第9話 彼女がAV女優だったら
「今は支えてくれる恋人もできたみたいで、ああいうお父さんでも魅力あるんだなって思った、かな」
性格がいい美人になる条件として父親の存在は大事だと思う。
性格がひんまがった女は大抵父親に原因があると思う。例え他でどんなことをしていようとも娘に対しては優しい父親でなければいけない。決して暴力をふるってはいけない。そして男を感じさせなければいけない。女の子は幼少期、初めて父親を一番身近な「男性」として認識する時期があるそうだ。確か2歳~5歳のどこかでクリティカルなそれがある。成長が早い女子は父親を好きになり、それが恋心を抱く予行練習になるそうだ。そのタイミングを逃してはいけない。加齢臭などさせている場合じゃない。そこで男が女を包む優しさを教えてあげなければいけない。そして女は守られるべきものだという感覚が刷り込まれるのだ。与えられうる精一杯の愛情で包めば包むほど、女の子は可愛く育つというのがその所以だ。サキコはそんな幼少期に父親におびえる毎日を過ごしてきた。母親に暴力をふるい、家の中をめちゃくちゃにし、サキコは弟と布団にもぐり隠れていたという。しかしサキコは松井と違って世の中に復讐しようとする尖がった部分がない。たとえば松井は、同じように親父の暴力に怯える幼少期を過ごしたと言っていた。よって男を信じようとしない。金を引き出させる道具という概念だ。あの時、あまりに松井の「これ買わせた話」がしつこく、オレは「何をしようが君の自由だが、売春だけはやめろよ」と最後に言ったのだった。松井はオレをドついたが、父親からの愛情に飢えて育った反動は、どう浄化すればいいのだろうと本気で考えたのも事実だ。
互いにカクテルを2、3杯飲んで、オレはバーボンを頼んだ。もっと酔いたい時のお決まりのパターンだ。
幼い頃はサキコの家で喉を詰まらせそうな大福と苦すぎるお茶をごちそうになるのが定番だった。それが今は洒落たイタリアンバーで何とかというチーズの盛り合わせととろけそうなカクテルだ。この新鮮さは、15年間という空白の時を少しずつ溶かしてくれるマジックのようだった。
「そう言えば、母の三回忌のこぼれ話を聞いてくれるか? お寺の場所がナビに出てこない山奥に移っちゃったんだけど、あっ、あそこだよ、上北手、懐かしいだろ、この響き、オレは準備のために1時間も前から現場に行ってたんだ、親戚たちもちゃんと時間通り着てくれたのに、親父が道に迷っちゃってさ、30分もみんなを待たせちゃったんだ、年寄りが多いから正座はきついだろうということで、椅子を用意してくれた寺の気遣いはよかったんだけど、仏さまの前とはいえみんな集中力が完全に切れちゃってさ、それで親父がやっと到着してみんなを一安心させたら、一番肝心な母の遺影と位牌を家に忘れてきやがったんだ、『親父、遺影は?』と聞くと『おや、しかだね!』と秋田弁で目をまん丸くさせて、素なんだけどアホの坂田みたいなリアクションしやがって、オレは笑っちゃいけない場所なのが余計に我慢できなくって『アホか』って言って爆笑しちゃったんだ、でも住職は遺影を忘れるのは実は良くあることなのです、と言って、イラついた顔一つ見せずみんなを取り繕ってくれたんだ、結局オレが家まで車をぶっ飛ばして取って来て法要は1時間遅れで始まったんだ、家の仏壇に忘れられた母の遺影を風呂敷に包もうとしたら、母の顔から、「お母さんのこと忘れる気だがぁ」って、『?』マークが浮き出た気がして笑っちゃったよ、ほんでそれだけならまだしも、法要後の会食が終わってみんなを会場から送り出してやっと一日が終わったねと車に乗った時、今度は会場に一番大切な母の遺影と位牌を置き去りにしちゃってて『今日は誰の何のための会だよ』と親父と二人で大笑いしたんだ、『何回あたしを忘れたら気がすむんだい!』と一番突っ込みたかったのはお袋だっただろうに」。
