第8話 BVLGARI銀座タワー

 サキコの驚きはよくわかる。オレの親父は金八先生のような熱血教師で当然躾も厳しかった。狭い田舎ということもあり、「オレの顔に泥を塗るな」、という叱り方をする親父だった。親父が怖くて勉強していたのかもしれない。肩幅が広く土建屋の親方のように上腕筋が発達していて、殴られると痛かった。しかしおふくろに先立たれてからはすっかり意気消沈し、見る影もなくおとなしくなっていた。やっぱり男って女に支えられてるものなんだなって思えたりする。

 そんなところまで金八先生と被っていて、オレは金八の息子・孝作の気持ちがよくわかった。父のおかげでオレは中学までは学年で成績はトップクラスだったし、高校は地元一の進学校だった。親父の後を継いで地元の国立大学を出て、部活で鍛えた身体を活かし、保健体育の先生にでもなると誰もが思っただろう。しかし15歳の時に『十五の夜』を聴いて音楽に目覚め、歌詞やら散文やら書いているうちに執筆に目覚め、いい年して今でも小説を書くなどと夢見ている。こうして稀にバイトや仕事に就く。ずる賢さだけは負けないオレは、高時給の仕事を探し、最短で一通りマスターすると、その後は全力で手を抜いた。仕事が終わってからが本当の仕事だった。親父の厳しい躾をあだで返して申し訳なく思っている。

『M』からの返信はうれしかったが、よそよそしさにはがっくりだった。「奇跡の再会だね」とか、「すごい変わったね」とか、「昔が懐かしいね」とか、「飲みに行こうよ」という驚きの内容と近しさがもっと欲しかった。しかしAV女優になったサキコの方がよっぽどスリリングで興奮の毎日を送っているだろうから、こんな一同級生との再会なんて論外なのかもしれない。初恋はオレの一方的な想い出であって、もはやこの年で初恋なんて口にする方がバカなのかもしれない。

 オレは、「近々会えないか?」 とさらなる返信をするのにためらった。妻とは5年間同棲して来たが一応新婚だ。「幼馴染がAV女優になったから会いに行って来る」とは口が裂けても言えないし、「飲みに行って来る」というのも「家にきちんとお金を入れてからにしなさい」と怒られるだろう。

イベントに潜り込むことに成功し、サキコと再会でき、メールを一度やり取りできたまではよかった。が、そんな楽しい時は一瞬だ。一瞬だから楽しく、かけがえのないものに感じるものだ。

松井と撤収作業中に、非常階段でタバコを吸って愚痴をこぼし合ってメアドを交換したが、彼女からもその後音沙汰はなかった。つまり誰からも相手にされなくなっていったのだ。

また気分の浮き沈み、その暗黒面が始まろうとしていた。ここまでで十分だ、あとはない頭をひねって想像で書き進めよう。想像で小説を書けないようじゃ、身体がいくつあってももたない。そうだ、コンペはだけは諦めるな、とにかく諦めるな。今諦めたら目標を見失ってしまう。その先にあるのは堕落だけだ。

何とか自分を奮い立たせようとすればするほど、その先のストーリーが遠のいていくのだった。


 2008年のリーマンショック以降、あのブランドも売り上げは前年度の半分以下、前年比約40パーセントまで落ち込んだ。この高級ブランド業界は全体の3割が不況が影響しない富裕層によって支えられている。しかし年収が1000万円を越えるのは日本ではたったの7パーセントしかいない。そのわずかな富裕層顧客を幾つものブランドで奪い合っているにすぎない。嗜好品であるブランド品を買うという行為は真っ先に避けられ、一般層に支えられる百貨店のインショップがつぶれ、世の流行り通り、派遣切りの波が押し寄せた。今までトップセールスたちのサポートをしてきた派遣社員がいなくなり、ストック整理の裏方作業もトップセールスたち自身でやらなければいけない。芸能界で言えば、トップセールスたちがタレントで、派遣社員はマネージャーだ。そのマネージャーの雇用をなくすということになる。

 この不況下で社員さえ怯えているのに、役に立たないバイトや派遣の時給泥棒がのさばっていられるはずがない。あのブランドも全国の派遣社員を一斉解雇し、派遣会社との契約も終了させた。つまり今後はどんなに人手が足りなくとも派遣やアルバイトで潜りこむなどという手段は、相当景気が回復しない限りありえない。このままストック係か何かであのブランドにすがり続けられれば、サキコに接触するチャンスが広がると思ったが、不可能な話というわけだ。

