第13話 今からストーリーを書き直せば、サキコを失わずに済むのか
「癖のある人だが新人ととことん向き合い育て上げるのに長けた人だ、会ってもらえただけでも良かったじゃないか、素直に勉強させてもらいなさい」
この時のオレの行動としてどちらが正しかったのだろう。大人しくすべてを聞き入れればよかったのか、それとも若さ故の刺々しいエネルギーをぶつければよかったのだろうか。何も言えなくなったオレ。場の空気を読んだS氏は他に趣味や特技はないのかと話題を変えた。オレは音楽活動の経験もあることを伝え、処女作と同名のオリジナル曲があることを伝えた。そして小説とCDをセットにして売り出すことはできないのかと聞いた。それはオレができた唯一の売り込みだった。編集長Y氏は、たわけ、というような目でオレを見てそんな甘い気持ちでは私はやらないとはっきり言った。S氏も君が既に売れているアーティストだったら話は別だと半笑いだった。
そして話は作家やアーティストの意向とプロデュースする側の観点や『商品』というものはまた別のものだという話になった。作品はインパクトが大事で広告代理店的見方も必要だと言われた。オレは以前会った音楽プロデューサーからも「商品というものは何とやら・・・」というのを散々言われ、過敏になっていた。そのプロデューサーが自分以上に死ぬほど音楽にのめり込んできた人物なら説得力がある。売れないロックバンドを組んで、一生懸命チケットを手売りした経験のあるやつなら素直に聞けた。しかしエリートだからと言って大手IT会社から転職して来ていきなりプロデューサーという肩書を得て、何を偉そうにしているのだろうかと思った。オレは自分が憎むプロデューサーと編集長Y氏を混同してしまっていた。酔いが回ってきたY氏が「俺もギターを弾けるぞ。クラプトンが好きなんだ。ストラトでティアーズインヘブンを弾いてやると二人の息子が喜ぶんだ。でも結局ミュージシャンなんて売れてからじゃないと好きなことなんて何も出来ないからな」と言い出した。S氏はパーティーでエアロスミスのスティーブンタイラーと握手して乾杯してもらったなどと、どんどん話題がそれていくのがわかった。それはオレの緊張をほぐして距離を近付けるためだったのかもしれない。若くて器量の浅いオレにそれが配慮だとしてもわかるはずがなかった。オレは完全に圧迫され、塩をかけられたナメクジのように萎縮した。その悔しさは、彼らに、自分が死に物狂いでやってきた音楽やこの処女作を書いた気持がわかってたまるか、という怒りへと変貌していった。その怒りは自分の未熟さだ。大人を目の前に何一つ言い返せない自分自身の弱さ、醜さを認めざるをえないという歯痒さが行き着いた怒り。それらはマグマとなり、激しい動機の中、彼らに猛反発を噴射させた。
「そんな次元の話をしているんじゃないんだ、オレは魂を削る想いでこの小説を書き、曲を作ったんだ、なぜこの気持ちが分かってくれないんですか、オレは魂の救済を求め、人の心の痛みを浄化させたいんだ、破滅の先にある浄化を伝えたいんだ、そのために人の心に正面衝突しているんだ」
二人の目つきが変わった。
「ならはっきり言うぞ、その傷はオナニーの傷だろ、擦り過ぎただけだろ、その姿を人に晒したいかのか? 自慰行為を人に見せたいのか? それとも綺麗な人のオナニーなら見たいとでも言うか? そんなもので人が感動するとでも思ってるのか? 人の心の痛みだと、それは自分自身の勝手な痛みだろ、気安く人の気持ちがわかるようなことを言うな、ならお前に中央線に飛び込むサラリーマンの気持ちがわかるのか、愛する家族の将来を思い自分に保険金をかけて自殺する父親の気持ちがわかるのか、その痛みや苦しみを救えるのか」
