第10話 スイーツな約束

田舎で童貞を捨てられなかったオレは同じ立場の友人数名と共に秋田童貞とバカにされていた。大学に合格した友人は早々と彼女を作り順調に事を進めていったが、予備校の男子寮に入ってしまったオレは、悶々とした日々を過ごしていた。勉強ばかりの孤独な毎日だったし、予備校にはムカつく講師がたくさんいて、「十九歳の地図」のように爆破予告でもしてやろうかと何度も思った。寮の屋上で獅子座流星群を見ながら「早稲田、慶応、上智、青学、合格」と願うのではなく「とにかく童貞喪失! 神様頼む、ちょっとでいいから」と叫んでいたのだ。ちょっとの意味がわからなかったが、二十歳までに童貞を捨てられなかったら、みんなでもう一度集まり、ここから飛び降りようと約束した。

オレが約束の場に現れることはなかった。

大学に行った友人にナンパに行こうと誘われ、模試をさぼって付いて行った。19歳と半年で、ようやくオレも〈その時〉を迎えたのだ。もちろんホテルに行く金はない。その娘を酔わせ、女子禁制の男子寮に連れ込んだのだ。門限以降は鍵を閉められるし、正面玄関入ってすぐ横で寮長が目を光らせている。しかし19歳の童貞の力をなめてもらっては困る。その娘を担ぎあげ、塀を乗り越え、非常階段から4階の自分の部屋へと連れ込んだのだ。異変に気付いた同じ階の連中がみんなを呼び集め、401~407号室まで横一列につながっているベランダや、両隣りの部屋から激しい応援歌が聞こえた。「いけ〜いけ〜」。

 今でもはっきりと覚えている。その娘が自分の上で繰り広げる技術に驚愕したことを。その娘はサキコのように華々しいデビューは飾れなかったが、レンタル屋の棚に並んでいる立派なAV女優だったのだ。切れ長な一重瞼はどことなく冷めた感じがして、Sっ気もあった。それが同じ19歳が持つ色気とは到底思えなかった。幼い頃父親に受けた虐待の傷跡が背中にあって、オレは映画で見るようにそこを優しく舐めてやった。オレが受験で忙しくなるとしつこく電話してきて、手首を切って気を引こうともした。今年大学に受からなければこの1年が無駄になるんだ、頼む、もう少し待ってくれ、と言っても一向に電話を切ってくれない。オレは正直エッチのパートナーを失いたくない気持ちだけで付き合っていたし、その娘のプライバシーに踏み込み、相談に乗っている時間もなかった。すると彼女は「うちはキリシタン一家なの、祈りの言葉聞いてみたい?」と言われた。オレは、今はいい、と言うと、突然彼女の独白が始まった。「あたし初体験がレイプだったんだ、どうされたか知りたい? それ聞いて興奮する? それとも同情してくれる? こんなあたしのこと汚いと思う?」、オレはさっきまで覚えていた英単語をすべて忘れた。

「襲われたときね、神様に必死に祈ったの、助けてくださいって、でも届かなかったみたい、堕ろしたときもずっと祈りを捧げてたんだ、でもキリシタンでよかったと思ってるの、だって自殺しちゃだめって言うからさ、だからこうやって生きてるし、だからあたしら出逢えたんじゃん」

サキコの自伝にはそれが何であれ、《受け止めるという行為は偉大だ》と書かれていた。ひょっとしてサキコも幼い頃父親に…と一瞬でも頭をよぎった自分を心底軽蔑した。

 つらい過去の先になぜAVの世界の扉が開いたのだろう。大学に入り逆ナンされて付き合った女も同じ過去を持つ風俗嬢だった。オレは傷を持つ女の優しさを愛してしまう。たまらなく癒してあげたいと思う。

射精は祈りを捧げる行為、女は受け止める神か…、オレの中のサキコがまた少し遠のいた気がした。


「ねぇ、実は今朝、お弁当作ってたの、晴れてたらお昼からどっかの公園とかで会えたらいいなと思って。公園でお弁当なんてよくない? でも結局連載の締め切りに追われちゃって、急いでおかず作ろうとしたら包丁で小指切っちゃったんだ」目立たぬように左手の小指にばんそうこうをしていたのを、その時初めて気付いた。

「今日は飲み過ぎないようにするね、お酒まわっちゃうと肘のあたりまでジンジンしちゃうから」

「おい、なんでもっと早く言ってくれなかったんだよ」

「心配させたくなくて・・・、ごめんね、でも大丈夫、彼にさんざん痛いって文句ぶつけたら、あっ、もちろんお弁当作ってる時に切っちゃったっていうドジは秘密にしてあるんだけど、病院に連れてってくれて、神経のギリギリ手前だったって、バカねあたし、ヒデにお弁当作ろうとして切っちゃったのに彼に病院連れてってもらうなんて、でも信じて、あたし彼にご飯作ったこと一度もないの、今度うちに来たら必ずご馳走作ってあげるからね」