 イベントでの目論見が達成されたか心配して連絡をくれた上司Jは言った。

「そろそろ真剣に将来の道を考えた方がいいぞ」

 サキコとの再会をストーリー化し、コンペに出そうという計画に翳りが見え始めた。やはりオレは中身から何かが滲み出てくるような人生を送ってこなかった。こんなオレに深みのあるドラマは生み出せない。

 イベントの最中、ストックルームで松井と試着ごっこをして禁止されている写メを撮りまくって時間をつぶした時の画像を見ていた。同じ派遣隊のウエイターが12万円のデニムを盗んでいたのを思い出した。オレはサキコが結んでくれた2万円のネクタイを記念に持ち去ろうとしたが、死んだお袋の顔が浮かんで止めた。

 松井に「飯でも食おうぜ」とメールしたが宛先不明で返ってきた。


 同情を誘うようなメールを送ったつもりはない。サキコが書いた自伝や連載を読んでオレは素直に感動し、オレも小説を書いているんだ、よかったらアドバイスしてくれないか、と言ったのだ。その文章を他人が読めば、「オレはもうだめだ、夢を失いそうだ、一生懸命書いた小説も音楽も誰にも認められないんだ、サキコ助けてくれないか、幼馴染だろ、お前のマネージャーでもADでも、現場で汚れたものを洗う係りでもなんでもいいからやらせてくれ」、そんな悲痛な叫びだったのかもしれない。「もしオレが有名なAV男優だったら本を出せるのか」と卑屈に煽るようなことを言い、結果サキコと会えることになった。あの手この手、文才がある方が、メールで落とせると思われがちだが、土下座するようなメールを送るテクニックをオレは持っていたのだ。誰にも教えないけどね。サキコは呆れたと言うより、怒っていたのかもしれない。

 もちろん密会だ。管理の厳しいサキコの立場もある、どこでどのように会うか悩んだ。誘ったオレがおごるのが当然だ。しかしサキコはその手の関係者と高級なものばかり食べているだろうし、オレの財布には限界がある。銀座で運命の再会を果たしたのだから、そこにかこつけてブランドレストランの代表、アルマーニレストランにしようと思ったが、ネットでコース料金を確認して目をつむりながらそのページを閉じた。以前松井が「ブルガリのネックレスを買ってもらった後、その9階にある高級イタリアンでディナーして、その後ホテルに行ったの」と言っていたのを思い出した。オレは散歩してくる!と家を出て、無意識で地下鉄を乗り継ぎ、気付くと千葉からわざわざ銀座2丁目にあるブルガリタワー銀座本店の前に来ていた。ここまで無意識をコントロールできるものかと誰かに自慢したいと思ったが、友達がいないオレはここに書き綴るしかできない。

ブティックを目の前にすると緊張が走った。はっ、入れない。ドアマンとセコムもいるぞ。入り口で止められたらどうしよう。足元見られるのだろうか。いや待て。逆手に取るのだ。どうせ入店拒否なら、ドアマンを呼び出して見たらどうか。道でも聞くふりをして、外におびき寄せるのだ。誰がそんな事を考えつくだろう。この意外性、どうだろうか。やるぞ!人を見下すようなドアマンを外に手招きして、「ねぇねぇ」と価格帯を聞いた。宝くじが当たって今すぐ金を使いたいんだ、よくもそんな出任せがスラスラ言えたものだ。煌びやか過ぎて店内に入れなければ、外に出てきてもらえばいい。時代劇にでも出てきそうな役者顔のドアマンは、「レストランと吹き抜けになっている10階のバーでしたら、一杯1000円でいけます」と教えてくれた。よし!、オレが酒に弱いふりをしてセーブすれば手が出ない金額ではない、と思ったと同時に、8杯飲めばイベントの日当分か、とも思った。他にこの辺でおススメはないかと聞くや否や、ドアマンはオレとの会話が終わらぬうちにオレの後ろに現れた田丸麻紀を「お待ちしておりました、いつもありがとうございます」と言って店の奥にエスコートしていった。ガラス張りのエントランスにポカンと取り残され、おどおどしたオレを見て警備員が口をふさいで笑っていた。

