た。終電まで1時間を切った。今日は楽しかったね、という会話以外はもうしたくない。

 リビングのステレオには薄っすらとレゲエがエンドレスで流れている。二人はピンク色の錠剤を仲良く半分ずつ分け合っていた。一人で飲む勇気がなかった。一錠飲むには効き目が強すぎて、二錠飲んだら死んでしまう。丁度良かった。量はぴったりだった。二人で仲良く半分こ、これでよかった。このピンク色の世界は間もなく切れるだろう。どうしてこの抜け出す感覚が気持ちいいのだろう。初めてだ。どうして足りないと思わないのだろう。どうしてもっと欲しがらないのだろう。それはオレにとってはサキコが、サキコにとってはオレが麻薬そのものだからか。まるで蛹から脱皮して蝶になり、このまま太陽に、いや、月に向かって飛んでいけるような、そんな気持ちのいいまま焼きつくされてしまう感覚が二人を包んでいた。

「あたしたちのサマー・オブ・ラヴね」

 ステレオのヴォリュームを上げる。

「Tバックでサマー・オブ・ラヴよ」

「そうだ、二人だけのシークレット・サマーだ」

 ステレオのヴォリュームを最大にした。

よく分からない。でも黒人のなまったようなラップが煽っている。息の臭さと肉食特有の体臭が耳のすぐそばで鳴っている。音が近い。いや脳の揺れがリズムとダンスビートそのものになっている。二人はもう一度すべての衣服を剥ぎ取る決意をした。せーのっ、で天井へ放り投げた。下腹部をこすりつけ合った。腰を横に振った。腰を縦に振った。床を激しく踏みつけてステップした。無心で頭を振った。脳を揺らしてかき乱した。

「ここはパンガン島だね」

「今気付いたのか、オレがDJをやるよ」

「早く! もっと早く! もっともっと早く! ターンテーブルはここにあるよ」

今日はフルムーンパーティーだ。レゲエパーティー復活の日だ。サキコの胸を擦り始める。柔らかな二つのLPがスクラッチする。サキコが口を開ける。オレがその中へ飛び込む。ジャンプした。飛び出した。何度も何度もジャンプして飛び出した。星空の天井を突き破り上がったり下がったりしながらあの満月を飲み込む。身体を再び擦りつけ合った。汗と愛液を滴らせ震えるくらい擦り合った。どこに行きたい? この島を一周しよう? ここは快楽の島だ、いろんな経営者の手で人為的な快楽の島に変えられてしまったんだ、もう神聖なる島なんかじゃない、そんなの嫌だ、音楽しか、リズムしか、祭りしかないようなところに戻したい、大丈夫、今日がその理想の楽園に戻る日だ、そう願えばあたしたちなら瞬時に変えられるわ。そうだな、オレたちは蝶だもんな、踊る蝶だもんな、Tバックを履いた蝶だもんな、どこまでもいけるよな、オレたちに不可能はないよな。サキコの毛のない美しいヴァギナをめくった。ここからはハーフムーンパーティーの始まりだ。紋白蝶の美しい羽根に隠れた腹の半分を撫でまわすように舌を這わせた。よく見えなかった部分をよく見たくて、月の鏡に映した。羽根をバタバタさせながら腰を振って後ろから抱き付き太股を持ち上げ股を開かせ踊った。錠剤と同じピンク色だね、あたしのここってこんなにピンクだったんだね、楽しい、楽しいよ、ヒデ、さっきは深海だったよね、陸に上がったのよねあたしたち、今はどこ? ここはどこ? どこだっけ? どんどん上がっているね。雲の上だよ、ほら、ダンスフロアは真っ白な綿飴みたいな雲さ、おいサキコ、そこの隙間から落ちないように気を付けろよ。わかってるよ、大丈夫、いざとなったら羽があるわ、そしたらまたゆっくりと風に舞いながら陸に戻ろうね、ねぇ、ヒデ、ヒデ、あたしの旦那様、あたしの愛する旦那さま、ヒデさま、あたしのこと好き? 愛してる? どのくらい愛してる? 宇宙よりも愛してるさ。それってどれくらい? 無限だよ、悠久だよ、永久だよ。だったらセックスして。もうしてるじゃないか。そうね、音楽はセックスよね、ダンスはセックスよね。そうだよ。セックスは音楽で音楽はセックスさ、愛はセックスでセックスは愛さ、この快楽が証拠だよ。オレたちが求める浄化はすぐそこだ。そうだ、ヒデ、あなたの描いた虹色の浄化をしてよ。わかった、でもそれは破滅という名の浄化だぞ。うん、いいの、もともと壊れるものなんてあたしにはないから、もうとっくにすべてが壊れているから、そこには浄化しかないわ。わかった、なら飲んでくれないか、飲んでくれればその入り口が見えるよ、光が近付くよ、もし飲めないのなら、オレはこれを飲むよ。エテね、菫とアンバーのいい香りよ、ラメも入ってる、もうすぐ熱い夏だしね、あたしも飲んでいい? いいよ、二人でこのオードトワレを飲み干してしまおう、行くぞ。サキコ付いてこいよ。わかった、だから手を離さないで、ちゃんと握っていてね。