サキコの腰に手をまわし指先を眺めているとサキコの携帯が光った。

「遠慮しないで見なよ」

オレは席を外した。ちょうど彼からのメールだったようだ。堕落したオレと違って大相撲という厳しい世界にいるであろう彼が心配している。

「彼からだろ、電話してやんなくて大丈夫か?」

トイレから戻ったオレが聞くと、サキコが言った。

「うん、『指は切っても俺との運命の赤い糸は切らないように』って」

「そうか…」

「その赤い糸が二本あったら、片方は切るべきよね」

オレは少しのジェラシーと少しの後ろめたさと幼馴染というアドバンテージにすがろうとしていた自分に気づいた。切ない赤い糸ならサキコから切ってくれ。オレがサキコと彼の糸を切る資格はない。彼を嫌う理由も憎む権利もない。

オレは祈りなど捧げたことがない。偶然の再会という運命を神から一方的に与えられただけだ。「幼馴染として好き、友達として好き」、そんな便利な言葉があるじゃないか。それでいいんだ、それ以上でもそれ以下でもない、そう自分に言い聞かせていた。

 帰り道は互いに口数が少なかった。人通りの少ない裏道を有楽町方面に向かって歩いた。サキコはタクシーを拾うため、オレは電車に乗るためだ。

オレはその赤い糸を切られてもおかしくないことを口走っていた。プロフェッショナルに対しては失礼だが、幼馴染だからこそ言ったのだ。

「どうしてAVじゃなきゃいけなかったんだ、お前にとってAVって何なんだ」

すれ違った通行人が一瞬こちらを見る。

「それはヒデが小説を書きたいと思うキモチと一緒よ」

 サキコは今までの彼に幾度となくこんな言葉を浴びせられる場面があったのだろう、微笑みさえ浮かべていた。同時にその陰にある孤独に気付き愛してあげられた男は少なかったのだろうと思った。

そういう真っ直ぐで不器用なところ、彼に似ている、とサキコは言った。

サキコの優しさはオレの妻に似ている、と言葉にはしなかった。

「空車」を点灯させたタクシーが目の前に止まった。それはまるで「これ以上はやめときな、お前には踏み込めない世界だ」と言われているようだった。

「AVは文学の扉を突き破れると思うぜ!」

  小学生の頃、互いの気持ちに気付く歯痒さのあまり、「オレたち両想いだよな!」と叫んだのと同じ言い方だった。それはオレからサキコへのエールでもあった。

「そういうの好きだね」

 オレたちは、何故か握手をした。二人は確かに進行しようとする現実というストーリーへの抵抗を感じ、恋人未満の軽いハグをして別れた。オレはサキコがタクシーに乗るとすぐに駅に向かった。

盲目の唇はこんなにも近くの唇にたどり着けないものなのか。

残像のサキコを縁取るのが精一杯だった。


 原稿の締め切りまであと5日。なんとか冒頭の部分を書き、中間にドラマを挿入し、その後をどう盛り上げていくかで再び路頭に迷った。曲で言うと大サビがないのに気付いた。

 オレはすべてに決着をつけたかった。フェードアウトはしたくない、しっかりとしたエンディングが欲しい。そこにメロディの迷路が待ちうけようと、フレーズのカオスが立ちふさがろうと、もう一度会って最後にする。なんて都合のいい決心なのだろう、でもこのまま引き下がるようなら始めからこんな再会など必要なかった。

サキコには、二人の再会をストーリーにしている真意は言わなかった。代わりにどうしても会いたい、時間がないんだと日にちを指定して、まるでマネージャーのように細かなスケジュールを確認した。それはサキコを試すような行為に近かったかもしれない。サキコも最後の出演作の打ち合わせで忙しく、さらに彼も自由時間が限られているのではないだろうか。そんな彼との約束をキャンセルし、サキコは食事をOKしてくれた。わずかな優越感と申し訳なさはサキコに会えるうれしさで消えていた。

それが最後のデートだった。


 オレとサキコの誕生日は丁度2カ月違い。オレの方が先に30代に突入する。笑われるかもしれないがオレはそんな現実から目を反らすために自分の誕生日を忘れようとしていた。誕生日当日は妻と過ごす、それだけは決まっていた。サキコに強引にスケジュールをずらしてもらい日程が決まった。締め切りまであと3日という、週明けの月曜日だった。サキコは自分の誕生日からちょうど二カ月遡ればオレの誕生日になることを覚えてくれていた。バースデイデートとして誕生日の「前日」、ディナーではなく「ランチ」で会うことになった。

サキコは以前出演したOLものを、新宿のとある高層ビルの一室で撮影した。

男優に後ろから突かれている間、窓の外、ずっと遠くを眺めていた。

その先にあったのが、パークハイアットホテル、ニューヨークグリルだった。


 再び失業者に戻っていたオレはその日、妻に対する言い訳として新しい仕事の面接だと言ってスーツを着て家を出た。その選択は正しかった。いつものジーパンにTシャツでは入れないような素敵な場所だったからだ。

 新宿駅京王デパート前で午前11時半に待ち合わせた。長い髪を巻いて、黒のタイトスカートに白いキャミソールとシャネルの新作のバック。新宿の小汚い駅前を銀座のブティックに変えてしまうようなオーラを放ち、ハイヒールによって180cmになったサキコを見付けた。