オレは酔った勢いでつい話しすぎた。それでもサキコは時折オレの腿や肩を叩いて一緒に笑ってくれていた。二杯目のバーボンを頼もうとするとカクテルしか飲んでいないサキコはオレの大好物であるバーボンに興味を示した。オレは大人の男になったのをアピールするために、
「マッケンローがなければターキーでいいですよ、12年をロックで」
始めからマッケンローなど置いていないのを知りながらそう注文した。イタリアンバーなのだからワインを飲めばいいのにオレはワインの銘柄に疎く、得意分野のバーボンに逃げたのだ。
バーテンダーは繊細な手つきでアイスピックを使い、氷をまん丸に削っていく。そして左手の人差し指をボトルの口にそっと添えグラスに注ぐ。サキコは頬杖を突きまん丸のアイスを眺める。さすがのサキコも4杯飲むと首筋が赤くなっていた。オレはその湿疹の一つ一つに口づけたかった。
ターキーを飲みほし、サキコのカシスオレンジもなくなりかけるとあの店の暴露話で盛り上がった。
「あんなにゲイが多いブランドも珍しいよな」
「ほんとよ、あたしにアドバイスできることなんてあるのかな」
長いまつ毛がぴくりと上を向き、オレはその奥の大きく開いた目に幼い日々を探した。
「ゲイはトレーニングジムが好きなんだぜ」
「どういうこと? 鍛えるのが好きだから?」
「違うよ、更衣室でタダで男の裸が見放題だからだよ」
次のバーボンはオールドグランダッド12年のロックを頼んだ。ターキーに比べ口当たりが強く、このパンチ力に耐えられないヤツはセメンダインを飲まされたと思うだろう。しかしその後に舌をしびれさせるコクがたまらないのだ。サキコにも味見をさせて、もっと酔わせたかった。
格好をつけるのは簡単だが、酒の力を借りても二人の間にある15年という壁を全て取り除くのは容易ではない。
酒に強いサキコはオレと同じオールドグランダッドを飲みたいと言ったが、レディにこいつはきついだろうと思い、マイルドなジャックダニエルのロックを頼んだ。サキコにグランダッドのパンチ力を味見させた。
「きゃっ、強すぎる」
「無理するなって言ったろ」
「大丈夫、でもバーボンってこんなにコクがあるんだね、強いけど美味しい、ロックで飲むなんて初めてだよ、ヴァージン奪われちゃったね」
男にとって「初めて」といわれることはこの上ない快感の一つだ。熱くなってきたと言ってカーディガンを脱ぎサキコの色白で細い肩が見えると、オレは彼女をこの腕に抱き寄せる映像を、まん丸のアイスのスクリーンに思い浮かべていた。
男と女がいい雰囲気になって、寄り添いキスしてその先にセックスがある。しかし、そのセックスがサキコにとっては仕事なのだ。明日もその仕事なのだろうか。仕事で男に抱かれるのに心が崩壊することはないのだろうか。
「ジャックダニエルは本当はバーボンではなくてテネシーウイスキーでターキーのように長い歴史の中で蒸留者が代わると味も微妙に変化してしまう酒とは違って味にブレがない近年実は一番見直されている酒なんだ」と得意気に言おうとして止めた。あっという間に過ぎてしまう時間をもっと有意義に過ごすべきだと思ったからだ。
サキコに触れたい、でも触れられない。誰かの歌にあった。『終電を超えて、時間を止めて』。その歌の主人公のようにオレたちは時計の針を気にし始めた。
オレには帰るべき場所があるし、彼女にも大切な彼がいる。
オレは結婚したことは言わなかった。
サキコも彼の話はしなかった。
駅まで一緒に行こうと言って金曜の夜の人込みの中、半ば強引に手をつないだ。腰に手を回す勇気がないまま、雨が上がった中央通りを歩いた。このまま改札に入れば二人は反対方向の電車に乗る。
