第14話 愛する人の愛する人を愛するために

「愛する人の愛する人を愛してもダメなの? ヒデの好きな人をあたしも好きになるのよ、辛くてどうにもならない気持ちをヒデの愛する人を愛するエネルギーに変えるの、それでもダメ? そんな器用なこと出来ないって言う? バカげてるって思う? 確かにお互い帰らなきゃいけない場所はあるかもしれない、でも少しでもヒデと一緒にいたいもん、ヒデを自分のものにしたいもん、ねぇ、幼馴染って何? なぜ再び会わなければいけなかったの? どうしてあたしは今ここにいなきゃいけなかったの? 幼かったけどヒデのことが好きだった、でもヒデは勉強もできてスポーツもできて大きいお家に住んでるし、どんどんリーダー的な存在になっていって、そんなヒデとの距離が遠のいて行くのが嫌だった、悲しかった、胸が苦しかった、だってどんなに好きになっても結ばれないと分かっている仲なんて切な過ぎるじゃない、あたしヒデが思ってるより物わかりのいい女になれるよ、あたしは書きかえられるの、透明な存在だから、ヒデが上書きしてくれたら思うように変えられるのよ、他の誰かに対するジェラシーとかじゃないの、わかる? 少しでもこうして一緒にいたいだけなの、カレじゃだめなの、他の誰かじゃだめなの、あたしといる時間をもっと増やして欲しいの、あたしもわがまま言ってるのはよくわかる、でも少しでも長く触れ合っていたいの、やっぱり帰らなきゃいけない? 帰っちゃうの? 今晩だけ泊まるのもだめなの? そもそもどうしてこの国は一夫多妻制じゃないの? ヒデはホントいい身分よね、だって甘えられる奥さんが何人もいるようなもんでしょ? あたしは2番目? それとも3番目? 別に何番目でも構わない、あたしがAV女優だから嫌? 他の男に抱かれる仕事だから嫌? カメラの前で笑顔で股を開くから嫌? 軽蔑する? 汚いって思う? AV女優に人を好きになる資格はないって言う? もっと一緒にいられる時間を作ってよ、お願い、今後ヒデがうちに来てくれる度にこの寂しさに襲われなきゃいけないの、心が張り裂けそうだよ、笑顔でじゃあねなんて言えるわけがない、こうやって段々ヒデのお荷物になってヒデを困らせるような女になって性格も悪くなっていくの? こうやって一番一緒にいたい時に一人部屋に取り残される惨めさをこれから何度も味あわなきゃいけないの、あたしがこの10年間カメラの前で見せ続けてきたものって何なの? たくさんの出会いと別れがあって、優しくしてくれるスタッフもいっぱいいた、あたしはそんな支えてくれたスタッフを誇りに思うし、だからプロ意識を持って続けてきた、仕事として続けてきた、わかる? 仕事なの? オレにもやらせろって襲われた現場もいくつもあった、でもこうしてプロ意識を貫いてきたのよ、最低、最低よね、最悪、もう嫌、ほんとに嫌、耐えられない、ヤキモチやきのヒデが嫌がる様な事言ってあげようか、あたしのカレ、関取だって噂されてるよね、そんな巨体とどうやってセックスするか知りたい? AVで今まで一番つらかったこととか聞きたい? カレがお相撲さんだって聞いた時、ヒデぶっちゃけどうやってエッチするんだろうって思ったでしょ、あたしが下になる時はこうやって大きなお腹を持ち上げてアソコを取り出すようにするのよ、でもカレが覆いかぶさるとあたしが潰されちゃうからすごく遠いの、近くて遠いのよ、あたしが上の時はもっと楽よ、でもね、だっこしてもらってお互いの顔を近づけたり、抱き合ってキスしながらすることはできないの、だからヒデがそれに気付いてたのか知らないけど、あたしを子供のようにだっこして見つめ合ってしてくれたでしょ、涙が出そうなくらいうれしくて気持ち良くて、セックスと愛がこれほどまでにひとつだって感じたのが初めてだったの、本当は鬱病なんかじゃないんでしょ、気分の浮き沈みなんて誰にでもあるじゃない? 自家中毒は子供の病気よ、それを言ったらあたしなんかもう自殺してるよ、鬱どころじゃないよ、ファン感謝企画っていって男どもが自分のをしごいて順番にあたしにかけていくの、50人よ、100人よ、200人よ、それを全部飲みほしたの、胃の中で何十億っていう精子が暴れて何度吐いたかわからない、あたしがそうやって必死な時に、どこまでデリケートなら気が済むのよ、一晩泊る勇気もないの? いい加減にして、さっきまでの時間を返して、ヒデのバカ、意気地なし、弱虫、いい加減自分の世界から出てきなさいよ、安全な殻に閉じこもって出てこないなんて、フェアじゃないよ、みんな戦ってるんだよ、あたしがこうして手を差し伸べているでしょ、あたしにしか分からないヒデの鬱に手を差し伸べているでしょ、わからないの」