 オレはその週の金曜日、サキコをブルガリタワー10階のイタリアンバー、イル・バールに誘ったのだ。


 どこでどのように待ち合わせるかはサキコの指示に任せた。向こうはいわゆるタレントだ。頼むからあのプロレスラーのようなマネージャーを同伴させるのだけはやめてくれ、そう願った。

 サキコは、「ブルガリレストランなら、打ち合わせで行ったことあるよ、でもその上のバーは初めて、吹き抜けになってて、気になってたんだ」と言ってくれた。「マロニエ通りと中央通りの交差点にヴィトンがあるでしょ、その裏に平日は使われていない裏口があるからそこで待ってるね」そう言った。


 当日、なぜサキコがそこを指定したのかがわかった。待ち合わせの20分前に到着するとマロニエ通りを挟んだ向かい側に、ブルガリレストラン専用の入り口があったのだ。まるでVIPがお忍びで来るのを、ひっそりと待っているかのような佇まいだ。

 黄土色の制服はどうかと思うが、髪をアップにしたモデル並みのレセプションが中に立っている。

 胸は高鳴っていた。打楽器でも叩いているかのように脈が乱れ不整脈になっている。

 服のセンスがないオレは、無難にいつものデニムに黒いシャツ。妻に隠れてアイロンも掛けた。皮靴も磨いた。とりあえず汚い恰好ではない、店には入れてもらえるだろう。もし今日サキコが現れなくてもここまでの過程を楽しんだのだから、と自分に言い聞かせながら、道行く人を眺めていた。

 あいにくの夕立だ。サキコは傘を持っているだろうかと考えていると突然画面横からインサートするように目の前にサキコが現れた。

サキコはあの花柄のワンピースを着ていた。「元気?」、「おおっ」と挨拶が成立しないうちに「行こう!」と道路を斜め横断し、オレが手を引っ張られる様な形でレセプションに入った。

高級レストランはエレベーターが開くタイミングも素晴らしい。まるで全ての導線が何日も前から用意されていたようなスムーズさだ。

10階。オレなりの配慮で周りから見えやすいテーブル席ではなく、ひっそりと語り合えるようなカウンター席の一番端を予約していた。カウンター席は隣り合えていいと思う。向かい合うと意見が対立しやすいって、テレビで心理学者が言っていた。隣同士だと意見も気も合い易くなるというアドバイスを頑なに信じた。少しでも距離を近づけて、できれば肩が触れ合うくらいがよかった。つまりはサキコに触れたいという魂胆だ。

 アイフルから5万円引き出してきたオレは強気だった。サキコの自伝を読んで彼女が酒に強いことは知っている。イベントでのギャラもこの日のためだったんだ。そう思えばいい。

「忙しいのにわりぃな、好きなもの飲んでくれ」

「ありがと」

 ネクタイを結ぶ練習台になったあの日、店の鏡に映ったサキコの首筋が今、目の前にある。抑えようのない触れたい気持ちで喉が渇いた。

 店の照明やムーディーなジャズの生演奏に包みこまれるように最初の一杯でほろ酔いになった。ロックバンドの経験があるオレは、どうしてこういうところの黒人ギタリストはうるさすぎず静かすぎず官能的でサブリミナルなフレーズが弾けるのだろうと、うっとりした。音楽にうっとりするってこういうことなのだとわかった。きっと倍音の出し方がこの世のものではないほど美しいからだと思う。ピックで引っかくようにかき鳴らすギターではなくて、指が絶妙なバランスでルートと倍音を同時に鳴らす。高い天井に音が回り、倍音の霧に包まれたようだ。サキコはグラスを合わせた後、ジャズバンドをちらりと見てオレに微笑んだ。グラスを合わせる音はサキコから発せられる笑顔の倍音だった。

 隣にいるのは紛れもなく女優でモデルの『K・M』だ。

「なんだか照れるね」

 歯痒いね、とも言いかえられるその一言はすべてを言い表しているような気がした。


 イベントでのサドンリーサプライズデスディニーハプニングはあったが、こうして隣同士座ってカクテルとジャズの演奏に浸る方がよっぽど不思議だ。幼馴染が気を遣い合って、微妙な距離感を保ち、もう一度大人として出逢ったのだ。

