第11話 快楽を恐れないでくれ

 三軒茶屋へ向かうタクシーの中、固く握りしめた手にかく汗に二つの心配事があった。一つは今朝家を出る時、「今日は仕事の面接なんだ、そんなに遅くはならない」と言ってきたこと、もう一つはサキコの彼が合鍵を持っているということだった。サキコは「今日は何時まで大丈夫?」と聞く代わりに、ランチで腹が満たされているにもかかわらず、「夕飯はあたしに任せてね」、タクシーを降りながらそう言ってくれた。その言葉が帰らなければいけないオレに優しく突き刺さった。

 そこは救急病院の真裏のマンション。決して陽当たりが良いとは言えないが、AV女優の一人暮らしをレポートするような緊張感もあり、サキコの香りで溢れた2LDKのマンションは一人暮らしという当たり前のことを確認させたのだった。

サキコと再会した時、決して開けてはいけない扉のノブに手を掛けた感覚…ではなく、《決して開けることができない宝箱》を手渡された気がした。まるでそいつを壊すも壊さないもお前次第だと言われているかのように。開けられるのに開けられない。壊そうと思えば壊せる。3人目の自分にジャッジを任せるしかなかった。ただ一つそれを上回る存在がある。

 そのカギの持ち主がサキコだったということ。そしてこの部屋が宝の箱だったということ。

ドアを開けると手前から玄関、キッチン、リビング、寝室と続き、一番奥の寝室の窓際にはピンク色のシーツで包まれたベッドが見えた。その週の中で最高の天気の良さだったため、気温は高く二人は汗ばんでいた。リビングにバッグを置きジャケットを脱いだ。「なにか冷たいものでも飲もうね」と言ってサキコはキッチンへ向かった。その背中を追いかけるように汗ばんだ背中を抱きしめた。

 宝箱の中に隠されていたものの正体は、柔らかく汗ばむピンクのルビーだった。

「待ってヒデ、シャワー浴びて来るから」というサキコを無視してキャミソールに手を入れた。胸を掴み上げると右手の人差し指がルビーに触れた。裂けるような音を立てながらタイトスカートのジッパーを左手で下ろした。首だけを後ろ向きにするサキコに呼吸が苦しくなるほど舌を差し入れ、尻を掴み上げると柔らかく小さな尻はTバックなのに気付いた。頬張るように首筋を舐め回し胸元にしゃぶりつきながらキャミソールとブラジャーをたくし上げるとピンク色の、世界に一つだけのルビーにようやく辿り着いた。固くなったルビーを強く噛むと身体はピクリと震えた。キッチンからリビング、リビングから寝室まで花道を踊り転げるかのようにベッドに倒れこんだ。ルビーよりも淡いピンク色のシーツは二人を待ち受けていた誘惑の海洋だった。二人は断崖の絶壁からダイブしてどこまでも堕ちていった。スイーツの味が遠い過去の記憶のように残る舌は耳や鼻から入り込む深海と重なり、官能の圧力となった。何も聞こえない。もう何も聞こえない。激しく静かだ。静かで激しい。今までに聞いたことがないような爆音に勝る静けさだ。脈打つ鼓動だけが聞こえる。心臓はこの胸の中にはない。まるごと下腹部への移民と化す。無重力空間にいるように服は剥がれていく。エクスタシーの入り口は誰にも鳴らせない美しい深海の和音。その旋律は聞き取るものでも感じ取るものでもない。皮膚から体内に入り込む鳥肌の倍音だ。聞こえるよ、今なら聞こえる。いや入り込んで来たよ。これが倍音だ。これがハーモニクスだ。いくらギターを弾いても、いくらピッキングを変えても、触れるか触れないかを感じても鳴らせなかったあのハーモニクスだ。頭蓋骨を開けられ今まで発見されたことのない脳のあの部分を突かれたようだ。意識を心臓にゆっくりと戻してみる。深く包み込むヒダがまだ陸上にいた頃の子羊の肉を思い出させる。サキコのヴァギナには毛がない。人魚のヴァギナには毛なんかないんだ。それは独立した生物の唇。舌の上に乗せると今にもとろけそうだ。唾液が止まらない。ソースと唾液が混ざり合いこの唾液はソースなのかオレのものなのかサキコのものなのか妻のものなのか彼のものなのか、いやすべては深海だ。深海に生息する奇跡のプランクトンだ。オレの上をサキコが泳ぐ。オレは仰向けに漂いながら見上げる。溶けた汗は深海のラベンダーだ。水面を見上げると鏡が二人を映すように一つの塊が漂う。溶け合う姿は鏡の海を泳ぐ。二人はオルガズムの深海へと沈み続け海底へと間もなく辿り着く。あと少し、もう少しだ。全身の力、全ての細胞を緩めちゃいけない。もっと固い塊にならなければいけない。陸上から救急車のサイレンの音が聞こえる。サキコの喘ぐ声が深海の空気を揺らし泡になる。天国に鳴る美しい和音に選ばれるかのようなビブラート。天国は空の向こうにはない。この深海にあったのだ。どこまでも昇るのではなくどこまでも沈むこの場所にあったんだ。抱き合う二人は鍵盤にはない天国の和音となり、深海の香りそのものになっていた。どこからどこまでがサキコの身体でどこからどこまでがオレの身体なのか境目はもうない。