見えるか? 見えるよ。数えてみろよ。七色だね。ああ、じゃあ一つずつ、オレたちの汚れを浄化してくぞ、いいか。いいよ。

まずはレッドだ。レッドは情熱の赤、炎の色だ。罪を燃やすんだ。犯してきたすべての罪を今、燃やすんだ。

サキコの家庭を脅かした暴力の恐怖は罪だ。そしていつも頭の片隅にあった裸になる罪の意識を燃やすんだ。止まっていた心臓を再び動かすかのように。


次はオレンジだ。オレンジは優しい色、癒しの色だ。くるまればいいんだ。全ての甘えをこのオレンジ色の毛布に包み込んでもらうんだ。

幼い頃、一番必要だった時期に得られなかった父親からの愛情、今からでも遅くない、ただ眼を閉じてぐっすりと眠ってしまうまで抱かれればいい。父親は今、過去を償いオレンジ色の優しい塊になっている。


3つ目はイエローだ。イエローは知的活動の色、脳の活性化の色だ。蘇るんだ。ずっと眠っていたダウン症の脳は今復活を遂げるんだ。

サキコの脳は生を実感している。それが何よりも知的なことだ。そして今までの人生が傷跡ならばそれを頼りに生きようとする支持者に、君の文学を伝えていってあげるんだ。君はきっと文学の扉を開く。


4つ目はスカイブルーだ。スカイブルーは青空の色、自由の色だ。持って行くんだ。あの快晴の空に。あの空に弱さを解き放つんだ。

青空の下、無垢な心、全力で走りまわったあの真夏のグラウンドを思い出すんだ。生きていく辛さを知ってしまう前の無垢な心にリセットするんだ。上書きしてしまえばいい。今の君なら何度でもリセットできる。


5つ目はグリーンだ。グリーンはモラルの色、自然の色だ。平和の色だ。オレたちは狂い切れなかったんだ。

帰る場所があるヤツは狂っても狂い切れない。傷付いても元に戻ることができる。それは幼いオレたちが遊んだあの森に、取り戻すべき空気の存在があるからだ。人はそれを故郷と呼ぶ。


6つ目はマリンブルーだ。マリンブルーは母性の色、母なる優しさだ。帰るんだ、戻るんだよ。いつでも母親の腹の中の受精卵にオレたちは戻ることができるんだ。

サキコもいつか母親になるだろう。愛する我が母のように、どんなことがあっても子供を守り続けるだろう。そしてそれは母性というこの世で最も美しい愛の象徴だ。 


7つ目はバイオレットだ。バイオレットは夕焼けの色、野望の色だ。夕陽が沈む直前のあのピンク色のもやのような紫に野望を重ねるんだ。

もう疲れた身体は休ませよう。その優しい野望で読む者を虜にする物語を書き続けていけばいい。君の言葉を欲する者たちに、紫が一瞬だけピンク色に変わる瞬間を伝えてやって欲しい。その瞬間を知る者はすべての野望を知るはずだから。


生きているんだね、あたしたち。


大量の汗、毛穴という毛穴が水道の蛇口になった。全開にして、待つ。その蛇口から愛の快楽と悪意の華が抜けていく。軽くなる。サキコの身体が虹の七色になる。くぐもったレゲエが消え、別世界の牧歌的原型、その旋律の発端へと変わる。

虹の七色が混ざると、再び透明な肌色になる。

エンディングの切ないワンフレーズがディレイして、間もなく消える。

罪は「ゼロ」になった。

透き通る肌色になったサキコは、赤子を抱く聖母マリアのように美しかった。


「今日は本当にありがとう、愛してるよ」

帰らなければいけない時間が来た。「面接大丈夫だった? ご飯できてるよ」という妻の声が聞こえてくるようだった。

サキコは化粧が取れたからといって帽子にサングラスで駅まで送ってくれた。駅までのわずかな道のりは固く手を握り無口なままだった。駅に着いてもサングラスを外さずお別れのキスをしてくれた。帽子のツバが少しだけ額にあたった。

「誕生日おめでとう・・・」

12時を回り、日付が誕生日に変わった瞬間だった。

オレは30歳になった。

改札に入り手を振る。彼女の姿が小さくなる。

ホームに降りると最終電車が到着した。

一番前の車両、運転席の真横のドアの前に立ち尽くす。「最終電車です、お乗り遅れのないように」というアナウンスがされ、扉が閉まるけたたましいベルの音が鳴る。慌ただしく駆け込み乗車する男がオレの背中にぶつかる。オレは少しよろめく。

「お客さん、乗らないんですか? 発車しますよ」

車掌の声が遠くで鳴っているようだった。

オレはその最終電車に乗らなかった。


電車が目の前を勢いよく通り過ぎ、風圧で前髪が視界をおおった。電車の最後尾が消えゆくと、ホームに独り取り残された。さっきまでの騒がしさが一瞬で電車の騒音と共に消え去った。真夜中の無人島のような静けさに変わった。

サキコに真実を切り出せなかった後悔が、オレを最終電車に乗らせなかった。

オレは再びこの改札を出たいと思った。サキコの家に戻り彼女にもう一度会って話したいと思った。

 オレは心にいつも潜んでいたもう一人の自分に訴えかけるように言った。

きちんと伝えなければいけないことがあるだろ。

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