Yの言葉に完全に打ちのめされていた。23歳という若いオレはたった23年間の悩みしかない。そんなものは子供の悩みに等しい。そしていつも自分だけの世界で完結してしまうような悩みなど、つまりはクソだ。40代の所帯持ちの苦しみや仕事のストレスや家庭の事情、苦しむサラリーマンの気持ち、そして妻の浮気相手がオレと知らずにこういう場を設けてくれたSの気持ちなど到底理解できるものではない。歌にする資格もない。Yの言葉はオレの心を爆破した。逃げたかった。どこまでも逃げてまた自慰行為に耽りたかった。
最後のマグマが出た瞬間、オレは記憶を失っていたと思う。
「うるせぇ、商品とはなんとやらとか、売れるためにはこうしろとか、売れてから好きなことをやれとか、オレはそう言うのが一番嫌いなんだ、そんな教科書通りのプロデュースをやめない限り感性の扉を破ることはできないだろ、その感性の扉を突き破らない限り、あんたらも単なる印刷屋じゃないか? 活字が印刷されただけのしょせん古本屋に流れるだけの印刷機じゃないか」
そう言い終わらぬうちに、スーツが炭酸でシュワシュワ言うのに気が付いた。 オレは顔面にビールをかけられていた。
S氏は止めに入ったが遅かった。
スーツとワイシャツをビール臭くさせたまま、みじめな思いでアパートに帰った。
夜食を作って待っていてくれた妻の顔を見ると涙が溢れた。
出迎えた妻は何も聞かずにビール臭いオレを抱きしめてくれた。
「あたし、もう脱がなくていいよね・・・」
サキコは込み上げるものを素直に吐き出した。
「ああ、裸になってわかったことがあるのなら、服を着てわかることもあるんじゃないのか」
「自伝を書いたってやっぱり虚構だもん、その強がりの裏にある気持ちをこれからは伝えていきたいな」
オレは声にせずに頷いた。
「根拠のない自信ってなんだったんだろう」
「極度の不安だったんだよ」
「あたしわかった、ぬくもりなの、あたしが欲しかったものって、ぬくもりが欲しくて脱いだと思うの、衣服が邪魔だったの、ただギュって抱いていてほしかったの、AV女優にそんなもの求めるなって言う? でも男の人ってそれだけじゃだめでしょ、股を開かないと愛してくれないでしょ? ただそばにいてくれる人なんていないでしょ、無償の愛を与えてくれる人なんていないでしょ、でも今なら人を好きになれるかもしれない、なんだろうこの気持ち? こんなに愛おしく思えることって今までなかった、この気持ちに気付くためにあたしは脱いだの? 女って男を選んでより好みするものでしょ、でもヒデは違う、駆け引きなしで好きになれると思う、彼女の一人や二人くらいはいるだろうけど、あたし、大丈夫だから、その人のことまで愛せるよきっと、だから今晩だけは帰らないで、泊っていって、ヒデの愛する人まで愛するから、ね? だめ? 今夜だけはあたしを選んでほしい、お願い」
二人は自分たちを止められなかった。どうしてもっと早く再会できなかったのだろうと運命を憎んだ。互いの止められない気持ちが互いの心に跳ね返り、深いジェラスに変わろうとしていた。それは決して互いのパートナーを憎むようなジェラスではない。できる限り互いの触れられない領域は守り、必要な時に、必要な部分に、必要な量の愛を注ぎ合えたら…、そしてまた互いの生活に戻っていく、そんな愛と優しさと弱さだった。それは嫉妬なのか、互いの心の傷に生息する絆という嫉妬だ。それが傷を舐め合うという行為の正体なのかもしれない。
言葉を失ってしまいそうだ。オレたちは整理し切れない心で、込み上げるもので、互いの傷を舐め合うしかない。
そしてその傷に触れるのを最後にしようと思った。
「ごめん、帰らなきゃいけないんだ」
胸にしがみつき離れようとしない彼女を少しだけ押しのけた。
サキコはオレの一言で悟った。オレにも帰る場所があるのだということを。
決して結ばれぬ、張り裂けそうな想いを抑えられるならば、はじめから幼馴染みなどという運命はいらなかった。
「ヒデのバカ!」
終電の時間は刻一刻と迫っている。
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