 ピンク色のシーツの波間は二人に何度漂流させたのだろうか。何度沈没させたのだろうか。三度転覆するとお互いもう何度沈んだのか数えることができなかった。

カーテンの隙間から射し込む夕陽が、初めて陸に上がった生物の感動のように最後のオルガズムへ導いた。サキコの腹に真っ直ぐにのびた白濁した直線の愛は夕陽で赤く染まった。二つの鼓動は緩やかに陸へと上がり、再び呼吸を取り戻した。


 何時間重なり合っていたのだろう。オレは先にシャワーを浴びて、ボクサーブリーフを履いてベッドに戻った。湿ったシーツの上、大きなクッションにもたれ、サキコを待った。

 抱き合って鳥肌が立つことなどなかった。サキコと一つになった今、これが本当のセックスだとすると、今までベッドの上で、車の中で、トイレの中で、茂みの中で、そして人前でオレたちがしてきたことは一体何だったのだろう。

カーテンの隙間からぼんやりと外を眺めていた。

サキコは髪をまとめ上げ、ドルチェアンドガッパーナの黒のTバックだけを履き、シャワーから出てきた。

 カーテンの隙間から差し込む夕陽は街灯の光に変わっていた。3階のこの部屋は街灯の光が近くに感じる。そしてこの窓だけを照らす月明かりにも見える。

サキコは今、オレの左胸に包まれている。ぴったりと火照る身体を密着させ足を絡ませ、まるで二つの心臓が同期しているかのようだ。二つの鼓動が安らぎのリズムとなり、月明かりは二人に約束をさせた。

「これを最後の出演作にしたい…」

「オレもだ…」

「ヒデ、あたしより先に死なないでね」

「ああ」

 唐突な言葉ではない。サキコは最初にデートしたときから薄々気付いていた。 突然喋らなくなったり呼吸が荒くなったりボーっとして一点を見つめたまま動かなくなったりするオレに。幼い頃一緒に自家中毒を起こし入院した者同士が共有できる特別な感覚だ。自家中毒という病気の根は深く精神に生息し、その細胞は増殖を繰り返していたのだ。サキコは父親の暴力で、オレは母の死によって自立神経を乱していた。二人の自家中毒は、互いに違う道を辿りつつも、書くという同じ道を辿って病気を克服しようとしていたのだ。

鬱病だったオレはサキコに死なないと約束した。絶対に自殺だけはしない。死にたい誘惑が襲って来たら君を抱いている時のことを思い出す、君の肌のぬくもりと溶け合う汗を思い出す、すべてを出し尽くす時のエクスタシーを思い出す、この快楽に湧き上がる鳥肌を思い出すと言った。