繋いだ手を強く引き寄せ、唇を近付けた。
「あたしタクシーで帰るね、途中まで乗ってく?」
サキコの交わし方はこ馴れていながらも、優しく芸術的だった。今までに何度もこんな場面があったのだろう。これでいいんだ。優しい交し方に包容力さえ感じられたのだから。ほのかに香るオードトワレとその長い髪の毛に触れられただけでよかった。
「ねぇヒデ、もし彼女がAV女優だったらどうする?」
そう言いながらタクシーのドアは閉まり発進した。
オレはタクシーが視界から消えるまで立ち尽くしていた。
男は見た目で恋をし、女は記憶で恋をするという。
オレはサキコの優しい拒み方でこれ以上踏み込むのは無理だと思った。踏み込めば踏み込むほどその先にはコントロールできないものが潜んでいるような気がした。本来の目的はサキコとのストーリーを書き進めるということだったのに、その攻撃本能にも似た気持ちの正体が何なのか分からなくなってしまいそうだった。幼馴染と言ってもサキコは自らが選んだ人生、プロ意識に満ちたAV女優K・Mとしての人生を送っている。これ以上オレに入り込める余地はない。オレはこれから自らが描こうとしているドラマが少しだけ恐くなった。
妻にすまない気持ちもある、サキコの彼の存在もある、眠っていたジェラスが目覚める恐怖もある、しかし一度踏みかけたオーバードライブのアクセルから足を離すこともできなかった。
拒んだことが始まりになるのが、「記憶で恋をする」ということなのか。
ギリギリまで近付いた唇は彼女の方に《to be continued》をフラッシュさせたのだ。
次のデートの誘いはサキコからだった。
なぜもう一度会う必要があるのか、そんな理由など求めなかった。
「ねぇ、あさって空いてる?」
「急だなぁ」
「いつでも空いてるくせに」
「ばれたか」
「会う場所、あたしが決めていい?」
「もちろん、まかせるよ」
結局サキコと会えるのであればどこでもよかった。
「もしあたしたちが初めて逢った者同士だったら、あたし、ヒデのこと好きになってたかな・・・」
電話を切る間際、冗談でもそう言ってくれるだけでうれしかった。それと同時に心のどこかで冗談であって欲しいとも思った。
オレがサキコに望んでいるのはストーリーだ。でも彼女がオレに望んでいるものは何なのか。オカマのように男と女の両方の気持ちがわかる勘が欲しかった。
イベントの最中、ある光景を見た。オーランドブルームがおそらく気に入っているだろうと思われる男性スタッフにある女性スタッフが話しかけていた。ヤキモチを焼いたオーランドブルームはそこを引き離そうとする。そのタイミングの見計らい方や切れ込み方が絶妙過ぎて、あっけにとられたのだ。その悪知恵と細かさをVIPへの接客に活かせたら今後このブランドは安泰だろうに。
オーランドブルームはベビーカーに乗った子供を見ると異常なまでの笑顔で手を振り、周りが失笑するくらいかわいがる。それは彼(彼女)の母性本能であり、そんな彼のことを「あかあさん」と呼ぶと本人は大変喜ぶらしい。優しい時は「我らがお母さん」だ。性別上男でも月に一度は必ず生理があり、その日は大変機嫌が悪い。出勤時から機嫌の悪さを全開にする。しかし動物学上男なので一日か二日でその生理現象は終わってくれる。松井に吹き込まれたことをなぜここまで覚えているのかがわからなかった。
そのゲイの繊細さは、男と女の両方の気持ちが混在しているからこそ発生するものだと思う。繊細だからこそ世話を焼きたがる。世話を焼きたがるからこそ意地悪に感じられることもある。その繊細さの欠片だけでもあれば、オレがサキコに与えるべきものも少しは分かるかもしれない。
