第12話 逆さに眺めた真実
そう書いた瞬間に飛び下りるかインターネットで取り寄せてある薬を10倍飲むだろう。幼い頃オレのよれ曲がった精神を支えてくれたのがサキコだった。共有できたと言ってもいいだろう。風邪でも初潮でもないサキコの気だるさがオレにはわかっていたし、月9にでもありそうな15年の時を越えての再会はどんな錠剤よりも心をアッパーにしたんだ。コーヒーのカフェインでもアップになってしまっていたオレが病気になる前の状態、軽い運動をしたり、バイトしたり、アルコールを飲める状態、ましてや失っていた性欲が回復したんだ。いやもしかしたら鬱病が躁鬱病に変わっただけかもしれない。躁状態が強くなっただけかもしれない。でも心が上がっていく気分がまるで健康優良児にでもなったかのようなんだ。妻がオレの世話役になる前の恋人同士の感覚を思い出したのだろうか。サキコが出逢った頃の妻に見えたのだろうか。妻が幼い頃のサキコに思えたのだろうか、いや違う。いやそうだ、どっちなんだ。妻はオレの鬱状態を救ってくれて支えてくれて安らぎを与えてくれて、サキコは躁状態へと導き響き輝き、生きる行為を楽しませてくれる。二人がいてくれるとその両方が満たされるんだ。よくわからないけど、二人は一人のような気がするんだ。うらやましいだろ、二人がいればすべてが満たされるような気がするんだ。何バカなことを言ってるんだオレは、でも違うんだサキコ、君と妻を比べたりしてるわけじゃないんだ。わかるか。
「もう治る見込みはないって言われたんだ」
ベッドの中でオレはサキコに向かって告白したのか、妻に向かって甘えたのか、心の中のもう一人の自分に向かって叫んでいたのかわからなかった。
「先生が、『病気とはうまく付き合っていきましょう』、だって」
サキコの長いまつ毛が胸に刺さる感覚があった。サキコの涙はオレの左胸を滑り落ち、脇腹を伝ってシーツを濡らした。
激しいセックスは時の流れを加速させ、後戯の肌の触れ合いは時の流れを減速させる。オレはその余韻を肌で感じる後戯が好きなのに気付いた。それはオレ自身の中に眠る女性的な部分なのかもしれなし、抱いて捨て去った女たちがオレの身体に眠っているのかもしれない。サキコのぬくもりを感じ、妻と、そして母のぬくもりさえ想い返していた。
「これが安らぎかい」
「きっとそうよ」
「このままずっとこうしていたいね・・・」
同期した二つの心臓は離れようとしなかった。
「ねむっちゃいそうだよ」
「帰れなくなったら大変だもんね」
オレは上半身を少しだけ起こし、うつ伏せで抱き付くサキコの細い肩を抱き、くびれた背中を左手の人差し指でなぞった。わずかに手が届かない色白の尻になぞる黒のTバックをいつまでも眺めていた。シックスナインでずらして歪んだTバックではない。透き通る白い尻に浮かぶ真っ直ぐな安らぎのラインだ。
ここからだとTの字が逆さまに見える。
死ぬ瞬間を思いとどまらせるのはこの感覚だけだと知った。この感覚を体内に覚えていられる者だけが死なない。そしてその快楽だけが生を実感させる。病気のせいでどうしようもなく死にたいと思ったら、自分に言い聞かせよう。「お前はもう一度彼女を抱きたいだろ」と。
誰かが言っていた。射精する瞬間は誰も戦争しようとは思わないって。
将来どんなに病気で苦しもうとも、家族という存在はオレに生きる希望を与えるだろう。しかし錯乱するオレに自殺しない希望、自殺を食い止める勇気を与えてくれるのはモルヒネじゃない。
理解ある《こいびと》、彼女をこの手に抱く感覚だけだ。
そして彼女からもらう繋がれた愛は生命維持装置そのものだ。
二人は少しの間目を瞑った。夢を見たかもしれないし見なかったかもしれない。
家に帰らなければいけないオレを気遣って彼女はオレを起こそうと耳元で話しかけた。