そして君にも約束して欲しいことがある。

「絶対に彼と別れるな」

その意味はサキコにしかわからない。

誰にでもわかってしまうようなら、こんな物語は生まれない。


 今まで通院していた精神科では鬱病だと診断されていた。鬱の占める割合がほとんどで今のところ鬱が躁を制しているので完全に躁鬱病とは判断しづらいということであった。明らかに生きることが不安そのもので、自分が生きている、そしてこれからも生きていかなければいけないということが恐怖へと変わって行った。それを認めたくない自分がまた不安の対象となった。これは贅沢病なんだ、と自分に言い聞かせた。物事に対して下手に悩みすぎるからいけないんだと。自分は鬱病なんかになるわけがないと言い続けてきた。初期の段階でなぜそうなったのかうまく説明できるようなら、鬱になんかならずに済んだのだろう。きっかけはあっても根本がわからなかった。また日本人の百万人近くが鬱病なのだからと言い聞かせてきた。しかしそれは負のスパイラルだった。担当医はまずはそれまでの夜型の生活習慣を改めきちんと夜12時に寝て朝7時には目覚めるよう努力することから治療を始めようと言った。生活リズムを修正し太陽が出ているうちに活動し陽が落ちると共に身体を休めていく自然な体内時計に戻そうと言った。心と体をリラックスさせ、精神の不安定さを取り除きバランスを整えようとしたのだ。しかしその自然治癒力はオレにはなかった。どんなに規則正しく目覚められたとしても一日の折り返し地点、午後2時から3時の間に一度強い不安感が身体を襲う。緞帳が下りてくるように心に真っ黒なぶ厚い布をかけられる。雨が降れば心も沈み、晴れた日も太陽に焼かれてしまう恐怖感になる。目眩がしてまともに立っていられなくなる。異常なまでに左肩だけが凝ったりこめかみの部分の片頭痛が続いたり、全身が痒くなったりする。それまでは普通だった便通にまで影響を及ぼし、お腹の張りは当然ストレスとなる。次第に日常的なごく当たり前の行為に支障をきたし始めた。時にネクタイさえ結べなくなってしまって、単に一重巻きすればいいのにどうがんばってみてもうまく結べなくて、簡単な日常行為の一つに過ぎないはずなのに何度も何度も変な向きになって、急がないと仕事に遅れるという焦りが余計に怖くなって冬でも大量の汗が出てきたりして、それだけだったらまだ人目に触れずに済むことだが、一度本当にネクタイを結ぶという行為がどういうことだったのか全く分からなくなってしまって、怖くて妻に、オレが目をつむる間に結んでくれないかと頼んだことがあった。そんなことが落ち着くと今度は、ドアマンの時に店頭でプレゼントにネックレスを買いたいという女性を接客していて、突然激しい動悸がして真夏のグラウンドを全速力で走ったような汗が噴き出して来て、心臓を突き破って何か他の生物が飛び出してくるんじゃないかっていう恐ろしくバッドな精神状態に陥った時があった。別に客であるその女性に何を言われたわけでもないのに、10万円もする高価なホワイトゴールドにオレの汗が滴ってしまって、せっかく女性が彼へプレゼントしようと気に入ってくれたものなのに、気持ち悪がって店を出て行ってしまって、店長にハンカチぐらい持ってなさいよ、と折檻部屋と呼ばれているボイラー室に連れていかれてこっぴどく叱られたんだ。でも自分は悪気はないし、そうやって突然の動悸が何か前触れがあれば助かるのだけど、何の兆候もなく突然襲ってきて制御不能のダンプカーみたいなんだ。そんな単純な生活の一部さえ崩れていってやっぱり仕事に支障をきたしてしまうんだ。せっかく仕事ができるようになったと思ったのに。一日の折り返し地点で妙な不安感や心拍の乱れがなければその日は大丈夫と言えるのだけど、日内変動は日に日に激しくなりやっぱり病気は悪化していった。終いに活字が読めなくなってしまったんだ。それまで大好きだった読書がつらく感じられるようになったんだ。本を読むという唯一の楽しみを奪われていったんだ。これじゃ小説家になる夢も絶望的さ。だって活字を読んでいると気持ちが悪くなって正確に一行一行を目で追うことができないんだ。