ネクタイ事件の時、オレとサキコの微妙な距離感にオーランドブルームが何か勘付いたのかは知らない。
「あんたたちノンケみたいにね、結婚して子供作って幸せな家庭築くことなんてうちらゲイにはないのよ、日本だとまだまだ理解薄いでしょ、だから好きな人ができたらうちらはどこまでも追いかけて行くのよ、ある意味男らしいでしょ、あんたと違って眺めてるだけでいいなんて軟じゃないのよ、うちは韓国人の彼氏できちゃってさ、会社辞めて来月から韓国行ききめちゃったわよ、どうやってめぐり逢ったかって? ここのお客さんに決まってるじゃない? ここはお金持との出逢いの宝庫よ、納得いくまで愛す、これがうちのモットーよ」
オーランドブルームが言わんとすることが十分に理解できた。オレはゲイを誤解していたのかもしれない。
「ねぇ、ひさびさにきりたんぽ食べたくない?」
「そうだな!」
2回目のデートは、お互いに何年も食べていない、きりたんぽを食べることにした。カルティエ裏のビルの七階に秋田県人が出している店がある。
ここもまた隠れ家のような店だった。赤いサンダルを脱いで素足にピンクのペティギュアを塗ったサキコの細い足を追いかけるように個室に入った。
「よかったら隣に来る?」
2畳分くらいしかない個室で二人の距離は今までにないくらい近づいた。サキコの腰に手をまわす勇気は日本酒コンテストで金賞を取った太平山のロックがくれた。サキコのウエストの細さに驚くと同時に彼女の耳たぶを噛みそうになっていた。
「今ここでキスしちゃったら止まらなくなりそうだから、ほっぺまでね」
キスの真似事をして笑った。今日はサキコの方がよく喋った。
「あたしが書いた本、読んでくれたんだ」
「もう3回も読んだよ」
「10年前のことを思い出すって難しいよね、あたし忘れっぽいから苦労したんだ、幼い頃のことは覚えてるのに、10年前って言うと途端にあやふやになるの、めまぐるしかったからかな、でも悲しいことって忘れられるけど、怒ったことってしこりが残るものよね」
テーブルに肘をつきながらグラスに残った日本酒を一気に飲み干すサキコは、きっと自伝に書いてある、『AV女優になって初めて付き合った彼氏との出来事』を思い出しているのだろうと思った。
AV女優と知らずに付き合ったとしても、知っていて付き合ったとしても、その大変さに変わりはない。仕事に対する理解、それは我々一般人が想像するよりもはるかに大きな器量が必要とされるだろう。サキコのAV女優仲間は大好きな彼に、ある日突然仕事から帰ってくると、「きたねぇな、風呂入れよ」と怒鳴られたそうだ。2対2でホームパーティーをした時も酔いが回ると彼氏同士が「AV女優を彼女に持つ俺らって悲しくねぇ」と同盟を組み始め、その時ばかりは感情を表に出さないサキコも爆発したという。
もし自分が本気でAV女優を愛したらどうなるのだろう。
始めから好きにならないと言い聞かせ、遊びで付き合うのだろうか。でもそれは本気で愛することではない。それとも感情をコントロールしながら心の支えになり、仕事を辞めてくれる日を待ち続けるのだろうか。ビジネスとしてプロとして10年もトップを走り続けてきたサキコと付き合う彼は、どういう人間なのだろうか。
「ねぇ、どうしてあたしに会いたくなったの?」
《ねぇ、あたしのAV見て興奮した?》 と聞かれているようにも感じて、オレは答えに戸惑った。サキコのいたずらっぽい表情に気付き、突き放すためのセリフではないことに安心した。
笑ってごまかしながらオレは上京して初めて付き合った彼女のことを思い出していた。
その娘もまた、AV女優だった。
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