「ならどうしてさっきはオレの愛を飲み干さなかったんだ、他の男のは飲み干せてオレのは飲めないのか、50人、100人のは飲み干せてたった一人のオレの愛は飲み干せないのか、カメラが回ってないとできないのか、それともプライベートはまぐろなのとでも言うのか」

「ち、ちがう…、ヒドい…、ヒデなら言わなくてもわかってくれると思った、あたしは透明人間なの、わかる? 無なの、無だったの、だから飲み干してしまったらなくなるでしょ、愛をこの目で見つめることができないでしょ、この無の身体に愛が消えていってしまうでしょ、幼い頃から目立たないようにひっそりと生きてきた、存在を隠すんじゃなくて、存在を消すように生きてきたの、でもカメラの前では楽になれた、頭がボーっとして楽に人格を失えた、自分を認識しなくて済んだ、ただそれだけだったの、透明だからみんなあたしを通り過ぎるの、だから痛みだけが生きてることを教えてくれた、身体は切りつければ血が出るでしょ、だからわかるの、でも心は血が出ないからわからないし、この手で掴むこともできない、ヒデのを飲んでお尻から出ていってしまうのが嫌だったの、ずっと浴びていたかったの、愛をこの目で見つめていつまでも浴びていたかったの、ヒデならわかってくれるでしょ、こんなに心から血が出てるんだから、もういい、やっぱりいい、いつも心を求めるとこうなっちゃうんだ、何もかもいや、もう帰って、あたしの前から消えて、もう顔も見たくない、もう何もかもなくなればいい、死んじゃえ、ヒデのバカ、バカバカバカ」

次の瞬間だった。泣き叫ぶサキコが一瞬で固まった。いや、動けなくしてしまった。オレはすべての力を込めて彼女の頬を殴っていた。女を殴るというこの世で最低の行為をしていた。鼓膜が破れたかもしれない。ひどい耳鳴りで耳が聞こえなくなったかもしれない。脳を直撃する爆破音のようなものが気を失わせたかもしれない。記憶が飛んだかもしれない。船が転覆するように脳が揺れたかもしれない。そんなつもりはなかった、で済まされるようなことではないことをした。でもオレという吉川秀樹というロボットの操縦席に誰か別の人間が乗り込んで勝手に押してはいけない《殴る》というボタンを押したようだった。小学生の時、押してはいけないと分かっていて赤い非常ボタンを押してしまった。カバーのプラスティックを突き破ってボタンが奥まで押し込まれると耳を劈くような爆音が校内中に響き渡った。その震えと似ているなって思った。こうやってサキコの父親も殴っていたのか。オレがダウン症の姉さんを殴った時も同じだった。殴る方もどうにも制御できないんだ。心に押し込んだ激情が逆流するんだ。不整脈のように正常な鼓動の影にもうひとつの乱れた鼓動が常に隠れていて、その悪魔の乱れが笑いながら外に出る瞬間を待っていたんだ。呪いのような爆発、でもそれが愛だなんて言ったらだめだ、わかっているのに、わかっているのに抑えられない。

「ごめん…」

涙の津波は瞳を飲み込んだ。

殴ったオレの目にも涙が溢れた。

ジェラシーが狂わせたわけではない。ジェラシーが暴力に向かわせたわけではない。汚れを知らぬ無垢な少女の面影への執着か、すべてを受け入れようとする彼女の崇高さへの絶望か、それとも自分自身の砕け散った欲望か。本当に愛し続けることができるのかというもう一人の自分が愛に溢れた殺人鬼になったんだ。殺人は未遂に終わったが、代わりに、お前は彼女を愛し続けられるのか、という命題の手錠をはめられた。

その手を切り落としてしまいたかった。

心は広く、過去もジェラスも愛せるナイフで。

愛する人の全てを愛するために。

オレたちはこれからも互いの仕事を恨み続けるのだろうか。

「近い将来必ず一番いいタイミングで彼と結婚しろ」

サキコは頬を押さえ下を向きながらうなずいた。太股には涙がこぼれた。

「この痛みをヒデの愛と思って忘れないね」

「ああ…」

「でもあたし、寂しすぎると何するか分からないから」

「サキコ…そんなこと言わないでくれ」

「冗談よ、愛する人の愛する人まで愛するのよね、あたしたち」

「きっとそうだ」

涙で落ちたマスカラを親指で拭ってやり、赤くなった頬をいたわる様に抱きしめると不意を突くかのようにサキコが言った。

「裸になってわかることってたくさんあるでしょ」

さっきまでの極限の空気が弾け、喉の奥から何かが込み上げてきた。サキコの仕事を理解してやれる心の広さはないかもしれない。しかし、怒りや悲しみや切なさや虚しさを通り越した何かがある。何も身に纏おうとしなかったサキコ、サキコは神、人格を透明にして、祈りを捧げられ、受け止め、それを表現し、伝える。それはサキコの生きる強さだった。二人は抱き合い拭う涙の中、笑った。どうしようもできない透明な心の痛みを、愛という強さの色へ変えたかった。

身体の奥底から吐き出した感傷は、再生への一歩だった。

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