二、三行飛んだり戻ったりして、とにかく読むという行為に目眩がする。ボクは疲れているんだ。しばらく休めばきっと治るさというプラス思考はいつの間にか完全に逆転していた。元々ボーっとすることが多い少年ではあったが、病気の始まりは母の死だった。子宮癌の進行が速く闘病生活もむなしく余命半年だと聞かされて、実家に帰ることにした。当時の彼女に事情を説明し荷物を整理していると夕方突然電話が鳴った。父は「今すぐ帰って来い、とにかくすぐに帰って来い」と言って電話を切った。その時間帯はどう足掻いても東京からその日中に母が入院する田舎の病院までは辿り着けない時間だった。途中の宿で日付が変わる直前に、たった今母が逝ったという電話を受けた。死に目に合えなかった悔しさで自分は一体何をやっているんだ、大切な母を看取ることもできなかったのか、という情けなさと悲しみを通り越したパニックが心を爆破した。そして何一つとして親孝行してやれなかったと心に潜む誰か別の人間のようで、でも自分自身と思われる人間が叫び出すと目の前のすべてが崩れ去った。母の笑顔、母の涙、母の温もり。早朝家に着くと母は亡骸となって帰って来ていた。幼い頃雷が怖くて母の布団に潜り込んで一緒に寝たあの優しい母の匂いは黄色くて冷たい死体の匂いに変わっていた。火葬されるあの重い鉄の扉の向こう。ボクは自分に言い聞かせた。もう母は帰らない。お別れなんだ。男として父のように強くなければいけない。立ち直らなければいけない。乗り越えなければいけない。鬱なんてそれは贅沢病なんだと。もっと苦しんでいる人はたくさんいるのだと。だって父は鬱病になっていないし遺された家族を守るために毅然としていた。でもボクは駄目だった。ボクは弱いんだ。元気がよく明るいはずの性格が一変して、笑うということがなくなった。いつもフラッシュバックしては涙が止まらなかった。そして東京に戻っても誰にもそのことを打ち明けられなかった。ボクが田舎に帰ったっきり連絡がないのを心配して当時の彼女は何度か電話をくれたけど、ボクは母さんが死んだのを認められなくて、死んでしまったことをこの口から伝えられなかった。自分の口から〈母さんが死んだ〉という言葉を言えなかった。母さんが死んだことを口に出さなければ母さんは生き返るんじゃないかって本気で思った。しかも癌家系だったのか、その一年後に母方の兄弟が次々に亡くなってしまったんだ。母が逝って丁度一年後に母の兄が肺癌で、その3ヶ月後に母の妹が食道癌で、みんな母を追いかけるように死んでしまった。おばあちゃんが舌癌で亡くなった時は82まで生き抜いたというのがあったけど、叔父や叔母はまだ若かった。そしてさらに半年後にダウン症の姉を面倒見るお手伝いさんをしてくれたおばあちゃんも亡くなった。ボクを自分の孫のように可愛がってくれて優しく元気なおばあちゃんだった。その頃になると虫の知らせも感じるようになっていて、「幼い頃オレをすごくかわいがってくれたお手伝いさんのおばあちゃんがいて、いろんなところに散歩に連れて行ってくれたんだ、その人が自分の本当のおばあちゃんだと思って育って来たんだよ」とふと思い出して夕飯の時に彼女にそんな話をすると次の朝、そのおばあちゃんが亡くなったという訃報が届いた。それ以来かな、夜中突然目が覚めて、当然夜だから辺りは暗いのに二度と太陽を見れないんじゃないかという不安が襲う。そもそも太陽って存在していたのか分からなくなる。かと思えば、突然真夜中3時にジョギングがしたくなったり懐かしい幼馴染に電話してしまったりする。不思議だけれど何か悪知恵のようなものも働くんだ。人が一生懸命書いたものや作ったものをその人が言われたくないと知っていてその部分をとことん批判して、攻撃してみたくなるんだ。そしてその反応を見て楽しんでしまったりして、変な話だけど一緒に悲しんだりするんだ。当たり前だけどだいぶ友達も無くしてしまったよ。それだけじゃなくてレストランで店員の態度が気に入らないと「店長出せこの野郎」と発狂して、スタッフ全員を整列させて頭を下げさせたこともあった。そんな時は既に記憶を失っているんだ。