「ねえねえ、ヒデが書いてる小説ってどんなお話? それって処女作? 自伝なの?」
オレは会話という行為を取り戻した。
「処女作は22の時に書き上げていて、異色恋愛小説だって出版社の人から言われたんだ、これでも大御所の作家や編集長の手にも渡ったんだよ」
「へぇ、すごいじゃん、世には出なかったの?」
「色々あってね、7年も眠ったままさ、冬眠状態だよ」
「あたしが電子レンジになって解凍してあげようか」
子猫のような上目使いは本当にその熱を持っていそうだ。
彼女は大人になった今も本屋に立ち寄って可愛いと目についた絵本を買ったりする少女な心を持っている。オレの胸に包まれ、まるでひまわり畑を裸のまま駆け回る幼い少女のような彼女がいた。
耳たぶを甘噛みする。
「タイトルはなんて言うの?」
「『虹色の街灯』、あんまりピンとこないって言われたよ」
「ヒデらしいね、街灯の薄暗い光が虹色に見えたの? ロマンチックなんじゃない」
「その感覚はわかるやつだけにしかわからないんだ、そして見たことのあるやつだけにしかわからない魂の浄化なんだ」
「なんだか難しそうね、それってノンフィクション?」
「いや、作り話だよ、フィクションだよ、まあ人生なんてすべてがフィクションみたいなもんだけどな」
「じゃあこうして抱き合ってるあたしたちもフィクションなのかな・・・」
オレは処女作の原稿を無くしていた。こんなものが病気を悪化させるのだと思ったからだ。処女作はとうに封印し、新たな物語を書き始めていた。
「こうして君を抱いたことを物語にしてもいいかい」
少しの冗談と少しの本気を混ぜ合いながら言った。
「嬉しいよ、でもあんまり激しく書かないでね」
二人は笑いながら手を繋ぎ、ひまわり畑を追いかけっこする子供のように解き放たれた。
じゃれ合いながら少しの間天井を見つめていると、書き続けていたストーリーの続きが舞い降りて来る気がした。それは幼い頃一緒に昼寝して、サキコが耳元で話してくれたおとぎ話、たった二人だけの物語だったのかもしれない。
「初恋・・・」
「ん?」
「いい課題だったなって思って」
「課題?」
「あたし中学の時、美術部だったの覚えてる?」
「覚えてるよ」
「あたしが最後に描いた絵」
「最後か・・・」
「うん、ヒデの横顔のデッサン、提出しなかったけどね」
サキコは中学のあの時以来絵を描いていない。あの時の絵が二人を再会へと導いたのかもしれない。
最後の素描に今なら色を付けられるような気がした。
妻がオレを愛するきっかけになったのもオレの処女作だったのだろうか。それは原稿用紙200枚の実話のような捻くれたフィクションだった。出会った頃妻はオレの小説を読み、涙を流してくれた。まだオレが一人暮らしをしていた足立区のアパートに深夜わざわざ旦那の車を飛ばし、その思いを伝えに来てくれた。オレはこんなくそみたいな小説をどうして書かなければいけなかったのだろうと自問自答していた。そしてこんなものが世に出るわけがないと思っていた。でも妻の涙は書いたことが間違いではないと思わせてくれた。妻はなんとか出版に漕ぎつけられるようにありとあらゆるコネクションを探してくれた。昔の恋人だったのか、単なる飲み友達だったのか、その時は気付かなかったが、ある出版社の営業にアポを取ってくれた。小説を書いている友達がいるから読んであげて欲しいと。
それが自分の夫であるS氏だったんだ。