AV女優『K・M』を幼馴染『サキコ』に戻してやりたかった。

挨拶的会話を済ませた後、互いの家族の話をした。

「お母さん元気か? 糖尿大丈夫か? 弟さんはどうしてる? あの家からいつの間にか引っ越したんだな」

「お母さんも弟も秋田で元気だよ、あの家は高一の時に越したんだ、そっちはどう? お父さんとお姉さんは元気?」

「姉さんは今施設に入ってるけど元気だよ、親父は退職してその施設のPTA会長やってるよ」

幼馴染だったことを確認できた会話だった。

 オレは自伝を読んで初めてサキコのお父さんが家族を置き去りにし出て行った成り行きを知った。おおきなお世話なのは重々承知だが、そのお父さんが今の彼女の仕事に少なからず影響しているのではないかと感じていたのだ。あれだけ暴力を振るわれ、毎日怯えるように暮らしながら、そんなお父さんが病気になると心配して会いに行くサキコがたまらなく好きだ。

 自己開示ってやつだな。オレはまず自分のことから先に話そうと決めた。

「オレの母さんも『サキコ』なの覚えてるか? 母さん同士よく井戸端会議してたよな」

「そういえばそうだったね、懐かしいなぁ、あたしたちが遊ぶというより母さん同士が会いたいからあたしたちも連れてこられたって感じだったよね」

「ああ、そう言えばあの時、香典届けてくれてありがとな、お袋は癌だったんだ」

 オレはせっかくの再会を湿っぽくするつもりはなかった。

「葬式の後、川端のスナックでさ、親父と二人で母を偲ぶ会ってのをしたんだけど、それがさぁ、親父が母の遺影をわざわざスナックに持ってきやがって、酔っぱらってカウンターに出しやがったんだ、ドン引きだよ、ほんで酔いつぶれた親父をおんぶして帰る時にさ、ママが密かに塩を撒いてたのをオレ見ちゃってさ」

 サキコは同情しながら笑ってくれた。

「うちもね、東京に来てからお父さんが赤羽に住んでることがわかったの、時々会いに行くけど、いつもお父さん手料理を作ってくれるんだ、相変わらず無口で、あたしが食べてるのを黙って見てるだけなんだけど、あたしさ、デビューして3作目で、家族のインタビューとかやったじゃん、お母さんも弟も出たし、AVやってるのは知ってると思うんだけど、お父さんはあたしの仕事には触れないの、咎めたりもしないし、殴られた痛みは一生忘れないけど、あの頃を償いたいって気持ちは伝わってきたなぁ」

「父さんは元気なのか?」 

「この間結核で入院しちゃって大変だったの、今は退院してなんとかやってるみたい」

 不思議な気分だ。何かをを引きずったままだ。それでも脳のどこかしらが発動しているのをリアルに感じる。この素敵な時間を誰かが演出してくれているなら、男でも女でもキスできただろう。瞬きするたびオレたち映画の主人公がそのスクリーンの中からカメラの向こうにいる視聴者を眺めているようだった。小説でいえば、その登場人物が自意識に目覚め、作家にストーリーを書かせているような感覚だった。

 ロシアンブルーのような目を大きくして笑う『K・M』は、少しずつ『サキコ』に戻っていくようだった。中学の頃発育途中ながら秋田美人予備軍だったサキコは、すっかり都会の顔になっていた。幼い頃の映像を重ねながら、くっきりと浮かび上がるピンクの唇は見つめていて飽きない。オレの左隣、心臓近く、肩が触れ合う距離にサキコがいる。オレは左半身が麻痺したような感覚にとらわれ、それ以上の間隔を狭められなかった。顔だけを彼女に向け、カクテルに溶けそうになったうつろな目を見つめていた。

「あたしがAV女優になって驚いた?」

「正直驚いたよ、AVのエの字もなかったからな」

「そういうヨシカワくんも変ったよ、まじめくさってたし」

「ヨシカワくん」か…、無理もない、あの頃のように「ねぇねぇヒデ」と気軽に呼ぶには月日が流れ過ぎている。

「お父さんとの再会ってどうだった?」

自伝には切なくもドラマチックに書かれていた父親との再会。幼馴染の特権とはいえ、ストレートに聞きすぎたかなと少し後悔した。どうしても聞きたかった質問が、そのまま口から出てしまった。少しの間サキコは黙ったが、頬杖をつきながら話し始めた。

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