ボクの身分証明書は障害者手帳なんだ。

母の死から受けたショックはそう言う形で表れた。通院期間が5年目になると、うちではもう扱いきれないときっぱり言われた。市内にある大学病院の新しい先生を紹介してもらうと、不定形型精神病と診断された。鬱病や躁鬱病が症状として一番近いということだけで、躁も鬱もありパニック障害もあり、つまりは心の病なのだと。時に形を変えてそれがどんな症状や行動になって表れるかが予測できないんだ。活字を集中して読み続けることも出来ないのに、気分がいいと取りつかれたように書き出す。書くという行為に依存する。それはきっと誰にも相談できないことを吐き出す手段だったんだ。それは幼い頃ダウン症の姉さんと一緒にいじめられていたトラウマもあるかもしれない。小学校の下校時刻にちょうど姉さんも施設から帰って来るんだけど、ボクと姉さんは当然家族だからおかえりと言って一緒に帰るんだ。すると近所の悪ガキどもが塀の裏に隠れていて「おい、ダウン症、知恵遅れ、障害者」と叫びながら石を投げてくるんだ。ボクは姉さんの手を引っ張って走って逃げようとするんだけど、姉さんはやっぱり早くは走れなくてボクだけが助かって姉さんが石をぶつけられ痣を作ったこともあった。頭に当たらなくてよかったと思う。担任の先生が「ヨシカワ君のお姉さんがみんなと少し違うからといっていじめるのは止めましょう」と殺したくなるようなことをみんなの前で言ったため、いじめはさらに悪化した。学校でも外でもバカにされ居場所はなくなりいつも独りぼっちだった。だから勉強したりスポーツに打ち込んだのかもしれないね。姉さんはかろうじて喋ることができてバスにも乗れたから何度も練習して施設には一人で通えるようになっていたけど、時々乗り過ごして、たまたま事情を知る近所のおばさんが道に迷う姉を見つけて連れて帰って来てくれて助かったこともあった。逆に誘拐されそうになったこともあった。いつもとは逆の道から帰ってきた姉を2階の自分の部屋から見つけて、ボクが問いただすと知らない人の車に乗ってしまって裏山で下ろされたと言った。その男は「おじさんは君の友達だよ、家まで送るから乗りなよ」って姉さんを車に乗せたみたいなんだ。特に外傷はなかったからまじでホッとしたけどブラウンスのボタンが一個取れていたのに気付き、こんな最低なことをするやつを心の底から殺してやりたいと思った、ズタズタにして八つ裂きにしてやりたいと思った、そういう人間のクズは死ぬべきなんだよ。でも学校でのいじめがひどくなるとボクは悔しくて姉さんに向かって大声を出した。「糞をもらしてんじゃねぇよ」。姉さんは時々トイレを失敗したり、お風呂で漏らすことがあった。それを片付けるのは当たり前のことだと思ってきたけど学校でバカにされるとそれは当たり前のことではないような気がして無抵抗の姉さんを殴ったことがあった。でもすぐにボクは自分の頭を壁に打ち付けて「姉さんごめんね、ごめんね、ヒデも痛いよ、一緒だよ、一緒に痛いんだよ、痛いのは一緒だよ、だから許してね」と二人で泣きわめいたんだ。だって母さんは他に男がいたのか夕飯を作ってからどっかに出かけることが多くて、親父も勤める中学が車で一時間以上かかる所でしかも生徒指導だったから帰りが遅かったんだ。生徒指導は本当に大変で、万引きした生徒を引き取りにもう一度その道のりを戻って学校に行って店とかに謝って、その子の家に帰してやって、夜中の2時頃にやっと家に帰って来たりして、肝心な家族と過ごせる時間が奪われていったんだ。なんで学校の先生ってあんなに土日も学校に行かなきぃけないんだろう。行事ってくだらないことばかりだろ。ボクはダウン症の姉さんと二人切りでいつも寂しい食卓を囲んでいたんだ。休みの日は花を摘んだり虫を捕ったり、石をぶつけられた時も一緒に手当てしたし、同じことばっかり繰り返し喋ったりするけど、姉さんは独りぼっちだったボクの最高の友達だったんだ。そんな姉さんに付きまとう、同じ施設に通う知恵遅れのエツシという男が家の前をうろついているとボクも石を投げてそいつを追い返したんだ。心配そうに窓から姉さんがこっちを見るがボクは構わず「うせろこの知恵遅れ!」といじめっ子と同じことを叫んでいた。しかしあれは知恵遅れながら必死で想いを伝えようとするエツシの精一杯の手段だったのかもしれない。そんな彼のことを姉さんも好きだったのかもしれない。でもボクにそんなことを知る由もなかった。そんな中、高校受験の時はもっと荒れてしまって、うちの中学は市内でも荒れ様が最悪の中学で授業を抜け出した生徒を先生が追いかけて行って教科書が最後まで行かなかったりして、でもボクは親父のメンツもあるから絶対に県で一番の公立高校に入らなくっちゃいけなくて、今までつるんでいたヤツらとすべての縁を切って一人で受験勉強に励んでいたんだ。荒れたクラスの中で一人勉強しているやつは当然不良連中の目の敵にされて、勉強していると、なんだよてめぇと言われる。