オレは22歳から23歳になる直前の一ヶ月間で書き上げていた『虹色の街灯』という処女作をS氏の会社に送った。もはや卒業も危ぶまれた大学4年生、不安定な精神状態の中、何かをただぶちまけただけの小説だった。今となっては小説とは言えないものかもしれない。しかしそこに描く虹の七色になぞらえた魂の浄化は独特だと言われた。見たことのあるやつにしかわからない蒼くギザギザした作品だった。「見た」というのは、幻覚と幻聴のような安っぽいものではない。その向こう側にあるものだ。感受性の扉を破ることができない三流出版社の編集長はそのタイトルにピンとこないと言ったが、大手出版社のS氏は、その先、オレと妻がそういう関係になって行くとも知らずに、『異色恋愛小説』と評価してくれて、ぜひ会おうと言ってくれた。
大手出版社ともなると、売り込まれる原稿の数もハンパないと思う。郵送してから一ヵ月は待とうと思っていたが、意外にも早く連絡が来て、一週間後に会えることになった。
「いよいよ今日だね、頑張っておいでね」
OLの朝は早い。当時オレと妻はいわゆる不倫関係だったが、平日の忙しい中、それでもまめにオレのアパートに泊まりに来ていた。
妻は寝ぼけ眼の額にキスをして出勤して行った。
「うまくいってもいかなくても私は信じてるから」
「うまくいってもいかなくても君には感謝するよ」
あくびをしながらオレは言った。
23歳のオレは卒業式で着たスーツを着て家を出た。1年間洗っていないジーパンにつっかけじゃなめられると思ったからだ。その出版社から近い神保町の交差点が待ち合わせ場所だった。S氏と二人で会うのだと思っていたら、そこに現れたのは、名刺を渡されて顎が外れるくらい驚く人物だった。その5年後に大麻所持で捕まった売れっ子作家の《N・T》を発掘しプロデュースしている編集長、Y氏だった。彼は当時40半ばだったと思う。
オレは生れて初めて会食というものを経験した。
編集長Y氏からの第一声はこうだった。
「君はこれを世に出すつもりか」
何を意味しているのかまったくわからなかった。勢いしか取りえのない若いオレは、「もちろんです」、そう強がった。
「可能性はまた不可能性でもある」
意味が分からなかった。
「商品にするにはあと二段階足りない」
その二段階をクリアすれば世に出せるのか、到底クリアできない二段階があり諦めろと言われているのかが分からなかった。不可能なら不可能、ダメならダメと言って欲しかった。緊張は強まりお通しはおろか乾杯後のビールにさえ手を出すことができなかった。
「君はどのくらい本気で小説家を目指しているんだ」
その時のオレに将来のビジョンなど全くなかった。処女作は偶然脳内に起きた爆発をただひたすらその炎が消えるまで書き綴っただけのものだったし、その先がどうなるかなどと考えたこともなかった。ただ追い立てられる内に秘めたエネルギーの化け物から救われたかったのだろう。当然その処女作をどう売り込めばいいのかも分からなかった。しかも小説家になりたいと漠然と思っていたのは他に仕事がしたくないし、就職活動が面倒だったし、サラリーマンになることは負けを認めることだと思っていたからだ。
料理が揃わないうちから尋問のような圧迫面接が始まった。オレはこの場から作品と共に消え去りたいと思った。Y氏とS氏が事情聴取をする刑事のようだった。誰かこの青くさい青年に興味を持ち、育ててやりたいと思う編集長はいないかと、S氏は編集長Y氏に声をかけてくれたのだった。S氏は妻からの頼みを拒めず、多忙なY氏を呼んだ責任も感じたのだろう、読後の感想を交えつつフォローを入れてくれた。
「可能性は絶対にあると思う、まずはホームページなどで人に作品を読んでもらい、感想を集めて勉強していこう」
それはあまりに的確で、オレは「はい」としか言えなかった。どんな作家が好きかという話もろくにできず、それ以前の問題としてオレは《N・T》の本を読んだことがなかった。編集長Y氏が何を教え諭そうとしているのか考えもしなかった。Y氏がトイレに行っている間、S氏は言った。
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