「タクシーに乗ろう」

オレはただならぬ嬉しい予感が働いた。

「パークハイアットホテルまで」

サキコが運転手に行き先を告げると、明日が誕生日であることを思い出した。タクシーがエントランスに止まるとドアマンが丁寧に出迎え、ニューヨークグリルへ向かうためのエレベーターに案内された。

「こんな素敵な場所、信じられない気持ちでいっぱいだよ」

うれしさのあまり、まるで誘われた女性のようなリアクションをしていた。彼女の手を握り、エレベーターが高速で昇る静かな音と薄くなる気圧の中、サキコを抱きしめた。少しずつ目をつむる瞼の動きが美しいスローモーションを描く。

モナリザが目を閉じる時、エレベーターは二人のステージに変わる。

音楽さえあれば、踊ったことのない社交ダンスでさえ情熱的に演じられる自信に満ちた。男性が激しくエスコートする手の動きのように唇と舌はサキコを包んだ。彼女は腰を強く押し付けバランスを取り背中を反らせるように胸元をはだけた。二枚の舌は何度もターンを決め粘膜のフロアを駆け回った。激しさが増すと前菜を食べた直後のメインへの飢えが始まった。

52階へ着くベルの音はダンスの終了の合図でありながらこれから始まる至福の鐘だった。誰にも採点などさせないという優越感と欲情でエスコートのボーイを待たせた。エレベーターを降りて目の下に広がる新宿の街並みを見下ろした。「あたしがロケしたのがあのビルだよ」とサキコが指さして、「小さいね」と二人で笑った。そして「今日は何もかも全部見下ろしてやろうね」と言い、もう一度キスをした。

オレは少しばかりブランドショップに出入りしたからと言って金銭感覚が麻痺するようなことはない。サキコもまた田舎で培われた金銭感覚を捨ててはいない。二人はメニューリストの値段に新鮮な驚きを感じながら、ワインの説明を格好をつけず素直に聞いた。オレはこのカラリと晴れた今日の空のようなクラインシンファンデルカルフォルニア2007年の赤ワインを頼み、サキコは甘口でフルーティーでエレベーターでのまろやかなキスの続きのような白ワイン、シャルドネシルヴァンリヴァーバレー同じく2007年を頼んだ。

「ランチってなんだか健康的でいいな」

乾杯のグラスの音の響きに合わせながらオレが言うと、

「ヒデ、誕生日おめでとう」

オレの胸はカルフォルニアの青空のように明るくなった。


 この場所に似つかわしい会話を探していた。きっとサキコは彼や関係者と何度も来た事があるのだろうと思ったが、そんなことを忘れるほどの赤ワインだった。「以前家族が上京してきた時、来たことがあって、この眺めが忘れられなくて、ホントに素敵よね」そう言ってくれる優しさをサキコから一口もらった白ワインから感じた。

前菜はバイキング。二人で席を立った。こういう場所に慣れていないオレは転ばないようにと余計にぎこちない歩き方でエスコートしていた。つい欲張りすぎたセンスのない盛り付けに自分を殴りたかったが、サキコが笑いながら手解きやテーブルマナーを教えてくれた。

 前菜に満足してしまってメインが食べられるだろうかという心配は無用だった。オレは若鶏のグリルラベンダーの香り、マッシュドポテトとローマトマトのロースト、サキコはハーブで育てた豚ロースのグリル。まずは香りを堪能し、一口味見をすると、互いの口に運び合った。赤ワインとグリルは舌の上でウエディングし、デートの定番がなぜ食事とセックスなのかがわかったような気がした。

「デザートはこちらの席をご用意しております」

ボーイのエスコートでさらに窓際のVIP席に移動した。

サキコとオレはモデルとそのマネージャーにでも見えたかもしれない。様々な業界の明らかな富裕層たちが集う中、南向きの一番見晴らしの良い窓際、VIP席に光るものを見付けた。

 そこにはろうそくが3本立てられたバースデーケーキが用意されていたのだ。真ん中には可愛らしい花火になっていて、真昼の太陽に重なる。オレは感激を抑えきれず、熱いものが込み上げていた。ケーキに立てられた板チョコレート、『Happy Birthday ヒデ』をいつまでも眺めていたかった。

互いの口に運び合いながら夢中でケーキを食べ終える一瞬、ヘリコプターが近くの空を横切った。オレはその瞬間、妻の誕生日にこんなところに連れてこれたことはなかったなという感傷が胸をついた。そして2カ月後のサキコの誕生日にこれ以上のお返しができるだろうか、と思った。しかしケーキに続くスイーツのバイキングと共にその感傷は後で整理しようと決めた。

 最高の食事と最高の眺めを堪能し、2時間半も楽しんでいただろうか。二人は手を繋ぎ満たされた笑顔で帰りのエレベーターへ向かった。そしてもう一つの大切なデザートが残っているかのようにスイーツで甘くなった舌を重ね合わせた。

「よかったらうちに来る?」

その言葉は最高のバースデイプレゼントだった。

オレはゆっくりと深く、そして笑顔で頷いた。


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