試験が刻一刻と近づいて来ているからボクはここで負けてたまるかとそいつらに反発して自分の机を教室のはじっこに持って行って給食の時間も独りで勉強していたんだ。すると不良連中が厚紙ででっかい紙ヒコーキを作ってボクの頭めがけて思いっきり投げつけたんだ。先端が突き刺さって血が滲んだけどボクは振り返ったら負けだと思ってじっと耐えたんだ。するとそいつらはいじめがいがない、ということで段々ボクに構わなくなっていったんだ。変な言い方だけど勝ったと思ったよ。高校に行ってからのボクの成績は最悪だったけどちゃんとその高校には入れたしね。そんな幼少期にため込んできた遠い記憶が、書くという行為になって表れ始めたんだと思う。それだけじゃないけどボクは心の中で何かを飼っているんだ。それに触れるのが怖いんだけど勝手に動き出してしまってとてつもないエネルギーを持っていて自分では制御できないんだ。本当はみんなが告白に酔いたいんだ。でも大人になるとそれができなくなってましてや商品にするとなるとみんながその自慰の壁を乗り越えられないんだ。でも大丈夫だよ。ボクが代わりにピエロになってあげるから。でも人に踊らされるピエロじゃなくて自分から踊るピエロだよ。誰かが代表して狂ってあげればきっと君も楽になるよ。そんなもんでしょ。そう言えば姉さんのことばっか言ったけどボクだって最悪だぜ。鬱が一番ひどい時なんかうちは洋式だけどトイレで踏ん張っている時にたまたま動悸がして頭痛も同時に襲って来て半分気を失いかけてその場に倒れ込んでしまったんだ。トイレからなかなか出てこないボクを心配して妻がドアを開けると糞まみれになったボクが横たわっていた。うんこにまみれた大の大人の男を見てどう思っただろうな。妻は黙ってトイレットペーパーで拭きとってくれてパンツを履き替えさせてくれたんだ。まるで子供じゃないか。呆れても呆れ切れないほどみじめさ。でも妻はこんなボクの書くという行為に可能性と危険性を同時に感じていると思うんだ。書くことで救われることもあるし、死にたくもなる。本能がそれを望んでいるみたいなんだけど、完全な依存行為だし、ある一定のメーターが振り切る時だけ自律神経が生き返るんだ。壊れることもあるけど、生き返るんだ。でもそのメーターがどれだけ振り切ったのかを確かめることはできないんだ。だって書いたものを自分で読み返すとすぐに気分が悪くなって吐きそうになるからさ。自分で自分を認識できる力があれば落ち着くんだろうけどね。だからボクはそのスイッチが入ると脳内で思考の回路が普通の人にはあんまりない形でターボ状態になりレッドゾーンに振り切りこうして独白のような文章を書くんだ。でもそれを読み返したり推敲したりすることは出来ないんだ。不思議でしょ、書けるのに読めないんだ。だからその役目を担ってくれるのが奥さんさ。奥さんはきっとこんなボクの症状にいち早く気付いていたのだろう。そしてボクが原稿用紙に誰も読めないような汚い字で書きなぐったものをつじつまを合わせてワードで打ってくれるんだ。つまりは奥さんがゴーストなんだよ。とにかくボクのイカれた精神の筆は一回切り、一回勝負、ぶっつけ本番なんだ。しかし何かを産み落とし書くという行為がないと一週間でも二週間でもただボーっと外を眺めることができ、ボクは歩く植物人間になる。歩いて食べて寝て糞をする植物人間さ。働く必要がなかったのは、精神障害者として市から生活保護を受けていたからさ。通院費もバカにならないし仕事もろくにできないからから奥さんが決断したんだ、市役所に行って申請しようって。申請が通るまで一年以上かかったよ。だって精神って目に見えないだろ。診断書を書いてもらうのだって大変なんだ。精神科医に「小さい頃、好きだった童話はなんですか?」って真面目な顔して聞かれた時は、そいつを殺そうかと思ったよ。それとも「シンデレラですっ!」って元気よく言ってやればよかったのか? 生活保護をもらう方向に診断書を書いてもらうなんて、もっと狂えって言われている気がしてつらかったなぁ。でもボクの奥さんの判断は正しかったと思うよ。経済的な負担も相当あるし、ボクは障害者手帳を使ってタクシーも一割引きになるし、こうして最低限の生活を与えてもらっている。確かに市役所の人が家にまで来て色々チェックされたのは嫌だったけど。向こうの親はボクがこんな状態で彼女を巻きこんで、だから入籍にも反対や諦めを通り越し呆れられていたんだ。悲しませいてるよな心底…。ボクに生きる価値はあるのかな? 存在する価値はあるのかい? 働かなくてもいい代わりに死と隣り合わせにいる。生きている実感が持てず、生かされている感じがする。奥さんはこの障害者をお荷物と思っていないと信じている。そこをボク自身が信じられないとボクは自殺せざるを得ない。愚痴をもらすかのように、もしここに、

「ツマハオレヲオニモツトオモッテル」

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